2023/11/18

【出演情報】WOWOWドラマ『PORTAL-X 〜ドアの向こうの観察記録〜』#6 LACK LUCK 【初回放送:2024.2.16(金)23:30〜】

WOWOWモキュメンタリードラマ『PORTAL-X』(伊藤峻太監督)#6「LACK LUCK」に真壁志求真役で出演しております。

●放送日時(WOWOWプライム)
2/16(金)午後11:30〜(初回放送)
2/23(金・祝)午前1:40〜

●WOWOWオンデマンドでの配信はこちら

●YouTubeにて#1「フードインベーダー」まるごと無料配信中


2023/10/06

【出演情報】自由が丘商店街PRムービー『女神の街』

自由が丘商店街PRムービー『女神の街』第2話「花の街」・第3話「1-29」に出演しております。


2023年10月8日(日)・9日(月・祝)に開催されます「自由が丘女神まつり」内
自由が丘駅前特設ステージにて
10月8日(日)18:15〜19:00『女神の街』スペシャルプログラム
が予定されております。
ぜひお運びください。
(※当日、善積の登壇予定はございません。)

▼自由が丘女神まつり 公式サイト

三日坊主日記(6)

6/8(木)
 キーマン、ドアマン、ロックマン、近くにいそうなのに全部ぜんぜん違う。

6/9(金)
 きのこ帝国と赤い公園の名前が脳の中でごっちゃになることがある。もちろんきのこ公園や赤い帝国になるわけではない。

 空也上人立像のCM(「そうだ京都行こう」シリーズ)が流れ出したときから、このギターの演奏は誰なのかなーと思って、不定期に何度も「そうだ 京都 行こう ギター」でツイッター検索してたんだけど、今日ツイートしてる方がいらして、アレンジ・演奏者は閑喜弦介さんだというのがわかった。

 このごろグーグル検索よりツイッター検索のほうが正解に早く辿り着くケースがあり、さらにこれがいずれインスタTikTokその他に分散してくるとふだん情報をどこからとってきているかによって見ている景色がぜんぜん違うということにもなりそう。というかグーグルってもともと断片化していた情報を「検索ワード」というひとつの条件で横断的に閲覧できるようにしていたのがすごさの根幹部分だったはずで、なんで今、イマイチそうなっていないのか、専門家に聞いてみないとわからない。検索エンジンの仕様を逆手にとったサイトが増える→ノイズになるようなものをカットオフする→個人発のマイナーな情報も一緒に抜け落ちる、みたいなことなんだろうか。あくまで妄想。
 あとツイッター検索っていろんな物事に対してひとが抱く感想を見るのにも便利なんだけど、同時に「人間、文字化していることに引っ張られ過ぎ問題」のことを考えずにはいられない。とくにレビューを集めて読んだら書いたりするのを目的とする場では、よほど気を確かにもっていないと先行する感想に引っ張られるだろうなー。あとは誹謗中傷もそうか。
 人間のもつ「感想」って凶暴なものなんだよな。意識的な「批評」(すくないけど・批評家が距離感をうしなった「感想」書いてる場面すらあるし)に比べると野生生物みたいなもんだと思う。それ「自分の欲望とどのくらい合致しているか」みたいなことしか、いま、言ってませんけども? って問い直されたりする機会もないし、やりたい放題以外の選択肢がない。感想というフィールドでは。それはそれでいいのだけど、それ、人工的にものを作る人がグッと体重かけてよりかかれるものでもないはずで、だから話はふたたび「文字化すると影響受けすぎ」というところに戻ってくる。受けすぎ、とは言ってみたものの、受けすぎてはいけない、気をつけよう、というようなさじ加減の話ではなくて、人はどうしても受けすぎてしまう、という前提の再確認にしかならない。ならないちゃん。

6/10(土)
 どんなに評判がよくても俳優をぶん殴ってダマでええかっこしてる演出家の作品は見に行かないと決めている。ひとりの演者として、あるいは文化芸術を好んで観る人間としてなにやら「損してる」ようにも思えるが、それより手前、そもそもひとりの人間としてどうなの、ってところまで立ち返らない「愛」ってなにかね。見て見ぬふり、というのは結果的に自分の(ダンスの)ステップを大きく制限すると思う。ひいては未来の誰かのもだ。それこそ損得で言ったって損なのだ。

 (ダンスの)って要る?

 NHK「地球ドラマチック」〜科学で解明!動物たちの遊び〜より、イヌ科動物遊びのルール。遊びにはルールがある。エキサイトした遊びと争いが区別されなければ危険なので。
・お互いにプレイバウをする(play bow:前足をのばして頭を低くし、お尻を高く保つポーズのこと)。
・危害を加えない。怪我をさせない。
・もし上記ルールに反した場合には過ちを認める。(遊びはただちに中断される。再びプレイバウして、相手がそれに応えると再開)
・これらのルールを守る。(ルールを守らない=ズルをするものは群れにとって危険なので、その遊びあるいは集団そのものから追放される)

6/11(日)
 日記というよりは疑問ノートをつけたほうがいいような気がしてきた。日記というよりメモ書きなのは、前からそういえばそう。

6/12(月)
 ひとから愛想笑いをカツアゲするようなことになるとたいへん反省する。

 お昼、重たいシャンプーボトルを養生テープでガチガチに固めてTBSラジオへ。ロン毛ヒゲリスナーの一員として「こねくと」のラジオブースに潜入! なんにもしゃべれなかったけど面白かった(メモ帳にエピソードのメモ用意してしまった……)。みなさんロン毛ヒゲに加えてラジオ好きで、やさしい。ノベルティとヒゲの大敵シュークリームをお土産にいただいて、とっさの洒落っ気に恐れ入りつつ、社会科見学みたいだ…って思う。
 ロン毛ヒゲ軍団が人工芝の敷かれた広場をいろんな方向に歩き出して解散してゆくのが味わい深かった。芝は(なにしろ人工なので)短く整っている。小雨。駅前のおいしいインドカレー買って帰る。おいしい。

6/13(火)
 髪切ってなさすぎて美容師さんの出てくる夢見る。夢の中の美容師さんからなぜか、アーケード市場にあるなにかのお店を紹介してもらう(実際の美容師さんもけっこうおすすめスポットを紹介してくれるタイプなのだった)。夢の最後、鳥に襲われてメチャクチャになってる店の前を通りかかるとおばあさんに怒られる。理不尽。悪夢の悪夢らしさは内容のひどさよりなにより、理不尽さだ。悪夢は理不尽。
 ジューススタンドぐらい季節がわかりやすく表示されてる場所ってなかなかない気がする。今はスイカ!
 フェイクグリーンの写真を撮る。造花の観葉植物版のことをフェイクグリーンと呼んでみる。フェイクグリーンの存在感や役割のことを考えはじめると、生きている植物と同じくらいは喋り出しそうな存在のように思えてくる。葉っぱがあからさまに化学繊維の布だったり、茎にバリが残っていたりするのに、そんなことはおかまいなしに、そこにいさせられていることによって、その妙な役割をいきいきと演じているように見える。

6/14(水)
 権力や権威の引き起こす問題(差別、ハラスメント、おかしな法改正や運用などなどなど……)について:これらを決して「意図」や「読解」の問題にしてはいけない。なぜか。解釈以前に、もともと事実はある。意図的か無意識的かはともかく、事実を曖昧にする"ものの言い方"はいくらでもあって、ネットの海からいくらでも拾ってこられるうんざりするようなレトリックの例をいちいち書かないけれど、その最たるものが「〇〇が言っていたから」だ。順を追って考えれば、当然「〇〇が言っていたから」の多数決が、物事を決定づけるのではない。
 事実はさほど、ひとびとの興味を惹かない。であるから"大勢"が決してさえいれば、だいたいそれをそのまま受け取って、多くの人は満足してしまう。おまけに、誰かが言っていたから、のあとには(それを信じただけの私には責任がない)と続けることすらできるのだ。そのイージーさはあたかもノーリスクを装って、容易にあなたの考えを止める。このように、多数のあいだにまぎれたがるひとの性質を利用して、意識的にか否かはさておき、ある種の権力・権威は「〇〇が言っていたから」ゲームに持ち込もうとする。
 しかし、繰り返しになるけれども、事実はある。それがどんなに考えるのもイヤになるようなひどいことだったとしても、事実は絶対になくなったりはしない(考えないようにするために人は間違った方向にだって努力する。だが、当然、告発者や被害者をいくら攻撃しても、なくなるわけがない)。事実を見ようとしないことは、いずれ私たちにとってのリスクになる。なぜなら問題の根幹を把握しなければ、同じことが起こるのを防げないからだ。
(その意味で、たとえば近場のハラスメントの問題で言えば、創作者や批評家の思い入れや友情なんてものは役に立たないどころか……ということは言うまでもない。一見思慮深そうに見えて、お友達を前にするとその思慮を投げ捨てるような人は少なくない)

 錦鯉のまさのりさん、意外と「承認欲求」とか言葉がすらすら出てくるひとなんだよなあ。ラジオ。承認欲求でないところで面白がる"上客"渡辺さん。でも面白いってそういうことだよなあ。自分を確認するためにわざわざ誰かや何かを使うようなことじゃない。みりちゃむの謝罪に対する見識(謝罪は自分が悪いと思ってるからするんじゃないの?許されるためにするのは順序が違うでしょ……っていう視点)も真っ当で、真っ当って、真面目な賛意や気づきを超えて、ときどきめっちゃ面白いときがある。真っ当すぎて笑う、って、なんででしょう。

6/15(木)
 フェイクグリーン、ぜんぜん、すでにある単語だった。どっかで聞いたことあったのか、それともただその言葉の組み合わせにたどり着いただけなのか、今となってはわからない。
 真夜中、NHKで「もうひとつの『千と千尋の神隠し』」再放送に行き合う。このドキュメンタリーがなにやらいい話としてパッケージしようとしている部分についてはさほど共感しなかったし、演出家だけがひとり、マスクゆるゆるさせてるのを誰も注意できてないのはちょっと危なっかしい(単に感染症対策という点だけでなく)けれど……
 稽古場だ!稽古場いいな!と思ったのは、「なんで窓を開けるんですかね?」って言ってた瞬間。車中、千尋にフォーカスしているシーンの、千尋の母のふとした動き。
 (描いた人や描かれた人のことはさておき)絵や文字そのものに動機はなくて、それが当たり前なのに、人の目には動機のない身体というのはとても不自然に浮かび上がってしまう。逆に言えば、ほとんど常に、人間の身体というメディアはなんらかの動機をまとってしまう。劇が要請する「なんで?」と生身の人間の「なんで?」との潮目で、「なんで?」って考える場所。
 ところで、自分自身を人質にとってしまうような言動を俳優はしがちであるようだ。身に覚え、ある。それ、自分自身を含む、俳優たちの身を守るために必要な場合もあるんだけど、カメラに映し出されたそういう態度を見ていて、ふと思った。どうやらフェアじゃないときもある、というか、なんというか、言ってること自体まっとうだとしても、それが対話の糸口になりにくい、というか……。といっても、演者がこの手の発言に至る場合、その手前で既にいろいろとうまくいってないことも多々あって、外部から筋が通っているように見えるかどうかとはまた別に、そこにある、演者の身体を無視するな、という一種の悲鳴のようなものなのかもしれない。
 なるべくよいルートを選べる状態をつくって、保って、選んでいきたい。どちらかというとこれは自分用の判断基準で、他の人にどうこうなっていてほしい、わけではない。
 稽古場に行きたい。見学させてもらえる稽古場探そうかしら。稽古場見学記書かせてもらいたい。

6/16(金)
 ジェットコースターに乗る。英語だとローラーコースターだけど、どっから来たんだ「ジェット」。ジェット成分ゼロ。謎の手拍子で送り出して、拍手で迎えるノリだけは本当になくていいのに、と思う。
 延々とチェックリストを音読する人を眺める時間が発生して、とくに問題がないのはもうわかっているのに、読む人も聞く人も、なぜこれを止めないんだろうか、と思った。つまるところぜんぜん人に優しくない丁寧さというのはこういうことなんじゃないか、とか、そんなようなことを思ったような気がするけれど、聞いているあいだの無、すっごく無。
 
6/17(土)
 「旧態依然」のことをなぜだか頭の中で「キュウゼンタイイ」と読んでいることに気づいた。キュウタイイゼンに決まっている。なぜだ。

 オードリーのオールナイトニッポンin東京ドームのステッカー、コンビニのシールプリントで手に入れる。一目散に配布の列に並ぶでもなく、転売は当然無視した上で、データ片手にそっとコンビニへ行く「命の回転」、ひたすらに地味。
 いま「いのち」と打つと予測変換は「あなた」と示す。使う仮想キーの位置は一緒。実になんというか、短歌かなにかになりそうな現象だ。

6/18(日)
 見えないけどある、ものはある、けれど、見えるけどない、ものってなんだろう。見たことないけど蜃気楼とかか。「蜃気楼が見える」という現象はあるわけで、「それがそこにない」のと「ない」のは違う。

6/19(月)
 インターネットで。「笑った」と書いてるうちの半分くらいは笑ってないと思うし、「吐き気がする」と書いてる人のほとんどは吐き気がしてないと思う。
 
6/20(火)
 ノイシュバンシュタイン城。ノイ-シュバン-シュタイン。new-swan-stone。新白鳥石城。

6/21(水)
 いやーやっぱりハラスメントの件を抜きにご威光をありがたがるっていう態度は見てられない。比喩じゃなく、リテラルに見てられない。見かけたらそっとミュートしてるけどちゃんとブロックしてゆくべきなのか考えてしまう。そんな都合良い「デカフェ」みたいなのあるの?
 ハラスメント加害者の残した業績や作品にまつわるよさや面白さについて考えたり語ったりするのがダメなわけじゃない(むしろそういうことは行われるべきだと思う)んだけど、そこで一切の問題をスルーできる神経は、わからない。注釈なり留保なりを一切抜きに信仰告白するとして、それ自体は自由だが、その態度で未来に何を伝えられるのか。いったい何に向かって拍手しているつもりか。わからない。もし問題をスルーするのが「バランス感覚のよさ」なり「品のよさ」「趣味のよさ」「マナー」だというのならそのバランスの秤はもうぶっ壊れている。

 「犬のいない暮らし」だなと思う。犬がいたから、いま犬のいない暮らしをしている、と思う。

6/22(木)
 早寝早起き。

6/23(金)
 駅の片隅に直列したATM、自動販売機、証明写真。お金、水分、アイデンティファイ。

 巨大100円ショップを歩き回ってくたびれる。

6/24(土)
 お蕎麦屋さんで。「蕎麦屋のカツカレー」というメニューがある。頼もうとして、「蕎麦屋の…」と言うと、目の前のその人がまさしくお蕎麦屋さんであることに気付く。なんか気まずい。「お蕎麦屋さんの」と言いたい。というか、「そもそも全部そうじゃん」という気持ちもないでもない。
 シャバシャバしたお蕎麦屋さんのカレーはシュークリームと同じくらい計算が立たない動きをするのでヒゲの大敵であることがわかった。

 まったく同じASA-CHANG&巡礼のジャージを着て、さらに腰に巻いている状態で、まったく同じ状態の人と会う夢。本物は部屋のハンガーに1枚かかっているだけなので、夢で4倍だ。でもそれ、まったく出来事の主軸ではなくて、この偶然についてはあとで話そうぐらいのつもりでいたのに、いろいろあってうやむやになったんだった、と夢を振り返ろうとしてもどっちでもいいというかどうでもいいというかもう記憶がない。何人かで車に乗って、牧場みたいなところに辿り着いて、見たことのない生き物(ウサギとバクの中間みたいなの)が走ってきた勢いのまま腕の中に飛び込んできてキュウと言ったところで目が覚めた。生きものの感触。犬の記憶。

 歩き回って書き回る、量が足りない。

 「無受罰性」ということば、ものすごくクリティカルなように思う(何丘ブログ)より。まさしく人間の腐敗はそこから始まるのだろう。

6/25(日)
 ヤマバト(キジバト)の鳴き声を「デデーポポー」と表している文章に行き当たる。「ホー、ホホーホホー、ホー、ホホーホホー、ホー」だと思っていたので「デデー」は新鮮。自分の聞こえ方だとホーは裏拍(4拍目)スタートだけど、デデーで考えると1拍目のウラだ。
 笑点の演芸コーナーでトム・ブラウンが不穏なつかみ(例:「夢屋まさるは殺します」「キャー」)を全カットして、ものすごくゆっくり丁寧にやっていた。「ダメー」の直後の間で謎の拍手が起こる。巻き起こるちょっとした不安な気持ちを、笑うでもなく、拍手で解消してしまう観客席……なかなか老獪な手口だ。
 ベッドシーツを替えたり、部屋を片付けたり。もういろいろ捨ててもいいような気がする。本、半分くらいにしてもいいかもしれない。

6/26(月)
 不条理劇と不条理は違う。「舞台にスポットライトが当たっているが、登場人物が不在」というのは単に不条理で、このような状況を不条理劇と呼ぶのはどこか噛み合わせが悪い。不条理劇というのは不条理、に直面する身体や顔や声を見る劇の時間のことなんじゃないか。
 思うに、劇というのは常に具体的なもので、あまり比喩には適していない。「悲劇」なんて言葉が使われるときも、ほとんどの場合は「悲しくて衝撃的な物語のような出来事」を意味していて、それはぜんぜん劇ではない。

 最高の休日は人それぞれだけど、最悪の休日にはあんまり違いがなさそう。一般に幸せ/不幸せで言われることとは逆かも(幸せな家庭はよく似た姿をしているが〜みたいなやつ)。最悪の休日は夕方の起床にはじまる。

 オリジナルのスカジャンを作るならどんな動物をいれたいか? ゴイサギ、マレーバク、トビウサギ。でっかいプードルもよさそう。ラッコも好き。

 あいかわらずフェイクグリーンを見かけると写真を撮ることにしている。「岩」風のボディに植えられた「草」風のなにか。フェイクグリーンにフェイク岩。全フェイク。

6/27(火)
 ハリーポッターのあたらしいスマホゲーム、いろんな元ネタゲームのキメラみがすごい(音ゲー、クイズゲー、キャラクターとの交流シミュレーションゲー、お絵描きボドゲ、リアルタイムカードバトル、家具配置、世界探索、ソシャゲ)。しかしなんといってもそれらのガワであるところのビジュアルとおなじみの音楽はつよい。原神もそうだけど、際限のない競争心(時間、課金…)ではなく世界観でゲームへの関心の寿命を長くしようとしているのはどちらかというといい傾向だと思うんだけど、なんか聞いたことある、みたいなゲームを試しに触っていると、むしろ世界観捨てにいってる傾向のものも結構多い。ストーリースキップ前提スタミナ消費周回作業ゲーみたいなやつ。じゃあやらないかというと、たまにやっちゃうんだけども。ハムスターはなぜ回し車に乗るのか。それに、世界観ゲームもそれはそれで構えが必要で疲れてしまってやらなくなるのだけれども。一貫性はない。

6/28(水)
 もし冗談が面白くなくなったらやばいと思う。質やタイミングの問題も大きいけど、どちらかというと味覚の問題として。冗談を言おうとするというのは、外界に向かってなにかを確かめるようなところがある。そして、ひとりではなかなかむずかしい。
 なぜゴドーの二人はずっとふざけようとしているのか(そしてそれはうまくいかないのか)、その理由として仮置きすることもできるような気がする。
 とかなんとか言ってる間にも私の口にする冗談は致命的に面白くなくなっているかもしれないし、もともと面白くなかったりするかもしれないのだった。

6/29(木)
 ワークショップにふたたびお邪魔する。見て、なにかを言う。それだけ。信じるものが違う(かもしれない)ひとにも通じるような言葉を探さなくてはならない。すなわち、できるかぎり具体的に。ちゃんと思ったことだけ言おう、と思ってはみたものの、それ、得がなさすぎる!とも言ってしまえるのだが、そうしてみて実際のところ、得るものは多い。
 先日来「どうやったら自信が持てますか?」に対する答えをずっと考えてしまって、いい質問だと思う。自信がなく見えているのもわかっているし、実際に自信はないけれど、どうすればいいのか。とてもよくわかると同時に、実にむずかしい。「むずかしいですよね〜」ってつい言ってしまう。その場で直接答えるにはむずかしすぎて、ずっと宿題にしていたところもあるかもしれない。

 「自信を持って」と誰かから言われるとき、ほんとうに求められていることはなんだろうか。そもそも自信とはなんだろう。(他人の心のなかを確かめることはできないので、「自信ありげ」とか「自信家」とかいう言葉があるように、他人の自信について言えば、外から見て推測するしかない。自分自身のことを別にすれば、これから考えることはほぼすべて当て推量だ……)
 自信とひとくちに言っても、中にはよくないタイプの自信もある、ような気がする。たとえば自分や他人の目を曇らせるような心の働きも「自信」と呼ばれているときがある。「自信」をアピールしたり確かめたりするために、他人を大事にしないことで自分の力を誇示するような振る舞いをしてしまう人は、それが意図的か無意識的にかはさておき、ときどき見かける(一番ひどい例……はとても長くなるので、一番しょぼくれた例を挙げるなら、"禁煙"と貼り紙のある大きめの共同楽屋でアイコス吸ってるようなやつね)。その手の「自信」の持ち主は「自信があるように見せるアピール」をせずにいられないんじゃないか。もしそうなら、本物の、と区別するには何が本物なのか実はよくわからないけど、少なくとも、望ましいタイプの自信からはかえって遠ざかっている。と私は思う。それに、そういう「自信」を見せてくれとは誰も言っていない気がする。
 結局のところ、吹けば飛ぶような実態のない「自信」をなるべく疑わずにいられるように、オラついたり、札束を数えたり、占いを信じたり、取り巻きを増やしたり、アツい思いを語ったり、してしまうのが、よくもわるくも人間だ、と思ってはいるものの、自分もまたその一員なのだから、と開き直って済ますほど鈍くもいられない。ので、考え続ける(この段落、丸ごといらない段落だ)。
 "自信"問題("「自信」or自信"問題)の根幹のひとつは、演技をする(広く言えば、表現にかかわる)人間にとって、自信の根拠となるべき実態のある力がなんなのか、よくわかっていないということかもしれない。実態のある力……遠くまで砲丸を投げられるとか、ダウンザラインのバックハンドの確実性が高いとか、スポーツの世界における実力に比べると、人前・カメラの前で演技をするときの「実力」を説明できる人はあまり多くはないだろう。
 スポーツにはルールがあるが、表現には(基本的には)ない。ない、というか、実感としては、毎回変わる。法律・憲法や人権の尊重は守るべき最低限のルールで、だから表現にだってルールはある……といちいちわざわざしつこく書いておきたくはなるけれども、これは、ある表現を作り上げ、よりよくする、という目標に向かうとき、頼りにするルールとはすこし違う(人間社会における「反則」は禁止、というのだけが"ほぼ"共通ルールで、勝利条件がない)。ルールの上で、ホームランが得点になり、得点を多くとれば勝ちにつながるからこそ、遠くまでボールを打って飛ばせることは実力だと言える。けれど、めちゃくちゃ単純化して言ってしまえば、表現によって、大声を出したほうがいい場合と、大声を出さないほうがいい場合がある。俊敏に動いたほうがいい場合と、どんくさく動いたほうがいい場合がある。パワー、スピードの意味するところさえ変わる。よしあしは瞬時に移り変わる。しかもその振れ幅はものすごく大きい。つまり、何が何点になるか、どうすれば「勝ち」か、その場をとりしきっている人ですらほんとうにはわからない。
 さらに、スポーツの厳密なルールの中で発揮される実力は「それを誰がやっているか?」とまったく関係がない。プレイヤーが誰であれ、その力やスピードや正確性だけが問われる。だが、パフォーマンスを見るとき、ひとは「それを誰がやっているか?」に大いに影響を受ける(ただ、ややこしいのは、ひとはスポーツをだいたいある種のパフォーマンスとして見ている。だからたとえば、魅力的な、ただの空振り三振、みたいなことはよくあるし、彼らの示す能力の継続性のみならずそのキャラクターを踏まえて私たちは次に起こることを期待してしまう)。
 人前で行われるさまざまなパフォーマンスについて、そのパフォーマーの実力を十分に客観的な基準をもって考えることが難しいのは、①そもそもパフォーマンスごとにルールがまったく異なる、ということに加えて、②その人自身の存在や歴史とは完全には切り離せない、ということがあるかもしれない(この点で、最近しばしば話題になる「出演者の不祥事を原因とした作品キャンセルの当否」という問題にもつながる。「じゃあ問題ある人間が工事にかかわった橋だとわかったら完成してても通れなくするのか」というような文言を見かけると小学生が一生懸命考えたみたいでニヤニヤしてしまうけれども、橋とパフォーマンスの間には"誰がそれをやっているか"がその成果物と分かち難く結びついているかどうかの差がある。橋とパフォーマンスに上下の区別をつけるようなことでなく——表現にかかわる作り手、演じ手は仕方なく結びついてしまっているだけで、ぜんぜん偉くない——ただ自ずからどうしても違う性質のものなのだと認識しておかなくてはならない)。ということはたぶん、その人の歴史ごとに自信の成り立ちが違う。これからなにかをやろうとする人と、これまでなにかをやってきた人では持てる自信がまったく違う。
 俳優業をいまの社会の産業の一部("お金と影響力の大きさを競う"ルール)としてドライに考えるなら、わかりやすく強い力をもっているのは「知名度」と「顔」かもしれないし、「スタイル」や「ファッションセンス」や「おしゃべり上手」なんかも入ってくるかもしれない。それらが自信に直結しているひともいるかもしれない。だが、表現において強い力をもっているのは、どうもそういうことではないような気もする。不思議なダンジョンみたいに不安定なルールに立ち向かっていく力の根源は、なんだろうか。
 日常はどうだろうか。たとえば音楽家はどうか。練習を繰り返すことによってより正確に、より速く(あるいはより遅く)弾けて、よりたくさんの選択肢を持つ。表現できるものごとの幅が広がる。観客からの賞賛や名声は、何者にも代え難いが、コントロールできない。だが、練習は、すくなくともコントロールできる。でも俳優にとっての基礎訓練とはなんだろう。(くたびれたのでここで中断。話も散らかってきた。また別の日に続きを書こう)

 これまで自分ではあんまりないと思ってたんだけど、「結果的にひとを励ましたい」というような願いが、自分のなかにはあるようだった。直接に、狙い通りに、ではなくて。なんかの拍子に、結果的に。そういうやり方で。「勇気と感動を与えたいです」的な考え方では絶対に辿りつかない場所に届くように。でも、そういう願い方もどうなんだろう、それは、なんか、考えるのを放棄する方便のようでもあって、大いに疑問は残るし、第一ことばにしてみると実に恥ずかしく思えてくる。

 ひさびさに人に名刺を渡した。今となってはほとんど意味のないようにも思える名刺だけど、ちょっと作り足そうかしら。楽しいので。

 夜、ものすごくしっぽの立派なねずみを見た。

 余分に歩いて、はじめて肉眼で新しい国立競技場を見る。ザハ案のが見たかった。もっと遡って考えれば、元のやつをただ改修しただけの景色が見たかった。ワタリウム美術館でなにを見たのか忘れちゃったけど、帰り道ぼやぼや歩いて入り込んだ団地はもうない。

 フィクションのなかに登場するものたちは人間たちのリアクションによってはじめて存在する。銃や刃物やカーチェイスはわかりやすいけど、ちょっとした段差やセリフにならない三点リーダー「…」ですら実はそうだ。

6/30(金)
 最近ダイアン見すぎて相槌が「ほえー」になってるときある。

7/1(土)
 蒸し暑い。
 家のトイレットペーパーホルダーは文庫本を置くのにちょうどいい。

 中国語はわからないけど、少年の声がロックスターみたいに枯れているのはわかる。かっこいい。

 差別的な文言を見かけるたびに、自分の身体や心にはどうしても選べない部分がある(だからこそ選べないことを攻撃してはいけないし、選べる自由をとことん大事にするべきだ)、ということを、ひとは、教育の過程かなにかで、もうすこしわかっておいてもいいんじゃないかと思うけれど、選んだわけじゃなくどうしても頑迷な心を持っているんで、頑迷なのはもうわかってるんで、と言い返すようなひとにかける言葉はあるだろうか。そうやって、自分に満足していられて、他者のありさまを考えずにいられるのは、単にラッキーだったからじゃないか、と、受け入れ難い言葉を放つ人間をたんに無遠慮な他人として片付けようとしてしまうことがあるけれども、当人の中でもう完結してしまって、頭を振り絞って考えた上で自分も自分に我慢しているのだから誰も彼も皆我慢していてほしい、と願うひとにはほかにどんな幸せがありえるだろうか。ある種のインターネットの表面だけをなぞってコピーペーストを繰り返すひとびとの、増殖してゆく既視感しかない文言そのものよりも、ふるまいから想定される理想の「暗さ」がどうにも気になってしまう。自分の満足のためにだれかを引きずり落とそうとするべきではない、と自然に考える人間と、同じくらい自然にまったく正反対の考えを持つ人間がいるとして、オマエみたいに「考え方に恵まれた」やつの言うことなんて聞きたくない、と思われたらそもそもしゃべれない。その暗闇のなかに、力への欲望の根っこみたいなものがあるような気がする。

7/2(日)
 「メモしない派」の定番コメントに、書いておかなきゃ忘れちゃうなら所詮その程度だったってこと、みたいなのがあるけれども、書いておかなきゃ忘れちゃったかどうかもわからないようなことを書いておきたい。というか、そんなことばっかり書いている。
 ヒゲを伸ばしてみてはじめてわかることは細々とたくさんあって、たとえば意外と自然と抜けがち。考えごとをしていると手をやってしまいがち。白でも黒でもない色ありがち。あるある、すっかりRG流あるあるの言い方になりがち。

7/3(月)
 途方もなく眠い。

7/4(火)
 「しょうもない趣味のよさ」っていちばんイヤかも。ときに「趣味のよいしょうもなさ」というのもあるんだろうけど、そういうつもりで前者へと滑落してゆく「趣味」、しばしば見かける。
 倫理抜きの表現なんて実はつまらないのだ、ということを「趣味人」は平気で見落とす。あえてそれを悪趣味とは言うまい。むしろ「趣味がいい」からそういうことになるのだ。

 「暴力後生存記」を書く、と考えてみる。書くためにも生きながらえる必要がある。人間の間違いの歴史には常に反面教師として参照される余地がある。都合の悪いことを書かない輝かしいだけの歴史なんてのちの役には立たない。せいぜい同じようなズルをしたい人間の憧れの的になるだけだ。

 「あ、共感とかじゃなくて。」は、とても簡単な語彙で、あらためて考えたい物事の的確な位置を指す言葉だと思うんだけど、あくまで共感の範囲だけを行ったり来たりしている人にはそのニュアンス、通用しないだろう、というところがまず困る。共感だけを求めていたら事実にすら耐えられなくなる、ということすら直感されない知性に、どう働きかけられるのか? がんばれ美術館、と他人事でもいられないのだった。

7/5(水)
 『アオイホノオ』1巻61ページ。「あわてるな…/俺たち若者は——/無限の可能性があるんだ‼︎/先走った自己評価で勝手に負けることもない!」最後の一行が聞いたことないほど直球すぎて面白い。直球すぎてあまり人が言わないことというのはある。サンデーうぇぶりでいろんな漫画をダラダラ読んじゃう。

7/6(木)
 スレッズ触ってみる。あらためて希望をもって触れないのはなぜかというと、もしこの先、機能面で的確なチューンナップがあったとて、ソーシャルメディアはもうこれ以上あんまりうまくいきそうにないからで、その方法でしか連絡を取れない人がいたり局地的に便利だったり、といった理由で使うしかない……という消極的選択でしかない。権威とハウツーと映えの再放送。ポストペットみたいな楽しいインターネットはもうない。出さなくていいろくでもないメールをいっぱい送っちゃったな。

 生きるのに必要なのは哲学なのかも。すっげえ当たり前のこと言ってるかも。でも欲望やゲームの勝利条件みたいなものに対して距離を取るために必要なのは、力の強さとか思いの強さとかじゃないんだよな。認識が必要。

 北前船の廻船問屋のことをイメージしながら「北回帰線」って言っちゃった。

7/7(金)
 七夕。

 何回見ても「蟠り」という文字には一瞬ギョッとする。目がスピードダウンしてしまうから意味にもピッタリ。見るとそこに虫が突然いるような気分。

 今まで真剣に考えたことがなかったけど、警察の不祥事は誰が捜査して証拠集めするんだろうか。もし外部に独立した組織を用意しなかったら、少なからず揉み消す方向で動く人間がいると思うんだけど。世界的にはどうなってるんだろう。

7/8(土)
 ママタルトの二本目見たかった。ツギクル。

 疑いのなかに不安なままでいることを、インスタントに解消するのではなく、その場所その状況を認識し、問題の核心に迫ったりする助けになるものが必要だ。遠くを見ようとすること。つぶさに見ようとすること。油断すると近くだけをぼんやり見るように仕向けられる。暴力は思考を奪う。

 めっちゃアレな事務所(営業面でどうのこうのというのではまったくなくて、ハラスメント被害を受けた人間に「もし相手を訴えたり被害届出したりするならウチやめてからにしてね」と言うような組織……冷静に振り返るとその瞬間に即、縁を切るに値するレベルのダメさだ)にいてしまったから芸能プロダクション全般に対する信用がなさすぎる。いい予感が持ててない。ということに気づいた。後遺症は多岐にわたる。それを書いていくとすると、同時に「なぜ私がこんなにもだらだらしているかというと」と言い訳する文章にもなる。とまれ、この点で、まともな事務所かどうか、って外部から知るの、むずかしすぎ!どっかないですかね!って誰に聞いたらいいのか。

7/9(日)
 ソーシャルメディアにはもう具体的なことだけ書こうと思う。抽象的なことは日記で。
 ことさらポップさをアピールしたいということもないけれど、新鮮さのない抽象ばっかり文字にしてあっても、読む側からすると暗すぎるし、そういう場に書くには手応えが感じられないだろうし。人前では「なに言ってんの?」と「わかる〜」を行ったり来たりしたさ、ある。で、そうでないところで延々と考えたさも、ある。

 "義理人情"をとって信用を失ってる人めっちゃいっぱい見たので失望に新鮮味はないがだからといって失望しないわけではない。ドーナツの歌はもうちょっと昔ほど楽しく聞けないかもしれない。なにものかへの愛は行為を正当化しない。権威によりかかる人は「(自分の判断、言動の)理由はほかにある」と言いながらしばしばそれを明示しない。その方法こそまさに、権威をそのまま利用しつづけるのにもっとも効果的だからだ。彼らはみな、嫌になるほど似ている。とても見慣れた風景。
 しかし一旦立ち止まって考えると義理人情というのも四字熟語のテンポ感でごまかされているが全然別物である。義理と人情。人情を言い訳に義理を通して筋を曲げようという人がその辺の都合を"美しく"飾って言い立てるのにピッタリだが、それが義理なのかそれが人情なのか、浮ついた四字熟語を選びたくなったときほどよく考えたほうがいいのかもしれない。(以前に「公正中立」についてハラを立てていたのと同じような構造。やはり魅力的なリズムに言葉は引っ張られていってしまう、それに引きずられて認識も)

7/10(月)
 またまたロフトプラスワンに。役名を間違って紹介されたのをそのまま引き受けて間違って自己紹介してしまった、けれど、ほとんど気づかれてなかったかも。お客さんにも戸塚くんにも上野毛くんにも申し訳なかった!

