2015/01/20

三たび日記を

 もう何度目のことかわからないが日記を書こうと思う。といって今日のこと、きのうのことを事務的に書くのではなくて、折にふれて自然と貯め込んでいたようなことを並べて確かめるようなことをしたい。
 改めて書くけれど、もう何度目のことかわからない。日記を書きはじめたときにはいつもきちんと日付が残っているけれども、気がつくと断ち切れている。毎回習慣化するに至らない。いつの間にか億劫になったりどこかに数日出かけているうちに記録を遡る手だてを失っていたりして、あるいはそんなようなこともいちいち気にも留めずに、日記は止めになっている。日記はもう止めにしようと思ったことはない。ただ止めになっている。
 タイトルに三たび、と書いたのは、ただの語呂の良さから選んだことばで、つまり、とっさの嘘なのだけれど、あらためて考えてみると、このノートパソコンで大震災の数日前から書かれはじめた日記はおそらく、その年の夏、父方の祖父が亡くなって東京を離れていた数日のうちに一度途切れて、数年後あらためて何かの折に書き始めたもののやはり終わり、こうしてまた書かれようとしているわけで、「(このパソコンでは)三たび」ということなのかもしれなかった。


2014/12/11

12月9日のツイッターより



















いよいよ、明日からです。 いい作品になったと思います。
 お時間ございましたら、ぜひご覧下さい。お越しをお待ちしてます。

2014/11/08

告知開始されました

http://snac.in/?p=3664
↑こちらから詳細をご覧いただいたりご予約いただいたりできます。
ベーコンエッグ感想戦ふたたび、12月、よろしくお願いします。
昨日見れなくなっていたSNACのウェブサイトは無事復旧したようです。


それと入れ替わりに、というわけでもないが、
Blogger(このブログのサービス元)には問題が起きているようで、
「.jp」限定でアクセスできなくなっているみたいです。
というわけで方々に記してあるこのブログとベーコンエッグ感想戦のブログのアドレスを
片っ端から「.in」に書き換えています。「.in」はインド。
http://ja.wikipedia.org/wiki/国別コードトップレベルドメイン
この表をじっくり眺めてインドにしました。


ベーコンエッグ感想戦のブログ
baconpost.blogspot.in


志賀直哉旧居

2014/10/05

第二局に向けて

12月に《ベーコンエッグ感想戦ふたたび》を開催することになりました。
詳細は近いうちにお伝えします!
しばらく企画のブログのほうにあれこれ書こうと考えておりますので、
あんまり更新されないこのブログと合わせてこちらもどうぞよろしくお願いします。
baconpost.blogspot.in


2014/08/21

恐怖の正体

 わたくしよりものわかりのよい人におびえて何も言わないのはつまらないから、くだらなくとも時々なにか書くことにします。
 近ごろ高橋悠治さんの本『ことばをもって音をたちきれ』を読みました。絶版なので図書館で探したら、あった。これは1970年代に世に出た本ですけれど、書かれていることばや問われている何かは今も使えるように残されている。使えるというのは、理解できるとか便利であるとかお金が儲かるとかいうことではなくって、自分なりに誤解できる、ということで、鬼の首をとったように誰かの言葉をそのまま掲げるんではなくて言葉とそれにまつわる、態度、を自分のなかに写し取ることができている、気がしています(もちろん、これも誤解だ)。
 それからしばらくして『高橋悠治コレクション1970年代』(平凡社ライブラリー、これ誰かにちくま文庫って言っちゃった。間違いでした、ごめんなさい。)を買ってすこし読みなおしたら、ほとんどそのままのことを非常にはっきりと書かれた一節があった。
 ひとはことばでかんがえる。思想はことばではなく、ことばも思想ではないが、とりとめもなくとびちろうとする思想をつなぎとめるのはことばである。ことばはソバのつなぎだと、折口信夫は言った。しかし、眼にみえるのは、このつなぎの部分なのだ。思想は、のこされたことばを手がかりに毎回つくりなおされる。ことばは世界の種である。
 思想のためのことばの、いちばんたいせつな要素はリズムである。ことばのリズムは、日本語の五・七の拍や、ヨーロッパの詩の律や音韻のように単純な周期性の図式につくされるものではない。それは複合体としてのことばと思想の交点でバランスを測定する道具なのだ。リズムのよしあしは、ことばが記憶され、特定の文脈をはなれて引用され、誤解される度合いにかかっている。これらの条件をみたすことばは、アクセントのくりかえしをふくみ、デリケートで吹けばとぶようなものではなく、おもいがけない不調和で注意をとらえる。 思想が誤解されるのは、それが紙の上でおわるものでなく、現実に向かって踏みこんでゆくためにあるからだ。誤解されない思想は、ものの役にたたない。
(『高橋悠治コレクション1970年代』平凡社、2004年、pp.35-36)
 書かれていることをただ言い換えただけになってしまっていて、恥ずかしい。それにしたっていいことばじゃありませんか。「音楽」とはまったく別の場所にこの本を置いて、わざわざ誤解したくなるような魅力を感じました。