2020/07/15

7月じめじめ日記・観客席で観客を演じるということ

 7月初旬、日記のような手紙のような。

 日が暮れるのが遅くなったなー、としみじみ思う頃には、実際のところ夜が長くなり始めているわけで、あまり実感というものを信用しすぎてもいけないように思います。

 と、私なりの時候の挨拶から書き始めてみましたが、決まり文句というのはつくづく楽なものです。考えなくてもよく、(事実に則しているかどうかではなく)大まかに周囲と合っていればよく、そのフレーズを知ってさえいればよい。そういうプロトコルによって何が保証されるのかと考えてみると、「ある知識を持った人間同士であることを、少なくとも装飾できている」程度のことで、昔ならその咄嗟の装飾こそがその人のもつ教養の一端を確実に示していたのかもしれませんが、コピーペーストでとりつくろうことぐらい造作もない今となっては、せいぜい装飾する「つもりがある」、という程度の意義しか見出せないとわたしは思います。検索上位に出てきた時候の挨拶やらビジネスマナー敬語やらをとってつけて送り合うぐらいなら最近あった出来事や思ったことをみじかく書いたり読んだりするほうがよほど愉快でしょう。コピー・ペーストできないことがますます輝いて見えるような気がします。140字で書けず、映えず、バズらず、感涙も爆笑も憤激も落胆もしないような日々のハイライトを、自分でもすぐに忘れてしまうんだけど。

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 数ヶ月ぶりに映画館で映画を見た。COVID-19は無症状でも感染拡大する以上、入り口での検温装置の表示「36.1度」はある程度荒い網目のふるいとしてしか機能しないわけで、どこにいくにしても洗っていない手で目鼻口を触らないとか、人との距離をとるとか、しゃべらないとか、そもそもなるべく人と接触しないとか、とれる策をとっておくぐらいしかできず、あとは実感として確率のはっきりしないギャンブル、ということになりそうだ。そもそも私が生活している国なり自治体なりが「感染ゼロ」を目標としているわけではないのだから、現状とられている対策がもし完全に適切であったとしても(不適切だったとしても、もちろん)、リスクは常にある。そういう状況下で、何を選択して、何を選択しないか。それが人によって、人それぞれの環境によって、感覚によって、きっとぜんぜん違う。
 営業が再開されてしばらく、映画館に行くことと、そのリスク、をわたしの天秤にかけるとリスクのがわに傾いていた(映画館の客席、ではなく、行き帰りの道中のことを考えるとひたすら気が重かった)のだけれど、必要な外出のついでに、いま行けるな、と急に思った。見たい映画が上映中で、映画館まで地下鉄一駅分の歩いて行ける距離まで来ていて、しかも雨はやんでいる。一旦階段を降りて、帰りの地下鉄の改札の前を通り過ぎて、逆側の階段をのぼって、見慣れない街を歩く。

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 家で映画やドラマやその他映像を見ているときに「ちょっと待った!」としか言いようがない気持ちになることがある。納得がいかないとか違和感があるとかいう意味ではなくて、むしろよい・あるいは・よくできた場面に多いのだけど、なんだか見ているこっちがいっぱいいっぱいになってしまうような瞬間に、たとえば、リモコンの一時停止ボタンを押して、冷蔵庫から飲み物を取り出してコップに注いで一口飲んでからまた再生しちゃったり、しようと思えばできる…という状況に置かれていると、必ずそうするわけではないにせよ、純粋な一観客ではない自分が意識の上でふと割り込んでくることになる。映画にしろ演劇にしろダンスにしろ、劇場で見ている限りは、目をつぶろうが最悪トイレに行こうが、わたしのことなどおかまいなしに作品の時間は進み続ける。ところがわたしの家では映像の大半はわたしのコントロール下におかれてしまう。見ないことも止めることも手元ひとつで、ほとんどおとぎばなしの王様みたいな立場である。不意に権力を手にしてしまったわたしはそわそわし始める。わたしは王様、だが王様のご機嫌を伺っているのもわたしだ。どうやらわたしはいまちょっとおやつを食べたがってるみたいだけど、わたしは一旦映像を止めさせるべきだろうか? 結論はどうあれ、その時点でもうすでに気が散っている!
 この数ヶ月、さまざまな映像配信が行われていて、そのいくつかを目にしたりもしたのだけれど、結局わたしはこのそわそわ感を持て余してしまって、大半をまともに見られなかった。はじめから映像作品として作られた映画やドラマやテレビ番組については、習慣として観客でいることをどうにかキープできるのだけれど、なにかの生中継だとか舞台芸術の収録映像を見ていると、映像が写っている画面のこちら側には自分の居場所がまったくないような不安定さを覚えて、足元がぐらつく。わたしが無限に遠ざかってゆく。粗忽長屋状態。再生したのは確かに俺だが、見ている俺はいったいどこの誰なんだ?