 誰と、の手前に何を、があるはずなのだった。ここ数年で煮詰まったことどもが、うっすら声枯れるほど、言葉になって、解呪されて、朝!

 全体主義、権威主義とはやっぱりどうしても私は訣別しなければならない。個人の自由が確保されている、というのがまともさの唯一の出発点であり目標でもある。自由を出発して自由に帰ってくること。この点で「よい全体主義」などと呼べるものはない。

7/11(火)
 昭和の言語表現に「ナムサン!」っていうのがあるけど、考えてみるとあれなんなんだろう。「ええい!あとは野となれ山となれだ!」みたいなニュアンスのときに出てくるやつ。次元とかブラックジャックが言ってそうなやつ。「南無」は「〇〇に帰依します」だから、「三」がなんかの略なんだろうなー。
 日記とは別に、「きょうの演劇」という文章を書いてみることにした。きょうの演劇は「体重計にのる」。
 存在しない体重計にのって、存在しないスマホに体重と体脂肪率を入力して、足の親指で体重計の電源を切る。映像に撮るところまでいかなかったので明日は部屋を片付けて映像を撮ろうと思う。

7/12(水)
 世界中で共通の動き、暑かったらあおぐ。インドの熱波に関するニュース映像で、病院で看護師が患者をあおいでいるようだったのだけど、見たことのない形のうちわを見た(左右に振ると下向きに風が吹く形。持ち手の部分が木刀ぐらいの長さでそのまま真っ直ぐ伸びた背骨のようになっていて、その下にぶらさがるようにしてくっついている長方形の羽の部分には外枠に骨が入ってたわまないようになっているようだ。見慣れたもので言うと、店頭に並んだのぼりを引っこ抜いてきて四角く固めてあおいでる格好と考えるのがかたちとしては一番近い)。ベッドに寝ているひとをあおぐには最適。
 「うなずく」「首を振る」「首をかしげる」はなんで大体共通なんだろう。逆の意味になる地域ってあるのかな……首を振るのが肯定になる地域があるというのは聞いたことがある気がする。(調べたらブルガリアやインドでは逆転しているらしい)
 首をかしげるに至ってはイヌとも共通だ。

 オニヤンマのブローチをつけてると虫が寄ってこない、かもしれない、らしい。面白い。ハチめっちゃ苦手なのでちょっと欲しい。アウトドアよりの人にあげて感想聞いてみたい。

 部屋ぜんぜん片付かず。映像をつくるのではなく、書くことを進めてみる。という方針にしちゃう。

 ずっとソファーに座っている状態、というのは、状況描写としては成立するけれども演技としては成立しづらい、のは、何故か? たとえ動いていなくとも、人の内面で出来事が起きていないわけではない。しかし傍目にはなにか超然とした、時間感覚からかけ離れた存在になってしまう。「あえて演技をする」のはたぶん、動きに起こすということだ。ということで"きょうの演劇"は「ソファーに座っているを考える」。どうすればそれは演技になるのか。

7/13(木)
 部屋から古いおみくじが出てきてふと思う。おみくじの有効期限はいつまでなんだろう?
 初詣で引きがちなのでなんとなく「1年間有効」のような気もするし、悪いのが出てすぐもう一つおかわりを引くようなひとのことを考えると、「最新のおみくじを引く瞬間まで」としておきたい気持ちもなんとなくわかる。おみくじ自体は未来に向かって線上に伸びてゆくようなこと、「〇〇すれば吉」とか「旅は西に行け」とか、書いてあるけれども、おみくじを引いた瞬間における運勢を取り出したのだとかんがえると、その少し後にはもうまったく有効でないのかもしれない。

 きょうの演劇は「思ってることが顔に出る」について。

7/14(金)
 文章書くのは全然苦じゃないけど、同時に全然人に読ませるつもりもない。するとこういう謎の文章が漫然と残る。
 ふだん残留思念的なものが頭の片隅にこびりついているせいでむやみに早口になったり人に長文を送りつけたりしないように、くれぐれも気をつけようと思ってはいるのだけれど、私のメッセージは総じてすごく長い。余分なことはなるべくここに書いていって、長文はやめにしよう……と思ってはいるのだけど……
 おしゃべりのほうが楽なのは聴いている人の反応を見ながらリアルタイムで感覚的な編集ができるからで、他方、文章は自分の純粋な編集力が問われているからあんまり人に見せたくならないのかもしれない。反省力不足なんだと思う(これはこれで雑。今日、全体的に、雑)。
 きょうの演劇は、えーと、ぜんぜん思いついてなかった。「換気扇の下で」にしようかな。

7/15(土)
 チワックスプー、みたいなイヌを抱っこして歩いている人がいた。軽そうだった。

 空白を、都合のいい妄想や手頃な物語で穴埋めすることの暴力性に対するひとびとのアンテナの鈍さには驚くほかない。インターネット上の平等な会話なんてもはや望むべくもない。名前を出す出さない、ということ以上に、責任を持たない人間とは結局会話なんてできない。したいとかしたくない以前に会話が成り立たない。自分の顔と名前を出していても、目の前にひとがいても、なお責任を持たないような人はいる。
 個人の自由を尊重するためには、おそらく常に具体的であるべきだ。具体の前にあるとき、ひとは立場によらずなにかを思える。だからといって即平等ということにはどうしてもならないが、思ったなにかを表出するのに上も下もない、という状況を作るためにも、徹底的に具体的である必要がある。歳をとるにつれどんどん具体的になってゆきたい。という感じ。ひるがえって、印象論というのはパワーゲームになりがち、という点で退けられる必要がある。

7/16(日)
 サングラス日和。駅前に集合するとすこし遅れて来たIくんもサングラスなのかよ。サングラス日和だねと言う。

 題材のチョイスゆえに一見、とりこぼされる人たちをみつめて「思慮深くやさしい」ようでいて実のところ傲慢なのではないか、というような作品は、ある。いずれのセクションにおいても表現がリアルに沿っていけないわけではない(したがってほんとうにそういった人が着る服や話す言葉ばかりを求めるのは筋違いである)けれど、ひとたびリアリティ(リアリズムとは別の)を取り逃してしまえば消化しがたい記号ばかりが残る。小ボケや素っ頓狂なかわいらしさややさしいマフラーにデコられた的確に記号的なまずしさの、つらさ。なにより、人は死んでゆく(ある人は死んだ/あらゆる人は死ぬ)、という一般的事実と、登場人物がストーリーテリングの都合やある伝えたさのために死んでゆくのは、ずいぶんと別のことで、しかしその言葉にすれば当たり前のことに、なにか、うまく言えない引っかかりを感じた。フィクションのなかで、"このようにして、死んでいるが、いる"と示すことにも、個別のつらさまずしさにも、納得できるし共感もするのだけれども、それはつまり描写としてひとつひとつ成立しているがけれども、それでは何のためにそのように描写されているのか、という部分で、やはり、なにか、飲み込みがたい。その外側のなさのおそろしさ。言葉が見つからない。作られたものの話をしていさえすれば「やさしく」「誠実に」あれるというのであれば、それはやはり、なにかが決定的に間違っている。と思えてきてしまう。それにしてもやはり私は作品単体ではなく背景にある態度を見ているようではある。どうしても現実に引っ張られてしまうところがある。
 ところで、この劇を見ているのは誰なのか。観客の居場所はどこにあったのだろうか。出演者がナレーションを担うとき、暫定的な正面として客席の方向を向いているだけで、意識はそこにすわっている観客には決して向けられてはいないようだった(すなわちこのとき観客は正面を向くためのアリバイになっている——かりに席には誰も座っていなくとも起こることに万事変わりないのではなさそうだった)。空間に対して大きすぎる声で、目の前の、ここにいる誰かを無視するようにして放たれるエネルギーを、感情豊かで"割に合った"表現だと受け取る人はいるだろうか。いるだろう。だが、それは、すくなくとも私からすれば丁寧でも繊細でもない。頭上を通過していく大声を聞きながら、たんに演者や演出家をどうこう言うのでもなくて、これをよしとしている誰もが鈍感だ、と思う。大きな音がすればそっちが気になる。机を叩いたりドアを強く閉めたりするのと同じことだ。そうしてはいけないわけではない。だが、そうするのにはそうするだけの理由が必要だ。なぜそうするのか、そうなってしまったのか、たんに演劇だから、フィクションだから、という開き直りなのか。それならそれでもいいし、いちいち言葉で説明できなくてもいいが、そうする人はせめて自分の回路を通さなければ。見る人もだ。この瞬間にもいったいどんな約束事を飲み込まされているのだろう。これを一言でいうなら、頭ごなしだ、と思う。題材選びが、人物たちへの眼差しが、いくらやさしかろうが、頭ごなしの態度。また、ちょうどよく脱力した小ボケやくすぐりを、迎えに行くように笑いにいって、安心を得ようとしている客席の実に技巧的なありさまに対してどう思えばいいのだろう。とも思った。私はそれ、どうしても笑えない。それはやさしいだろうか。趣味がいいだろうか。なにも笑う必要なんかなかったし、あなただけが覚えているような特別なこともなかった。(「あなたはもう去年のことを忘れている」そんなわけない。「あなた」は劇の中におらず、したがって、観客は自分に向けられたとしてこれを受け取るほかない。だが、少なくとも観客席に向ける言葉としては客席に座るひとりひとりを低く見積もりすぎているように思う、し、そんなことを言われて感傷的に泣いているようではいよいよ忘れっぽすぎるだろう。忘れているのは実際、だれなのか。「あなた」はだれなのか。"繊細"でいるだけの鈍さに、すこし唖然としてしまう。弱さのうちにいることはどこか心地いいことではあるのだが。作ることは、というよりも、見ることは、そういうことなんだろうか。)いまの私には、こういったものも、こういったものをありがたがる磁場も、まったく必要ないように思えた。ノットフォーミー。あの観客席に、すくなくともいまの私がいる必要がなかった。作品のありさま以上に、観客席のありさまを疑わずにいられないような時間だった。

 カワセミという名前の飲み物を飲む。エアコンはぜんぜん効いていない。カワセミ(漢字で書かれたメニューでは「翡翠」なのだけれど、これだとヒスイと区別がつかない。おすすめのメニューを店員さんに聞いたからこれは確かにカワセミ)。どんなものかというとパイナップルジュースと緑茶が二層になって、コップのふちにはシロップ漬けではない生のさくらんぼが飾られている。お会計のときに「どうでしたか?」と聞かれて、「面白おいしかったです」と言った。

 新宿でテレビクルーに声かけられる。「ふるさと自慢を聞いてまして」。東京出身で残念がられる。

 たつやで鳥丼食べる。

 『マルセル 靴をはいた小さな貝(Marcel the Shell with Shoes On)』YouTubeのコメント欄を見て「オーディエンスがコミュニティになってない」とは言い得て妙。見たいものを見て言いたいことを言うだけのオーディエンスを、わるく言うんではなくて、それが「コミュニティではない」ことを指摘する的確さ! 世界の広がりを、説明しすぎずに存在で示しているプレッツェルくんたちや虫たち、もうひとつの呼び名、お見事だった。これら観客を信用してやりとりを成りたたせる細部が愉快。カメラに向かって話しかける場面がたくさんあるし、その多くは説明である、にもかかわらず、いわゆる説明台詞と思いにくいのは、第一にモキュメンタリーとしての設定があるからなのだけれど、どうもそれだけでもないような感じがする。なんだろう。やっぱり話者自体がフェイクだからだろうか。
 君たちはどう生きるか、圧倒的に満員。もう少し空いていそうなタイミングで見ることにしよう。

 きょうの演劇は「観客席に語りかける/または/カメラ目線」ということにしてみる。ちょっと時間のかかる話だと思う。

7/17(月)
 ニュース記事にコメント欄をつけるのってどうかしてる行為(コメントするのが、ではなく)だと心の底から思うけど、ある芸人にまつわる害のない、もっと言えば意味もない書き起こし記事のようなものに対して、「こいつはいつも一言多いんだよ」とコメントが書かれていて、ろくでもないのに違いはないが、素直すぎてびっくりした(ありふれた罵詈雑言のほとんどは所詮この程度の認識で放たれている、と考えておくべきだろう)。なにしろ芸人さんたちはちょうど一言多いのが仕事だよ、と思う。少し前にナンチャンがヒルナンデスで「言語化するのがタレントの仕事」とぽろっと言っていたけど、なかでも余計な一言をちゃんと言語化するのがお笑いだ。
 それにしたってなんで国内のメディアはニュース玉石混交っぷりが凄まじい。ほぼ石だが。配信元とタイトル決めてるのが別なのも責任が曖昧で厄介な構造だけども、クリックベイト丸出しの記事タイトル「〇〇ランキング2位は××!意外な1位は?」。大喜利のお題か。だからといってBBCやCNNばかりに頼ると国内のちっちゃい出来事が書かれていなくて、それはそれで困る。
 もちろんニュース記事にはかなり丹念に書かれたものもあって、そういう玉の部分をシェアするのがかつてソーシャルメディアの理想的な使い方のひとつだったような気もする(『グッドバイ、バッドマガジンズ』きっかけで知ったのもあって、自分がSNSで広めたりするのは違うなと思うんだけども、日刊スポーツの芸能面の村上記者の記事は熱量高い。是枝監督の記事など)。いまやアクセス数、インプレッションに最適化したソーシャルメディアには「刺激的な、とがった、ただの石」がごろごろしている。

 ソーシャルメディアといえば。もしあなたがAでなくBのような観客ならば〇〇を見に行って楽しむ/感動するべきだ、的なツイートを見かける。それが感想のファーストステップなのだとしたら、よほど特殊だ。もともとの感慨や思考から何段階も屈折しなきゃそうはなるまい。趣味嗜好興味関心思想信条(←四字熟語が嫌すぎてつなげてみた)の上下左右を問わず、ソーシャルメディアに最適化されたある種の宣伝の作法にすっかり飲み込まれてしまっているんじゃないか。分断を通じて仲間づくりを進める「あの手口」だ。「たかが感想」のひとつであるとしても(感想を書く、というのはまっとうな表現のひとつで、"たかが"と出たり引っ込んだりするモグラ叩きみたいな考えはあまり通用しないと思う)、ここにも「一見誠実そうな尊大さ」が認められるように思う。ヒネた当てこすりが自分なりに成功すりゃ満足するような悪意もスケール小さくて好きになれない(たとえば松尾潔とイヤミの画像を並べてニヤニヤするようなのとか!ぞっとする)が、善意で差し出している裁断機の刃みたいなものにどうしてそう無関心でいられるのかね。それは刃ですよ。やさしく、愛に溢れた、思慮深い、刃ですよ。私はそういうのって本当によくないと思う。善意や愛は免責事由に含まれません。こんなことばっかり何回も書いてるな。
 しかしこのぐらい書いてようやく、自分が何が嫌なのかだんだんわかってきた。とも思う。

 真夜中NHK-BSでフランク・シナトラの武道館コンサート(1985年)一瞬見かける。「私は酒場で歌うシンガーです。酒場の歌は悲しい歌ばかり」みたいな導入から、グラス片手に金ピカのマイクで歌い上げるフランク・シナトラ70歳。背景に禁煙の文字が映り込む。

 あしたのパンみたいに、あしたの日付だけを先に書いて用意しておく。「7,/,1,8,か,変換,改行」

7/18(火)
 お客さん、という立場を批判的に乗り越える必要があるのはたとえば政治家に対する態度なんかでもそうで、「早く代わってくれ〜」なんて他人事のように言っているのはおかしな話だ。いつまでもおかしな人をトップに据えているのであれば、それはもはやトップ個人の問題なんかではなく組織の問題なのだから、そのような組織・人びとは選挙で落ちるように、議論し、投票すればよい。あるいは立候補すればいい(この点で日本の選挙における供託金は高すぎる)。ともかく代わってくれなんて遠くの方でお祈りするような立場ではない。

 たくさんのくじの中にひとつしかない、という意味での大当たりと、すばらしいものである、という意味での大当たりは違う。

 ワイヤレスピンマイクとスマホリグが届く。プライムデー、やってみたさに対する後押しとしてはなかなかありがたい。動画配信ロケラジオ(二人まで)できる状態に。しかしなんのあてもなく。

 オノ・ヨーコのWaterdrop Painting(1961、日:長い絵)の指示書(スコア)を見かける(本人ツイッターにて)。観念的で美学的で、ともするとやや無責任にも見える(最終的には作った本人を含む、それを目にする人間に自分で考えろと言っているようなところがある)のだが、書かれていること自体はきわめて具体的である。自分がこのところ書いている「きょうの演劇」は要はこういう、一種の指示書づくりなんだと思う。まだ見ぬ完全ななにかの設計図であろうとするよりも、考えたり作ったりした時間の存在によって書き残されてゆくただの痕跡として、つまり見る人からするとかえってその完成形にはいかないようにする手がかりにもなるようなものとして、なにかであるような、スコア。具体的であることで、乗っかることも反撥もできる、なにか。あえて無視もできるト書き。
 「きょうの演劇」公開しない限りその効力は自分にしか発揮されないわけだけど、誰に対して公開するようなものなのかがわかっていない。自分でも一体なんでこんなことやってるのか……わかる人には説明しなくてもわかる気がするし、わからない人には説明してもわからない気がしてしまう。私は説明書をよく読むタイプの説明好きなんだけど、説明にはどうしても罠がある。私はまんまと罠にハマるタイプでもある。無限に説明してしまいそう。出すならやっぱりディスコードあたりなんじゃないかという気はする……

7/19(水)
 伊藤ガビンさんのツイート読んで、Amazonのレビュー欄、良質な書き手がいなくなる仕組みなのかー知らなかったー、と口をぽかんとあけてしまう。要約すると、無料で、質の悪いものと並べられてはプロの書き手にとって書く動機がないから、書かない。ゆえに質の悪いものがますます増える。なるほど。
 「参考になった」や「いいね」はいいことではあるんだろうけど、プロにとっての働く対価にはならないよね。いいレビューが集まって、それがいい影響力を持つ場はどうすれば作れるんだろう。
 というような問題はAmazonに限らずあちこちに転がっている気がする。

 あとから検証され得る、とすることで、人はその振る舞いをある程度いいほうに変えることができる、というのは単なる思い込みなのだろうか。

 ところで私は物事に5点満点で点数つけることを避けるような人の書く文章が好きだ。例外もあるが傾向として。つけるなら星ゼロか星∞の気分。

7/20(木)
 すこし風が吹いていて暑さやわらぐも、雲がなくなって急な日向があらわれる。日差し痛烈。

 そういえばいつのまにかメモ帳アプリのバグ(時間をおいて開いたときに直前に開いていたメモが空白の状態で表示されるのでタスクキルして起動し直す必要があった)がなくなっている。

 短い文章。意外と400文字って少ないし、一分は短い。文章を半分に切る。制限があることで自分の中で優先順位が見えてくる。極端な切り方をして、人にどう見られるかの部分がないがしろになる。なんか不気味な完成形になった。

 お風呂場で水飲んでるクモをアイス屋さんのカップとクリアファイルのセットでうまいこと逃がした。高速で歩く大きめのクモ。何を食べるクモだったんだろう。

7/21(金)
 すっごい眠いんですけど。

 『花四段といっしょ』声にはならないが心のなかの一番正確なツッコミを明示された言葉にできるのってマンガならではだ。と気づく。次回への引きになっている「対局直前の二人のおすまし顔」がアルカイックスマイルというか、すごく仏像っぽい。見ているこっちが瞬間的にストーリーを思い入れられる顔。朝顔さんの回もめっちゃよかったけど、このところ熱量高まっている感じで楽しみ。

 何日前のことか忘れてしまったけれど(読み返してもどうやら日記に書きそびれている)、『映像研に手を出すな!』めっちゃ面白い。作者ご本人ツイッターで第一話と第三話を読んで、グッと来たので、アプリでゆっくり読んでいる。「世界観(監督・演出)」「動作(演技・アニメーション)」「外的条件の調整(プロデュース・制作)」の連帯が、ほんのり落語口調とともに出現している感じ、理想的ななにかを見出してしまう。それが"ご都合"に見えないのもすごい。彼らの動きに、絵に、漫画になっていることに、説得されてしまう。しかもこれがアニメにもなってるのかよー、ってものすごく世間から遅れている(前に友達にアニメをお勧めされたんだった)。遅れて楽しめる。最高。

 あと梅雨で雨が続いていた時期、家を出ると見事なクモの巣がキラキラするほど自転車に張っていて、きっと大雨に対する緊急避難なんだろうなと思ったことも書きそびれていた。

7/22(土)
 そびれ、について、考えてみると、めちゃくちゃ気になる。人はどんなことに、どんなときに、そびれてるんだろう。
 この人に話を聞いてほしい/話してほしい、という気持ちがラジオの原動力で、だからパーソナリティって呼ばれるんだろうな。テレビはタレント、ラジオはパーソナリティ。呼び名のちがい。

 27時間テレビ深夜の部、夜中どうしても起きつづけてまで見たい感じがしなくて、それがなぜなのか、と考えると、すでに先行する正解が多くありすぎて、ひとつひとつそれを選んでいってるような感じが、もうあんまり正解にも思えないってことが原因のように思う。一見ワチャワチャぐだぐだしてるように見えて、意外と予定調和しかない。チームプレイを内部からわざわざ崩すような人はなかなか出てこず、どうも、孤独に飛び出してくるようなチームプレイに見えないチームプレイに期待してしまうところがある。

7/23(日)
 日記なのにけっこうあとから書き直したりしてしまう。語の選びや句読点を修正していって、より的確になるのは楽しい。だがその日の記録としてはどうなんだろう。ほんとうにその日の勢いで書いたすがたは残らない。紙に書いてたらこうはいくまい。消したところも残るし。紙に書いたほうがいいかなあ。
 パン屋さんにパンを買いに行く。朝から首筋がじりじり音を立てて焼ける。

 約束事をやぶるために約束を守る、みたいなことはあるかもしれない。お約束をちゃんと見透かす、のは不可欠で、でもそれだけでは、コミュニケーションにならない。
 結局冷徹MC上田と大ギャンブラー有吉で笑ってしまった。27時間テレビ。ダイアン大活躍。

7/24(月)
 TwitterはXになったらしい。よく考えるとマジでどうでもいいことなんだけど、目を離さないでいるのはなぜなんでしょう。眠い。

7/25(火)
 ファグラダルスフィヤットル火山の噴火をYouTubeライブで見る。ライブカメラばっかり見てたら他のライブカメラもおすすめされてしまう仕組みで、まんまと見る。
 ファグラダルスフィヤットル火山(この表記は外務省のウェブサイトから。たぶん古い日本語表記なんだと思う)について調べる。ファグラダルスフィヤル、Fagradalsfjallはアイスランドのレイキャネス半島(Rekjanes Peninsula)にある。レイキャビクから車で1時間ぐらい。爆発的な噴火ではないので、比較的安全(とはいえ、突如べつの噴火口ができたり有毒なガスが出たりする危険は常にある)に近づいていって見ることのできる珍しい噴火スタイルなんだとか。今回の噴火は7月に入ってから始まったもの。2021年に約800年ぶりの噴火があって、半年ほど続いたらしい。2022年も夏に噴火している。

7/26(水)
 日記ってなんでもありか。昨日は調べたことメモだ。賞味期限ちょっと過ぎたヨーグルト食べる。

 ミニサボテンが縮んでいるのでそっと触るとぶよぶよ。おそらく根腐れだ。ショック。

 粋というものに言及しようとすると、野暮に転落するような落とし穴が多すぎる。なぜそう思ったかというとね、と話をするにはまず手に負えないくらい野暮な例を挙げねばならない。粋をキープできる話術ないし文章術というものがあるならそれはさすがに粋かもしれない。粋という文字を三回も持ち出している時点でどうしたって野暮だ。野暮天だ。野暮天ってなんだ。

7/27(木)
 効率の悪い移動で駅ビルにたどりついて中を何度も上ったり下りたり。計画性がない。ドリフトドリフトミニターボ。
 エスニック雑貨屋さんのセール。不思議リュック。

7/28(金)
 ぐずぐずしてる。

7/29(土)
 誰も校正してない(であろう)文にまぎれた変な言葉に目が留まる。「独走的」「芸術欲」。わからなくはないですよ、と共感してしまいたい気分も、そんなもんないですよ、と断じてしまいたい気分のどちらも、なくはないんだけど、なにか、言いたさが先にあって、そういうブリコラージュというか、DIY言語が生まれてくること自体が興味深い。なんとなく耳で聞いたことのある音をくっつけている心の手の動きを感じる。

 「日記を通じて、自分の文章から他者や教則の枷を外す」なんていいこと言ってるそばから「日記は感想禁止!にすると面白い」的な文言を惹句にしている動画を見かけて、ちょっと、げんなりした。ちょっとだけ。どないやねん(感想)。
 いや、本当のところを言えば、言いたいことはわかる。"感想"に押し込めるのではなくて、その感想がうまれるディテールを書いておくほうがその事物や感情に出会い直す契機になる。わかる。いいことだ。たぶんいい文章ってそうだ。にしても、あたらしい教則を作ってしまってどうするんだ。楽しかった、と書きたかったら書けばいい。当人は思慮深いつもりでこの手の振る舞い、大した害があるわけでもないけど、ちょっぴりウンザリしちゃう。思慮浅く乱暴な振る舞いをしてる人に対してはさらにその何倍もウンザリするけれども、そうでないからすべてヨシということにはならず、どうしても思慮深い風がフリオチのフリとして機能してしまってそれはそれで印象は悪い。

 「必ず見つめる」「思い出しすぎている」小室哲哉も変な言葉メイカーである。

7/30(日)
 ザ・法事へ向かう特急。車内販売のおじさんの調子が独特すぎて、どうやってこうなったんだろうと思う。「アイスクリームは、いかがですか〜?」超小声でひたすら語尾が上がり続ける。こっそり録音しておきたかった。いまとなっては正確に再現できない。くやしい。

 たわむれに山のかたちを真似ている雲

 「演技ヘタ芸人」の方々を見ていてわかったこと。彼らは、演技のよしあしの差があんまりよくわかっていない、というテイで振る舞うことをもとめられているのだけれど、たぶんほんとうによくわかっていない瞬間がある。

 一日中パンツがうしろまえだった。不具合なくて気づかず。

7/31(月)
 バーベンハイマー燃える夏。よりによってグレタ・ガーウィグの作品でそれやる?と言いたくもなるけれど、それはいわば「言ってやりたくなる」というような、言葉の浅瀬でギッコンバッタンしているシーソーみたいなもので、実際のところこの手の固有名詞への信用はだいたい裏切られるから、すっかりもたないようになった……というのもいちどはこうして140字では書いたけれど、ツイッターには投げ込まずにこうして日記に書き置いておく。制作に山師がいるのは当然だけど一線をひく倫理観は必要で、ヒューマニティーを基軸におけないのは結局おおきなリスクになる。なぜなら作品にかかわる人間も観客も数字ではなく人間だから。
 "出演者不祥事作品お蔵入りどないやねん"論についても似たようなところがあって、その作品のパフォーマンスが外部の文脈によって決定的に変わってしまう問題はある。作品に罪があるとかないとかそもそも誰も言ってないことを並べ立てても仕方ない。そりゃ罪はないよ、作品は人じゃないんだから。しかし事実として、見え方が違ってしまう。作品がベストなパフォーマンスを発揮できるように環境を整えるのは各セクションに求められる仕事であって、制作だろうが出演者だろうが、誰かを犠牲にアクセス数や「いいね!」を稼いでる場合ではない。よくないね!

