2016/12/07

夜組

来年1月に演劇作品に出演します。
現在リハーサル中。
是非ご覧下さいね。

☆☆☆☆☆

The end of company
ジエン社
第11回公演
『夜組』

脚本・演出:山本健介

2017年1月13日(金)~23日(月)
会場:池袋シアターkassai
東京都豊島区東池袋1-45-2

出演:
伊神忠聡
兎洞大
蒲池柚番
寺内淳志
中野あき(ECHOES)
由かほる(青年団)
高橋ルネ(ECHOES)
善積元

公演日程:
2017年1月
13日(金) 19:30
14日(土) 14:00/19:00
15日(日) 14:00/19:00
16日(月) 19:30
17日(火) 19:30
18日(水) 19:30
19日(木) 19:30
20日(金) 19:30
21日(土) 14:00/19:00
22日(日) 14:00/19:00
23日(月) 15:00

開演時刻の60分前より受付開始、30分前より開場します。
上演時間:1時間30分(予定)
全15ステージ

料金:
予約 3400円
当日 3900円
高校生割引(要学生証・要予約)1000円
当日精算・全席自由

【ご予約方法】
こちらのフォームにお名前・公演日時・チケット枚数・ご連絡先をご入力ください。
https://www.quartet-online.net/ticket/yorugumi-jiensha?m=0eajhgg

または、お名前・公演日時・チケット枚数を直接お伝え下さい。

スタッフ:
舞台美術:泉真
舞台監督:吉成生子
照明:みなみあかり(ACoRD)
音響:田中亮大
衣装:正金彩
宣伝美術:サノアヤコ
総務:吉田麻美
WEB:岡崎龍夫
写真:刑部準也
演出助手:萩野あやこ
制作補:柏木健太郎
制作:土肥天
協力:ECHOES

詳細・あらすじ等はジエン社ウェブサイトまでどうぞ。
https://elegirl.net/jiensha/works/no11yorugumi

☆☆☆☆☆

ところで、このウェブサイト上にある長いあらすじですが、
どうもチラシのほうを見ると全然違うことが、というか、違う視点が書かれているんですね。
(いま公演情報を確認する為にウェブとチラシを見比べていて、気がつきました)
気になる方には是非チラシもお手にとっていただきたいところです。
ご希望の方にはお送りしますので、お気軽にご連絡下さい。
(このブログのコンタクトフォームもご利用頂けます)

よろしくお願いします、何卒。


古いブログ、新しいブログ

 随分前には「日記善積元」ってタイトルでブログをやっていましたが、今このブログは「画面」という名前だ。それで、なのか、じゃあ、日々、日記を書きますか、という感じにはあんまりならなくて、ついつい放っておいてしまって、何かお知らせしたいイベントごとがある度に、久々に見ては、こんなこと書いてたんだっけ? なんて思う。今もそうなんだけど。
 これまた結構前の話だけど、古い方のブログにログインしたら、過去三ヶ月間に検索された単語がいろいろと出てきて面白かった。3月あたりに(特に表立った活動は何もしていなかったはずだけど)私について調べていた人がいたようだった。こっちのブログはその辺の精度があいまいで、ちょっと残念。もし何か気になることがあったら直接聞いて下さいね、と3月あたりの人にいま呼びかけるのもどうか。

冬になるとどうぶつの森をはじめてしまう

 思い出してみるとおそらく高校生の頃からだが、なぜだか寒くなってくるとどうぶつの森をはじめてしまう。高校三年生の受験シーズン末期は世界史の教科書とどうぶつの森の画面を1時間交代ぐらいで眺めていたような気がする。今はとびだせどうぶつの森(先月アップデート済)だ。春めく頃には飽きてくるのか、未だに春夏に採集できるムシやサカナが図鑑に載っていない。ムシが急に現れるのってゲームとは言え結構こわいから、春夏はそれがストレスなのかもしれない。村の名前は以前DSのソフトを中古で買ったときに前の持ち主がつけていたのをそのままつけた。そしてソフトが変わってもそれを引き継いでいる。わりとロマンチックな名前。自分でつけたらとても恥ずかしいけど、偶然なら意外といいかもしれない、なんて、結局自分で選んでいることは棚に上げておける程度の自意識で助かる。村の名前はでも秘密です。

