2015/12/19

6人のうち2人とは初対面の忘年会の中華料理屋の回転する部分のついていない円卓で考えた話

 「まもなくちょうど外国へ行くという友人の壮行会を兼ねた忘年会」にお呼ばれしたのだが、その主賓の方と会うのは初めてなので、一体どうしたものかと思いながらも他にすることもなく大皿いっぱいの食べ物を無心に食べすすめていると、彼はすこし遅れてやってきて手早く飲み物を頼んだあとおもむろに立ち上がって挨拶をはじめた。3分くらいで終わります、と言って本当に3分くらいしゃべる。それも壮行会の別れの挨拶あれこれというんではまったくなくて、「忘年会」という言葉から出発して暦や年末についての感慨や考察を述べている。虚をつかれて目を丸くしている私も含めて、座っている我々ひとりひとりにゆっくり目を合わせながら、ごく個人的な考えを話し、事物とその人との距離を明らかにするそのさまに、私はすっかり心打たれた(そしてそのスピーチの中身はほとんど忘れてしまった)。これこそ、何かを作る人の態度だ、と。この人は、手を動かすことを習慣としている。自分自身を主役にするのではなく、分け合うことの出来るなにかを差し出している。ずれているかずれていないかを問題にすればきっと後景に退くささやかだが確かな美点は、どこに行っても、燦々と輝くんだろうなあ。それが世間の中でひっそりと見えるかどうかは、気になるし、お金の話に直結するけれど、本当は、別にいいんだよなあ。いいといいんだけどなあ。と思いながら早速彼の作品をひとつ買った。
 (この考えが右往左往している風景にはなんだか見覚えがあって、『美術館を手玉に取った男』について考えたときに似ている。軽やかな映画だけれど、「美術」や「オリジナリティ」以上に「生きるよろこび」の問題を扱っているように、ぼくには見えた。)