 運営元が変わったハンズ(byカインズ)をうろうろ。ルーズリーフ詰め合わせにたいへん心を惹かれたけれども、ルーズリーフやノートやスケッチブック、家の中でかき集めれば十分あるはずで、いま白紙を増やすよりはその辺にあるものに書きたいかもしれない。白紙のノートやペンばかり充実していってしまうことのむなしさって、すごい。

8/1(火)
 八月。雷。すぐ近くの木に鳥の巣ができてるような気がする。雨がやむと声が聞こえる。

 以前にもあったことだけど、タリバンが楽器を壊したり燃やしたりするニュース。画像を見たとき、自分が思ってる以上に衝撃を受けてしまう。あらためて、なぜ、と考えると、だれかの楽しさやだれかの賢さを恨みにおもうような心のはたらきをそのまま立体化したような光景、を現実に作り出しているのは、おなじ人間なのだけど、こんなに話が通じなさそうな人間像はほかに思い浮かべることができない。破られた太鼓のヘッドが人間を傷つけるか?燃やされたピアノが人間に致命的なダメージを与えるか? この観点でいえば表現はほとんど無力だからこそものすごく価値がある。爆弾より花火。微力と自由(だからこそ表現を愛することが権威主義に取って代わられてしまったら意味がない。つねに名前ではなく具体を愛すること)。あるいは末端の人間はただ命令に沿ってブラックな労働ないし単なるストレス解消の大暴れをしているに過ぎないのかもしれないが、このような事態を引き起こす組織のどこかで誰かが、おそらくきわめて真剣に、表現に向かうような人間のこころを、理性や感性を、嫌っている。ちょっとばかり話が通じない人なんていくらでもいるけれど、全体を言い訳にして個人の自由を恨む人は、話をしたくない・聞きたくないだけでなく、自分以外の誰にも話なんてさせたくないだろう。そうやって暴力をふるう人間と話なんてできるだろうか(表現の世界のちいさな山々にもそのような人間は、いるけれど)。どうやって。どう考えても、ものすごく、話が通じない。

 フリースタイルティーチャー見てて、なんでこんなに私はチーム吉本のスタイルに妙にイライラしてしまうんだろう? と思ってつい見続けてしまう。久保田さんがきわめて口先上手く話そらすムーブしてるのがイヤなのか? 中山功太さんの必要以上の小物ムーブがキツいのか? 場に対してものすごくグリップできている久保田さんと微妙にグリップしてない中山さんの温度差なのか? ステータス高い悪役中ボス感あるからか? ぜんぜんわからなくて、見てしまう。ラップスキル云々はぜんぜんわからないし、お二方そのものがイヤなわけでもない(バトル以外の時間ではほぼ常にむしろ好ましい。毒づいているときも人のを聞いてるときも素敵)。不思議。ともあれヘッズでもなんでもない人間がなにかを思えるというだけですごいプログラムだ。ダンジョンのほうではスキルや態度に感心することが多かったけれど、もう少し場のこと、キャラクターのこと、スキルじゃないところに、不自然なしつらえに、なにかを思える。たまに見ると面白い。逆にラップ大好きな人はムカついてたりするのかな。それにしたって、基本的に私はバトルがきらいなんだった。自分のなかに好戦的な部分が全くないわけではないだけに、避けてる。毎度それを確認しているフシはある。

8/2(水)
 長岡花火大会の生中継映像を見る。区切り目で流れるSEがものすごく古くさくて、味わい深い。NHKでは聞くことのできない各企業のサウンドロゴもそうだけど、「打ち上げ、開始でございます」の昭和感すごい(昔の小田急線沿線の商店街で流れてたようなテイスト)。セブンアンドアイがスポンサードする花火はオレンジ・緑・赤の三色。
 牡丹、錦冠(かむろ)、公式中継ではちょこちょこ技術的な用語が出てくる。トリプル・トーループ、みたいな感じで、見ているうちになんとなくわかってくる。「ベスビアス」はどういう意味なんだろう。ベスビオ火山と関係あるのかな。

 何年も前に現地で見た帰り道、羽化したての、まだ羽のふにゃふにゃした白緑色のセミを見かけたのを思い出す。

 夜、玄関の前に鳥のヒナがちょこんと立ち止まっている。まだ巣のあるであろう高さに自力で戻れるほどは飛べなさそうで、心配。しばらく見ていると、ほぼ真横に飛んでどこかに行ってしまった。

8/3(木)
 ちいさな観葉植物を買ってくる。

8/4(金)
 ぽかーんとしている。

 M-1ってもう始まってるんだ。とYouTubeで知る。この絶え間ないサイクルはちょっとおそろしい。他人事ながら。

 なんでだったのか、と言えば、友達に誘われて、なんだけど、ほりぶんのケンタッキーの地獄の話は2回も観てしまった。町屋で。照れる人はぜったいに立てない舞台だと観るたびに思った。
 訃報を目にするたびに思うことがあって、それは、才能を、ではなく、あくまで不在を惜しみたい、ということ。その点で、私には特段言えること、言うべきことがない。ほとんど知らないひとだから。

 私ははじめから照れないのではなくて、照れを乗り越えるのがスタートだと思っているのだけれど、すこしでも油断するとただ照れてるやつになってしまう。と言っている自分自身、もともと照れのある人間のほうをむしろ信用してしまうのだけど、照れを見せないひとのほうが演者として手堅いのは間違いない。結局、お友達とお客さんの差だと思う。本当はどう思ってるかがそれなりに大事な関係と、本当はどう思ってるかはあくまで関係ない関係のちがい。さてはこいつ、それがあんまりわかってないんじゃないか、と思われちゃう。照れてると。演技する前から演技ははじまっている、と見るタイプのひとにとってみれば、照れ屋さんというだけで失格になりかねない。そしてそれは半分くらいは当たっているような気もする。むずかしい。
 私は友達付き合いの少ない人間だけども、かえってあらゆる人と友達付き合いしようとしすぎるところがあるのかもしれない。

 日記なんか完全にゼロ地点だ。広げて見せてる場合なのか。ほんとうは全面的にウソの日記を書くべきところだ。

8/5(土)
 日本のどこかが災害級の天気に見舞われていると、それだけでなにか、口が重くなるような感じがあるんだけど、どこかにそうならないで済む基準線みたいなものがあって、それを越えちゃうと平気でパカパカしゃべる。もし世界中どこでも不幸なことが起きることに我慢ならなくて押し黙ってしまうなら、もう二度と話せないわけで、いま自分がどちらかというとそういう極に寄っていってる危険を感じないでもないけれど、けっきょく人間はどこかで線を引いて鈍感になる。

8/6(日)
 夜中もサイレンが聞こえるのが平常運転の都会に生まれ育っている。故郷のイメージが246近辺。静かでのどかな場所は常に旅先である。そのことがどこか、カッコ悪いというか、決まりが悪いというか、居心地が悪い。でもこの感じを共有するのってとてもむずかしい気がする。この文章もむしろかっこつけてるようにしか読めない。書いてみたものの。画にも言葉にもなりにくい。

8/7(月)
 ニュージーランドにある標識、"Kiwi Wandering"。

 深夜『最後の講義・みうらじゅん』観る。続けて『最後の講義・柄本明』だ!あわてて録画ボタンを押す。観るかちょっと迷う。リアルタイム(再放送だけど)で観るのがおっかない。と思ったけれど歯を磨きながら横目で見て、結局全部見た。

8/8(火)
 変な天気だった。と書くとあとから読んでもどんな天気だったのかわからないよね。「書くと」と書こうとすると変換一番手にGACKTって出てくるの本当にやめてほしい。高須院長やデヴィ夫人を単なる面白キャラとして取り扱うのぐらいやめてほしい。絶対に使わない場面だぞ。文中にGACKT、滅多に出てこないって。変な天気だった。とGACKTは言った。どんな同人誌だ。
 急な雷と急な雨がきちんと集合せずてんでばらばらにやってくるような天気だった。そこから書き直しちゃったよ。

8/9(水)
 この世の地獄ことヤフーコメント欄に「全てが素晴らしいではやらせだ」という言葉が書かれていた。地獄味が凝縮された言葉だと思った。万が一ほんとうに全てが素晴らしくても信じられない人。むしろ安心して悪役にできる欠点や嘘つきを探しまわっているんじゃないか。
 そんな人のために安心できる嘘を一粒どうぞ。と商売する人もすごいな。本気のひとと本気じゃないひとのぶつかる潮目だ。

8/10(木)
 重複する言葉シリーズで「落雷が落ちて」というのを聞いたのは今日じゃなかったけど、思い出したので書いておく。落雷が落ちて。遠雷が遠くて。

8/11(金)
 夜中、黒川さんのひらいたスペースで詩を音読した。奈良のホテルでもらった備品の便箋を持って帰ってきてふと突発的に書いた詩。そんなことはあんまりやらないのだけど、というようなことのいくつも重なったところにぽつんとある。紙が一枚。

8/12(土)
 肩まで届く髪の毛は能では怨霊を表すらしい。(NHK ETV特集「黒澤明が描いた『能の美』」より)

 ある様式に沿った動き、というのは見ているとどうも「自分を人形化する」みたいなところがあるように思う。擬人化の逆、というか、自意識を他に投射するのの逆、というか。自分のありさまを部分的に他者化することで、かえってはじめて自由であるような領域。

 今年の夏はなんとなく、手持ち花火やりたいな、と思ってたら友人たちから写真が送られてくる。そうそうそういうこと、ってワシおらんやないかい。いないやないかい?おらへんやないかい?いてへんやないかい?おらしまへんがな?関西弁わからなすぎる。

8/13(日)
 賞味期限を大幅に過ぎたゼリー飲料をおそるおそる飲む。飲み慣れてないから普通の味との差がわからない。しかしだんだんなんだかワイルドな感じがしてきたので捨てる。その後数時間のあいだ体調にこれといった変わりはなく、あのワイルドな感じはたんなる気のせいだったのか、実際存在していたワイルドな感じとわたしの胃腸がそれなりのところに妥協点を見つけてくれたのか、その辺はわからない。

 もし仮にある映画が「フェミニズム映画」と呼ばれるようなものだったとして(そもそも責任を逃れた外野からなされるラベリングの多くは粗雑で、創作にかかわる人間であればそういったやり方で作品を語られることの害をよくわかっているはずだけども……)、そういう作品があること自体なんの問題もないわけで(「なにか問題でも?」)、それじゃ今度それがひろく世に出回ることのいったい何が問題だというのか?
 ニヤニヤ笑いでマウントとるだけで中身のないタイプの発言、いちいち怒っていたらキリがないぐらいありふれているダメさだけど、ダメなもんはダメだと思う。挙句問題点を指摘されて「攻撃されている」ポジションに入るのなんて実にしょうもない(DARVOってやつだ)。ボヤかして、自分が何を言っているのかよくわからなくすることで(たとえば架空の対立する立場の人間に対し)優位に立ってやろうという匿名インターネットにありがちな振る舞いの逆輸入、ダサ過ぎる。
 私はこれが違うと思う、私はこれが嫌だった、私はこのことに乗れなかった、私とはこの点で優先順位が違った、私にはここが正しくないように思えた。それならよい。書く側にも書きながら傷つく余地があるし、読む側には反論の余地しかない。なぜならきちんと私を主語にして目的語をとった時点で「私」だけを問題にしていないから。それでよい。いっぽう「私」の所在を明らかにしないのはダメだ。何を言ってものれんに腕押しだ。かえって大事な領域は開かれない「私」の側に押しとどめられている(「ご縁とご恩」みたいなのはわかりやすい例かもしれない。それはきわめて私的なことのように見えるがじっさい「私」を語ることを避けており、問題を無限にずらす。彼我の立場に力を発揮させようとする。さいごに判断するのはワイルドカードの「私」である、と言ってるだけ。)。言っていることがポジティブだろうがネガティブだろうが、無意味なゲームだ。匿名か顕名か、ではなく、その姿勢の差が決定的。
(お笑いを語るお笑い芸人さんの言葉にときどき「私」の不在が見てとれて、どうも居心地わるいことがある。私を隠すことで増すパワーもあるにはあるのだけれど。「私」をやめると冷静に分析できるかというとそうではなくて、実は権威的な力関係がすべてになってしまうときがある。言葉でそれをやるとアンフェアさが浮かび上がる。他方、身体でそれをやるとむしろその不可能さが浮かび上がりもする)

 とにかくこんなに余計なことばかり書いているのとはまた別に、バービーと君たちはどう生きるかは見に行かなきゃしょうがない。バービーに関してはアメリカのウェブプロモーション担当にだけは一円も行かないようにしてほしいけども。そうもいくまい。困ったことだ。

 人間にかぎらず生きものが死ぬことに「意を表する」ことの意味のなさに打ちひしがれて、ほんとうに黙ってしまうことの多いここ何年かだった。他方ソシャメ(ソーシャルメディア)の訃報中毒みたいなありさまには心底うんざりしてしまって、Je déteste ça!って言いたくなる。このことと、最近の劇場へ行きたくなさ、はほぼ同じ根っこからやってきていて、つまるところ権威主義への圧倒的嫌悪感だ。生臭坊主にも犠牲の羊にもなりたかないよ。名前は名前でしかない。

8/14(月)
 だんだんと暗くなる中を自転車で走って、テイクアウトの食べ物を頼んで、待っている間にクーポンつかってシェイク飲んで、完全に夜。自転車のライトがつかないので渋々押して帰る。夏の後半に入ったな、という感じがする。
 家のテーブルの上にもってきてはじめて紙袋のしみに気がつく。容器の端からこぼれた液体で危うく紙袋が爆裂して全食べ物を台無しにして泣くところだった。雨の音も聞こえてきた。セーフセーフ。オールセーフ。

 「今では、二つのハワイがある。私たちが暮らすハワイと、そういう人たちがいる、そういう人たちが訪れているハワイだ」(BBCニュースから)

 同一の場所に対して実際には二つの(一つ以上の)場が発生している、という複雑な事実を端的に言い表しているこの言葉を読んで、ついフィクションとフィクションを愛することの圧倒的な差のことを考えたりしてしまう(その起点になるのはやはりハラスメントに対する人びとの鈍さなのだけど)。旅を愛する観光客の無邪気さが損なっているものは、旅を愛する人たちからはよく見えない。よかれと思って、のストーリーの中で、すべてはエメラルド色だ。
 
 ポジティブという名の怪物が事態を悪化させている。
 こう書いている私もどこか観光客的だ。

 目の前の通りに「こどもたち」と書かれた劇場が爆撃されたことを、また思い出す。

 被害者か、さもなくば観光客か、としてしか語れないなら私はどこにいるのか。
 もしかすると、私が、というよりむしろ、私の「劇場」が、幽霊のようだ。

 電池は液漏れしていた。ごしごし拭き取って、電池を交換した。手にはなんだかよくわからない黒い汚れだ。自転車のライトは点いた。

8/15(火)
 私は実はずっと悪役がやりたいんだけど、なにしろ一度も職質されたことがない。そこそこ最近にも、初対面のひとから「いい人そうですね」と言われる始末だ。仮にそう思うまではいいとして、本人にそのまま伝えてもいいと判断されるってなんか、相当だな、と思う。ほんとうのところはまた別にして、あくまで見かけ、なんていうか、どうせ悪くなさそうなのだ。その辺が私のポジションだ。その辺。その辺を逆手にとるような悪質な悪役やりたい、と思ってはいるものの、そういう気分は冷凍庫に入れておいて機会があるまでとっておく。誰かチンしてちょうだい。

 現実世界の私はというと、私や私以外の悪について、おおきく二度、反省して、し続けている。悪役、やれると思う。悪の機序を知ったうえで体現すること、解毒することができると思う。

 終戦記念日。ひとの死について考えるとき、生きているひとが生きていることを確かめているようなところがある。長崎の地面に埋まっているお茶碗のかけらをどうにか想像することができるのは、それを知った上で、地面の上を歩いているからだ。
 けっきょく生きている人がいちばん大事、とは思うけれども、それだけでは自分を含めた「仲間」さえよければいい、ともなりかねず、同じくらいこれから生まれてくる人のことを大事にすることができるのが人間だ、と思う。そうするために、もう死んでしまった人のことも考えたい。「わからない」と「フェアネス」に立ち返るために。百年後に目を向けつづけるために。じじいになっても百年後を見続けたい。
(でっけえこととはまた別に、日々のこととして、投票はし続けるし、それだけじゃなく、問題は問題だと口に出して言い続けなきゃならない。政治的なトピックも近場のハラスメント問題もまったく避ける必要はない。なにせ全体主義とポジティブおばけ(=あらゆる批判を避ける)のむすびつきは最悪のコンビネーションを発揮する。空気にほだされて健全な批評精神を失ってはいけない。なぜそう書くかといえば、いつだってあぶないからだ。簡単にひとは見逃すからだ。感受性を守るとは、感情に差し障るものを見ないようにすることではないはずだ)

 近所の鳥の巣になっていたであろう木、ヒナが地面に降りていたのを見て以来、静かだ。

8/16(水)
 浅い眠りとか浅い考えとか、浅いのは総じてどちらかというと質のよくないことのようになっているけれども、浅いのがいい場合ってなんだろう、と考えると、遠浅の海だ。遠浅はいい。歩くも泳ぐも選べる。あまり怖くない。
 それから被写界深度も浅い(=ピントの合っている距離が短い)のがいい場合がある。「一眼らしいボケ味」みたいなやつ。明るいレンズじゃないとできないやつ。なにに注目しているのかがはっきりする。
 書くことが思いつかなくてこの浅さよ。

 誰もがそこに至れる浅さ、にも自分だけと思える深みにはまり込むような危険はあって、それはたとえば陰謀論みたいなものだ。「誰でもアクセス可能な深み」の浅さ、浅はかさ。深さにあこがれるのは浅さ。

8/17(木)
 あたらしいエアコンのなかには「パトロール」機能のついているものがある。暑さや湿度が一定以上になっていると自動的に冷房が起動するらしい。
 心がけに頼るんじゃなくてテクノロジーで解決するってすごい。ただ、その機能がシリアスに必要な人に届かないといけない。設定の仕方とか。そこが大変だ。自分でリモコン操作できる私がすげーって言っててもなんだかしょうがない。

8/18(金)
 「味のしない飴」がひそかにヒットしているらしい。「飴をなめる」って味や栄養、成分をとる以外の要素として、口寂しさを埋める行動でもあったりする(禁煙中の人が代わりに選んだり)。また、喉の渇きへの対策になっている場面もあるみたいだ(マスクをしていてまめに水分がとれない、とか、何らかの手術後、喉がはりつくような感じを軽減するとか)。で、そういう機能を求めているひとからすると従来の飴では糖分をとりすぎたりやたらスースーしたりする問題があったのだそう。思いもよらないことばかりだ。味のしない飴。とくに切実な理由もないまま一度食べてみたい気もするけど、ここに書かなかったらすぐに忘れてしまいそうな気もする。

8/19(土)
 日記というか、三面記事の切り抜きみたいだ、このところ。そういう日だったってことだ。
 文章でまあ、っていったん書いて消すこと、すごく多い。自分で書いてるくせにまあってなんだよって思っちゃう。口頭でもなるべく言わないようにしているはず。「まあ」よりはより意味のない「ああー」を選んでるはず。でもまあ言っちゃうけど。

8/20(日)
 ひさしぶりにスプラトゥーン3を長時間やる(いわゆる「クマフェス」)。くたびれるとあからさまに口が悪くなる。誰にも聞かれない部屋で口が悪いのはもう純粋に口が悪い。よくない。

 劇場でハラスメントに関するフォーラムを開く、そこにいるのは演出家かプロデューサーばっかり、ってポスター的なビジュアルを見かけた時点でもう失望しそうすぎてとても足を運べないな、と思っていたけど、観客席含めて案の定的なことはあったらしい。いや、でも、「案の定」というほどもともと絶望はしてないし、その場を作ろうとしてる人を悪く言いたいわけではないんだよな。ただ単純に「もうこれ以上がっかりしたら死ぬ」って感じ。ちびマリオ状態。無理ができない。で、どう考えても危なっかしい。パネラーはもちろんのこと、手を挙げて発言しはじめるトンチンカンな人を止める方法がないだろうし、危険が多過ぎる、と感じてしまう。
 個々のハラスメントは権威をもった人間が引き起こすけれども、それをできるだけ見ないようにし、建前上は消極的にであってもけっきょく容認する権威主義が問題の解決を阻む(ひいてはハラスメントを構造的に温存する)わけで……「権威主義」というとなにやら頭でっかちにきこえるけど、カンタンに言ってしまえばあらゆる市井の人の理屈以前の感覚(えらいひとはえらい、すごいひとはすごい、おもしろいものはおもしろい、いやなことは知りたくない)こそが問題の根幹部分で……なんて面と向かって言われたら「私はやってません」「私は悪くありません」みたいなことを思っちゃうんだろうな、みたいなレベルからどうにかやってかなきゃいけないから大変すぎる。実際「やってない」し「悪くない」からこそ問題は厄介なのだ。
 空間の設計からして、観客席から台上を見上げるようではそもそも違うのかもしれない。つまり、「フォーラム」で議論をして見せる、お見本になる、のではなくて、同じ高さでほんとうに議論をするほかないのじゃないかと思うけれども、書いてみると危なっかしすぎてその場所にまだ私は行きたくないなあ。「問題視するひとをあえて問題視する」というような、いくら悪気がないとしたって小学生みたいとしか言いようがない泥仕合を人生半分すぎてもやってるような人はいて、心底どうしたもんか。と思う。これすなわち観客席をどう設定するかによってはそもそも表現なんてやってられますかいなというような事態にもなる。世間に希望を持てないままでなにかやるって時点でもう矛盾を抱え込むことになる。少なくとも「世間」に向けてなにかをやろうとすること自体が困難だし、「審査員」とか「エライひとたち」に向けてやってる場合じゃないってことだ。じゃあ誰に?

8/21(月)
 変な生活リズムだ。
 日本語圏の人権感覚ってどうしてこんなことになってんだろうな。これが「考えるな、言うことを聞け」の行き着く先という気はする。

8/22(火)
 モーニング。にわか雨をかわすためにおかわりコーヒー。
 われわれを蒸すために天は水撒いたのかというぐらいの蒸し暑さ。サウナストーンとかロウリュに例えてみたいけど思えば映像で見るばっかりで体感したことない。ふつうのサウナに短時間いたことしかない。
 
8/23(水)
 それは果たして「薄めて撹拌すれば大丈夫」というようなことなのか? というのは実にどうもいろんなところに転がったままになっている奇妙な仕組みで、そもそもおそらくこれまでの社会問題の多くも、局地的には大問題なのに国単位に薄めてしまえば「大丈夫」とされてきてしまっていたのではなかったか。
 なにか問題が起きたと聞かされたとき、第一声で「まあでもよくあることだから…」と言い出すひとは経験的統計でものを言っているだけで、責任について何も考えていない。ひとつの事実を無数の"架空の世間"で薄めて撹拌してるだけだ。(「芸術というのは…」「やられる側にも落ち度が…」この辺も典型例だ。悪気がなければ際限もない。薄め水ワード)
 このところニュースから派生して話題になっている「露出度の高い服を着る」についても、責任という点で落ち度がないひとに、無理矢理なんらかの原因を見出すようなインチキをこねくりまわしているようなのは、結局「責任」と「経験的統計学」を混同して話がわからなくなっているトンチキか、その二つを意図的に撹拌して話をわからなくしようとしているトンチキでしかない。
 おまけに「責任」なんていうと、「私にある」と言いながら実際なんにもしないようなのがすまし顔している。立場がそんなに大事ならまず筋道を大事にしなよ、という話でしかない。自分で土台を崩しておきながら立場に拘泥しているようではあべこべだ。責任をとるなら、たとえ役職を失ったとしても彼の立場は守られるのである。その真逆の手順で立場を守ろうとする人間が多過ぎる。一度起きたことはけっして元に戻らない、ということを忘れてはいけない。

 あらかじめ問題となりうるであろう部分をスルーした上でなされる「説明」は、実際のところ説明にはなり得ないわけで、意図的であるかどうかは関係なく、見落としがあってはならない。その意味で見落とすことを意図的・常習的に行っている人たちの挙動は厳重にチェックされなければならないはずで、彼らの「説明」をそのまま放出するだけではマスメディアの仕事になっていない。「飲めるぐらい」と言いながらそう言う人間が飲むことなんて絶対にない(飲む人間は言う前に飲む)のだから、つまりハナから単なるレトリックで話をそらす振る舞いでしかないのだから、まんまと飲むかどうかとか飲めるかどうかという話をしている場合ではない。そういう人たちの「説明」を速報するのではなく、検証するのが仕事なので、どうにかそういう報道を探して見つけておきたいが、検索して出てくるのは一次的な「説明」の数々で、どうも困る。けっきょくBBCのいくつかの記事にある程度まとまっているのは見つかったものの、国内のマスメディアは「風評」というストーリーのほう(もちろんその影響も非常に大きいのだけど……)を追いかけている印象。
 ともあれ、立場によらず、法と科学に基づくほかない。正しさとはつまるところ手続きの正しさなのだから、なし崩しではダメだ。不安をむやみに否定したり、ひたすら容認したりするのではなく、分け入って行って検証することでしか意味のある前進はできない気がする。

 いずれにせよ、とりかえしのつかないことにくらべて、言葉はとても軽い。世界がぐらつくようなとき、ついその軽い言葉にすがりついてしまうのが人間だけど、良心をかなぐりすててまで飛びつくのは、ちょっと考え直すわけにはいかないものだろうか。でたらめやあやふやの砂糖菓子で足場を固めたときの安心はそんなに大事だろうか。

 不安と向き合って飼い慣らす術を練習したほうがいいような気がする。

8/24(木)
 劇場に行く気が起こらなすぎて、こりゃ不義理してるなーとは思うけれど、やっぱり劇場に行く気が起こらない。こんなに短いのにずいぶんへんな文章だ。「起こらなすぎて、起こらない」とは。劇場でやってることが気にならないかというと気になるけど、行きたくない。もしかすると、明日になれば、行く気、あるかもしれない、と思ってはいる。でも今日は行かないし、今日の気分ではとても明日の予約はできない。これじゃ私の側がゴドーだ。

 編み方に「天竺」ってあるの、ものすごくありふれているのにワクワクしてしまう。

8/25(金)
 「同じ誕生日有名人」の話をちゃんと楽しめるタイプだ。オドぜひに出てきた方のプレゼン力がむやみに高くて笑ってしまった。たわむれに自分のを調べてみるとラインナップがけっこうシブい。BoA、ペーター佐藤、ブラザー・コーン……ダントツ最強カードはティルダ・スウィントンだ。

 ランドセルを背負った小学生がいる。いまどきの小学校の始業式は9/1じゃないこともあるらしい。東京でも。ぜんぜん知らなかった。子供を育てているひととは常識がぜんぜん違ってしまっているだろうな。

 うろ覚えの自分ちの薬かごの中のあのあれ、ええと、「自家薬籠中のもの」だ。ろう、の部分を忘れがち。タイムラプスをタイムラスプって言いがち。

 贅沢な夢を見た。見ていた気がする。夢で旅行してあたらしい友達ができた。もともと別のグループでたまたま隣り合った気の合う友人。探しに行きたいぐらいだ。

8/26(土)
 ポケモンGO祭りだった。むやみにフレンドを増やした結果、ギフトを送る数が一日の上限に達してしまった。そんなことがあるなんてフレンドがあんまりいないので知らなかった。
 なんてフレンド・悲しい・ジョークでふと思い出してしまったけど、おもに十代のころにやっていた「友達いない自虐」って、友達だと思ってるひとをむやみに傷つけたり試したりしているようなところがあって、あれ、ほんとうによくなかったなと思う。

8/27(日)
 「欠席裁判」というのは現代もっぱら比喩に使われるもので、実際に当事者が欠席した状態で裁判が行われることを表すケースはほとんどないと思われるけれども、先日イギリスで新生児連続殺人事件の犯人が最終的な量刑言い渡しの際にその場におらず、その場にいない被告に向かって裁判長らが話しかけるような場面があったらしい。法的な決まりによってなのか、慣習に沿ったのか、それとも心情的な原因によることなのかはわからないが、いないという状況に沿うのではなく、「いるテイ」が必要だったらしいのだ。いない人をいないままにしては話しかけられない。想像上であっても一時的に呼び出す必要がある。

 蚊に刺される。二箇所。どうやって考えてみても、刺されたのはテイクアウトの出来上がりを外のベンチで待たされたからで、ぜんぜん空いているカウンターの隅っこにでも座らせてくれていればこんなことにならなかったのに! 夏の終わり、外に十五分いて、夕暮れは美しく、蚊に刺され二箇所。

8/28(月)
 「よく考えると使いどころのわからない便利グッズ」代表といってもよい、潜望鏡みたいな仕組みの、座っていても寝っ転がっていても(自分の真正面からみて真下の)手元の本やスマホが見えますよメガネ、が部屋から出てきたのだが、表面のプラスチック部分が猛烈な加水分解でベトベトになっており、アルコールウェットティッシュで拭いたりしてみたものの、黒いベトベトは際限なく手のシワや爪の間に入り込んでいく。石けんで手を洗ってもなおあちらこちらに黒い点々が残る。もともとのどうでもよさを考えると、なんというか、とても割に合わない。

8/29(火)
 ひょんなことから「インコがタブレットをくちばしか額でうまいこと操作して、同じ種類のインコの写った動画を選んで再生する」動画を見かけて、検索しまくってどうにかオリジナルに辿り着いた。(Twitterでも拡散しているが元々はインスタグラムだった:https://www.instagram.com/reel/CtIzWvDgWzX/?igshid=MTc4MmM1YmI2Ng==)。かわいいとか面白いとかいう感情もなくはないのだけれど、ことはそれだけではなく、なにか、自分のような姿をしたものを見ていたい、という孤独が、動物のあいだにも通底しているような気がして慄然とした気持ちも起こるのだった。

8/30(水)
①https://x.com/yu_miri_0622/status/1565308736398569472
②https://x.com/yu_miri_0622/status/1190242052929277952
 https://x.com/yu_miri_0622/status/1190243507773964288

(※なるべく何度も文字列を目にしたくないので直接引用せずにリンクにしておいた。個人的【閲覧注意】だ。メモアプリ日記ならでは!)