サイボーグ店長、ドーナツ

 前に住んでいた家の最寄り駅にはサイゼリヤに直通しているエレベーターがあった。地下2階(改札階)から地下1階(カフェ、銀行)、1階(地上階、書店)を通過してしまえば、2階にはサイゼリヤが1フロアまるごと待ち構えているという寸法。深夜の1時か2時までやっていた。思い返すと、おかしなタイミングでお腹をすかせたときや、どこかへ行く前にすこしみじかい時間でなにか食べていくとき、などなど、「ランチ」や「ディナー」からはあぶれてしまって、名前のつかないような食事をすることが多かった。
 店の天井は低く、高架つきの道路に面している側が全面的にガラス窓になっている。壁にはサイゼリヤおなじみのボッティチェリの春(だよね?)。大学が歩いて10分くらいのところにあるから、客席には大学生らしい人たちが多い。なにかを勧誘する人される人というシーンにも出くわすことがある。大学よりも若干近く、徒歩3、4分のところには大きめの貸しスタジオがあり、大きな楽器ケースを抱えたバンドマンもよく見かける。
 ところでサイゼリヤの電球の色はどうやって決まっているのかいつも不思議に思う。自然な色味の席もあるのだけれど、どう考えても人の顔が緑色に見えるような照明の席があって、その理由はわからないが、とにかく結果は緑色だ。なので食べ物も人も、なんだか大変にくたびれているように見える。
 深夜の時間帯に行くと、眉毛のしっかりした筋肉質の中年男性が愛想良く応対してくれる。背は高くない。どうやら責任ある立場のようで、きびきび動いている。そしてだいたいレジを担当している。サイボーグ店長、というのは勝手につけたあだ名なのだけれど、サイボーグ店長も、きびきびしているが、顔色はわるい。というか、顔色がわるいからますますサイボーグみたいに思えてくる。顔色がわるいのに、鉄板をきびきび運んでいる。厳密に言うなら顔色は悪く見えるだけだ。会計のときには笑顔も忘れない。注文も丁寧に聞いてくれる。しかしレジカウンターの向こう側もどちらかというと緑色だ。そういったあれこれの結果、サイボーグ店長を見かける度に、あ、サイボーグ店長だ、と心の中で再確認してしまう。
 あくまでサイゼリヤの照明の下で見かけるからサイボーグ店長はサイボーグ店長なのかもしれず、というかそれはどう考えてもやっぱりそうで、ひとたびその照明や制服をのがれてしまえばサイボーグ店長も人間になっているはずなのだけれど、深夜のサイゼリヤ以外でサイボーグ店長を見かけることはない。たとえすれ違ったとしても太陽の下では人間味がありすぎて、同じ人とは気づけないのかもしれない。
 引っ越してしまえば立ち寄る用事もなく、そうそう行くこともないだろうあの深夜のサイゼリヤから遠く隔たっている今、なぜサイボーグ店長のことを思い出したかというと、終業後に魂の抜けたような顔をしてクリスピークリームドーナツを頬張っている人を見たせいだと思う。カウンターの向こうでは女性店員の皆さんがきらきらした笑顔で(顔色もよく)やはりテキパキと働いているのだけれど、こちらで何も考えないでいるような無の顔でドーナツを食べている人との違いは、カウンターのこちらにいるかあちらにいるかだけだった。こっちの客席でぬけがらになっている人たちとあっちで働く人たちのどちらをも、ばかみたいに甘い匂いが包み込んでいる。

2016/08/06

吉増剛造展のことは結局ツイッターに書かなかった

 吉増剛造展に行って、閉館時間をやや過ぎて出て、駅のほうに向かって橋を渡ったあたりでぼおっとしてたら吉増さん本人が通りかかって、何にも言えずに口が開いちゃうような感じで後ろ姿を見送った。この気分には名前がつかない。ともあれ歩いて帰る気力が全くなくなったので地下鉄で帰ってきた。

 この夏何度か行くのは間違いないが、私は毎回ぶっ倒れそうになるだろうなあ。介添人がいてほしい。そんなことを言ってまた一人で行くんだけど。あとね、3時間じゃ足りなかったです。映像が全部見られないのと、最後の空間にもう少し時間が必要だった。

