2021/12/17

◆なぜ「自作自演版『何もしない園』」なのか? ーとにかく急いで書かれた演出準備ノート①ー

◆なぜ「自作自演版『何もしない園』」なのか?
ーとにかく急いで書かれた演出準備ノート①ー

 ある日、何も言われぬままいつも通り集まった稽古場で、今回は公演を中止したい、と言われた。ある日、と、もったいぶってみたが、今日だ。12月6日。

 「いま誰か他人を巻き込むことが、演出が、できない、そもそもずっと、目の前の人が見れてなかった、そのことにすら気づいてなかった。」そう言ったジエン社主宰・山本健介氏(以下、ヤマモト氏と書く)の手には、その日の昼間に書かれたばかりの『何もしない園』の登場人物にまつわるサブテキスト(人物像や背景を描いた説明文。前の日に俳優たちが書くことを提案してみた)が握られていた。A4いっぱいにびっしりと、2ページ分。



 ヤマモト氏の言うことをひとまずそのまま受け取ってみる。もしほんとうに"目の前の人や出来事が見えず、いま演出家としての役割が十分に果たせなくなっている"人が、それでも自分の演出する演劇の上演のためと信じてひとかたまりの文を書き続けたのだとして、つまり、そもそも、そのテキストはいったい何のために書かれたのだろうか? 描かれた登場人物のため? 実際に上演を成立させるはずの出演者と観客と舞台空間とを見ないまま書かれ、それらが演出によっても見出されないのなら、おそらくその言葉は、書き手の思う"演劇"と書き手本人とのあいだに、宙ぶらりんに、浮かんでいる。

 『何もしない園』は、架空のNPO法人が運営する「何もしない園」("何もしない"ことを可能にし、推奨する施設)を舞台に、そこに集まる入所者や働き手、あるいはその同居人など、たくさんのキャラクターたちの言動を、主要な人物のセリフと時折挿入される間接話法を通じて、少ない人数で演じ分けて表す構想で書かれた戯曲である。というのがごく表面的な説明になるのだが、人物同士の会話はところどころ破綻しており、だからといって人物一人だけを追いかけてもなぜだか一貫性に欠け、人物たちの違いはともすると不明瞭にもなり、場面と場面は頻繁に断絶した。時間と場所はしばしば無鉄砲に変更され、そもそも「何もしない園」がいかなる園であるのか、と言えば、ひたすらどこかぼんやりとしていた。
(これは余談ですが:これまでも、ジエン社の作品で時間や空間の歪みを舞台上に表出させることはしばしばあったけれど、おそらく確からしいと思われる時間や場所が錨のように配置されることで、そのとき・その場所との関係から"舞台上で起こること"や"結局は舞台上で大したことが起こらないこと"になにかを見いだすことができたように思います)

 稽古場で日々、俳優たち(私と高橋ルネさん)は考えていた、が、考えあぐねていた。演じるにあたっては、場所や人やセリフそのものについて、それがどんなものなのか、なんらかの仮説を立てなければならない(精度はさておき)。しかし台本の上におおよそ成り立つような仮説は見つからず、だからといって書かれた言葉やキャラクターとあえて距離を置いたまま演じて見せても、演出家・ヤマモト氏はセリフの細部のニュアンスや演じられるべきキャラクターの設定の一部分について繰り返し話すばかりである。かくして、二人の俳優はそれぞれ、あるキャラクターとしてそこにいることも、あるいは一パフォーマーとしてそこにいることも、困難な状況となった。暗中模索の中、一瞬一瞬だけを成立するように振る舞うにしたって、そもそもここはどこで、ここにいる二人は誰なのか? さらにさかのぼれば、このテキストに、演出に、ほんとうにここにいることを要請されているだろうか?

 自分で読む分には「(筋が)通っているんだよなあ」とヤマモト氏は言う。一方、私には、これはほとんど夢なのではないか? という感覚があった。他者をはじき出す、たった一人の見ている夢。書き手の書きたいことが連なる世界には、眠り手の脳のなかで生成される夢には、絶対的な他者が現れない。「社会」はあくまで書き手にとっての、眠り手にとっての、社会。「他人」は自分で、「あいつ」は俺。A地点からB地点へ、眠り手だけが夢の地図を持っている。自分の作り出した分身との会話は続く。いつまでも飽きずに他人(自分)の話を聞いてられるあいつ(俺)。

 夢を説明することは可能だが、結局いつだって夢の実感とはかけ離れている。夢占いが落ち着かせてくれるのは解釈不能なものを生み出した自分自身への不安だけだ… 最後に書き換えられたページの中で、登場人物たちは「すみません」と「大丈夫」をたくさん、言い合っていた。



 私はこのようなリハーサル期間を経て、『何もしない園』をぼやけたキャラクターたちのしずかな狂想曲として捉えるのではなく、一人の人間のありさまとして、読むことにした。で、その読みに従えば、作者自身による自作自演がいっとう素直な選択だと思われる(もともとヤマモト氏はジエン社旗揚げ以前に一人、「自作自演団ハッキネン」を名乗ってパフォーマンスをしていた)。ひょっとすると『何もしない園』が必要としていたのは俳優として演じる他者の身体ではなくて、観客として見聞きする他者の目と耳だけだったのかもしれない……

 あくまでヤマモト氏にとって「通っている」言葉の連なりの中に、2021年の、いまの、一人の人間の孤独と孤立を、私は見る。そこには、なにかがある。単なる気分以上のなにかが。少なくとも、たしかに、人が、いる。(……では、人は、何によって孤立させられているのか……?)このテキストの面白さ、恐ろしさは他人によってどうにも演じられないことにある。と私は仮説を立ててみる。いつものやり方で。いつもとは少し違うやり方で。

2021年12月7日
善積元


☆ジエン社「自作自演版『何もしない園』」パフォーマンス&トークの詳細はこちらから
(12/22-12/26、神楽坂セッションハウス2Fギャラリーにて開催)

☆同作品の前半部分が上演される予定のイベント、Hiraoyogi Co. x BITE presents Audi-torium vol.1
"きれいに晴れわたった、しんとした朝"の詳細はこちらから
(12/19夜の部に参加、in the house(西早稲田)にて開催)

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