 一般論でこう書ける人(①)が、他方、平気でこう書いてしまう(②。つよい思い入れの前に立てば、被害を受けたひとのことなんか見なかったことにしてしまう)、ということについてあらためて考える。柳美里個人を今更どうのこうの言いたいのではなくて、ある種の問題意識のはたらきがしっかりとある人であっても、これがけっきょく「仲間」とか「絆」の罠に簡単に引っかかってしまう、という好例だと思う。もちろんご本人は簡単なことなんかではなく、なにものにも代えがたい思いや考えがあってのことなんだと自分でもお思いだろうけれども、もしここで「ご縁とご恩」が勝るのであれば、つまりそれは本当の意味で「問題意識」と呼べるものなのだろうか? 実のところ、「問題意識」に見えるそれは、仲間意識の延長線上にしかないから、そういう、なんというか、やわなことになるのではないか?
 しかしながら、こういった振る舞いでむしろ総じて「かんがえのある人」としてのプロップスは高まってゆく。本人のふるまいはあくまで自由だが、その構造はちょっとどうかしている。オーディエンス!

 と、やや雑に一般化してはみたものの、やはり私は常磐線を上って演劇祭を見に行ったりはしないだろうと思う。(①のツイートをまったく関係ない場所で——どちらかというとやはり「思慮深い」ブログ記事のなかで——見かけたので、あらためてこんなことを考えてしまった。こういうのは基本的に時間の無駄なのだけれど、何度も考えるのも無駄なので一度しっかり書いてもう終わりにしてゆこうと思う。柳美里と似たようなところで豊崎由美についても(さらにこの一件から離れれば伊藤比呂美の振る舞いもとてもよく似たものだったし、思い返せば松江哲明に関してはあの森達也がこのありさま——https://x.com/moritatsuyainfo/status/1219838250044444674——だ)、きちんとまとめておいたほうがいいと思ったけれどすっかりめんどくさくなってしまった。どうしたってわざわざイヤなものを目にしに行く作業になるので)

 いやなことで日記が終わるのもさびしい。つづけて何か書こう。

 夏が終わる! いや、まだだ!
 『紙とさまぁ〜ず』で「夏は何月何日から何月何日までですか?」という質問があって、考えるのがたのしい質問だと思った。番組では7月1日〜8月30日派(なぜ?)と〜8月31日派しかいなかったのだけど、私からすると夏というのはむやみに長い。だいたい、それなりに本気の蚊に刺される時期が夏、という感じがする(まれにいる春の蚊は真剣さに欠ける)。その感じに従うなら、夏、6月16日〜9月30日だ。で、秋が10月1日にはじまって、11月20日ごろにもうコートが手放せなくなって終わる。で、11月21日から2月28日が冬。あまりの約三ヶ月が春。書き出してみるとなんかバランス悪い。私の好きな秋がやたら短い。春に対する思い入れが少ない。

8/31(木)
 なんだか最近「不快指数」という言葉を聞かない気がする。
 ということで検索してみると、tenki.jpにも専用ページはあって、特になくなったわけでもなくて、あまりメディアで使われていないだけのようだ。
 定められた公式に沿って計算するページがあった。(https://keisan.casio.jp/exec/system/1202883065)本日最高気温の14:30は気温32℃・湿度63%で不快指数83.2、最高湿度の19:30は28℃・84%で80.3。「日本人では、不快指数75で約9%の人が、77で約65%の人が不快に感じるようです。」どこからの情報なのかわからないけれど、仮にそういうものだとすると、不快指数76のあたりがそこにいるひとの半分が不快になるラインがある、ということになる。(たとえば気温28℃、湿度55%で不快指数は76.4)

 ミスタードーナツのトイレに入って便座開閉ボタンを押した途端、ドビュッシーの『アラベスク第一番』が流れてきた。まさか。換気扇のほうから聞こえてきているような気がする。新しいタイプの「音姫」(あらためて読むとこの名前、どういうことよ?)なのだろうか。流すと音が止まる。気になったのでもう一度便座を開閉すると、今度はグリーグの『朝』だ。
 まさかの二曲目。キリがなくなっても困るので出ることにした。

 これら二曲の曲名で検索してみると、LIXILのサティスGという機種の便座?便器?に行き当たる。なかでも音楽再生機能は一部の高級な型番のものにしかないらしい。スピーカーは換気扇ではなく、便座横に仕込まれていたようだ。収録曲目数は驚異の30曲。ひとつずつフタを開け閉めして聴いていたら大変なことになるところだった。

9/1(金)
 エビは入ってないプレートのつけあわせのフライドポテトにエビのしっぽがひとかけ入っていた。不在のエビ。

 9月1日。自分のやり場のない不安を立場の弱い・属性の異なる他者に押しつけ、デマを流して殺すまでに至った人間たちがいた、という事実を、政治家が認めないどころか積極的に有耶無耶に/なかったことにしようとしているのはたとえようのない異常事態(例①小池百合子都知事(都民ファーストの会)https://www.asahi.com/sp/articles/ASR8K5600R8KOXIE01J.html②松野博一官房長官(自由民主党)https://mainichi.jp/articles/20230831/k00/00m/010/220000c)で、この一点だけでも彼らは国民・市民を代表するのにふさわしくない。厳然たる事実を立場でねじまげようとするのはあえて政治家的な定型文で言うなら「デモクラシーに対する重大な挑戦」だろう。こういう手合いを「歴史修正主義」と呼ぶのは手ぬるい。そんな出鱈目な主義があるもんか。「歴史改竄珍走団」だ。それはかつてあって。

 岡田索雲『追燈』「ひでぇ話だなぁ…」「命か…/魂か…」「どっちか選ばなきゃいけねぇなんてよ…」(p.34。https://comic-action.com/episode/14079602755100864512)

 暴力。魂を選んでここ5年死んでいた。と言いたくもなるが、ほんとうに死んだひとのことを思えば、まったく別の言葉を全力でさがすべきだろう。むしろ私は魂のほうを捨ててしまったのかもしれない。
 以前とまったく変わったとはいえ、生きているわけだから。

9/2(土)
 「まめまめしきものはまさなかりなむ。」ってすごく記憶に残る響きだ。意味をすっかり忘れちゃってたので調べると「(何を差し上げたらいいかしら、という文脈で)実用的なものではつまらないでしょう。」というようなことだ(いまさらだけど、これまた忘れちゃうとわるいので作品名を書いておいちゃう。『更級日記』)。
 人に言われた、というテイの言葉だけど、ほんとうにそう言った人が書いたひととは別にいたんだろうか。それとももっと違う言い方だったのを整えて書いたんだろうか。

 物語というものにハマることのワクワクと虚しさとをあとから振り返るにあたって、ひょんな入り口が「まめまめしきものはまさなかりなむ」なのはなんだかいかにもよくわかる感じがしてしまう。これはなにかに使えるとかお得だとか、ふと気がつけば、日々の暮らしのなかを、まめまめしきものどもが占拠してしまっていたりもする。それで、こんなことでは、まさなかりなむ、なんて自分に言い聞かせて別のものに没頭しようとしたりする。のだが、そういう心構えみたいなものがこれまたまめまめしくって、まさなかりなむ。

9/3(日)
 『リンカーン』は出てる人が豪華で企画がなんだかこなれていない、という妙なアンバランスさが持ち味だったけど、後継番組を作るといってもどうしたって同じようにはならないだろうから……みたいなどうでもよい差を発見できるのがテレビバラエティを見続けることのどうでもよい楽しさで、それにしてもどうでもよい。

 知ってる人がテレビに出てくるとついニコニコしちゃうんだけど、悔しがる人のほうが、なんていうか、エネルギッシュだよなーと思う。
 ひとがうまくいってるのと、自分のやることがうまくいくかどうかとはほぼ関係ない、というのは理屈で、理屈はただしいが、そうでないところで人はさまざまな心を燃やして動いている。
 ……とはわかっているものの、(めったにないことだけど)だれかに悔しがられたりライバル視されたりするとにわかにひそかにドン引きしてしまう。あれ、あのときのドン引き、あまり他に類がないほどで、一体どういうメカニズムなんだろうか。だれかにライバル扱いされるのは光栄なことではあるのだけれど、われわれは競争の途中にあるんでしたっけ?ゴールはどこに?それ本気で言ってます?ってどうしても思っちゃうのだった。(表面的であっても正解の乗っかり方を一個見つけておきたい)

9/4(月)
 雨、降ったり止んだり。グリーンスムージーにヨーグルトを足すとほんのりお寿司みたいな味。ヨーグルトの酸味が酢飯っぽさを生み出しているんだろうか。ケールが海苔めいてくるんだろうか。

 バーデン・パウエルの曲をどこかのお店屋さんで耳にすると、ああ、素敵な曲、だけど、えーと、誰のだっけ? って毎回のように思ってる気がする。『Deve Ser Amor(恋に違いない)』。

9/5(火)
 夕暮れどきになじみのない街を歩いていると無闇に不安な気持ちがやってくる。知りようがない無数の生活が押し寄せてくるような感じがする。
 チェーン店に入ってすこし落ち着く。しかし窓の外に見える「放置自転車撤去作業中」と書かれた幕の張ってあるトラックも、木目調だがあからさまにドットの見える荒い印刷の壁紙も、この場所はどうも私をけっして歓迎はしていないぞ、といった感触で、そそくさ電車に乗り込んで帰る。

9/6(水)
 数年前のVOGUE JAPANのインタビュー記事(若草物語の頃のグレタ・ガーウィグの)を読んでいると、文中に出てくるいくつかの有名人の名前にはアンダーラインがしてあって関連記事へのリンクが貼られているのだけど、それらに混じっていくつかのブランド名にもばっちり貼られていて、よりによって記事のハイライトになりそうな部分なのに、そのアンダーラインが妙に気になって話の終わりのほうがあんまり入ってこなかった。直接の広告なのか、それともお得意様的な関わり合いがあった上での目配せの一種なのか、その辺のことはわからないけど(すくなくとも記事に【PR】の表記はなかった)。「スマイソンのノート」ってわざわざ書いてるリンクしてあるの、ほんとうに微妙にわざわざ感があって、堂々と宣伝してるよりもだんぜん違和感をおぼえたのだった。

9/7(木)
 ハラスメント自体にも、それを黙認することにも、べつべつに、相応の責任があってしかるべき、という認識が共通のものになっていかないと大きな意味で同様の問題の再発防止にならないので、個別のケースで適切な対応がとられることを後押しする意味でも、ダメなものはダメなんだ、といくらでも言わなきゃいけないと思う。言ってるとうんざりもしてくるのだけど、マジで年単位でだいぶうんざりしてきたんだけど、問題があっても言わないのが大人とかビジネス的にはベストとか平気で言ってるような姿って未来に残すべき前例なのか? その問題は「いい人」とか「才能」とか「名声」と天秤にかけるようなものなのか? ひとたび密室に入ったらそんなしょうもない態度がとれるのか? それは主義主張や「本音と建前」以前の問題じゃないのか? といった具合に、私はその手の酒場の本音の残響みたいなやつにもう本当に何千倍もうんざりしている。よりによって誰に向かってものを言ってるか自分でわかってるのか? わかってたらそうはするまいよ。それともそれでも平気でするのか? そこまで頭使わずにしゃべってるのか? これまでも/これからも一体どうやって生きてきた/生きていくつもりなんだ? せっかく人間やっとるんだから時間の尺度を長くしてモノを考えて言葉を使っていこうやないかい、とエセ関西弁でまくしたてたい。こんなことをいつまでも考えなきゃいけなくて悲しい。

 『十戒』stoneが動詞なのに驚く。"Stone him!"って見当違いなストーンはあくまで口にされるだけで、劇中では投げられないのだが。群衆、わりとすぐ言う。"Who is on the lord's side"思わぬ「ロードサイド」の出現。"So it was written, so it shall be done"と映画の最後に示されると、つい脚本のことを考えちゃう。ずっと気が散っている。

9/8(金)
 同意の有無、合意の仕方がいちばん重要で、それを一から考えるのがハチャメチャにしんどいから、ひとは上下関係やメンツやネームバリューに頼る。おそらく。「メンツでコミュニケーションしてるのこそ"コミュ障"では」Iくんのメッセージ内でも言い得て妙ハイライトだった(あとで読み返そう)。自分はさておき他人がラクなほうに行くのを止めるのは難しい。いや自分だって難しい。常に暫定的にやっていくしかない。関係は常に暫定的。

 まっとうな批判については言わずもがな、見当はずれの悪口言われるようになってこそ人前に出る/なにかを出す人間としては一人前、ってところはどうしてもあるよなあ。褒められりゃきっとずっと嬉しいけど、大海の荒波をいっさい浴びずに遠くまで行けるかというと。とはいえそれはフィクションという手続きを経ているからどうにか受け入れられるんであって、本人へのダイレクトアタックはぜんぜん意味が違う。インターネット文字伝達はその辺の距離感をバグらせがちでもある。(私はだいたい褒められたことしかない半人前であるよ……)

9/9(土)
 このところ日記ともういっこ「きょうの演劇」を書き続けてきたのだけれど、iPhoneのメモアプリでたびたび書いたり消したりした履歴、ということなのか、同期しているGmailのメールトレイにおそろしい量の複製されたメモが保存されつづけていることがわかった。最新版だけを残しておくのではなく、どうやらいちいち新規保存する仕組みらしい(受信メールを検索してアレコレ振り分けるフィルタを作りたいだけなのになにげない検索結果にめちゃくちゃ自分のメモ(万物書き散らかし日記)が引っ掛かってくる……)。
 ということで、この辺でこのアプリを使ったメモはやめにして、他の方法でクラウド同期できるメモを探すことにしよう。iCloudはいまいち直感にあわない挙動をすることがあるので第一候補はGoogle Keepかなあ。

9/10(日)
 思慮深さにも地獄はある。やったぜ、同期した。
 
 ということで今日からこの新しいアプリで日記を書くことにした。今のところ書き進めるにあたって動作に問題はなさそう(というかiPhone純正メモより軽快)だし、数秒〜数十秒単位で同期されているっぽいので、保存についてもとくに悩まずに済みそうだ。なぜ不都合をわざわざ我慢してたんだろう、というのはこのことに限らない。(おそらく変わることに対して怠惰だからだ。)
 メールトレイ内になぜか重複して保存されていた最新のメモ(ここ数ヶ月の日記)は最終的には8000通分以上にまで増殖しており、1GB弱もの容量を消費していた。おそらく過去の他のメモも追いかければそれぞれ書き足していった期間の分だけ増殖していることだろう。忘れないうちに調べておかなければ。知らぬ間にメモが引き出しの中で単細胞生物のように勝手に分裂して増えていってパンパンになっているようなものだ。おそろしい。

 このアプリ、改行を入れると即、新しい段落と判断して自動的に一マス空けしてくる。若干「いけしゃあしゃあ」感ある。それにしても「いけしゃあしゃあ」ってなんだ。非難するニュアンスをもつ接頭語である「いけ」(他の例に「いけ好かない」)+水の流れている音をしめす「しゃあしゃあ」(典拠不明だが水をかけてもカエルが平然としている様子から来ている説あり)。いけのつかない「しゃあしゃあ」はちょっと逆にいいような、「しゃあしゃあ」してたい気もする。

 と、ここで、直前の行でおわる段落で一マス空けしないと次の改行では一マス空かないことがわかった。すなわち直前の行を含む段落で一マス空けているかどうかを受け取ってそれを繰り返すようだ。前の段落を真似て自動的に一マス空けた直後、手動でもう一行改行しようとするとこんど、改行はせずに一マス戻る。こうなるといけしゃあしゃあというよりはいよいよこまめによく考えられている感じがしてくるが、この仕様では「一行空けで新しい段落をはじめようとする」と結局一マス空かない(「改行」で一マス開け改行、「改行」で一マス戻る、「改行」でマスの開かない改行、「スペース」で一マス開け。計4手要る。)わけで、そういえばこれ、グーグル作なんだから、あくまで英語圏の段落の書き方に沿っているのではないかと思う。

 『舟を編む』人物と状況の配置がすごく面白い。公開は2013年で、舞台設定はPHSの出始めた年なのでおそらく1995年〜(劇中「12年後…2008年」とのテロップがあったので1996年だった)。ギリ紙の時代。用例採集カードへのワクワク。語釈、料理、営業、励まし……それぞれのひとに得意分野があることがぐっと目の前にあらわれてくるのも楽しい。

 人は自分の言葉の網目に引っかかったものでしか世界をとらえられない、といってしまえば、じゃあ言葉の外の感性はどうなるのだと反発したくもなるけれども、五感によってとらえたさまざまな情報を綜合して世界を認識して考えるときにはけっきょく言葉に戻ってくる。知識や心がけによって補える部分があっても、かたよりそのものはなくならない。そういうところに、他人がいる、ということの貴重さもある気がする。得意なことも得意な言葉も違う。そういう当たり前を当たり前に忘れてしまうことがある。なによりこういう一般論を超えたところで、人間がいきいきしてて面白かった。

9/11(月)
 ドリンクバーやパン食べ放題は、概念としての無限が目の前にあらわれるのでワクワクしてしまう。「パン無限」だからポケットに入れる食いしん坊、は私ではない。

 クラブクアトロでトリプルファイヤーとZAZEN BOYSツーマン(渋谷ラ・ママによる企画。10代無料キャンペーンをやってるらしい。エラい)。
 トリプルファイヤー。パーカッションが入っているのもあってか以前見たときのタイトな印象に比べると隙間を感じさせる。曲間MCで「高校生の頃メールアドレスを「nam-ami-dabtz@〜」にして…」みたいなのは笑っちゃった。自分がそうしてたわけじゃないのにわかりみがすごい。このMCを評してIくんが「大喜利力のあらわれ」と言っていたのも面白かった(言われてみれば確かに。どこを切り取るかのあざやかさ。私は大喜利を見るのが好きだけど、きらいだというIくんの言うこともなんとなくわかったような気になる。そのような能力を競争的に使うことは実はなにかよくないことなのではないか、と、ふと思う日はある)。『銀行に行った日』は何歳まで歌ったり聴いたりできる歌なんだろう。「このあと続けてたくさんやります」的なMCのあと、急に密度が上がってバッキバキにカッコよかった。つづいてZAZEN BOYS。もう何年ぶりだろう。最後にライブ見たのはまだメンバーが変わる前かもしれないが、なにしろそれさえ定かでないぐらい前だ。『CRAZY DAYS CRAZY FEELING』が最初それと気がつかないほど進化していてしびれた。ドラムとんでもない。『Sugar man』の「やさしい」も非常に刺さった。最近ぜんぜん音源追いかけてなかったな……と思ったらTHIS IS向井秀徳氏曰く11年アルバム出してないとのこと。出てないだけだった。

 冷やし鳥唐そば。

 Iくんの「拍手は違うと思うんすよね」本当にそうだよなと思った。相変わらずグレイトポイントオブビューだ。権威ほぐし拳の使い手。
 客席からの無断撮影を注意する向井秀徳=わかる、それに拍手する観客たち=わからない。「自分の言うべきと思ったことをすぐさまきちんと言葉にしてて偉いぞTHIS IS向井秀徳!」ってぜんぶ口にするならわかるけど、拍手はナイ。注意に関して、賛否を示す必要がない。ミュージシャン当人を含めた権利各所がダメならダメだし、撮影拡散OKならOKだからだ。「談志vs居眠り客」と同様、そら当人同士の話なんで、尻馬に乗っかって拍手してるのはいったいどこの誰やねん、となりはすまいか。

 「私はこういうことが恥ずかしいと感じてしまう」ということを思いきって口にしたらすこし、恥ずかしくなくなった気がする。私は「自分の編集の手つきを見せるのが恥ずかしい」のだ!はじめて言語化できた!興奮。(だから何につけても全部見せるか全部見せないかになりがちだ)
 そういうことってある。つかまえた!と思ったらもう違っていたりする。そのときにはたしかにそうだったけれど、もう今は違う、という、そのどちらもが間違ってはいない。

 二駅余分に歩いて帰る。「裏腹に」というのが二つのバンドに共通しているいいところだと思う。お客さんがどうとるかはともかく。

9/12(火)
 なぜ「精神論」がはびこるかというと、十分な知識がなくても自分で考えてなくても一丁噛みできてる気がしてしまうからだ。自分の見えている範囲だけで判断したうかつな「人間性」への評価なんかも似たような性質があって、「いいひと」とか「失礼」とか、言ってるうちにわかったような気になってくる、というようなところがある(実は「才能」なんかもよほど気をつけて使わないと同じような転倒が起きると思う)。
 徹底的に調べるか、とても注意深くする以外ないんじゃないかと今のところ、思う。

 調べてみると「いっちょかみ」って関西弁らしい。知らなかった。

 そろそろ髪切ろうか。ヒゲは上下のラインを整えると清潔感が出るらしい。マジで?

9/13(水)
 夕暮れ、雲のない夕暮れだ。昨日みたいな明日があるような気がいつまでもしてしまう。あっという間だ。

 ディスコードのサーバーをあらためて作ることにした。以前やってみたときは妙に観念的になってしまったのだけど、その作業はバックヤードで済ましておくべきで、もう少しいい意味で表面的なしつらえにするほうが親切、と思ったのだった。(可能性として)他人にひらくというのは、思ったことをなんでも言うのとは当然違う……今更?
 何においてもそういうところはあって、油断するとハイパー観念放流人間になってしまう。なにしろ名前が全文字抽象概念だし。「善」「積」「元」。草花や水の気配なし。

9/14(木)
 ひとがファミレスのお運びロボを見る眼差しは、犬猫を見るときとどこか似ている。
 ツバメの巣の跡は、オフシーズンにもずっとある。

9/15(金)
 感謝や謙虚の定型文で自意識を抑えつけようとしているひとを見かけるとむしろその岩盤のすぐ下にまでせりあがっているマグマみたいな自意識の所在がはっきりしてきてちょっとこわい。というのはいじわるなものの見方だろうか。とはいえ、こわいもんはこわい。真っ裸のヤバいやつはわかりやすくこわいが、身なりの整ったヤバいやつは一見わかりにくく、よりこわい。よりこわ。
 あらゆる人間は、自分自身も含めて、厄介なんだということを知って知りすぎるということはないような気がする。こわくない、というのはウソにしかならない。で、もし、あるとすれば、その先にしか感謝や謙虚はないと思う。畏敬。

 ちょっと知ってる街のぜんぜん知らないビルのぜんぜん知らない投函箱に〆切ギリギリでたどり着く。〆切ってすごい。やる気が出る。

 もののついでで、ようやく『君たちはどう生きるか』を見た。一般2000円にドルビーシネマ+700円でしめて2700円、は、もはやかつての小劇場演劇のチケットの値段を上回るほど(いま目に入る範囲で言えばもう少し平均が高くなっている)であって、そのせいもあってなのか、直前でもぜんぜん好きな席を選べるような状態だったので、文字通り「なんぼのもん」なのかいな、という気分とともにチケットをとってしまった(せめてもの節約で飲み物をドラッグストアで買ったら、客席のドリンクホルダーが500mlペットボトルにギリギリ対応していないサイズで、ちょこんと乗せるかっこうになった。落っこちはしないが、ずっとちょっと斜め。ほんのり不安。私が、というよりなにかその状況全体が、なさけなく思えてきた……)。はたしてドルビーシネマ、最初にドルビー自ら上映するデモンストレーション映像の「客席の背後を高速で移動する光の玉がブンブン言ってる音」が体験としてはマックスで、定位のしっかりした音響、というより先のことはよくわからず(なにしろ劇の出来事は基本的にスクリーンの画角+左右の中で起こるし)、同じ作品をすぐさま平均的な劇場で見比べないことにはちょっとなんとも言えない感じだった、のだけれど、音響のために最適化されているのか、劇場の形自体が球形に近く、妙に劇的で面白かった(一人ずつはっきりと足音が聞こえるのも相まって、サイドの通路から宇宙船のような場内に入ってくるひとが皆、まさに舞台空間へ登場してくるような存在感なのだった)。
 後期宮崎駿作品に対する「俺はこれはわかる」という勝手な気持ち(…この例はさっそく宮崎駿じゃなくて高畑勲だけど『かぐや姫の物語』のワープするシーンなんか、とてもよくわかる。設定やストーリーの脈絡以前の、原初的な感覚でもって、ある世界に生きているものがそのように思ってそのように動く、ということが、アニメーションを通じて納得させられてしまう。)も、そろそろ呆然とするくらい裏切られるのではないかと予想してもみたのだけれど、またしても・まんまと「俺はこれはわかる」と思ってしまったのだった。繋ぎ目はどうにも荒いのだけど。それでかえってやりたいことははっきりしてくるようにも思える。人間の「悪意」。ますます伝えるのが難しいことをやろうとしている。自然や環境、文明や社会ではなくて、はじめて人間をど真ん中にした作品だったように思う。

 ドラクエウォークを続けている。4周年のキャンペーンで登場した新機能、宝の地図(なつかしのドラクエ9のすれ違い通信を踏まえたもの)のなかで「神奈川の明日マニアのホンニャラの地図」というのがプレイヤー間で出回っているようで、何度か目に飛び込んでくる明日マニア明日マニア……「あしたまにあーな」のオープニング曲を歌ってたのは誰なんだろう?とふと思いはじめるとあの歌い出しが頭から離れない。家に帰ってきて調べはじめ、最終的に「Quinka, with a Yawn」にたどり着く(ボーカルの方が脱退して始めたプロジェクト。いまSpotifyで聴ける最新のアルバムは2013年の『さよならトリステス』)。あの元気いっぱい90年代商業ノリと真逆の繊細でグッドな作品つくっててなんだかとてもよかったと思った。頭のなかのメロディ、ちゃんとおさまる。

9/16(土)
 人にある種の態度を要請する、というのは見ようによっちゃとんでもない強欲なのかもしれない。グリード。

 エアコンの壊れたラーメン屋さんでチャーハン食べる。入り口には書いておらず(発見できていなかっただけかもしれない)、券売機に「本日エアコン故障中です」とあって、これ、絶妙に引き返しがたいタイミング。真夏の屋台で食べてるみたいで食欲増進感なきにしもあらず。

9/17(日)
 「ありがたがれなくなった」ことについては、よくもわるくも、と言える……ような気がしている。 pros and consリストを作ってもいいかもしれない。あれなんの略なんだろう。proとcon。

 「"町を守るいいヤクザ"のおはなし」みたいなのはけっこうちゃんとうんざりかも。個々人が応援、賞賛するのはさておくとして、「考察」なあ。それ考察と言えるような代物なんかな。アリの巣観察キットに入れられて断面図見えるように巣を作らされてんのを考察やってますねんなんて自分で言うてたらそら、お笑いぐさやんか。まあでもいちいちこんなん考えずに「げろげろ〜」とか「ええやん〜」とか言って楽しむこともできるわなあ。おーん。阪神ファンのひとたちの複雑な喜び方に歴史を感じる。大脱線。
 
9/18(月)
 ドラッグストアで。あまり広くない通路のちょうど真ん中らへんにしゃがみこんで熱心に商品を見ている日焼けした四、五十代のおじさん。短パン。若作りであるがゆえに、めんどくさそうな気配もある。私は細身とはいえ大きめのリュックを背負っていたので、できれば前後どちらかに動いてほしかったんだけど、おじさんは一歩も動かずしゃがんだまま首だけ回して「通れるだろ」顔をしてきた。その気合いで一体なにを探してるのかとうっかり棚のほうを一瞬見るとコンドームが並んでおり、よけいに堂々としておきたい気持ちになるのもわからなくもないんだけど、そんな堂々たるおじさんのしゃがみ側頭部にリュックの角なんかぶつけた日には厄介この上ない展開だ。堂々もいいが文字通り譲歩して一歩ぐらい動いてほしいものだと思いながらリュックの尻に手をかけて注意深く前を通った。で、実際、通れたんだからおじさんの「通れる」顔も間違っていないけれど、私の注意深さにもちょっと感謝してほしい。果たしておじさんが「通れただろ」顔していたのかどうか、振り返らなかったのでその辺のことはわからない。

9/19(火)
 匿名インターネット界隈に存在する「自分語り」という概念、不思議。こんなもん外国語文化圏にあるのだろうか。「自分語り」があたかも悪であるかのようなムラの掟があり……みたいな気配はすくなくとも友人知人同士の会話や文章でのコミュニケーションにはない、ような気がする。そもそも自分のことを隠したままなんらかのトピックについて核心の部分を話したり書いたりするのは難しいはずだ。匿名ムラの掟と、たとえば店員さんを過剰に店員さん扱いする(名前のない役割だけの人として考える)態度には、なにか共通の短絡があるように思う。「私はだれでもない/だから/お前もだれでもない」そんなわけがない。
 そもそも誰しもがよりよいコミュニケーションを求めているわけではない、とすると腑には落ちるが先はない。

9/20(水)
 「芸能にズルいも何もないね!」(清水ミチコ/『太田上田』)

 夜、自主的にあたたかい紅茶を淹れてしまい、こりゃもう実は秋なのかもしれない。一度くらい手持ち花火大会がやりたい、って前も書いたっけ。でも本気の蚊に襲われそうだ。海にはクラゲ、陸にはヒトスジシマカ、夏の終わりは居場所がない。ひとつところにだらだらしてられない。手持ち花火、手に持ちたい。

9/21(木)
 面白いつもりでつまらない人とか、つまらないのがわかっていてなおつまらない人とか、昔ヤンチャしてましたアピールが漏れ出る人とか、ただいるだけで暴力的に見える人っている。しかしそれ、暴力そのものとはまったく別ものなので、別の形容詞が必要だ。「押しつけがましい」というとまだ心理的に拒否できる感じがするけれど、存在はなにしろ有無を言わさないものなので、もうちょっと差し迫ったところがある。「きちぃ」(きつい、の若者なまりみたいなやつ)的なことですか。
 それと、別につまらない人なんてひとりもいない、というのが本当のところで、ここでいうつまらないというのを正確に言おうとするなら、たぶん、人の話を聞く気がないし人の姿を見る気がない人のことだ。言いたいだけの人。自分だけの人。きちぃですわ。ガチ自戒込めまくり。

9/22(金)
 「くるり」とか「あの」とか「野呂佳代」とか、正しいアクセントが意外なパターンけっこうある。

 目薬をさそうとしたら天井のハエトリグモと目が合った。というのはウソで、見慣れぬ黒いなにかが視界の端に入ったのをよくよく見たらクモだった。深夜、KORG Gadgetでみじかい曲を作ってたら聴きにきた。というのはウソで、再生してたら偶然また出てきた。事実は「クモを二度見た」。

9/23(土)
 ボーロに赤べこの絵が印刷されている。最初は一つずつつまみあげて、どんな絵が描いてあるのか確かめながら食べるのに、だんだん慣れてしまって、なんの気なしに口に運んでしまう。