 何日か前、この夏は詩と音楽の季節だ!と友達に宣言した途端にまったく別の友達から詩を書くよう頼まれて、びっくりしたのだけれど、本当にびっくりの反動で寝込んでばっかりになりそうだ。吉増さん、(飴屋さんも)裂け目なんだよ。笑ったり理屈を言ったりしてられない。魅力も、ダメージも…

 展示の中に、吉増さんがまだ二十代の半ば、大岡信にあった日のノートがあって、吉増さんと面と向かったときに自分が自分に対して受けたあの感じがそのまま言葉にしてあるようだった。

 クラスメイトに「詩人だねえ」と言われたら顔を赤くして黙り込むしかないけれど、詩人に「詩人だねえ」と言われたらどうすればいいんだろうねえ。

 多分忘れちゃっているしぜんぜん相手のことなんて思いやったりしてない、ような、ふるまいのほうが信用できるときがある。大江戸線のベンチシートで話した十五分や清澄白河のSNACでのいくつかのやりとりは、いまでは預言めいて、分岐点に立つといつも影のようにちらついている。

2016/05/30

右足のつま先だけぬれる

 雨が降ると靴がぬれる。ところがぬれ方が左右で違う。いつも必ず右足のつま先からだんだんしっとりしてくる。やがて左はややぬれ、右はずぶぬれのツートンカラーになる。
 この現象は小さい頃からずっとちいさな疑問だったのだけれど、最近ようやく理由がわかったので、ここに書いておきます。

 まず傘との位置関係ではない。傘で避けきれない雨が当たるとすれば左足になるはずだ。というのもぼくは右利きでだいたい傘は右手で持つことになる。もちろん完全に地面と平行というわけではないけれど、顔の右側を通って傘先が真上を向くように傘を握っている限り、傘の描く円の中心に近いのは右足、遠いのは左足だ。

 次に思いつくのは、歩くときに右足のほうがストロークが長い、という説。足も右利きだから相対的に蹴り出す力が強く、遠くまで身体を運んでいるんじゃないか。これなら右足が傘からはみ出ることが多くなるのではないか。しかし先ほどの傘との位置関係を考えると、この差を逆転できるほどに左右の歩幅が違うということは考えにくい。試しに目をつぶって歩いてみても(人がいない道でときどきやるのだけれど)、極端に左右どちらかに曲がって行ってしまうこともないし、足の長さもほとんど変わりない。そこまで身体のバランスが左右で違うということは考えにくい…

 というようなことを考えながら、雨の日、つま先を見ながら歩いていると、つま先から飛び出すちいさな水滴がある。靴の裏についた雨水は、足が蹴り出された勢いでつま先がわに向かう。つぎに足が前に進みきって重力にしたがって地面に落ちるとき(つまり歩く足が交代するタイミングで)、おそらく急ブレーキがかかったようになって、水滴が靴から飛び出す。このとき左つま先から放たれる水滴は前方に飛んでいくのだが、なぜかぼくの右つま先から飛び出る水滴は上に向かっており、歩くにしたがって進んでいく右足の靴がそれを受け止めてしまっている。なぜ右だけ上に、と右足に注目すると、足を前に出し切ったとき、左足に比べ、足首がすこしだけ、揺れている。
(おそらく右足のほうが蹴り出す力が強く、余った力で足首が揺れているのではないか)

 ともあれ、つまり、右足だけぬれるのは、足を蹴り出す力で水滴が前方へと向かう際のベクトルが、足首の動きの差によって左右でぜんぜん違っているから、ということがわかった!