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 もともとをあまり知らないので道端を歩いている人の数が多いのかどうかはわからない。ずっとゆるやかにカーブしていて先は見えないが、道なりにまっすぐ。高い建物を目印にすれば地図は必要ない。曇り空からときどき雨粒も落ちてくるが、この数日と比べても涼しくて、歩くのにはよい気候だった。書店兼カフェの窓の向こうには国外にルーツをもつであろう人の姿もちらほらとあり、ずっと住んでいる人かもしれないし、急に帰れなくなったり、帰らないことにしたりしているのかもしれないし…というようなことを、実際の光景を目にするまではなかなか考えないな、と思った。高級ブランドの立ち並ぶ坂をのぼらずに、大通りを進む。わたしの頭の中の地図では、そのまま進めば見覚えのある交差点に出ることになっていたのだけれど、その手前にトンネルがあった。いまだになんとなくトンネルを徒歩で通りたくないのは『マザー2』のお化けのせいだと思う。無事に通り抜けるには陽気な音楽が必要だが、今日はイヤホンを家に忘れてきた。トンネルには入らず歩道からそれて、すっかり有名になってしまった多目的トイレを横目に、階段をのぼる。確かにこの辺はあまり人気がない。
 発券機には他にも並んでいるひとがいて、ほっとした。誰もいない映画館も普段だったら悪くないのだけれど、切実に存続してほしい場所がガラガラでは困る。ロビーは必要以上に涼しげで、しかしじっと座っていられる場所がない。もうチケットは確保したので、上映時刻までシェイクでも飲んで過ごすことにする。映画館から出て、ハンバーガー屋さんに向かう。この辺りはアートナイトで何度か夜通しうろつき倒しているから、と自信を持って歩き出したもののホテルのロビーに出そうになったり地下駐車場に降りていきそうになったりして、一向に見慣れた看板が見当たらない。わたしの自信なんてこの程度なのだから、過信してはいけない。仕切り直して建物の外に出て、地上の歩道から看板の案内にしたがって100パーセント確実に行く。記憶よりも遠い。肩からカバンを一旦下ろしてシャツを脱ぐ。改装工事中。それは看板にも書いておいてちょうだいよ!
 すっかり口がハンバーガーなので来た道を戻って大通りを渡って別のハンバーガー屋さんへ。緑茶とレモネードを合わせた飲み物がめずらしくて、セットドリンクに選んで注文マシンのボタンを押す。会計を済ませて受け取りカウンターに目をやると、女性モデルが緑茶レモネードを激烈に昭和のノリでプッシュしているポスターがでかでかと貼ってあり、あたしゃそういうつもりで選んだわけじゃない…と誰にともなく思わずにいられない。カウンター席には移動可能な透明の間仕切りがいくつも用意されていて、室外機の置かれたベランダに続く窓は換気のために全開になっている。何年か前、あの室外機の脇に大きなオオミズアオを見かけた。人のすくない窓際の席を選んで座る。歩き回ったせいで思いのほか早食いする必要がある。

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 映画を見終えて外に出ると、雲がものすごいスピードで空を流れている、っていう光景までたどり着くつもりで書き始めたんだけど。つづく。