9/24(日)
 「本来性回帰への欲望」。雨でぼろぼろになった『暇と退屈の倫理学』にむやみに美しい架空の都市が描かれた四季報のしおりが挟まっている。その取り合わせがどうもおかしい。
 とっくにわかっているはずなのに、捏造された本来性("あるべきすがた")は、どうしても人間の欲望をとらえてしまう。自分がコントロールできないことをコントロールしようとするあまりに陥る罠なのではないか。繰り返し蒸し返される全体主義が実際そこらへんにいる個々人の延長線上にあるはずの"全体"にまったく寄与しないのは、ことばのうえで「全体」を握ったことにしてコントロールしたがる個人の欲望に基づかざるを得ないからで、芸術至上主義であろうが権威主義であろうが新自由主義であろうが民族主義であろうが、それは「全体」の描き方の違いでしかなく、"全体"の実相からはほど遠く、いずれも自分の欲望をつかみそこねている点で、地図上の出発地点を勘違いしている点で、ごく簡単に言い換えれば自分の至らなさを自覚していない点で、すでに失敗している、のではないか(長年、彼ら彼女らはその構図を十分わかったうえであえて利益をとるためにそういう言動をとっているものだとわたしは考えていたのだけれど、最近いよいよどうも本気で信じているように見える)。
(また、大枠では個人の自由を支持するような主張を持っていそうなひとであっても、個別のケースにおいて、仲間・内部の権威性を無批判に支え始めてしまうひとは実に多い。そうやって自分自身も支えられる側面があるからだろうと、構図は理解できる。だが……)

 わたしは、わたしは、から始める。いちいち戻る。ひとまずは。

 ラジオ書き起こし記事の文中「ニヤついていた」とあり、想像上のニュアンスを伝える表現としては短く適切であるけれどもその根拠をたどれば絶対にない(だってラジオだから)不思議な存在だ。すごくどうでもいいことを書いてしまった。

9/25(月)
 インボイスに対する反対の意思表示や制度への批判がマスメディアで取り上げられていないのはずいぶんおかしなことだと思う(普段見ないようにしているヤフーニュースをわざわざ見に行ったけれどやはりトップにあげていない)。「心配」や「困惑」といった言葉を使って心情的なストーリーのみに矮小化するべきでもない。おかしなことをおかしいと言わずに済ますのを「穏便」と呼ぶなら、行き着く先は穏やかな破滅でしかない。
 政治について考えたり話したりするのを、つい選挙のときや大事件のときにまとめてしまいがちだけれど、それ以外のときには忌避するような感覚が、結果的によからぬものを助けてしまっていやしまいか。ある程度正しいとされることをまっすぐそのまま言うのは基本的にはあまり面白くない(意外性がない)ことで、かっこわるいものとされてしまいがちなのだけれど、そういう、悪ぶる中学生みたいな美学的な価値判断(自分のなかにもあると言えばある)とは別に、批評的な視点からものを考えることをまず人間の仕事として認めるのがデモクラシーの基礎で、どうやらなるべくろくな大人を育てないように気をつけてきたこの国にはその土台がない、と気づいたのはなんといってもハラスメント事件のあと、当人はもとより周囲のいい年ぶっこいた(十代〜六、七十代の)大人たちの鈍さを目の当たりにしたからだ。伏目がちな小市民としてあらゆることを他人事扱いしてやり過ごして自分の美学に引きこもるのは、端的に、幼稚だ。ドン引きだ。逆にすげえ。品と趣味だけはいい"けもの"じゃないか。人間やめてんなら早めにそう言っといてくれ。と思ったものだ。と時間をおいて書いてみたものの、思ってることはいまもぜんぜん変わっていない。熱量同じ。ともあれ、批判的に見ることの必要性ってどうしてなかなか身に付かないもんだろうか。
 
 なんで「エンタメ」という概念がいまいち好きになれないか考えてみると、ある種の〈病気〉に対する抵抗力がぜんぜんない(ように見える)からだと思う。人間を機能ではかるとどうなるか、もう数多くの失敗例があるのにまだ反省が足りていない。そんなこと言い始めたら、当世風のさまざまなジャンルの「アート」やなんかもだいぶ危なっかしいのだけど……数字やビッグネームに対する疑念を持てない(疑念を持つことが不利益を招くから不合理な選択になってしまう)と、そりゃ抵抗力ゼロである。しかしこの〈病気〉をなんと呼ぶべきか。
 
 名前や立場はかならず力を持つ。一見すると誠実そうな「力を持たないようにする」という心がけや宣言の類はどうしたって失敗に終わる。ほとんどおためごかしと言ってもいい。「力なんてないですよ」「だれも傷つけようとしてません」とはとんだ甘ったれである。そして問題はかならず起こる。

 前段として、

⓪力をただしく使おうとする。

のは、心がけやポリシーのレベルで存在するべき、しかも目に見えるようにしておくべき、だが、しつこく言うけど、問題は起こる。いまの人類がすべての問題を未然に防ぐことはできない。

 したがって、

①間違った力の使い方をする人には、周囲がその力を与えない。
(※力の誤用・濫用に対する「責任」は必ずそのようにとられなければならない。同じ力を与え続けることが周囲の利益となるケースも多いが、それを理由に力を与え続けてしまうことが同じ人物による問題、あるいは同種の問題の再発を招く)
②前項①が達成されるようなルールや環境を整備する。(たとえば事実の確認・公表や力の一時停止あるいは剥奪など。ルールの適用や環境の整備を通じて行えるように準備しておく)

これだけが唯一、問題が起きたときにできる再発防止策で、未来に差し出せる"まだマシな"前例なんじゃないかと、いまの私は思う。
 ⓪の部分に力を込めて飾り立てている人たちにどうも信用がおけないのは、それをよかれと思ってやってればやってるほどに、どうも全体像がわかってらっしゃらなさそうだからで、しかし説明する方法もタイミングもむずかしい。

 「目の前のあなた」or「群衆・大衆・大文字のよきことども」というのは完全に間違った二択であって、そのようなご都合主義の二択を用意して「あなた」へつながるストーリーを選ばせようとするのは、意識的か無意識的かはさておき、詐術の一種だ。この手の物言いはつきつめれば「私(とそれについてくるあなた)だけが真にグッドである」と言ってるようなもんだ。そうした「素朴さ」への回帰は、社会正義へのバックラッシュ、の一言で説明するにはすこし悪質すぎる。(志向そのものを悪と断じることはできないけれど、人類の散々な失敗のあとを生きている人間の一人として、それがもたらす害について冷静に振り返って注意深く避けてもよかろう)。今日そういうことを言い出す原因や言い訳は無数にある(なにしろサブカルチャー、にかぎらずあらゆる種類の小さな山々のボスザル気取りたちがそういう振る舞いをしてきた大量の前例がある)し、だまされたがっている人びとがしばしば進んでだまされるものだけれど、第一そのような語り口を採用している当人自身が罠にはまりこんでいる。気が付かなければ抜け出せまい。両取りしていけばいい。個人のグッドと私たちのグッド。断然いい。そこにない二律背反を言い訳にする必要なんかない。
 同時に、グッドでなきゃならないわけじゃない。ただ、グッドであることをおそるるなかれ。(バッドな過去があってもなくても)

9/26(火)
 めっちゃ変な時間に寝たり起きたりしてしまった。
ニュース記事に「思わず声をあげてしまうような悪臭」とあり、思えば確かにくさいとくさい!って口に出したくなるのはなんでだろう。暑い寒いも外出るたびに言ってる気がするし、そういえば、どっちでもないときも「うわーちょうどいい!」って言ってる。
 それなりに学術的な答えもありそうだがたどり着くまでの検索ワードがむずかしい。つらつら関連するページを眺めていると意外と「聞いててイライラするから暑い寒いをいちいち言うな」派の人がいておっかない(なかには「言うのはスピリチュアル的に損!」とか言い出すものさえいる。どういうスピリット)。こういう人たちが「フワちゃん出てたらチャンネル変えます」とかわざわざ書き込んでるんだろうか(純度100%の偏見)。でも落ち着いて考えるとインターネット上にわざわざ身近なイライラを書き残すのは「暑い寒いをいちいち口に出して言う」以上の害がある気がしないでもない。ずっと残るし。もう見るのはやめにしてQAサイトにあったどこかのだれかのとくに根拠も示されていない説を以下に要約して暫定的な説明としておくことにした:暑いとか寒いとかひとつの言葉にして、いったん外的なストレスの細々した情報を集約することで脳の作業スペース(コンピュータでいうところのメモリ)を空けて、具体的な対策をとる思考や行動をやりやすくしている、のではないか。との説。
 この時間、無為すぎ!?ってここにバナーを表示したほうがいいかもしれない。

9/27(水)
 「お客様が不在nのため」スパムメッセージ。不在より不在nのほうがより不在っぽい。点Pに不在n。

 情報番組がアート紹介と称してひたすら写真映えスポット紹介してる違和感。あれ、なんだろうか。
 でも花を見て美しい、と言っているのとそこまでおおきな差はないのか。花は繁殖するための方法として美しいのだけれど、花は美しい、でも間違ってはいない、のか。(観客としての人類は勝手そのものだ。)
 アンブレラ・スカイについて、もともとポルトガルのPatricia Cunhaによるインスタレーションであるとの説明を省いて、町おこし鯉のぼりみたいに取り扱っているのもなんだか誠実さに欠ける気がしてしまう。想像するに、あくまでアイデアが同じだけ(=法的に保護される表現・著作物ではない)、との判断から日本のあちこちで「〇〇アンブレラスカイ」が設置されているのだろうし、オリジナルに一切言及しないことが商業的ベストアンサーなんだろうけれども、それにしてもオリジナリティのことを気にかけてなさすぎやしないだろうか。仕掛けるサイドは言わないほうがいい、お客さんサイドは考えなくていい……丸ごとよくない循環になってるように見えるし、よりによってそれをアートと呼ぶのは皮肉すぎる。ひたすらフィーリング。(心のなかのアレサ・フランクリンがThink! Think! Think!)

 ぜんぜんもともとの文脈とはかけ離れたことなんだけど、インボイスをめぐるツイート(Xのポスト。とわざわざ書いてみたり)の中に「中小俳優」って言葉を目にして、しみじみとなんかわかるなあと思った。大俳優、中小俳優、零細俳優。音で聞くと赤ちゃんタレントみたいである。

9/28(木)
 このところSwitchのインディーゲーム無料トライアルをまんまとやっていて『Spiritfarer』は作業が繰り返し&忙しすぎるけれどもゲームで死や記憶を取り扱うやり方としてなにか練習になる、というようなところがあった。最後までやる元気が出てきたタイミングでちゃんと買って見届けたい。『Moonlighter』は聖剣伝説っぽい武器持ち替え可能な見下ろし2DアクションRPGとダンジョン探索商人シミュレーションゲームが組み合わさっていて、これまた昼夜忙しい。スマホゲーの"スタミナ"や"ログインボーナス"制度がむしろ現実の生活の側を時間マネジメントゲームにしてしまうのが究極形だと思うけれど、「タスクを絶え間なく/同時並行で与えてとにかく忙しくさせる」のが最近のゲームのよくある作りのようだ。「さまざまなエンターテインメントとの余暇の奪い合い」を戦うための方法論としては理解できるし、ある程度忙しいことではじめて活性化する感覚的な部分がある(たとえば平田オリザの誰でも"自然に"セリフを言えるようにする演出の方法——セリフの途中で聞かれたら時計を読んで答える等等——も、余計な自意識や演技へのかまえを落とせるという側面とはまた別に、タスクが増えることでむしろそれぞれの対象となるものやことばの解像度が上がる現象を引き起こすと思う。あれ、なんでなんだろう)のも確かなんだけど、自分で進んでやっておきながら「やらされている感」と戦いはじめることにもなる。
 本みたいにずっと置いておいて、別のときまた出会うことができる、というゲーム内世界に完結した体験が実はいちばんおいしい部分なんじゃないか、と思いはじめる。毎日やっても、久しぶりにやっても、なにも得がない、ということがむしろよいことである可能性がある。この点で期間限定トライアル自体がまたひとつのタイムマネジメントゲームと化してしまっているので、気になったら買って置いておくのが吉、かもしれないがSwitchの容量はパツパツだ。塊魂のリマスター第二弾も出てるんだよな〜。

9/29(金)
 数年ぶりに学生会館に足を踏み入れる。ある一仕事の区切りを自分なりに祝いに行く。「目的を定めず、この時間、ここにいるから、来てくれたら会えます、という部屋」というのは実にたのしいアイデアで、「その人対自分」の一対一ばかりではなくて、その人がその地のお地蔵さんのようになって、まったく違うところからやってきた人同士が出会う契機にもなる。(お地蔵さんとしての才覚は問われるかもしれないが。)

 ファミレスがさっさと店じまいする2020年以降の大学生はどこで朝までだらだら話すの? って質問したら居酒屋かレンタルスペースなんだそう。レンタルスペース!知恵!しかしだらだらするにも若干の計画性が必要になってきそうだ。

 バナナジュースが名物のお店だったのを、メニュー見て思い出すなどした。わっしょい。飲んだ。一杯200円。十年くらいぶりの再訪だ。氷で冷やしたピーマンにメキシコ的な味わいのひき肉(あたたかい。結果ひやあつ)を乗せて食べるの、おいしかった。ピーマン苦手なので、メキシコ味がちょうどよかった(ひき肉、名前を忘れたので調べた。タコスミート)。メキシコ風はクミンの味、と教えてもらう。台湾風はハッカクの味、メキシコ風はクミンの味。

 活動をみつかりにくくする、というのが、知らないうちにひとつの潮流になっているのかもしれない。と同時に、「コアが出てきてるのがおもしろいんであって、奥底に潜んだコアはおもしろくない」って言葉が率直で、笑ってしまいながら、記憶に残る。素朴の魅力と退屈と危険性。

 いまの私は「観客席が信用できない」(からたぶん)「なにをやったらいいかわからない」、とはっきり言葉を取り出せたのはよかった。そこからやっていくしかない。

 終わりかけの満月を窓越し雲越しに見る。ちょっとだけ見える。

9/30(土)
 苦寒コーヒー店。ガムシロがない。サンドイッチのパンもない。そしてクーラーが効きすぎている。すごい。(ガムシロに関しては注文の前に一言言っておいてほしい。ホット頼むから。)

 radikoで「あなたにオススメ」的な欄に放送大学の「総合人類学としてのヒト学」という番組が出てきたのでながら聞きしてしまった。南太平洋の島々では長い航海に伴う食料の欠乏にも耐えられる人が生き残ってきたことから、いまも"倹約遺伝子"を持つひとが多い(ゆえに十分な食事をとることで現代、肥満体型になるひとも多い)、というのがなんだかすごく納得がいく説明で、興味深かった。

 ねるまえ、頭の上に髪の毛をまとめると階段の天井をかすかにブラッシングしてしまう。

10/1(日)
 十月だ。いっそうぼんやりとしている。「している」を「ひてちる」と打ち込むくらいにぼんやりしている。秋の虫が全力で鳴いている植え込みと、そうでもない植え込みがある。

10/2(月)
 ドリンクバーのコップを手にした瞬間、まったくスピードゆるめずわたしの右腕にぶつかってきた人がいた。白髪混じりのおじさんだ。冷たいドリンク用のガラスコップの割れる音が店じゅうに響き渡る中、おじさんはすこしもスピードをゆるめず歩き去っていった。謝りたくない、とか、俺は悪くない、とか、実はすごくトイレに行きたかった、とか、ケンカになっても勝てそう、とか行動の背景にある物語はいろいろ考えられるのだけれど、あくまで目の前で起きたことに限って考えれば、シンプルに話の通じない頭のおかしいひと、としか思えず、そうなると自分の身の安全のためにもむしろコミュニケーションが発生しないように放っておく、ということになる。不合理! きびきびした店員さんに、心情的には二人分、謝る。店員さんの手際のよさに一層感謝する。

10/3(火)
 頭の回転の速さもその場の空気を一瞬で掌握する力も、使いようによっちゃ邪悪である。本人の「人となり」も関係のないことだ。
 人間は拍手ではなく言葉で応答できる。しかもそういう仕事でしょうが。
 
 「きょうの演劇」というタイトルの文を毎日区切って書き続けているのだけど、日記と並行することで、毎日ふたつの箱が目の前にあらわれるようなところがある。あったこと、思ったことを放り込んでゆく箱。「日記」、「演劇」、それ以外。妙な分類だ。書いているうちにわかったことがあって、どうやら私が「演劇」という表題のもとに書くもの≒「演劇」のようだと感じるものはだいたいが「考えてみる」「やってみる」という形になっている。なにかになりきるとか、没入するとか、笑っちゃうとか、ストーリーにもとづいたイリュージョンを志すのではなくて、ただそのへんに転がっている可能性にトライしようとする、というところになにか、「演劇」を見ようとしているらしい。そうなると、戯曲やセリフというのはあくまでその形式のひとつであって、だが、もしそうじゃない方法があるなら、それはなんだろう。どうすりゃいいのか。

 え、キング牧師って39歳で死んでますのん?

10/4(水)
 いつのまにやら、生きてるうちにサグラダファミリア完成しそうになってた(2026年)。
 
 二十代の頃、共演した先輩俳優が私の年齢を聞いてきて、自然に笑いながら「ああ、まだ辞めれるね」って言った、というエピソードがあって、これを聞いたある友達が真剣に怒り出すまで私はこの一件を失礼かどうかの視点でぜんぜん捉えておらず、むしろ「親切なひとだなあ」と思っていた。あとから冷静に考えるとたしかに才覚を認めた人に向かっていう言葉ではない(100パーセントない)けれど、キミ辞めといたほうがいいよ、じゃなくて、一歩引いたところでわざわざ他人の人生を考えるなんて親切(あえて悪く言えばおせっかい)だと思うし、なにせ結局やめずに続けてる人が言うことなのだから、どこかニヒリスティックな「同病相憐れむ」みたいな気配もある気がしたのだった。
 いずれにせよ、プライドみたいなものとは無関係の部分でどうやら私は不遜なのだ。どうなってもどうにかなると思い込んでいる。タフなのではなくて、たんにプライド方面のアンテナがない。厄介なやつだ。困ったもんだ。そのうちに、うっかり辞めそこねちゃいました、と伝える機会もあるかもしれないが、言ったほうはまず忘れてるだろうし、私は私でぜんぜん忘れてそうだ。
 
 私は私でずいぶん皮肉屋さんだけど最近は個人のちいさく真剣なチョイスに触れるようなことはわざわざ言わない傾向にある。もっとも、本人なりに真剣なつもりでも悪どいやり口については手ひどくやるし、どうにもならない生き死にレベルのことも平気で言ってしまうけど。他人の意志や存在を軽んじない、のは、自分自身にとって重要だ。今。

 「100」って打とうとして入力が〈ひらがな〉になってると「あわわ」になる。スマホタイポシリーズ。

2023/06/08

三日坊主日記(5)

5/3(水)
 新橋うろうろ。なにしろ新橋の大型連休中、チェーン店ではないタイプのお店はここぞと休みをとっている。Mさんとしゃべっていて、ごくみじかい作品ができた。と言われて、たしかにできていた。『ひとりぼっちになるための朗読教室』、家で一枚のカードにする。
 自意識以前の世界(たとえば近代以前)のことをすっかり忘れていた。言われて納得。たしかにそういうあり方はずっとあって、クマ撃ちを「こわいから、やる」というのは、それはそうだ。自意識を当たり前のものとしすぎていた。ちょっと反省。
 人間の最小単位がひとによって違うんじゃないかという仮説。人をつねに上だとか下だとか判断してる人の最小単位は二人で、一人になれてないんじゃないか。他人を傷つけて、その責任を負わないことで自分を確かめるような人間のメタ認知の欠如を、結局一人のさびしさに耐えかねる人間の振る舞い、と考えてみたりもする。青菜ラーメン。
 励まされるようなことばかりである。帰り着いたら超ねむい。

5/4(木)
 『ひとりぼっちになるための朗読教室』追加コンテンツとしての『部屋にひとつも詩が見当たらない人へ』。keynoteに正方形のページをつくってみるとポストイットみたい。

5/5(金)
 いろいろあって髭が全白髪になって大半が抜け落ちるという夢の終わりの方だけ覚えているんだけど、セルフ・イメージが髭デフォルトになっていることにびっくり。
 夜、ロフトプラスワンにU-NEXT配信開始記念トークイベント聴きに行く。ご挨拶もさせていただいちゃった。出て行っただけで桁違いにあたたかい反応だった。あとはひたすら面白かったしライブかっこよかった……って完全にお客さん気分だ。カットされた名場面集はほぼ覚えてた(舞台だったらどれも核になるような場面だったので)けど、自分のセリフだけ完全に忘れてた。そこもお客さんに笑ってもらって、成仏というか消化というか、思いもよらないラッキーだった。映画ができて、上映されて、全国に広がって、配信もはじまって、NGシーンやカットシーンを見てお客さんと一緒にみんなで笑っちゃう、なんて冷静に考えてみるともう奇跡みたいなもんだ、その最中には笑っちゃってるだけなんだけど。「そば湯」みたいなおまけまで味わった……というようなことを思ったのは「6人ソーバー」のせいかもしれない。
 気が利く人間になりたい。気が利く人間は決して書かないフレーズ。人に対しては気が利かないとかぜんぜん思わないけど、自分に対しては「まあ本当にこの人は気が利かないね」と思うことがある。ややあてはまる。アンケートかい。

5/6(土)
 南南西の風10メートル/秒。立夏。夏立ちにけらし。連休の新宿ぶらぶら。無限に話せそうだし、無限に黙ってもいられそうな気持ち。旅行の話や読書の話や生活の話を聞く。個人的な営みがあって、個人的な不安があって、個人的な喜びがある。神社まで歩いていって柵によりかかってお団子食べる。ふたについたあんを味見。結局自分が自分だから面白いと思っている、と言えるなら、それは他人のことをあたかも自分のように思い込むよりずっと正確な認識で、そこからようやく、なにか、はじめることができるように思う。
 NHK「百年インタビュー大江健三郎」より。エラボレイト(「丹精する」)の"エ"は"外に向かって"。何度も書き直す、丹精する、正確にする、豊かにする、呼吸を整える。

5/7(日)
 ゲームって、勝率とかランクとかレートって数値化されて可視化されると気になるけど、勝っても負けてもプレイ体験に創意工夫と驚きがあればおもしろい。つまり「いいね」とか「バズり」じゃない孤独なところに原点はある。と私は一人のゲームプレイヤーとして思う。でも同時に、ゲームって、架空であれ、相手がいないと張り合いがないような気もする。たとえ一人プレイだとしても。相手のいる孤独。

5/8(月)
 しゃべったり、
 って書きかけてあって、ここに、誰と、何の?っていうことなのか、人間はそもそも、みたいなことなのか、完全に謎です。
 と、書いていて、思い出した。人はしゃべったり書いたりしているうちにはなかなかしゃべったり書いたりできない自分のことを思い浮かべられないな、と思ったんだった。テレビで、石原良純さんの名前だけが書かれた手紙を見て。

5/9(火)
 ウクレレ練習してる人が近所にいるっぽい。

 空脳のコーナー始まったのかって勢いで「イヤー!」ってクシャミの前につけるおじいさん。誰に席を譲るのか決断するのが困難なほどお年寄りだらけのバスの中にいる。①車両中ほどにある段差を乗り越えてこられていて②アイコンタクトがとれて③譲ったときにトラブルにならなさそう、と見てゆくと、その人に座席が必要かどうかとはズレた、別の基準がうまれてしまう。

 「悪名は無名に勝る」という実にイヤらしい格言がありますけども、どんなやつなのかわからないやつのほうが、ハッキリとろくでもないやつより、かえって不安に思われる、という側面がある気がしますね。急な語りかけ口調。
 『いっき』や『スペランカー』が後年リメイクされたりしているのは、「クソゲー」という称号があってのことで、もしその名付けがなかったらただ漠然とむずかしい・つまんない・不出来な作品として押し入れに眠るほかなかったかもしれない。つまりはっきりした悪名というのは誰かに見つけてもらう目印として、よくもわるくも、はたらく。でもそもそも「クソゲー」には愛らしさもあって(ゲームというインタラクションのなかで、人間の操作に対して難しすぎる反応を返してくるのは、思った通りにならない自然や動物が面白く思えるのにも似ている)、単純な悪名とは言えないか。

 パペティア(Puppeteer)という単語を見かけて(NTL版ライフ・オブ・パイの紹介記事から)、なんか英語の歌詞の曲に出てきて発音自体が印象深かったのが記憶にあるんだけど、なんだったっけ。とても検索しにくいタイプのなんだったっけ。特にそれが勘違いであった場合にはほぼ検索不可能。

5/10(水)
 なにかの記念に植えられた木のうち、どれくらいが育って、残っているんだろう。

5/11(木)
 腕は一人で組めるけど、肩は一人で組めない。

5/12(金)
 風で帽子が飛んで行かないようにひもとクリップで留めてある親子を見かける。「いいですか?」ってなんでも聞いて回るおばあさん。

5/13(土)
 雨。
 先日メモ用紙に描いたちいさな絵に色を塗って写真に撮ったらそこにSiriが「吹き出し」をつけてハンス・バルドゥングの版画ではないか?と提案してきた。でたらめにもほどがあるけれど、バルドゥングはルネサンス期の画家で、アルブレヒト・デューラーの弟子。というようなことを誤認識によってはじめて知る。もし間違いや偶然がひとつもなくなったら、と考えると、それはそれでおそろしい。バルドゥングさん、人間は歳をとって死んでゆくよ、というモチーフを何度も描いているようだ。
 絵をカメラで撮って、線を抽出して、ノイズをすこし消しゴムで消して、Tシャツにしてみる。

5/14(日)
 'Do not go gentle into that good night' Dylan Thomasの詩。怒りや反逆をいまの人びとは避けすぎているのかもしれない。ゆえに洗練されていない、というか、その思いをぶつける先を間違えて、なにやらみみっちいことになっている、のを見かけるような気がする。手に馴染むまでよく持っておくという選択肢もある。怒りを。
 死んでゆくなよ!という"理不尽な"怒りを、なにやら論理的に消費しようとしてないか。

5/15(月)
 「おばけ教室」メモが増えてゆく。厄介者ネットワーク、やっぱり作ったほうがいいと思った。

5/16(火)
 眠くて爆発しそう。

5/17(水)
 近所の神社の境内でヘビを見かける。特徴を検索してみるとどうやらあれはアオダイショウだった。ネズミが人類の天敵だった時代には今の何倍もありがたがられてたんじゃないかしら。スピリチュアル的に富や豊かさのイメージがもたれがちなのも、その辺の食物連鎖のありがたみが影響しているのかもしれない。
 ヘビが住んでそうだなと思うような穴に案外ヘビはほんとうに住んでるんだろうか。

 「SNS苦手なやつはエンタメ向いてない」ってさらば青春の光のYouTubeでなんの気無しにぽろっと言ってて、なんかそれ聞いた瞬間、すごくもったいないと思った。SNS苦手だろうが表現にかかわったほうがいいひとは絶対にいる。まあでも「エンタメ」で区切ればそうなるか。返す返すもあんまり好きじゃない単語かもしれない。「エンタメ」。

5/18(木)
 「自助」という文字を見かけるとビュッフェが思い浮かぶようになってしまった。

5/19(金)
 オドぜひの「ぜひらー」の「ら」はどこから来るんだろう。

5/20(土)
 THE SECOND面白かった。面白いというのは(まず、まっすぐに面白いところがあった上で、ではあるかもしれないけど、それだけではなくて、)どうしても面白いと思えないことがあるのも面白い。

5/21(日)
 「私怨」と「義憤」を対置するようなツイートをうっかり見かけて思ったこと:①まずこんなものを「おすすめ」しないでほしい。②こういうことを書けるひとはおそらく、自分なら見分けられると思っているが、なんならそれが間違いのもとではないか。③書けるひと、といったん言ってはみたものの、人間だいたい書くか書かないかはともかく書けるので、それはほとんど人間のことだ。④自分/誰かによって書かれた物語に引っ張られることのよさは「想像力」や「創造性」といった文言で称揚されるけれども、わるさだって当然あるわけで、それをなんと呼ぶべきか。⑤「呪い」かもしれない。⑥「これは私怨を出発した義憤で、あれは義憤のふりをした私怨だ」なんて他人に向かって言えるほどの材料なんて、いつだって、あるだろうか。⑦「そう思いたい」ということはある。誰でも。書ける。だがほかの誰かの心を決めることはできないだろう。ましてや「怨」なんて。⑧自分の心はどうだろうか。書けるだろうか。⑨おわり。
 このところずっと、わたしにとって切実に必要なのは物語ではなくて、詩と批評なんじゃないか、という気がしている。それで、なのか、「名前をありがたがる」祭礼の場所にはいかずに、ときどき誰かと話したり、ゲームばっかりやったり、している。物語中毒とソーシャルメディア依存はわりと似たようなもんじゃないのかな。たとえば有名人の訃報がわーっと広がる中で、たまにきちんと個人的なことを書いているひとを見かけるとホッとする。

5/22(月)
 夕方、たくさんの人が一斉に帰ってゆく場所がそれぞれ違う、という当たり前のことが急に不思議に思える。また人がたくさん出かけるようになって、当たり前のことに目新しいような気持ちで行きあう。馴染みのない駅前の再開発のために置かれた長大なフェンスの前で。フェンスには再開発後の理想的な光景が印刷されている。
 陸の孤島みたいな位置に置かれた電話ボックスを見つける。

5/23(火)
 音楽の機材紹介YouTubeをたまに見る。ブエノスアイレスの人が考えてつくった、コードに特化したピスタチオ色のMIDIの機材。なまりのある英語。自動で字幕が生成される中に、実際にはまったく存在していない[applause]とか"Thank you"とか"foreign"とか……人間の耳ではけっして空耳できないタイプのAI空耳がしばしば発生している。

5/24(水)
 圧倒的にさわやかな気候。ふらっとバスに乗って動物園に行く。
 弁天堂で浴酒祈祷というのをやっているらしい。シャンパンファイトのような光景を思い浮かべてしまったが、お堂の中はしーんとしていた。人のお土産に芸能お守りをひとつ買う。

5/25(木)
 きのう撮った写真を眺めてみる。どちらかというと地味な色の動物を多めに撮っていたことに気がつく。猿が仏像のよう。パンダは非常にパンダしている。

5/26(金)
 勢いよくレタスやキャベツを食べてると自分が青虫になったような気がしてきませんか。

5/27(土)
 「そういうもんだと思う」ことが人間の生活を成り立たせてるときがある。たとえば納豆。「そういうもんだ」と思ってなかったらぱっと見ではだいぶ食べにくい。期限切れで食感がシャリシャリしていても、それがうまみ成分の塊であることはもうわかっていて、難なく食べてしまう。
 「そういうもんだ」はしかし、考えないで済ます回路を成立させもする。怠惰な脳みそ。

 デパート物産展の一角でお蕎麦食べる。戸隠のお蕎麦。壁際に置かれた机と椅子はほとんど取調室(入ったことないけど…)のようだけど、おいしい。誰もそば湯を飲んでないっぽかったのでおそるおそる、そば湯、ないですよね? と聞いたらぜんぜんあった。赤いカクカクしたそば湯のときしか見かけない入れ物。大満足。