 のだけれど、雨が降ると相変わらず右足ばっかりぬれる。

2016/05/04

ほとんど顔しか覚えていない

 『キャロル』を友達に薦められて見に行ったのはたしかもう一ヶ月以上も前のことで、どの映画館に行ったかさえ思い出せないのだけれども、だからといって印象が薄いかというとそうではなくて、自分自身の記憶の仕方にはありがちなことなのだけれど一点豪華主義みたいな感じになっている。
 映画の最後、ゆっくりとカメラが近づいていって(つまり、登場人物が近づいていって)、じっくりと人物の様子を捉えている。近づいていく側も近づいた先にいる側も決然とした人物で、なので再会はあまりにも決定的すぎる。カメラはずっとこちらに気がつかないでテーブルについている様子を写し続ける。だがこの長い間はカメラのこちら側の人物が逡巡しているから生まれているのではなくて、ただ二人のあいだで機が熟すのを、誰もが待っている時間だ。まだか、いまか、これから、どうなるのか、映画を見ている観客(わたし)がきっと「…いまだ!」と思った瞬間に、ずっと画面の中央にいた人物が視線を上げて、気づき、カメラを見る。そしてその、カメラを見ている(つまり、登場人物を見ている)顔そのものがもっとも決定的な事件。
 ひとつずつ数をかぞえるような引き延ばされた時間のあとで、こんなになにもかも語り尽くすような顔があらわれるのだから、とてもびっくりした。この一点でこの映画はよい映画だった、というようなことに、ぼくの中では、なる。
 映画の話というよりはわたしの記憶の話になってしまった。

2016/04/27

歴史上の人物は全員死んでいる

 『ヘイトフル・エイト』で何で登場人物が生き残ったりしないのかというと、おそらく誰もヒーローではないからだ。圧倒的な悪役も万能のベビーフェイスもいない。お話の軸になる人物がその時々で現れるだけだ。この世界観は残酷だろうか。ぼくはむしろチアフルだと感じた。すこし気が楽になる。

 もう死んでいる人は死んでいる。歴史上の人物は全員死んでいる。歴史、といって皆が名前を唱えられる人たちの話ではなくて、いやもちろん彼らも死んでいるが、特に名前入りで歴史に残ったりはしない人たちもまた、死んでいる、ということをぼくは時々忘れてしまうような気がする。南北戦争後のアメリカという辺境でどうにか一番マシな選択をして、つまりなにかよいことの芽を残すようにして、死んだ人たちがいる、ということが本当にあったかどうかは関係なく、すとんと腑に落ちたのは、本当に丁寧に作られた「つくり話」の効用なのだろう。こうなると忘れないような気がする。

 『ヘイトフル・エイト』の劇中にはいくつも「つくり話」が出てくる。厳密に言えば、話している本人以外にとっては本当か嘘かわからないエピソードを登場人物たちが話す。どれもアヤシイ。しかし観客には嘘だと断定する証拠もない。話している内容ではなく話し方で本当かどうかを見分けようと試みるしかない。わずかな痕跡を別にすれば、真偽を判別する根拠はその部屋の中にはなく、いま話している人物を見つめることになる。
 各々の必要に応じて、自分を殺させないようにするため、挑発して銃を手に取らせるため、初対面で(白人に)信用してもらうため、さまざまなエピソードが語られる。その風景は本当であれ嘘であれ一度は頭の中に思い浮かぶことになる。映画だからそのつくり話に沿ったカットがときおり提示されるけれど、というかそんなことを言い出したら全部つくり話だけれど、やはり実感として真偽はわからないままだ。だいたい、この話は嘘だと告白したところで、その告白が本当かどうかわからない。
 劇中何度か出てくる「リンカーンからの手紙」はよくて、本当であれ嘘であれ、いいな、と思う。それがこの映画全体のフィクションの楽しさと通じている。よくもわるくも説得力は真偽とは別のところにある。少なくとも「つくり話」の中では。


 余談だけど、最近『真田丸』を観ていて、人生ではじめてちゃんと大河ドラマを追いかけている。自分がおじいさんになったような気がしちゃう。実際自分や自分のまわりの人たちの人生がだんだん大河化してくるわけで、大河ドラマの大河さが少し身近になってくるということはあるのかもしれない。大河さってなんだ。「ヒューマン・ドラマ」ってなんだ。「J-ROCK」ってなんだ。
 閑話休題。ところで、歴史をくわしく知る人からしたら、この人たちがいつどこで死ぬか全部わかった上で、見るんだから、なんといったらいいか、すごいことだよね。当たり前なんだけど。これはこれで「歴史上の人物は全員死んでいる」感がある。そんなことがいちいち新鮮です。たぶん物語ではなくてものがたりかたを見ることになる。だから世間では演じ手が話題になりやすいのかもしれない。作り手も演じ手も史料のすくない人物をここぞとばかりに膨らませたりするのは楽しいだろうなあ。制約がある中で自由が威力を発揮しているのを見るのは愉快。
 もっともぼくはあの登場人物たちがいつどこでどうやって死んだか知らないんだった。ドキドキしながら歴史のお勉強。

2016/02/26

『30光年先のガールズエンド』、岸田戯曲賞の最終候補作品になる

 昨年4月に出演した『30光年先のガールズエンド』(上演台本・山本健介)が第60回岸田國士戯曲賞の最終候補作品に選ばれました。
http://www.hakusuisha.co.jp/news/n12250.html

 この賞は、簡単に言ってしまえば、演劇の世界の芥川賞みたいなもので、「若手作家の登竜門」的な賞です。
 戯曲にあたえられる賞ですから、結果がどうあれ、気楽なものですけれど(よくもわるくも)、いち出演者としては、こんなことやってるのかー、と思ってもらう機会としても、観た方に思い出してもらう機会としても、ありがたいことです。

 そして現在、この戯曲が受賞作発表日である2/29までの期間限定で公開されております。
→http://elegirl.net/jiensha/30ge_gikyoku/(現在リンク切れ)

 岸田戯曲賞、選評だけ読んでも面白いのですけれど、例年対象作品のほとんどが読めないので、作品に触れた上で選評を読む機会があるのはいいことだなと思います。

 気になったら読んでみて下さい。
 ぼくはこの作品の中の、砂川という役をやってました。

2016/02/13

サルでもわかる

 「サルでもわかる○○」という惹句がある。決まり文句というものは結局、決まりきっているからこそ、私たちのもとに届く頃にはすでに切れ味を失っている、と順を追って考えてみれば仕方のないことだけれど、それにしたってこれまで目にしたいくつかの例、「サルでもわかる超ひも理論」とか「サルでもわかる葬儀の新常識」とか、は真に迫った感じがしない。それって「超カンタン!超ひも理論」って言ってるのと同じじゃん、(しかもそっちのほうが語呂がいいじゃん、)ってことですね。
 だいたいわかったところでサルには役立たなさそうだから、サルも私もそのフレーズに惹かれないんだと思う。サルからしたら何で呼ばれたのかわからない。

 でもね、このあいだ地下鉄で「サルでもわかる金魚の飼い方」を読んでいる人がいて、これはなんていうかとってもよかった。字が読めるサルが図書館で本を借りてきて、ページをぺらぺらめくりながら山の奥まったところにある水たまりみたいな池で意外と立派な金魚を飼っている様子が目に浮かんだ。

 私の頭の中のサルは葬儀を出さないし超ひも理論とは永遠に平行線だけれど、金魚を飼うかもしれない。人によっては、頭の中のサルが喪服を着てお寿司を食べたりもするだろう。



 それにしても、現実に生きているカラスやワニがただ遊んでいる景色を好ましく感じるのは、なぜだろう。生きのびるために生きているのとは別の時間が動物にもある。



2016/01/25

19歳だった

 ジエン社の旗揚げ公演に私は出演している。  なんとなーく大学で授業の行なわれている教室に行きたくなくなってブラブラしていた頃、構内の掲示板に手書きの奇妙な貼り紙を見つけた。内容は一言ネタというのか、ふかわりょうのネタからポピュラーさを抜いて、短くして、暗くして、暗くして、結果的に明るい自虐(特定の個人にとってというより、文学部キャンパスに集まる人びとのうち、いくばくかにとっての自虐)になっているような感じ。でももはや一言も具体的に思い出せない。いまとなっては言葉よりも、そのチラシ自体の見かけが印象に残っている。A4の白紙に黒マジックの文字はまさに書き殴られたといった様相で、学校中にあふれるダサい印刷物をはるかに越えたダサさが輝いていた。その隣に小さな文字で演劇のワークショップをやる旨が書かれており、書かれたメールアドレスにメールを書き送り、私は学生会館の2階か3階にあった演劇練習室にいた。「役に立つようなものではない」と開催概要には書かれていたような気がする。2007年10月、19歳だった。 つづく。