5/28(日)
 ラーメン屋さんでラーメンチャーハンセットを食べているとラジオはトーキョーエフエム。二人くらいのパーソナリティがゲストを紹介すると眉村ちあき。持ち帰り寿司のお店に貼られていた「閉店のご挨拶」に曲をつける、という企画らしい(…あとで調べてみると『世界には歌詞が溢れている。』という番組)。曲名はそのまま『閉店のご挨拶』。不意打ちのよさ。
 短歌をめぐるNHKのドキュメンタリーを見ていて、作者本人の音読が圧倒的によい。書かれたものに対して、距離がないフリをして真に迫ったように読んでもこのよさにはなかなか敵わない。この差は巧みさでは突破できないように思う。(ここでひとつの手段として「棒読み」というのが出てくる気がしているんだけど、いまのところ、その理屈をつきつめよう、という感じでもない…)

5/29(月)
 しとしと雨。だらだら歩き。

5/30(火)
 「人を試すなんて動物のすることだ」というなんともインチキな警句のような言葉を思い浮かべる。
 スプラトゥーンバンカラマッチS+10には到達したので、次のシーズンは即Xマッチに参加できる。

5/31(水)
 劇場には行けない(行きにくい)けど稽古場には行ける、みたいな感覚についてはもう少しつきつめて考えてもいいかもしれない。もっと言えば部屋にはなぜ、いられるのか。デパ地下にも全然いけるし。道も歩ける。公園も大丈夫。美術館はどうだろうか。
 なんて考えてたら、稽古場に行く用事を急にもらう。

6/1(木)
 のむヨーグルトのビンが割れてしばらく経つと、割れたガラスの破片が地面にべたべた貼り付いてますます危険。アリも集まってくる。
 「お客様同士のトラブルにより全線で発車見合わせ」って繰り返しアナウンスされると、それはどんな人たちなんだろうか、と考えはじめてしまう。遠い駅でのトラブル。電車は来ないし。
 というわけで微妙に遅れて「思いつきゲスト」に。コメントしなきゃいけない、という状況になってはじめて、自分がふだん大づかみに把握していることが言葉になりはじめたりもする。報酬はケランチム。
 言ったことをそのまま書くよりはその先のことを少し書いてみたい。①いいセリフが罠だと言うなら、それはなぜ、どのようにして、罠なんだろうか?②私たちが興味深く見る映像のなかでは"事件"が起きている。と、ひとまず考えてみる。と、言ってみたものの、私たちの目をひき、カメラを動かしうる"事件"と、見え透いた企みとの違いはどこにあるのか。"事件"を起こそうとしてしまったら、それは案外容易に後者へとスライドしてしまうのではないか。そのような滑落を回避しながら作為的に"事件"を起こすやり方や条件はどんなか。そもそも"事件"を別のことばで説明するなら、なんだろうか?③「うまくいく」と「うまくいかない」のどちらもが許されている場は間違いなく貴重な発見の機会(になりうるの)だが、そもそも「うまくいく」と「うまくいかない」を隔てているのは一体何なのか。それでも「うまくいく」ことを目指さずにはいられないのは、なぜだろうか?
 ワゴンタクシーから飛び降りて、雨の中、3.5駅分歩いて帰る。傘なし。靴と服とカバンの中の文庫本はめちゃくちゃにビチョビチョになったけども、夏のぬるい雨に一時間程度うたれてもすぐにお風呂に入ればぜんぜん問題ないのがわかった。

6/2(金)
 まさかいくらなんでも寿司をひさしぶりにいただく。前からさけフレークのコーナーあったっけ? と疑問に思ったけれど、名前から言って「ます」「さけ」「かに」「いくら」を入れると考えるなら絶対にさけフレークはあったのだった。

6/3(土)
 100円ショップのタッチペン+無料のお絵描きアプリが楽しくてTシャツをもういくつか作ってみる。SUZURI夏のTシャツセール。

 それにしても。入管法改正をめぐって明らかになってきている事態の深刻さ(難民認定制度の運用そのものがどうやら不適切と言っていいほど不明瞭である…柳瀬房子氏が全件数のうち圧倒的な割合の審査件数を任される一方、相対的に難民を認定する傾向にある担当者には入管からだんだんと審査が回ってこないようになっていたようだ。一人当たりにかかる審査の時間を計算すればいささかおかしなことになる。ところがよりによってこの柳瀬氏の「難民を探して認定したいと思っているのに、ほとんど見つけることができない」との発言が立法の根拠とされている。この状況のいびつさは言うまでもない)と、それによって直接に悪影響を受けている/受けうるひと以外のひとびとの反応の鈍さのギャップが大きすぎるように感じる。もちろんこの事態、それから法改正がまさに行われようとしていることもショックなのだけれど、この鈍さがなにより恐ろしいと思う。直接にダメージを受ける人がこの社会の中にいる人数で考えれば少ない、ということがこのような反応の鈍さに繋がっているのだとすれば、いよいよ深刻にまずい(なにしろ難民であれ、外国人であれ、なんらかの事件の被害者であれ、人数だけで考えるなら、常に少数なのだ)。社会に参加し、社会を構成するひとたちが、当事者であることを捨てている。それでどうやって抱えている問題を改善できるというのか?
 ある問題によってダメージを受けた人、受ける人だけじゃなく、問題を引き起こす制度や権威を追認している人間だってとうぜん当事者だ。損得で考えるからわかんなくなるんだけど。「なるべく黙っておいて」「知らなかったことにして」得をとろうとする人は都合よく当事者を脱ぎ捨てている。いざ知らなかったでは済まされないとなるとなにやら感傷的な弁明の発表に勤しむ。それで社会はましになるチャンスをまたひとつ失う。ますますひどくなる。実は大損害だと思う。

ニュース参照元:
https://www.tokyo-np.co.jp/article/253697
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/513769

6/4(日)
 自意識まみれの表現、というのは存外多くの人に好かれるものだと思う。作っている人や出てくる人が個別に「ナルシスト」かどうかとは別のところで、ある種の作品はナルシスティックな態度を示している、とでも言ったらいいのか。なぜそれが好かれるかというと、おそらく、大前提がゆさぶられないからだ。枠の外について考える必要がない。ナルシスティックに、自分を疑わない態度は、それが結局どこに辿り着くかを問題にせず、ただそのときの気分を最大限味わう時間をくれる。根拠のない自信こそが、安心して一体化したり、感情的になったり、してもよい根拠になるのだ。
 ある作品に対して、おそらく私よりもずっと"きれい好き"なひとが「何この自意識だらけのくだらない……」というような容赦ない言葉を書いていたのを読んで、それまで視界にべったり染みついたセンチメンタリズムを一瞬ですっと引き剥がせた。のだが。もともと私はどちらかというとそのときどきの感情に右往左往させられるのを楽しむのにあまり抵抗がない。泣かせにきたらまんまと泣くが、そのあとで考える。
 フィクションを見る、ということが持つさまざまな機能のなかでも、見ているあいだ、思う存分感情的であれることがいま、異様に価値を持ってしまっているんじゃないか。他人の目がなければ暴虐の限りを尽くす独裁者になれる、その権益を確保するやり方のひとつが、観客席を一席おさえることである。
 ともあれ、劇場は、フィクションは、感情のためだけにあるわけではない。悪い意味で使われがちな「劇場(型)」や「ポエム("ポエマー")」をあるべき場所に戻す方法を考えたい、とは思っているのだけど。「してはいけない」ネガティブリストではたどり着けない感じ。

6/5(月)
 自分の寝言は聞けない。
 でもまあこうして書いている日記はほとんど寝言みたいなものだ。
 でも自分の寝言は聞けない。

6/6(火)
 夢で文章を読んでいて、それがあまりにまったく相容れない考え方だったので目が覚めた。なんて書いてあったのかうまく思い出せないけれど、大意としては「誠実さなんて意味がない、人間にとって立場こそが大事」というようなことだったと思う。よくもわるくも、もうちょっとうまく書いてあったんだけど、思い出せない。オイオイ逆ダロ!って感じでもうハアハア言いながら目を覚まさずにいられなかったんだけど、この順でものを考えてるひとだって確実にいるわけで、ゾワゾワした。誰のどんな文章(というテイ)だったんだろうか。二度寝すると、自分のいるビルの5階がふっと浮き上がって8階ぐらいの高さから今度は急降下しはじめていつまでも落ち続ける夢。窓の外は真っ暗な土なのに、まだ落ち続けている。これはゾワゾワはしない、安定的悪夢。

 NHK「うたコン」をだらっとみていたのは「テレビ70周年」をキーワードに爆笑問題が出てきたからだけど、後半、菅原洋一さんがピアノ伴奏だけで『知りたくないの』を歌う。90歳。すごいものを見た。富と名声についてはよくわからないけれど、幸運と鍛錬のことを思った。「歌は語れ。セリフは歌え」は、似たような言葉を時々耳にするけれど、こういうことだ、というのを見た。

 日記に番号をふってみた。

6/7(水)
 ツイッター経由で知った『彼岸花』。おおまかには時系列順であるストーリーを語っているけれど、時間感覚としては同じことを何度も少しずつ角度を変えながら繰り返しているように読むほかない。クールな表現をふまえて生きることはクールばかりではいられず、しかし、その表現としてはこれまたクールなのだった。まいった。まだまだ大変なことになりそう。というのは作品も生きていることもだ。
 序盤中盤で「何もしない」についてなにか、あたらしい角度の光があるようにも思った。

2023/05/02

三日坊主日記(4)

9/7(水)
 家の近所で大工事中。地面が揺れ、足の裏から重機の振動が伝わってくる。

9/8(木)
 友人二人の集いに急にお呼ばれして出かける。私も含め三人全員が今夏COVID-19感染→療養を終えたところで、ざっくり調べてみると再感染の確率もないではないものの、やや気兼ねが少ない。人にどう動いてもらいたいか、逆算して着々と布石を打つ社会人マッスルを見せつけられたり(自分とは別物、と区切る意味ではなくて、思考や行動がぐいぐい鍛えられてる、と思った)、友達として会って話す楽しさとはまたまったく別に、なにか作品に出てるのを見る喜びはある(売れてほしい、あるいは、売れなくてもいいけど)という視点を教えてもらったり。いくつか本を教えてもらったり。どこで怒りの一線を引くかを考えてみたり。謝るときの作法を考えたり(まず人の話を徹底的によく聞く、ということに尽きると思う)。超ちょっとしたモノをあげたり。そのときは楽しくて、あとからじっくり励まされるような時間だった。
 自分をオファーする側として捉えてみたら、って考え方の健全さに感じ入った。捨てられないエゴとやさしさが表裏一体。帰り道、月見バーガーが大人気で驚く。珍しいポケモンが出てるのかと思った。

9/9(金)
 スプラトゥーン3のグミ食べて配達を待ってみたり。夕方届く。おまけの冷たいものを入れると色が変わるコップも届く。冷水がグレープジュースに見える。

9/10(土)
 7日のツイートが100いいねを超えてありがたいやら恐縮するやら。思ってもないことでビビる。『花四段といっしょ』すごい。もちろん根本には作品のよさがあってのことで、影響力をありがたがりすぎたり二次的な利用で自分の利益を目論んだりするのはダメゼッタイと思うけど、増村作品好きパワー、マンガ好きパワーや将棋好きパワー、何かを熱心に好きであることってなんでこんなにパワーがあるんだろうか。そういう心の状態に「嘘がない」ような気がする、自他それぞれを疑わずに済む、というのはけっこう大きいような気がする。(ひるがえってそこにつけこむ悪どさもこの世にはたしかに存在しているのだが。)引き続き、花四段、応援したい。

9/11(日)
 忘れんぼう将軍、あわてんぼう将軍、おこりんぼう将軍、聞かん坊将軍、裸ん坊将軍。「暴れん坊」って絶妙だ。力持ちこそ暴れてはいけない。

画面のなかで馬が走っている

9/12(月)
 ファミリーレストランのモーニングメニューを食べに行く。お店屋さんがお引っ越ししている作業を見ている。外壁か看板の工事のための足場をくぐらせるようにおおきな業務用冷蔵庫をぐっと傾けて運び入れたり、踏切の溝にはまらないように台車を慎重に転がしたりしている。普段何のためにあるのかわからないオブジェに小さい子供さんが登ったり座ったりして、その子が満足するまでそのお母さんらしき人が待っている。いい景色の窓だった。

オムレツに模様それぞれ秋の朝

 スプラトゥーン3日記:バンカラマッチ初の昇
格戦に一度敗北(0-3)ののち、即「チャレンジ」無敗の5連勝で抜けて再挑戦。ようやく「A-」に。ナワバトラーも楽しい。ロッカーの飾りつけも。ヨコヅナにはまだ一度も勝ててない。

9/13(火)
 テアトル新宿の前を通りかかったらグッドバイ、バッドマガジンズのポスターを発見。

立ち止まって近づくとどうにか読める名前


9/14(水)
 かき氷を食べてしばらくは涼しい

 RPGのアイテムみたいだ。

 葬列の行進をYouTube生中継で見る。悲しい行進には専用曲があり、太鼓や金管楽器には黒い布が巻かれ……というような儀式の物珍しさが目を引くこと自体が、ある権威を権威化しなおす手助けをしてもいる。
 棺を載せた馬車を引く馬たちと、歩くのがきつそうなお年寄りだけが太鼓のテンポからすこし外れている。一度リズムを見失うと取り戻すのはむずかしそうだ。「左、右、左、右……」人に乗られていない馬がずっと人に乗られている馬に話しかけるように顔を近づけている。

9/15(木)
 ポスターと自撮りしておけばよかったのにそのときの私と今の私

 「私と〇〇」という形ではなくて、つい「〇〇」だけを写真に撮ってしまうのだけど、「私と」の部分がものめずらしくて私以外の人間からすれば面白かったり刺激的だったり気が合わなかったりするんだろう。そこを避けてしまうとなにかもうひとつ別の出来事が起こらない。私が私の「私と」の出しゃばりを恥ずかしがるのは何故なのか(ひとのを見る分には意外とぜんぜん恥ずかしいものではない)。

9/16(金)
 夜、Mさんから電話。三時間近くしゃべっていて、後半はずっと自分の話をしちゃってよくなかった。最終的にはMさん寝落ち。そんなことになるまで付き合ってもらってありがたいやら申し訳ないやら……「すみません、ありがとうございました、また連絡します、すみません」といびきに向かって挨拶して電話を切る。

トンネルの行き止まった先の寝息

9/17(土)
 「いいよなおじさん」はすごい。「〜はいいよなー」と言うのを本心から思っているかどうかはもはやわからないのだが、"共通の好み"をダシに人と近づきたがっている寂しさと間抜けさ。長々シリアスに描写するより一瞬で人間のよからぬ芯をくり抜いている。あと「カオナシ」も欲望のよからぬ有り様に対してものすごく的確な描写だとときどき思いかえす。ただ、私にはあのカオナシについておいでと言ってあげるほどのやさしさがない。断固拒否して、あとは怒り狂ってやがてしぼんでいくのを見ていることしかできない。薬湯の札をもらって助かったのは確かなんだけど。千尋はえらい。

金と仮面とお前の気分にサヨウナラ


9/18(日)
 遠巻きのさびしい親切

 夜、Yさんに電話。珍しくつながる。費やされてきた長い長い時間に目がいく。サンクコスト。しかし考えるに値することを考えよう。スプラトゥーン3、ヒーローモードを終える。

9/19(月)
 台風の影響で天気不安定。ずっと荒天というわけでもない。ただ被害が最小限になるといいと安全な場所で一人勝手に願うことの不均衡さにグラグラした気分。スプラトゥーン3、はじめてヨコヅナ討伐に成功。ラジオをつけっぱなしにして眠ってしまった。

なじみのないタイトルコールに起こされる

9/20(火)
 Twitterに載せない下書き。

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なにか一言ムリヤリにでも言おうとすれば「それじゃ同じ穴のムジナじゃん」である。百言与えられれば百言言うことはある。しかし少なくとも今でもなければ、ここでもないし、もっと直裁に言えばその機会は(現実に限れば)永遠にない。怒りは怒りとして、悲しみは悲しみとして、残念さは残念さとして。
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どんなに飾り立てても「公共性のない、いびつなサークル活動が幅きかせてる」という点で同じ穴。
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ソーシャルメディア見ない、んじゃなくて人がなにを言ってなにを言わないかを俺は目に焼き付けますよ
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俺のいま思ってることをつとめてリテラルに書くなら、"殴っても問題にならなさそうな立場の弱い人間を選んで殴る人間やそれを積極的に/消極的に容認する人間ではない人間と一緒に『ゴドーを待ちながら』をやりたい。"です。
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ぶん殴ってきたやつに向かってやがてのちにはレストインピースと言えたかもしれなかったが、ぶん殴ってきておいて自分で条件決めて勝手な一線引いたりしてマトモに謝ってこないポーズだけのやつにRIPRIP言ってたらどうかしている。
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俺は俺でちゃんとキレつづけているから大丈夫です
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「謝罪文を出すために謝罪したいがもし謝罪文が出せないなら謝罪しないってハナからそれ謝罪する態度じゃないでしょ間に入ってる組織がガンなのは明らかなんだからノーガードで来い話はそれからだろいい歳こいて何やってんだ」と言う準備だけはしていた。そのフレーズを使う機会はなかった。
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できることはなにもなかった。相手不在の相撲だ。見てただけ。人間は目の前の他人をこんなに無視できるのかと驚いた。ムカついて平気そうなやつ選んで殴るのも人のせいにしてみるのも情に訴えようとして手紙書くのも演劇やめる宣言して見せるのも権威としてのポジションキープもすべて、相手がいない。
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感情的負債を立場の弱い、姿のはっきりしない人間に押しつけ、「芸術」や「自分史」に対する自らの感情的利益を最大化するには、問題を別のなにかで中和し、無視するのが最適解だ。原因を被害者に求めてみたり「被害者保護」を名目にしてみたり。あらぬ天秤を準備して吊り合わせてみたり。当人のみならずオトモダチたちも、そのようにしてそれぞれの利益を得る。
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「ほだされる」って「絆される」って書くんですね。はじめて知った。予測変換に出てきたときにちょっとゾッとした。「1.情に引きつけられて、心や行動の自由が縛られる。/2. 身体の自由を束縛される。(goo辞書より:https://dictionary.goo.ne.jp/word/絆される/ )」 情と心は別物なんですね。俺は心を大事にしたいと思う。
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私の個人主義。
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 めったに登場しない一人称が現れる。死んだらすべては美しい思い出だろうか。バカ言ってんじゃないよ。

9/21(水)
 秋めく。スプラトゥーン3バンカラマッチA+→Sランクに。

9/22(木)
 何が無視されているか、ふと冷静に考えると、ほかならぬ私のことが無視されているのだ。びっくりする。笑顔と感謝と「ちょっといい話」で塗り潰す。エクスキューズすらなし。はたして私が「逆の立場なら」とわざわざ考えてあげる側の立場だろうか。我田引水、厚顔無恥。私はさておき誰やわからんやさしい人が傷つくばかりだ。「なにかを愛する心」がハックされているし、私からすればその道筋はすでに奪われている。崖崩れ、通行止め。親しみではなく、人間性を基軸に置きたい。

9/23(金)
 当たり前みたいな顔をしてパーカーなんぞを着て秋を受け入れている。連休初日の高速バスに乗って渋滞に向かって突っ込んでいく。きわめてゆっくりした速度なので通常ビュンビュン通り過ぎてゆくものがよく見える。八王子付近の建物の色のファンシー率が妙に高い。お墓参りというか、お墓巡り。何回聞いても誰がどういう関係の親戚なのか覚えられない。祖母のコンデジでいい写真をいくつか撮れたけどデータを入手する手段はない。日帰り。ぬいだ服から線香の香りがする。

9/24(土)
 スプラトゥーン3:フェスだ。変な時間に寝たり起きたりしてしまう。さらにそのせいで連絡が行きちがってしまったりもする。

9/25(日)
 スプラトゥーン3:フェス続く。とりあえずトリカラバトルで一勝、を目標にするもそもそもトリカラバトルがぜんぜん出てこないのだった。
 
9/26(月)
 曜日感覚がおかしい。
 
9/27(火)
 スプラトゥーン3:バンカラマッチのウデマエS→S+0に。

 亡くなったひとへの思いは個々にあって当然だし、そもそもひとは死ななくて済むなら死なないほうがいいと(言葉にするとばかみたいだけど)思ってるし、中でも暴力の被害者として死ぬなんてほんとうにひどいことだと思う…という「思い」のレベルとはまた別に、民主政国家における人間の平等だとか法治国家における手続きだとか、いろんな面から筋の通っていない催しを強行するのも、またぞろここぞと泣いて見せるのも、それを大きく取り上げるのも、妙な話だ。いまだに「あの手口学ん」で"政治の美学化"だ。どうかしている。
 それにしても、ついさっき見た、とまでは言わないまでも、よく似た風景である。よく似た風景のうちのひとつをあくまで批評的にまなざし厳しく指弾する一方、もう一つの風景の中にはすっかり紛れ込んでいるようなのがちらほらいるのはどうにも納得できないが、その辺がどうやら人間の知性や感性の限界なんだろう。なにも疑問に思いません、信じましょう、すこしでも揺さぶるやつは敵、みたいなわかりやすい二元論で人間の単純な欲望を包み込もうとする全体主義は言うまでもなく論外なんだけど、一見まともにおかしなことはおかしいと言っている様子であってもよく見れば問題を測る物差しを相手に応じて出したり引っ込めたりする権威主義・縁故主義が服着て歩いてるだけの人間がやってるのは畢竟わかりにくい全体主義、仲間主義でしかない。安直な全体主義を避けたところで仲間主義ではますますダメでしょう。感性で独断するようなのが簡単に陥るのが仲間主義なんだ。サル山のボスやナンバーツーなんかやっててもしょうがない。人間に残されているのはヒューマニティーだ。生きるために人間性を捨てるなんてトンチンカンな話はない。人間相互の自由を尊重する個人主義が、根底になくてはならない。(だが、そう考えるあまりわたしは身動きがとれなくなっているんじゃないか……)

9/28(水)
 スプラトゥーン2:月が変わる前にガチエリア計測完了→2070.9。人がぜんぜんいないらしく、計測完了後は「時間内に人数が集まりませんでした」。Bバスパークむずかしすぎ。ギリギリX。

9/29(木)
 たとえば詩を声に出して読むというのはなんらかのプロフェッショナルによってだけ為される仕事なんかではなく、誰にでも行うことのできるそこそこパワフルな魔術みたいなものだ。あなたの部屋に響く声が、よくできた完成品である必要なんてない。で、だったら私はどうする、ということにもなるけど。
 よくできた完成品でなくてもいいが、それぞれがそれぞれの部屋でそれなりに機能するには、と考えるとたとえばIKEAの家具だ。最低限の転倒防止策と言葉のいらない組み立て説明書。棚板の位置を変えることができる。色を塗ることもできる。耐久性に問題があればホームセンターで木材とT字金具とねじを買ってきて背板を補強する。そういう手順と材料を示すガイドサインはあってもいいと思う。たとえばそういう、演技教室。なくてはならないというか、あってしかるべきと思う。

9/30(金)
 通学路芒だらけの待避線

 新幹線に乗ってお墓参りシリーズその2。雪の降る寒い日に分厚いパジャマのままフーセンガムやフェリックスガムを買いに行った旧祖父母宅ご近所のホームセンター的役割の商店を再訪したり(ガムの類はなかった)、回転寿司を食べたり、かつて駅のなかにあった喫茶店の本店に行ったり、もう撤去された展望タワーのふもとに行ったり、昔はフルーツパーラーもやっていた八百屋さんの前を通ったり、もうないものを確かめる記憶めぐりの旅だ。あの洋食屋さんもあのタレカツ屋さんもGoogleマップによれば「閉業」。夜の街の気配のすぐ裏手にはお墓が広がっている。お墓ビュー。ホテルにはお手頃価格のルームサービスがある。

10/1(土)
 天気がいい。朝食バイキングで「その土地のものを食べたい」気分をイージーに満たす。お墓から歩いて海に行く。途中、会ったことのないひいおじいさん・ひいおばあさんの家があったであろうあたりをウロウロしてみるが、特定するほどの手がかりはない。自力ファミリーヒストリー。汗かく暑さ。坂口安吾記念館やら砂丘館やらを通り過ぎて、おそらく小学生の頃以来のマリンピア日本海へ。イルカが水中で立ち(?)止まってくれたのでツーショット写真を撮った。イルカショーに合わせて一羽のカラスがやってきて、カアカア言ったり背景の木の枝に留まったり楽しそうにしていた。「ナガヅカ」という名前の種類の魚がなんだかふてくされていた。ちいさくてとげとげした「コンペイトウ」という魚もいた。キャッチーなのに他であまり見た記憶がない。ペンギンやビーバーは意外とはっきりカメラ目線をくれる。水族館を出て、傾き始めた日に照らされながら日本海に手を浸す。近くにある二つのバス停を行ったり来たりして時刻表を真剣に見比べていたが、なんのことはない、いざバスが来てみると同じ路線のバスが続けて止まる停留所なのだった。
 本屋さんの中にあるカフェが暗くて静かでとても元気が出る。本屋さんや図書館にあるカフェぐらい好きなものってあんまりないと思う。
 帰宅。『オールスター後夜祭』のなかのワンコーナー、「49℃の熱湯風呂常連じいさんだぁ〜れ」エキストラの俳優さんたちと本物の素人さんの違いがそれとなくわかる(したがって圧倒的に正解者が多い)のが興味深い。サービス精神で「熱い風呂入ってそうなおじいさん」を演じて見せるのと、平然と(当然だが)本人が動いてしゃべっているのがぜんぜん違って見える。FUJIWARAフジモンの「一週間に(蒲田温泉に)何日通ってますか?」という質問に対し、かすかに息を吸って表情を作ってから「四日」「三日」と答えるエキストラチームに対し、間髪入れず「一日おきだね」と答える本物。

10/2(日)
 昨日買って帰ってきた駅弁を食べる。

10/3(月)
 コメダ珈琲で梨ジャムのついたトーストを食べる。

10/4(火)
・死んだ愛犬の写真のスライドショーが自動的に流れてくるFire TV Stick
・要保存の袋→「安価で手軽な写真」
 あとで書く日記用のメモ、のつもり。『舞踏会へ向かう三人の農夫(下)』だ。うっかり読みそびれたままになっていたのを発掘したのだった。何年も前に友達がくれたしおり(竹製で、雨ニモマケズ…と職人さんの手彫りで刻まれている)がはさまっている。風が強くて、マンションの周りに仮組みされた足場のカバーが音を立てて揺れている。そのてっぺんにとりつけられた、緑と白の縞模様の風船が真横に泳いでいる。風速を視覚化するための風船がその役割をちょうど果たしている。
 だれかが要保存の袋に入れたから、いまそれがそこにそうやってある、ということ自体がなにかである。つまり、単に入っているものが宝物かガラクタか、とはまったく別の価値、別の意味がある。写真機の登場によってその"保存袋"は飛躍的に手に入りやすくなったわけだけど、その結果として思わぬところで行き合うことにもなる。残されたものは「だれかにとってなにかであったなにか」を表現せざるを得ない。

10/5(水)
 油断すると夕方に寝ちゃう!

10/6(木)
 冷たい雨がしんしんと冷やす
 主に出窓の枠を

 このところダラダラ読み直していた『翻訳夜話2 サリンジャー戦記』(村上春樹・柴田元幸)をあらためて読み終える。中にインクのかたまりがひとつ、ちいさな虫の死骸が一匹。『ライ麦畑でつかまえて』といえば自分の体験に即すなら『14歳の国』での引用のことは避けて通れないのだけど、あわてずに置いておくことにする。ベタだけど、冬かよ。という気候。

10/7(金)
 寒さつづく。暑さや寒さが長い周期で繰り返されることで、前の季節のことを忘れてしまって毎度新鮮に感じると同時に同じような質感の空気に触れたときの古い記憶がふと浮かび上がってくる、というのが季節が巡るのに伴った体験の通例だけど、こうやって急に寒くなられると何も感慨が浮かばない。自分の人生にあまり前例がないせいだろうか。

10/8(土)
 スプラトゥーン3のスタートダッシュ杯小学生の部を配信で見る。事前にやろうと決めてきたポーズが揃わない感じ、保護者と思しき集団が最前列に交代で座る感じ、こどもたちと大人たちがたくさん集まって行われる催しの大変さと面白さがギュッと凝縮されてる瞬間があって、つい笑っちゃうんだけどなにか真剣に見てしまうところがある。そして小学生、ちっちゃくてもうまいひとはうまい。
 ダラダラと「お笑いの日」TVプログラムを見続ける。ランジャタイ×ダイアン津田がダントツで面白かった。フィクションから降りずにきっちりやりきっているのがかっこよかったし、ここは一間空ける、とか、ここで顔を上げる、みたいな細かな時間感覚がいちいち丁寧で素敵だった(作り手の仕事なのか演じ手の仕事なのかは気になるところ)。夢に見そう。かが屋とコットンの連携プレイ、採点発表直前のとんでもなくシリアスな場面だからこそ、優しい。最高の人間とクロコップは二本目見たかった。


10/9(日)
 朝、アメリカでしか展開してないピザチェーン(パパ・ジョーンズ)がスポンサードしているスプラトゥーン3のトーナメント配信を見ていると、何人かの選手名・キャスター名の横におそらく本人が呼ばれたいと希望する代名詞(he/himとかthey/themとか)が表示されており、ナルホドーと思う。当たり前のようにそうするのはいいことだ。
 ところで、私が日本語でしゃべったり考えたりするとき、性別で区切られた代名詞を使う機会は少ない…というかそもそも「リードされた!」は「We lost the lead」だし、「ガチヤグラをうばわれた!」は「They took the tower」だし…(またスプラトゥーンの話ばっかりしてる…)主語、動詞、目的語!が基本的な骨組みとしてある英語(などの諸言語)と比べると、日本語は妙に主体のぼんやりした状況の記述になりがちだ。(「言わずもがな」「言うまでもない」ことが誰かの手に都合よく握られた場合、そのぼんやりの間隙を突かれることになる。主体について考えない、というのはとてもあやうい。)脱線。
 で、私の話に戻るなら、私はhe/himと表示してもらいたいかどうか自分に問うても自分ですぐにわからなかった。なにしろ代名詞を間違えられる経験がない(とても小さい子どもの頃に女の子に間違えられることはあったけど、ぜんぜんそういうことじゃない…)。なので、いっぺん自分の体験から考えてみる。たとえば名字を間違って呼ばれる場合はけっこうある。間違ってたら訂正するし、それを「放っておけばいい」とは思わない。呼ばれ続けると定着しちゃうし。そこで「呼びたいように呼べばいい」と簡単に言い放ってしまえるのは、自分は困ったことがない、と言ってるだけに過ぎないんじゃないか。
 ちゃんと呼んでもらいたい、というたったそれだけのことを「ことさらに主張している」と言い募るひとびと(うらぶれた匿名インターネットからカルティック政治家まで…)が残念ながら頭のなかに思い浮かぶけれども、だからこそそれが特別なことでない、と示す意味で、私が私の名前の横にhe/himと書くのがもし微力でも役に立つのであれば書いておけばいいんじゃないかと考えてみた、ひとまず。(けっきょく私のなかにどう呼ばれたいという欲求や必然性がない以上は、仮にsheと呼ばれても「おいおい、わしゃ船か」と言って済ませてしまえるイージーな立場なのだ、よくもわるくも。どうしても非当事者だからパブリックを考えるように努力する必要がある)
 昼、Iくんから誘われて『ラム』見に行く。街はギュウギュウに混んでいて、逆に現実感がない。 遅刻ギリギリ。映画館も混んでいて、なんでこんなに混んでいるのかはちょっとした謎だった。Sさんはふだん東京にいないので久々。Aさんは急な咳が出てきたので帰る。体調もそうだけど、すごく申し訳なさそうにしていたのも心配(あとで問題なかったそうで、よかった)。都合4県のお土産物が机の上でぐるぐる交換される(並べると私のお土産がややしょぼめだ。おいしいけど)。ひさびさに居酒屋から居酒屋への移動。Hくん合流。二軒を渡り歩いて、一軒目、ささやかで参考になるちょうどいいオススメと、二軒目、テーブルに来るたびに毎回どうにか注文を無理やり引っ張り出そうとする『北風と太陽』ぐらい見事な寒暖差の接客を体験した。できれば後が太陽のほうがよかったけど…

10/10(月)
 スプラトゥーン3は相変わらずこつこつやってるんだけど、テイストの部分、色使いやキャラクターのやりとり(2のニュース場面では各ステージごとにたくさんの有用な/どうでもいい情報があって、いまだにはじめて聞くトピックが出てきたりする)に関しては不意に2を懐かしんでしまったりする。3のほうがスピーディだし細かな—たとえば敵味方がダウンした瞬間の—演出や裏をとるルートの少なさゆえに状況把握はしやすいし、ナワバトラーもあるし、ゲーム内通貨もいいバランスで回ってる(常にもう少しあったらいいなと思える)し…ゲームシステム的には(おそらく良い方向に)進化してるにもかかわらず、もし3から始めてたらここまではハマってない気がする。
 私はグループLINEが超苦手だ、ということにようやく気がついた、というか、急に言語化できた。気づくとは言葉の発見だ。宛先を明確に個人に限定することで苦手を乗り切れる気がするけど、だとするとますますグループLINEとは?と思ってしまう。

10/11(火)
 夕暮れどきの空が美しい。そういうときにたくさんの修飾語はあんまり役に立たない。
 『グッドバイ、バッドマガジンズ』の宣伝のために新宿をうろうろするというので出かける。誰かと一緒じゃないとバーに入らない小心者なので、こういう機会はたいへん楽しい。お店(Dudeというお店。ビッグ・リボウスキ!)で掲示していただくポスターを前に、サイン作ってない問題が自分のなかでふたたび勃発する。いつのまにかみんなサイン作ってささっと書いてるけど、どういうタイミングでそれ、定まったの? ってほんとうは聞いて回りたい。聞かないけど。でも今度聞いてもイヤな感じにならなさそうなひとに聞いてみようかなあ。名前をただ楷書で書いてもいいんだけど、意識してない感じをひとたび意識してしまったらもうなんだか恥ずかしい……というような書く側の事情はどうでもいいとしても、なによりサインにとって重要な「ありがたみ」が足りないような気がする。誰かからサインをもらうとして、なにか型や工夫があったほうが絶対に楽しい。「サインないんで楷書で書いちゃいますね、すいやせん」はなんか、どうも、もったいない。そこは思い切り気取って嘘をついてもいいタイミングだろう。それと、少なくとも当面の間は同じサインを書き続けないといけないと思う。これも「ありがたみ」の問題として。むむむ。ポスター貼りが私のサイン待ちになるのもヤバい。というわけで、とっさの筆の運びで"私のサイン"が完成することとなった。さっそく二軒目でもそのサインを書いた。慣れない。でもこれで次から私も当たり前みたいな顔をしてサインを書けるわけだ。こんなことわざわざ書いてたらありがたみもあったもんじゃありませんが。

10/12(水)
 Yさんから電話。立場は違えどニッチな怒りポイントを共有するなどする。応援もする。チャーリー・ブラウンの話は意外と通じなかった。今度スヌーピーの漫画を一冊あげようと思う。

10/13(木)
 たとえば電気をつけずに昼寝て、ほとんど暗くなりきった夕方に起きると、犬が留守番していて人間が帰るのが遅くなったときの風景はこんなだったかな、と思う。

10/14(金)
 見に行こうと思った映画が満席! 思えばウェブ予約システムが普及して、このパターンが増えた。きちんと予定を立てる派の人たちにとってはとてもいい世の中なんじゃないか。なんでもいつ行くか直前まで決めない派(なぜだろう?)としては、たいへん難しいことになっている。ともあれ、関係者の方から直接前売券を買って、それが使えないというのは、損といえば損かもしれないが、めでたいといえばめでたい。そして財布のなかに残るは前売券。

10/15(土)
 新宿へ。「ゴールデン街の5番街にはどう行ったらいいですか?」交番でお巡りさんに聞いてみるとプラスチックの巨大な下敷きみたいなものに挟まったゴールデン街の白地図を出してくれる。若い方がえーと、という感じになったところでベテランの方がパッと説明を引き取って、手前から1、3、5と並んでて、2と4はどうやら縁起が悪いらしくてナイんだけど、「あかるい花園5番街」ね、順に進んで左の看板見たら書いてあるからね、と教えてもらう。縁起の部分でもうすこし歴史を聞きたくなったり(2は「不入り」みたいなことですか?)しながらも、お礼を言って先発隊と合流。客席ぎゅうぎゅう、路地も行き交う人を交わしつつ。ひさしぶりに会ったNさんSさんMさんYさん、ようやく会えたYさん、数日来のYちゃんMさん、めちゃくちゃ久しぶりにこんな夜を過ごした、と思うような夜(そして朝)だった。帰り道の空がいい具合だったので自転車に乗りながらブレブレの写真を撮った。のんきもの。

10/16(日)
 徹夜明けにどれくらい元気があったのか、なかったのか、「30過ぎたらきつい」的なのはどうなのか、いっぱい寝てしまうとよくわからない。元気。

10/17(月)
 ドリンクバー飲む。マスクを外した顔をガン見してくる若い男の店員さんがいた。マスクがあるとフリオチみたいな感覚が強まるかもしれない。私を凝視するのは赤ちゃんから小学生ぐらいまでが多いので、それが大人の場合は勝手にその人が「小学生の心を忘れないタイプ」ということにしている。

10/18(火)
 このところサリンジャー、『ライ麦畑〜』のことを考えてたところに爆笑問題カーボーイで太田さんがアーヴィングと会ったときのエピソード。ヴォネガット、サリンジャー、アーヴィング。そこから延々『ガープの世界』の筋立てを語っていく。もう読んでるのに面白い。確固たる信念とそれぞれの人生がすれ違うおかしみと悲しみ……

10/19(水)
 オードリーのオールナイトニッポンでも『フィールド・オブ・ドリームス』の説明のために一瞬サリンジャーの名前が出てくる。

10/20(木)
 洗面台の蛇口根元付近から水がチョロチョロ漏れており、応急処置で元栓を閉める。お湯と水が別口で来てるのがわかった。

10/21(金)
 低解像度でにじんだ顔に、不安を見出すのか吉兆を見出すのか、見ているひとの心持ちひとつだ。見る人と見られる人は互いに目の前にいない。ほんのりしたうなずきや笑顔が、不安を感じさせないテクニックとしてとても有効に働くだろうなと思う。

10/22(土)
 お祭りにちょっとした悪態をつきながらウロウロするのはそれはそれで楽しいものだ。

 HASAMI Group『パルコの消滅』を一通りスマホの小さな画面で見る。うっかり漫然とスマホで見始めた結果、ながら見もバックグラウンド再生もできず、かえって集中して見た。YouTubeの仕組み上、プレミア配信時のコメントがそのまま封入されていることで、より孤独に、コメントの群れとはぜんぜん性質の違う曲中の言葉がより際立って見える。定型文や憧れやノスタルジーを飛び出して表現に向かうことのひとりぼっちさが凄まじく、ベッドに寝転がって見ているだけの自分が生ぬるいコメント群に食い尽くされているような気持ちがした。『詩とスマートフォン』あまりにも率直。

10/23(日)
 早歩きでピザをとりにいく。うまく眠れなくてだらだら起きている。

10/24(月)
 なにかを書いてみる。

10/25(火)
 寒くなってきた。

10/26(水)
 あちこちオードリーの「ボンネットを開けて見る」のたとえが面白い。

10/27(木)
 悪夢で目が覚める。
 Twitterで見かけた英語(おそらくアメリカ人の)アカウント曰く「カニエ(・ウエスト)にこういうTシャツ作らなきゃね」で画像が地面にステンシルで吹き付けられた"STOP MAKING STUPID PEOPLE FAMOUS"。カニエに限らずこの文言があてはまるケースは多く、つまり誰がどうやってメイクしてるのかってことが肝要であるはずだ。ときに産業として損得の観点から「ありがたがる」こころを利用する、という様相があからさまになっている以上、その仕組みを問題視するのは当然だが、仕組みに対する批判的な眼差しをただの陰謀論にすり替えられてはいけない。「巨大な"やつら"」ではなくて、むしろその利用されっぱなしのこころを取り戻す必要があるんじゃないのかなあ。おそらくメイクしているのは"やつら"ではなく"わたし"たちです。

10/28(金)
 『グッドバイ、バッドマガジンズ』初日、お客さんとして見に行く。ついつい舞台と比べてしまうと、映画は出てるのに客席から見られるし、スクリーンのなかの私は(というか誰もが)失敗しない。気楽だが、どうすることもできない、とも言える。すごく不思議。スクリーン上の私より、客席にいる私のほうが幽霊のようだ。まとまった量の演技をして、それを劇場の客席でお客さんと一緒に見なければこんなことはいちいち考えなかったような気がする。連動して笑ったり一息ついたりしている客席の呼吸が、その貴重さもあいまってグッとくる。でもそういう余計なことを考えながら、とても楽しんで見ることができた。エンディング曲が流れてくるときにゾワゾワする感じ、とてもいい。

10/29(土)
 題材に比してdiscreet、というジャパンタイムズの評、とても的確だと思った。言うべきことを一通り言っている(性的搾取に対する直接的な言及のなさが指摘されていることも含め。この問題とは正面衝突しないものの、社会のありさまへの視点をある程度補っているのはたくましい女性たち、たとえば子供を迎えに行く女優さんやBL班の存在だと私は思う、のだけれど、劇中BL表現が二次元=架空の身体から出発しているのに比べると、(劇中の)男性向け成人コンテンツが平然と実在の人間の身体を賭け金にしている点ではまず大きく異なっているわけで、あくまで「ある程度」ということになるだろう)。
 二日目、日によって笑いのポイントが違うのが面白い。シーンがオチきってから笑うこともあれば、パス回しのところでピークが来ることもある。かつて私が劇場で今日はここでウケただのウケなかっただの思い悩んでいた(実際あんまり悩んでないけど)うちの半分くらいは、おそらく客席のコンディションによるもので、ベストを尽くすことはできてもコントロールすることはできないのだから、視点をきっぱり変えて自分の基準を持つべきだろう。なにかを面白くするのは、そのときどきのウケを気にすることとはたぶんぜんぜん別の問題。

10/30(日)
 三日目。スクリーン上で次に起こることを知っているはずなのに気持ちがあっちこっちにいったりちいさく発見したり風景を楽しんだりする。何度も乗ってる路線でも新幹線の景色は毎度楽しい。みたいな。
 心配と期待がわざわざ言葉にされることのありがたさ、うれしさ。

10/31(月)
 昼過ぎ、喫茶店、牛丼屋さん、喫茶店。DFTWの話を聞く、フィクティシャスという単語の話をする、など。平日しか登れない見晴らし台の話がとにかく印象的だった。餅を絵に描くひとたちと、作業するひとたち、そして旅行者たち。紀伊國屋書店に『布団の中から蜂起せよ』を探しに行ったら隣の棚が『お金の増やし方』『お金を増やすには』『お金に好かれる人になる』『いますぐ金(きん)を買え』と怒涛の並びで呼びかけている。あまりの落差に笑っちゃったけど、ぜんぜん笑いごとではない。アイスココアをじりじり飲んで夜を待つ。

 口語の中に出てくる「クソ」はぜんぜん引っかからないけど、文字で読むと妙に引っかかる。単に強いとか汚いというよりは、そこでそのように発語している書き手の身体が見えないので、伝える労力を省略しすぎ、ということになっているのが引っかかりの原因なんじゃないかと思う。ソーシャルメディアは口語扱いしてしまうのに、紙上で読む書き言葉としてはファウル、みたいな微妙な線引きを自分の中に発見する。
 上映四日目。舞台挨拶登壇。映画本編が終わって拍手が起こったのを廊下で聞いていた。フットライトが逆光になって観客席の気配はわかるけど顔が見えず、とてもふわふわした気持ち。『パレード』を聴いて(ナギサワさん、すごい。心の底のほうに沈んでいるものをぐっと掴んで垂直に両手で高く掲げるパワー!「稲妻系」との名乗りに納得する……)、えもいわれぬ感慨にとらわれて(略してエモい)、結局なに喋ったか全然覚えてない。15年来の友達のとなりで、普段はお客さんとして来てる映画館の、ほぼ満員の客席に向かって舞台挨拶。ヘラヘラしちゃう。

11/1(火)
 五日目。満員御礼ということで劇場に顔だけ出して帰る。劇場はいい。今さらながら劇場で見る映画や演劇のよさとは別に劇場のよさってある。人がいることを想定した機構。わ、文明だ、と思う。劇場の廊下で。
 家に帰ってくるとなんだか気持ちが暗い。眩しさとのギャップは絶対にある。いいときこそあるだろう。

11/2(水)
 地味な悪夢で目覚める。六日目、昼の時点で完売。夕方、明日の分も完売。誰かの知名度や集客力がなきゃ計算が立たず、企画がはじまらないわけで、私がその点で(少なくとも今)ほぼ役に立ってないんだけど、こうして人が人を呼ぶようになった作品のよさについては、少しは貢献できただろうか。ともかくよかった。なんともいえない暗い気持ちは続いている。

11/3(木)
 上映最終日。観にきてくれた友達とはすれ違い。年明けの拡大上映が決まる。まだまだ語られていないことがたくさん埋まっている映画なので、多くの人が見て、ふさわしい言葉が見つかるといいと思う。作った人や見た人の熱が伝わっていくといいと思う。
 ちょっとした打ち上げあり、缶のプルタブで手を切る(その後、約十日でほぼ治った)。まさかのタイミング、同じ店の同じ空間でMさんとばったり会う。ライブおすすめされる。

11/4(金)
 ゆっくり眠る。

11/5(土)
 まだ子犬の名残のある犬がケーキ屋さんに興味津々。観に行こうかと思っていた舞台は予約完売、当日券なしだ。誕生日。誕生日といえば、で、自分の誕生を思い出すことはできない。誕生日に思い出すのはまた別の誕生日の(あるいはぜんぜん別の日の)思い出だ。
 スプラトゥーン3:ウデマエS+2→S+3→S+4に。

11/6(日)
 なんだったっけ。そろそろ日記はまた別ページにしようと思っている。

11/7(月)
東京→奈良
 京都から近鉄ではなくJRで奈良、さらに乗り換えて、京終(きょうばて)、櫟本(いちのもと)、長柄(ながら)、巻向(まきむく)…読めない! 大神神社、狭井神社〜東大寺、東大寺ミュージアム、二月堂、あつあつのわらび餅、鹿に手をぺろぺろされる。
 緊張感のある洋食屋さんで夜ご飯。おいしいが、緊張感はないほうがご飯はおいしい。文化の香りのするアーケード街の大きさ、手に負える感じなのがとてもいい。チェーン店ではないお店が並んでいる。古書店、地域のFMスタジオ、東南アジア料理…。突然のクーポン券でアタフタ。挙句、うっかりしたお土産(鹿の角でできたお箸)を買ってしまう。

11/8(火)
奈良→大阪
 三条通りをダラダラ進み、猿沢池から興福寺に上る。目の前で聴く鐘の音はアタック音が強力で別物。国宝館の阿修羅像のダンサブルな3D感。そこにあって、自分がまわりを動くとぐっと違って見えてくるシルエットのよさは写真ではなかなか伝わりきらない。立体はすごい。東金堂ではちょうど偉いお坊さんチームが新型コロナ終息を祈る念仏を唱えていた。コーラスのまとまりのよさがミニライブのよう。奈良の仏教系観光地ではずっと「推し」と「表現」について考えていたような気がする。県庁の一階にある喫茶店でお茶。店名、なぜかフランス語だ(それ、英語にすると「ザ ・カラー」です)。せんとくんのマグカップが控えめでかわいい。エレベーターで屋上にのぼり、三方向を一望。お金をとらない双眼鏡があって、生駒山のアンテナ群を何度も見てしまった。「大阪からのテレビ放送の電波を奈良に届けるために頂上にたくさんのアンテナが立てられてるんですね」きのう二月堂で中学生たちを相手にツアーガイドさんが説明していたのを横から聞いたんだった。100円バスでぐるっと遠回りして、時間調整のバス停で世代の違うバス会社の二人組がしゃべっている奈良の関西弁を聞くともなく聞いて、夕暮れの飛火野の鹿を見て、駅へ。
 ライトアップされた御堂筋を歩いてひたすら南下している途中、空にカメラを向けている人多数。月食だ。錦橋、との表示のある橋にちょうど座れる植え込みを見つけて、おしりを冷やしながら皆既月食を見る。フェスティバルホールの入った建物の壁には空中で巨大な人間が伸びをしているようなモチーフの彫刻があって、なんともいえない昭和の名残を感じる。漫画で知った船場センタービルを通り過ぎ(思ってたよりクリスマス飾りがハイテンションでお茶目)、一本左のアーケードを進んで、戎橋、グリコ。なんばグランド花月付近でたこ焼き食べて、地下鉄で梅田付近に戻る。「しゃぶ亭」しゃぶしゃぶシメのうどん(ゆず?柑橘の香り)→杏仁ミルクアイスの流れがさっぱりとおいしすぎて感動する。料理って時間系芸術!

11/9(水)
大阪→神戸
 須磨浦公園直通の阪神電車に乗る。平民さんにオススメされて以来の須磨浦山上遊園再訪。三年ぶり。ロープウェー、カーレーター。展望台の入り口でちょうど榊原郁恵『ROBOT』(快快…)。ゲームコーナーで、おそらく約25年ぶりに「プロップサイクル」をプレイする(空飛ぶ自転車をこいで風船を割っていくアーケードゲーム)。回転展望喫茶で一周分の回転を満喫。カーレーターの揺れに行きも帰りも笑っちゃう。明石焼きを買うつもりだった交差点のたこ焼き屋さんはしまっていたので、お魚屋さんのパックのお寿司(鯛)を買って、須磨海岸の段差で食べる。
 夜、洋食屋さん「もん」でとんかつ定食。繊細な味付け! ゆでキャベツはほんのりカレー粉?の香り、とんかつの衣のサクサクと肉のやわらかさがとんでもなく絶妙なバランスで両立していて衝撃的。いわゆるヒレカツ・ロースカツの形をしていないのはこの食感のためなのか…と思い知る。時間経過を設計する料理への感動その2。

11/10(木)
神戸→新大阪→東京
 昼、ランチでアジアからの観光客に人気のステーキ屋さん。クーポン。北野の異人館街には荒れ果てた洋館もいくつかある。異人さんが帰ってしまったあとの家。にしむら珈琲再訪。夕方、JRで新大阪に移動して、お土産コーナーをうろうろ。行列の人気店(551蓬莱、りくろーおじさんのチーズケーキ)がある一方、アウトレットでハンディラジオを売っている統一感のないお土産物屋さんもある。アテのあるようなないようなお土産をいくつか買って帰る。

11/11(金)
 朝、お土産の肉まん食べる。人間の中から湧き上がる悲しみを、いくら抑え込もうとしてもそれだけではいずれ決壊するのではないか。もし、温泉が湧き上がってくるように、勝手に悲しみが湧き上がってくるのなら、必要なのは蓋ではなくて流路だ。

11/12(土)
 家の近所も旅行気分で歩いてみる。季節によってはたっぷり本を読めそうな広場を見つける。

11/13(日)
 かえる目のライブを見に行く。楽しいけど、なんだかくたびれるけど、それもひっくるめて面白い。私はそれがどんな種類の音楽であるにせよ手拍子をカツアゲされるのがとても苦手だと再確認した。宇波拓さんのタイム感がすごかった。ハラスメントの一件以来、すっかりかわいこぶってるおじさんを過剰に厳しい目で見るクセがついてしまっているような気がする。とはいえ「ぶりっ子おじさん」はえてして実際悪どい存在ではある……だからといって「マッチョおじさん」でも「ぶりっ子おじさん」でもないおじさんになろうとすると過剰に慎ましくなってしまうような気もする。気がしてばっかり。

11/14(月)
 作業のお手伝い(麺類2食分のはたらき)。なかなかない貴重な機会で目の前をじっと観察したり、我が身を振り返ったり、時間のことを考えたり。準備してきた量は意外なほどよく見える。小手先はバレる。たとえ能力値のマックスが出せてたとしても、あくまでポジションにしっくりくるかどうかが大きい。ガッツよりコミュニケーションだ。予断を与えたら越える必要がある(フリオチ)。適切な服装とは。生存確認テレフォン。

11/15(火)
 ほんのりとめまいがある(後日記:この数日後にめまいは消えた)。ふりかえると神戸あたりからだ。
 自分の傷をレバレッジの元手にしちゃいけない。等分の、傷は傷、怒りは怒り、悲しみは悲しみとして。

11/16(水)
 免許の更新。花園神社へ。ひさびさに見世物小屋のなかに入る。喫茶西武。週末の日中来るたびに満席なので多分はじめて入った。銀のお皿でカレー。「ものほしそうな顔」とは言い得て妙だ。Hくんに今度『コーリングユー』の台本貸す(備忘。後日追記:しかし次の機会にまんまと忘れた…)。余分に歩き回る。

11/17(木)
 ドリンクバー。100円ショップの靴下。蓄光つき断線ガード。

11/18(金)
 前にもらって冷蔵庫に入れていた愛媛県のお土産ゼリーを食べる。とてもおいしい。

11/19(土)
 ドラフトコント、チーム春日(野田クリスタル作)で圧倒的に笑っちゃった。ルールを考えてゲームを作る人らしさと、ちょっとした人間味(の計算)。チーム田中も笑ったけど、引いちゃった人(トリンドルさんの顔)を見て引いちゃう現象ってどういうメカニズムなんだろう。去年も今年も審査が変で、逆に安心する。マジじゃなさに、安心する。
 スプラトゥーン3:S+4→S+5に。ガチエリアばっかりやってる。

11/20(日)
 文フリ行きそびれる。演劇も行きそびれまくっている(ムニ、コンプソンズ、劇団なかゆび、円盤に乗る派、あの温泉地…)。あとカモノコテンも行けなかった。そびれ。
 戦争やってんのに、人死んでるのに(ウクライナで、あるいはカタールの建設現場で、あるいは日本の建設現場で…)、人権めちゃくちゃなのに、お祭りか、ワールドカップか……というような、ぼんやりしたイヤ〜な気分がある(実はうっすらとあらゆるものに対してある)。何ヶ月経とうが何年経とうがおかしいものはおかしいと言わなければならない。「前向き」であることが本来なくてはならないデコボコを均していく…… 巨大なロードローラーのように……批評や批判はある特定の状況にのみ許されるゼイタクなんかではなく、民主政国家の基礎なのだから、「前向き」な気分主義・ご都合主義・全体主義に惑わされている場合じゃないでしょ、って誰に言ってるやらだ。
 演劇に行かなかった代わりというわけでもないのだけど、夜中、聞き逃したラジオ(なぜかMacで「らじお」と打って変換すると「ラヂオ」が先に出てくる。そういえばそうかもしれないがだったらいっそレイディオだろう)をradikoで流しながら、長いこと置きっぱなしにしていた笠木さんの『モスクワの海』をパソコンの画面でようやく読んだ。「と、思ったけど、言わなかった」という意味のセリフがいくつも繰り返し出てくる。現実にはそういうセリフが同じ意味を持って出てくる場面はどうしてもない(もし同じことを現実の本人が言った場合には「〜言わなかった」とあえて言ったひとになるだけだ)。話せなかったひとと、話さ(れ)なかったことを話すために、この劇は書かれているのだろうと思う。いなかった人と出会って、話せなかったことを話す。ぽつぽつと置かれた言葉によって、話された/話されなかった言葉と実在の/存在しない風景が空間の中に同居している。そのこと自体が、書かれている内容とともに痛切だ。わざわざ言葉によって構築し直さなければなにもないことになるのが劇場の演劇の劇空間で、それで、じゃあどうする、という最初の一歩が誠実に踏み出されていると思った(自分でフィクションを書き始められないのはなぜなのか、ちょっとわかったような気がする。わたしには裏腹、みたいなものがあんまりなくて、大方言いたいことをわたし自身が背負ってそのまま言おうとしてしまっているんじゃないか…この日記みたいに)。

11/21(月)
 あの温泉地『サタニウムのベロベロバーのマーブルさん』に、自転車いっちょ漕いで。タイトル同様なに言ってるかひとつもわからないあらすじにはわくわくさせられる。そのわからない何かははっきりとはわからないままでありながら、追いかけていくとたとえ話としては実直で(たのしくて欠かせない余剰を抜きにしてしまえば表現と名声と人生、みたいな話なのだ)、ちゃんと社会派の作品だった。ほんとうは会うことができない、過去と未来(にはさまれた現在)の自分(の可能性)たちと話し合い、ない場所をうろつき、迷いながら選択を自己肯定し、誰もいなくなることなく、愉快に"サタニウムする"……俳優の(中野さんの)プロデュースで俳優たちのよさが出てくるのは希望。三者三様のぜんぜん違ういい姿、いい声。

11/22(火)
 新宿ウロウロ。時代錯誤のパワハラ全開人間が洋食屋さんの常連客として入口付近の席にどっかと座っており、あやうく星ひとつのレビューを投稿しそうな気分になる(もちろんそんなことはしない)。お店屋さんのせいにするようなものではない、もしそこに「お引き取りください」ボタンあったらたぶん全員押してる。単にいなくなってほしいのではなく、見えてないところでもそういうのはやめてほしい。いまが2022年とは思えない罵声と、フチのデコボコした銀のお皿だ。気になっているリュックの実物を見に行くが、探している色のがなかった。品物がメーカー別で並んでいる店と種類別で並んでいる店があって、前者は一体どういう都合なのか、メーカー別のほうが嬉しいお客さんはいるんだろうか、と疑問に思った。世の中そんなにメーカーのファンがいるのか。見比べて買うのに、まず、リュックはリュック、上着は上着じゃないのか。不思議。

11/23(水)
 スヌーピーの13巻、読みはじめる。12巻までは小学生の頃、新幹線に乗るたびに駅の本屋さんでこつこつ1巻ずつ買ってもらって、いまも本棚に並んでいる。横に置いて比べてみると紙の色がびっくりするほど違う。歳月の色。

11/24(木)
 東京タワーの近くから恵比寿まで歩く。なじみのペットショップの別店舗やら新宿にある洋食屋さんの本店やら警備のやたら厳重な住宅(たぶん政治家の家だ)やら灯りの極端に少ない真っ暗な公園やらを通り抜けながら、Spotifyで金属バットがネズミとゴキブリの話をしている(「聴漫才」)のを聴きながら、さらにそれが終わってダイアンの「羊のピンク」のネタを聴きながら、約一時間。山手線の駅のどまん前にこんなしっかりしたベンチありましたっけ? というようなベンチに座る。ロシア語っぽい言葉を話す三人組女性がやってきて、そのうち一人が隣に座る。私の耳ではロシア語とウクライナ語とポーランド語を聞き分けることは難しいし、彼らの見た目からルーツや出身地を推測することも不可能で、彼女らがウクライナからきた人なのかロシアからきた人なのか、はたまたポーランドからきた人なのか、似たようなことばを話す別の地域からきた人なのか、ぜんぜん判別できない。そりゃ私の能力からいえば当たり前だけど、たいへん奇妙なことのようにも思える。いずれにせよもしも道を聞かれたり写真を撮るように頼まれたりしたら、そこにいる人になるべく親切に応対するのに違いはなくて、考えても意味のないことではあるんだけど。ドトールでIくんと合流。レタスドッグを頼んだらレタス入ってなかった(「おまたせしました」「あの、レタスは……?」"一度ソーセージをどかしてあとから大きなレタスを挟みました"感のあるレタスドッグを無事食べることができました)。リキッドルームでエレファント・ジム。人がギュウギュウのフロアを見るのは、というか、そういう場所に立っているのは、久しぶり。MCでワールドカップの話になって、「アジアの人たち(わたしたち)」という言葉が出てきた。その括りのことをあらためて思い浮かべる。「欧米」というのも他人事だからってずいぶん乱暴だけど、アジアの人たちは外見も宗教も政治体制も自然環境も広範囲にバラバラだ。時々わたしたちアジア人たちとごく自然に感じる瞬間もないではないけれど、誰かの都合のためでなく「わたしたち」とわたしたちがそれぞれ思って口にすることができるだろうか、と思うし、少なくとも日本の側でそんなことを言うのは間違った響きを持つんじゃないか、とも思ったりもする。しばしばアジア圏のアーティストが日本語を話していて、自分は彼らの母語を知らないというギャップに遭遇するんだけど、なんか、その段差の均等じゃなさって、なんなんだろうか。英語だったら等しく(私はやや不器用に)意思疎通することはできるかもしれないけど、そういうことでいいのだろうか。と思ってだからといって勉強してるわけでもなく、こんなことをだらだら書いている。つまり、私は不勉強だ。これは大半いま書きながら考えたことで、実際のところライブは無心で見た(変拍子はつい数えちゃう)。ライブ後半になってMCで、言い忘れてたけど写真・動画OKといわれて、じゃあ撮るのかというと私はふだん遠慮してしまうんだけど、ためしに遠慮しない人の気分を味わってみるために一枚だけ写真を撮ってみた(「#エレファントジム最高」)。『夜洋風景』がとてもいい曲だった(曲名を調べるために音源を辿ったんだけど、ライブの記憶のほうがさらにだいぶよかった)。グッズは長袖Tシャツと迷って紺色のキャップを買った。台湾に行くときがあったら絶対にかぶっていこう。グッズといえば、快快の「極私的ラディカリズム」Tシャツ買えばよかったなあ(まだ言ってるよ)。渋谷まで歩いてデラックスカレーそば。渋谷というひとかたまりではなく、渋谷のあの辺、というローカルさをひさびさに味わう。

11/25(金)
 書きそびれてそのままなんだかわからない日。

11/26(土)
 寝る前にトイレ掃除する。ちょうどトイレ洗剤使い切る。

11/27(日)
 ピザ食べる。

11/28(月)
 スプラトゥーン日記:S+5→S+7に。遅ればせながら調べると、月末のシーズン終了までにS+10に行っておくかどうかで、次シーズンならびに今後のシーズン更新時のスタートランクが変わってくるということがわかる。得意じゃないガチホコとアサリでがんばった。今のところ順調に上がっているのでプレイ時間さえ積み増せば突破できるラインじゃないかと予想。

11/29(火)
 「主人公決めすぎじゃないですか、感想を抱く人たち」いつぞやのヒコロヒーの言葉の的確さに、うなる。誰かのマイナス面をよかれと思って切り捨てる(あるいはそんなつもりもないが結果的に「言わない」「書かない」)人たちのことを、他の人間の人生や時間を度外視してストーリーを積み上げることを、そんなに短い言葉でピッタシ言えるとは。誰かの書き起こしで読んでしまったが言ってるところを聞きたかった。
 俵積田(たわらつみだ)さん、という名字を知って珍しがっていたけど調べてみると私の名字のほうが人口少ないらしかった。「誰が言うてんねん」は「誰が言ってんだよ」と比べるとやさしいと思う。「ばか」と「あほ」、「そば」と「うどん」は関東・関西で地位に差がありすぎる気がする。
 クレヨンハウス閉店・移転のニュースに接して思い出すのは小さいころに併設のカフェで読んだ『ふくろうくん』だけど、絵本といえばなぜか今日ずっと『ロバのシルベスターとまほうの小石』のことを思い出してた(「ロバ 家族 魔法 石」で検索してタイトルにたどり着いた)。うっかり石になりたいと願ってほんとうになってしまう、ということが、いまの私にはよくわかる。
 スプラトゥーン3:S+8に。

11/30(水)
 スプラトゥーン3:新シーズン開始直前ギリギリでS+10到達(配信してみた)。昇格戦は○××○○でカド番から手に汗握りっぱなしの連勝勝ち越し。新シーズンはプライムシューターコラボ、スパッタリーヒュー、カーボンローラーデコ……使ってて楽しそうなブキが目白押しだ。
 セリフを覚える。セリフを覚えるときはセリフを覚えるのってどうやってたっけな?と毎回思う。

12/1(木)
 十二月! 余ったピザを一切れ温めて食べる。明日があるので、試合前半で寝る。明日はいつだってあるでしょうに。そういうわけでスプラトゥーンもおやすみ。

12/2(金)
 覚えたセリフ直前に大幅変更。時間がないのでいったん忘れてやってみることにする。
 ワークショップ(リハーサル)。面白がってやれてる一方、自分が演技でなにかを発散してる感があってちょっとどうかと思ったりもした。それにしても演技は楽しい。十分な準備と、原因の部分での即興性。
 見返すと意外とこの日記に書いていないことがあって、それはなにかというと、たとえば見聞きしたYouTubeの話だ。チェット・ベイカーとビル・エヴァンスが共演してる"Alone together"という曲名のよさ(辞書から丸ごと引き写した「二人きり」には決してないニュアンス)。めちゃくちゃ手の込んだファンメイドの架空のダフト・パンクの2021年のライブ。本物のダフト・パンクの2017年のグラミー賞パフォーマンスのリハーサルのよさ(ドラムス:オマー・ハキム)。カメリハなので画角もスイッチングも本番と同じなのだが、観客席が違う。座席には白地に名前と顔写真の印刷されたパネルが置かれている(変な言い方だけど、お墓みたいな光景だ)のだが、セレブのアシスタントかなんかであろう女性がコーヒーの紙コップ持って軽く踊ってたり、早めに会場入りしたポール・マッカートニーがノってたりする。ステージ・パフォーマンスが熱いのは当然本番なんだけど、むしろリハーサルのほうがリラックスして出来がいいように聴こえるのが興味深い。盗み見られた世界のほうがより美しい、というのはひとつの理想ではある。

12/3(土)
 よいコミュニケーションとはつまり、自分にも相手にも変化する余地や可能性を与えるものだ(=必ずしも共感や共通の話題が必須というわけではない)。無力感にも全能感にも陥らず、自分の微力を信じる必要がある。むずいが。よくもわるくもぜんぜん絶対的でないことが逆にわずかな希望である。
 夜、ちょっとした忘年のつどいがある。とはいえ話の流れから言って年越しまでにもう一度くらいは会うことになりそうだけど、どうだろう。いいお店だった。読んでない本や見てない映画や行ってない舞台の話を聞いた。人づてに、ざっくばらんに部屋の外のことを教えてもらっているような感じ。サインは漢字で書いてほしいという謎のリクエスト。冬の旅。

12/4(日)
スプラトゥーン3:Xマッチやってみる。
ヤグラ:計測3勝2敗2108.4→1勝3敗2026.4→0勝3敗1936.5→1勝1敗(計測途中)
エリア:計測3勝1敗1通信エラー2197.5→0勝3敗2115.2→0勝3敗2015.4→(ここでプラコラに持ち替えて)3勝1敗2055.4
アサリ:計測2勝3敗2108.5→0勝3敗2000.6

12/5(月)
 ところでドイツ代表やイングランド代表のニュースについて思うのはジェスチャーは止められない、という事実そのもののすごさだ。「ものを持ち込む」(腕章など)ことは止められても、しゃべる声は聞こえなくとも、身体そのものの動きを止めることはできない。主張の是非や態度の是非以前にある、やってしまえる、身体。

12/6(火)
 歯医者さん定期検診。歯医者さんのリクライニング椅子に寝そべって見た空が妙にピカピカしていたので歯科なのについでに目もよくなったりしたのかと思って外に出たらその一瞬だけ日が差していたのだった。上空をしゅるしゅると音を立てて冷たい風が通り過ぎてゆく。「よいお年を」を言うチャンスをひとつ見逃した。

スプラトゥーン日記
ヤグラ:1勝3敗1909.5→0勝3敗1848.5→2勝(計測途中)
 そこそこ活躍してからの逆転負けが多い。編成や実力差がきつい場合もあるが、拮抗状態からうかつなデスがやや多いのはよろしくない。私はお調子者だ。
ガチホコ:計測××〇〇〇2067.5→×〇(計測途中)
ヒリヒリする勝ち越し。マテガイのホコルートは左→金網回って直接ゴールへジャンプがベストルートかも。敵チームに回線落ちがあって人数有利のこちらが負けたが、勝ち負けはカウントされないことがあった。そんなことあるのね。

12/7(水)
 手足を動かすと冷気がからみついてくるような寒さだ、と思って着込んで外に出るとそれほど寒くはない。いざ寝る段になるとまた寒い。

スプラトゥーン日記
バンカラ:S+0→S+1に。シーズン毎にS+10に到達しておかないと次シーズンのXマッチにすぐ参加できない(S→S+0まで上げる必要がある)レギュレーションになっているらしい。Xに比べると対面に余裕あり。
ガチホコ:×〇〇〇2174.3

12/8(木)
 抗議として、白紙の紙を掲げる、って来るところまで来てる感があって、今年、中国でもロシアでもそのような動きがあったわけだけど、見ているこっちがその紙の余白に想像を代入できてしまう分なのか、あることへの抗議とそれができないことが同時に表現されているせいなのか、余計に気持ちが揺さぶられる。
 くだらないネットサーフィンの途中、Twitter上でスプラトゥーン3の「お絵描き」部分で抗議活動をしているのをまとめたビデオを見かける。使われてる曲がいい曲なのでShazamするとThe Black Skirts『EVERYTHING』(2016)。韓国のバンド(ソロプロジェクト)の、シンプルに読めばラブソングなんだけど、韓国語で歌われる曲終わり際の"나 있는 그대로 받아 줄게요"(※読めないし書けないからまるまるコピーしてきた)、公式と思しきビデオについた英訳は"I'll take you as you are."。グッとくる。愛って感情じゃなくて決意のことだよ、と最近わたしは思っている。

12/9(金)
 スケジュール来ない。セリフ変更は来た。逆よりはいい。夕方歩く。

12/10(土)
 インターネット上では時に「頭ん中お花畑」という言葉が散見されるが、多くの場合、むしろその文字列を使ってる側の予断や願望があらわになっているように見える。つまり、そういうことにしておきたい人が使うフレーズなんじゃないか。という感じがする。「頭ん中牧草地か」「頭ん中雑木林やん」「頭ん中マングローブ林だろ」頭ん中で頭ん中大会開催。

12/11(日)
 洗面所の電気消し忘れたりする。浮き足立ってる。

12/12(月)
 「朝」って漢字はどうしてときどき「とも」って読むんだろう。と思う朝。
 撮影仕事だ! 今日は小学生で言うなら三、四時間目に登校して給食食べて帰るぐらいの分量だった。一年生。現場の屋上にはいろんなランチの仕込みの香りがやってきて、それが風向きによってさまざまに変わっていって、楽しかった。明日は丸一日だ。

12/13(火)
 ずいぶん前に都からありがたく頂戴したカロリーメイトドリンクを飲んで出発。夜の寒さに意識朦朧。流れ星を見逃す。

12/14(水)
 今日はゆっくりスタート。ひさびさに路上で人に声をかける業務をして魂の削れる思いがする。「無責任に自分といっさい関係ない他人扱いしてもよい他人」として他人の目の前に現れるとき、自分の言ってること、やってることをまるごと無視される、危なっかしさ。おそろしい。

Xヤグラ:(2勝0敗の続きから)×〇1901.6→×〇×〇〇1935.9→×××1897.6→×〇××1864.8
バンカラ:チャレンジエリア5勝1敗・5勝2敗でS+2に。

12/15(木)
 そんなこったろうと思った、と喉のここまで(首の辺りを水平にした手の指で示す)出かかったけれど、そういう感情的な反発とか立ち位置の問題ではまったくなくて、ダメなもんはダメだ。いま動作をわざわざ書いてみたけど、とくに指定しなくてもその動きだろというときは書かないほうがいい、と書いてみて思った。
 夜、物品の受け渡しで新宿。郵送でいいかと思ったけど、もののついでで喋れるのは、ありがたい。もののついではどんどん見つけたい。ギリギリまでお茶飲んでテアトル新宿に駆け込んで『新橋探偵物語2 ダブルリボルバーラブ』。面白かった。人間のふとした負の感情をよく知っている、というのが笑える作品の条件のひとつのような気がする。お話を言葉にしてたどるなら突拍子もなく見えるけれど、とにかくイヤなことの解像度が高い。いかにぶっ飛んだジャンプを納得させられてしまうか、というジャンプの飛距離も美しさも見事だった。作品を通じて俳優の顔が何倍もカッコよく見えたりかわいく見えたりするのが、俳優のカッコよさ・かわいさだ。

12/16(金)
Xヤグラ:ヤガラ/チョウザメ(スクリュースロッシャーに持ち替えて)〇×××1852.1→(プラコラに持ち替えて)〇〇〇1888.2
Xエリア:ゴンズイ/海女美(2勝2敗続きから)×2028.6→〇××〇〇2073.2

12/17(土)
 ハラスメントというのは第一に言動が(他者の人権を鑑みたときに)おかしくなければ発生しないわけだけど、一方で問題のある言動がまったく起こらない・起こさないと想定したり約束したりするのは実在しないユートピアをかたってみせることにしかならない。つまり、(厄介なことに)いずれ問題は起こる、ということを前提としたときにもっとも問われるべき根本は、やらかした人間がその言動の責任を取らない(あるいは周囲の人間や組織、環境が取らせない)ことだと思う。"誰かが言っているから"では結局その問いがスルーされてしまう……自分より相対的に立場の弱い人間が起こしたハラスメントAには決然と怒ってみせる一方で親しい人間の起こしたハラスメントBに対しては宥和的な態度でいる"権威"をありがたがってみても所詮、堂々巡りにしかならない。あいつやあいつだ。そして影に隠れてそれらの名前の力を借るフィクサー気取りの悪辣さは言うまでもない。権威に頼らず、各々がフレームのゆがみを補正するしかない。ある振る舞いを適切な名前で呼ぶとか(環境を考える上では「いじめ」や「ハラスメント」でくくる必要が出てくるが、個別の問題として「暴行」は「暴行」、「恫喝」は「恫喝」)、事実に対して"その物語の主人公"を設定しないとか、そういうこと。

12/18(日)
 M-1とワールドカップ決勝の日だった。鴨川に移転したスーパーデラックス、行くなら今日だったが、行かなかった。令和ロマン、金属バット、プラスマイナス…と並べたくなる気持ち(「にちようチャップリン」でやってほしいけど、こう言ってるやつが劇場行けよって話だ)。ウエストランドは敗者復活に出てた頃の衣装(≒キャラ)に着られている感じがなくなって、あたかも本人がしゃべっているかのように(本人がしゃべってるのは、ずっとそうなんだけど)自然に受け取れてより面白かった。ゆえに"向上心のない"俳優も笑っちゃう。そうだしな。チャンピオンらしくないチャンピオンとして自由に暴れ回っている姿が想像できてワクワクする。2019ミルクボーイ2020マヂラブ2021錦鯉のドラマチックなM-1とはちょっと違うクールな2022だった(とはいえカーボーイリスナーからするとドラマチックなんだけど)。

12/19(月)
 寒すぎて眠い。

12/20(火)
 千葉再訪。海!

12/21(水)
 日差しがあれば暑いといい、なければ寒いといい、贅沢三昧だ。冬の海辺でサングラスなどかけて、ぼんやりしながらうかれている。反射した陽光の向こうに、海沿いの半島の形がよく見える。なにしろサングラスをかけているので。うかれている。
 帰り道、夕暮れへ特急電車がつっこんでいく。巨大な発電用風車。

12/22(木)
 褒められたいのが透けて見えるひとはかえって褒めにくい。結果、褒められにくくて、ますます褒められたくなるのではないか。
 請求書書く。

12/23(金)
 「仲間内」と「それ以外」という分類は人間にとってどうやらとてもイージーな発想であるらしく、どんな人も油断するとその罠に陥っている瞬間があるように思う。

12/24(土)
 4:44、ソファで目を覚ます。二度寝、はぐれエレベーターに乗って送電線を辿っていって見知らぬ山奥の鉄塔までいってしまうファンタジック悪夢。深刻そうな声で「ちょっと」と呼びかけられたところで目が覚める。
 ピスタチオとベリーソースのなにか、名前の思い出せないものを飲んだ。

12/25(日)
 クーポンを使うときに、自分のなかで目的が転倒している感じ、ちょっとおもしろい。

12/26(月)
 タルト屋さん。ポットにたっぷり三杯強の紅茶。一番好きな音楽を尋ね合う若者たち。細い三日月が暮れきった空にパッキリ浮かんでいる。
 わざわざメッセージをもらって、その誠実さになにより励まされる。

12/27(火)
 強風。物干し竿からTシャツが落ちて汚れる。
バンカラ:3勝3敗・0勝3敗・1勝3敗
Xヤグラ:〇〇×〇1917.9

12/28(水)
 神宮前へ。思ったほどは寒くない。チョコブラウニー、カツカレー。満腹。年末の歌番組を見ながら。山盛りのかぼちゃ。いない人を褒める。よいお年を。

12/29(木)
 100円ショップ巡り。各社テーマ曲がなぜかある。子供が覚えて歌っている。パン屋さんのパン。

12/30(金)
 年末ギリギリ、郵便局に。
 『徹子の部屋』TVerで見る。「あなたがあの箱(テレビ)の中の人になるなんて、思ってました?」いちばん面白い言い方だと思った。実感のこもった「あの箱の中の人」。
 「新しい戦前」という表現からは、どうしても大林宣彦さんの言葉が思い起こされる。つまりそういう認識のもとで私は/あなたはどうするんだ? というボールを投げかける言葉だ。だから「タモリも言っているぞ、ほら見ろ」というような態度は根本的に大間違いだ。でも私はほとんど絶望している。大づかみに世間、といったようなものには。ノスタルジー、美しい過去に向いた矢印にすがりつくのも、あこがれ、まだ見ぬ希望の顛末ばかり描くのも、そのこころが動員されていく先のことを考えなきゃ、いまこの瞬間の、その「何かを愛するこころ」がいったい何に利用されているのか、目を離したらひとは平気で間違える。自由を必死で確保しなくてはならない。そのことを忘れて過去を思い出したり未来を夢見たり現世利益を追いかけたりするのが人間なんだけど、そのろくでもなさはもうよくよくわかったのだけれど、そういう側面だけを現実扱いするようなインチキなしたり顔はするまい、とも思っている。
バンカラマッチ:シャープマーカーを持って、ガチホコ(キンメ/マヒマヒ)5勝2敗

12/31(土)
 『白い雲のように』だけは見逃さないようにしようと思って見た。
Xヤグラ:×〇××1891.6→×××1852.7

1/1(日)
晴れ
 初詣。おみくじはなぜか番号を自分で宣言する『明石家サンタ』スタイルに。おそらくカラカラ振るアレ(あの筒の名前ってなんだろう)を省略して、接触機会を少なくする工夫なんだろうと思う。「番号言ってください」「…えー?…じゃあ…えー…87番!」「(棚を探し始めるも、後ろで手伝ってる人が笑いながら「ないよ」と伝える)探しちゃいました。」「じゃあ、8番で」「はい」中吉。

1/2(月)
晴れ
 夜歩く。昨日より寒い。

バンカラヤグラ(ヤガラ/スメーシー):5勝2敗

1/3(火)
晴れ
 続けて夜は寒い。歩く。クラウドに保存された写真たちを眺め回すも、新年のご挨拶にちょうどいい写真がぜんぜん見つからない。

1/4(水)
晴れ
 日記じゃないものを書こう。すこし読書。
バンカラエリア(ゴンズイ/ザトウ):1勝3敗→0勝3敗→3勝3敗→3勝3敗
Xヤグラ(クサヤ):×
Xエリア(ヤガラ):×××2021.0

1/5(木)
晴れ
バンカラホコ(キンメ/マテガイ):5勝2敗→1勝3敗→1勝3敗—S+3のまま変わらず。
Xアサリ(マサバ/ゴンズイ):×〇×〇〇2025.1

1/6(金)
晴れ
 覚えていない悪夢、からの、寝違え。前を向いてるあいだは忘れていて、すこし振り向けば思い出す。
バンカラエリア(マサバ/スメーシー):5勝2敗

1/7(土)
 スプラトゥーンフェス甘い派!

1/8(日)
 トリカラマッチやり放題で楽しい。100倍マッチに勝ってオミコシに乗り込む。

1/9(月)
 成人の日。『グッドバイ、バッドマガジンズ』先行上映は前日時点で満員御礼とのこと。

1/10(火)
Xエリア:×〇〇××(-10)2011.0

1/11(水)
 夜中、自分しかいないディスコードのサーバーでひとりしゃべる。botによる録音テストをしてみたのだった。

1/12(木)
 本格的にぼんやりしている。真夜中過ぎ、単管パイプをガチャガチャやっている工事のような音が遠くから聞こえている。

1/13(金)
 近所のあちこちから聞き慣れない短調の笛の音が聞こえる。小学校のリコーダーのテストが近々行われるのだろうか。

1/14(土)
バンカラエリア(ユノハナ/マヒマヒ):2勝3敗、変わらずS+4
Xエリア(マテガイ/ゴンズイ):2勝3敗(-25.1)1985.9
 天気書くのを新年を機に始め、十日も経たずにすっかり忘れている。

1/15(日)
 深夜、スマホから突如聞き慣れない大音量のノイズ音がしたかと思うと画面が全面的にピンク色のモザイク模様に。ホラー度合い高い。勝手に再起動すると何事もなかったかのようである。しーん。それがますます怖い。似た事例があるのか検索することで、ちょっとした安心を得る。

1/16(月)
 髪の毛が長いので部屋の中ではヘアバンドをしている

1/17(火)
 ロイヤルミルクティーに飛び込むうら若きハエ

1/18(水)
 口の中の水分によってふくらみはじめるデンタルフロスと聞いて、なにそれ怖い、と思っていたはずなのだが、すっかり慣れている

1/19(木)
 芥川賞のニュースで井戸川射子さんの名前を聞き、以前「ポエム泥棒」をやったときに友達からリクエストというかたちで教えてもらったあの詩の作者だ!となんだかよくわからない嬉しさがあった。

1/20(金)
 Spotifyで偶然(…ではないけど。「関連している」とアルゴリズムが判断してるので。)見つけた曲たち、というプレイリストを作る。

1/21(土)
 舞台挨拶。させていただく、はやりすぎの謙譲なんだけど、それくらいの気持ち。ひさびさタピオカ。地下喫茶。昼、真面目になりすぎたのでちょっと気をつけてくだける夜。真面目だろうが砕けようが、誰やわからん人の話をちゃんと聞いてくださってありがたいことであるよ。ありがとうございました。

1/22(日)
 夢で友達とファミレスにいた。
 言葉イコール伝達物質。
 「ラビオリ」と「味のり」を聞き間違える。自分の聞き間違い史上でいちばん好きなのは「妙蓮寺」と「ニューオリンズ」。「寝過ごしてニューオルリンズに着いちゃった」には夢がある、というか、妙な説得力がある。東横線で寝てるとニューオルリンズに着く空耳世界。

1/23(月)
 YouTubeでルシファー吉岡さんの理路整然とした講義を見ちゃった。とてもいい。

1/24(火)
 風で家が揺れる。演技が好き、というのはいいパスを出すことが快感になっているマニアみたいなところがあると思う。スパイクを打つではなく、トスをあげる喜び。でもひたすらシュートのことだけ考えてる人もいて、そういう人たちがおもしろくないかというと、そんなこともない。

1/25(水)
 舞台挨拶(その4)。お客さんがはっきり見えた方がやりやすい人と、見えない方がやりやすい人がいるのはなぜだろう。フランスの人にフランス語の発音を褒められる。Rien de rien...自分の耳がいいのをすっかり忘れていた。方言のセリフに取り組んだことないけどそういえば向いてると思う。お調子者。

1/26(木)
 ランチ食べ、地下鉄に乗り、新宿。書店の一階の、店員さんの良心と魑魅魍魎とが隣り合う「話題の本」コーナーをチラ見してから、『フェアな関係』、『会話を哲学する』、『暇と退屈の倫理学』の文庫。面陳されているうち、前面に置かれていた、帯が表紙カバーに印刷されているものを注意深く避け、帯だけ独立して外せる(おそらくひとつ古い版の)ものを選ぶ。本の表紙に推薦コメントが貼り付いて剥がせないなんて地獄かと思う。マンガフロアに移動して、作者別「ま行」の棚をいくら探しても『花四段といっしょ』第二巻が見つからない。在庫は「◎」なのに! けっきょく同じ「ま行」から町田洋『夜とコンクリート』手にとって迷って、買って、すこし待って、映画見るまでのあいだ、持ってきた本を読む。「幽霊教室」という単語を思い浮かべる。カルチャーセンターの片隅にひっそりと開講される、それ自体ぼんやりとした教室。
 映画、いわゆるマイノリティに属する主人公を効率よく描写するために配される脇役たちがことごとくステレオタイプそのままであんまり深みがない上に、出来事、どころかキャラクターの内面まで、ほとんどセリフだけで説明している。主人公以外のほとんど全員がひどく幼稚に見える。しんどい。無自覚に人を傷つける人間はたしかに現実世界にたくさんいるのだが、ろくに人間味のない「悪役」として彼ら(わたしたち)を部分的に切り取ってコピーペーストするのには疑問がある。それでたとえ気まずいシーンやすれ違いのシーンが技巧的にわかりやすく成立していても人間と人間の接点にはならず、あくまで主人公や物語や主題を描写する手段であるように感じられてしまう……。「まあ、あんま気にすんなよ」というごくごくちいさなセリフのあまりのテキトーさにイライラが頂点に達してしまった。どうやら世の中には、ちょっとしたところこそ丁寧に存在しててほしい派と、おいしいところ以外はばっさり捨てる派がいて、私は「急進的ちょっとしたところ派」である自覚はある(だからたとえば『夜空はいつでも最高密度の青色だ』の背景の群衆の演出—主人公ではないというだけの理由で彼らはスマホを見つめるだけの人形として扱われる—や『ラ・ラ・ランド』なんかにはいちいち絶望してしまう)んだけど、それにしてもあんまりだ。問題の根本はおそらく脚本(とプロデュース)で、演じ手は総じて努力しているようだったけれど、意味しかないセリフの前後をむりやり身体と接続するために端々に意味のない含み笑いが入り込んでしまうのは危険信号のひとつだと思う。訛りの濃さが調整されていて、主題に触れたり状況を説明したりする場合に訛りが薄れて妙に聞き取りやすくなっているのにも違和感があった。むしろ大事なことほど訛っていて、その場所、その地域、その家、その関係の外にいる私たちにはわかりにくいはずじゃないかしら。題材が現代的・トレンドであるからこれをわかりやすく伝え、関心と共感を呼ぶというプロデュース戦略なのかもしれないけれど、徹底的に観客の想像力を信頼しない路線がどうやらそれなりに通用しているようである、そのことが重ねてわたしをガッカリさせる。私は見たいものが見たいのではなくて、見たこともないものが見たい、わがままで向こうみずなお客さんなのだ。でも総合すると、ああそうそう、この感じこそ劇場に行くということだ、とも思った。ちょっと久しぶりの感覚。どんなものかわからなくて、とにかく見に行って、なんだよ!って思えるのが(のも)劇場のよさだ。そして地図の上に自分が現れる。距離と方角がちょっとだけわかる。他の人にとってはいざ知らず、けっきょく名前なんて関係がない。見なきゃよかったというようなこともない。

1/27(金)
 朝日に紛れて蛍光灯を消しそびれる

1/28(土)
 観念に生き、昼寝ばかりしているひと

1/29(日)
 何の予定も決まってなくても、いまだに私は夏が待ち遠しく思える。一年の長さのちょうどよさ。

1/30(月)
 忘れものセンターにある忘れものはまだ忘れられきってはいない。究極の忘れものは忘れられたことにすら気が付かれない死角にあるはずだ。

1/31(火)
 100円ショップで200円のデッキブラシを買って町をうろつくと、小学生たちに二度見されることしきり。
 私はナントカカントカ賞に関してはもう一切の関心を寄せないことに決めている(作品や候補者に罪はないが)。それどころか、もはや某社の出版する本・雑誌はいっさい買わないことに決めている。というのも賞運営している責任者がどう考えてみてもダメ(ある人間がハラスメントを起こしたことを公になる以前の早い段階から知っていたにも関わらず、思い入れ—感情的な利害—からか現実的な利害からか理由はさておき、オトモダチ=権威に肩入れして事態を曖昧にさせ結果的に不正確/不誠実な説明を候補者・審査員/業界に意図的に流布していたのが明らか)で、それだけならまだ出版社まるごとボイコットとはならないのだが、かかる問題についてあらためて賞の権威をありがたがるよう、ほとんど怪文書といっていい素っ頓狂な文を(それもわざわざ社長名義で!)ウェブサイトに掲示して憚らないあたり、(どんなに個別によいところがあろうが)組織としてダメだと判断したからだ。というわけでこの時期のソーシャルメディアは憂鬱だ。君までこんなものをいつまでもありがたがってどうするんだ。そいつは腐った王冠だよ。最初からおめでとうも残念もない。

2/1(水)
 小旅行。「こんなはずじゃなかった、なにもかも」と笑いながら九十近い人が言っているのはなかなかとんでもない。なんとも言えない。大声や大きすぎるテレビの音、ストレスがとんでもない。

2/2(木)
 最近流行している睡眠サポート系飲料をためしに飲んでみたせいか、二本立ての夢を見て、くたくたになって、目が覚める。しかもぜんぜんテイストが違う。ホラー、トイレ休憩、ロマンチック。色つきセロファンの誘惑。数年ぶりにDOMMUNE見る。感想メールもらう。瞬間に、生きている手触りをもたらすこと、それ、いちばんの仕事なのかもしれない。

2/3(金)
 また夢を見た感触。その結果むしろ起床時には疲れている。そういえば昨日ようやく『舞踏会へ向かう三人の農夫(下)』読み終わった。これを一体どう終わらせられるんだろうと思ったけど、自分が書いたフィクションに対する優しさと客観性が見事に両立していて、めっちゃよかったと私は言いたい。

2/4(土)
 「とっぷり」は日が暮れる以外の場面で使われてるのを聞いたことがない。

2/5(日)
 一国の首相が「(同性婚を法制化すれば)社会が変わってしまう」と発言をするのは端的にどうかしてるとしか言いようがない。「…てしまう」曖昧なニュアンスの中になにもかも押し込めてしまおうとしているが、それで「どう変わる」というのか。その認識をこそ言葉にするべき立場なのではないのか。おまけにその首相のスピーチライターがド直球の差別発言。要はそういうチームなのだ。ぜんぜん国民のための存在ではない。「金持ちボンボンのボーイズクラブ」にたとえるなんて甘すぎる。もっと醜悪ななにかだ。
 腹の立つことについては、別のなにかに投影するのではなく、問題そのものを捉えないと話がそれる。たとえ話で理解したつもりになってはいけない。私は「誰がそれを許してるんだ?」って部分が核心だと思う。筋の通らないことをやるやつがいる状況に慣れすぎてる。偉いから/面白いから/得だから/仲良しだから/面倒だからって許すな。それは優しさじゃないし愛じゃない。私は優しくありたい。

2/6(月)
 ここにでたらめを書いてみたがやっぱり消したのでここにはなにもない。

2/7(火)
 喫茶店に行くと読み書きが進む、ということはつまり、喫茶店には一時的にリテラシーが向上するなにかがあるのでは?
 あんとき嘘ついてましたよね? とか、とりあえず雑にキレて言うこと聞かせようとしてましたよね? みたいなケースってあとから確認する機会がほとんどない。そういうことをされるとこちらは一発でシャットアウトしてしまう、という理由もあるといえばある。

2/8(水)
 とくに理由もなく朝日を背に浴びる。

 夜、どういうわけだか、お風呂でお湯をザアザア使っているさなか、爪の先ほどのちいさな子グモがどこからともなく湯船の壁に這い出してきた。しばらく進んでいくうちに四方を自分の体より大きな水滴に囲まれて立ち止まっているので、シャワーを止めて、洗顔料のチューブを目の前に差し出したら乗っかってきた。びしょ濡れのまま真っ暗な廊下に出て、チューブを勢いよく振って、そこにもうしがみついていないのを確認して、お風呂に戻った。別に一緒に暮らしていきたいわけではないんだけど。

2/9(木)
 テアトル新宿最終上映。の前に『ケイコ 目を澄ませて』。澄まされた目はどんなか。するどく一点に突き刺さるのではなく、ぼうっとして、あたりを包み込むようだ。バランスボールドライヤーの一瞬で伝わってくる生活のあとさき。音はものの震えの伝わり。おそらくは、耳以外によってもその音はかすかに感じ取られる。身体全体で。氷をガリガリ、コップはゴンゴン机にあたる。扇風機、飛行機、高架下、ジム。私が知ることのできない誰かのふるえがかすかに、しかし、たしかに伝わってくる。
 『グッドバイ、バッドマガジンズ』パンフレット完売(あくまでもテアトル新宿での販売分)。結局うっかり入手しそびれてしまった。昨年の上映を見ながらスクリーンではなく客席にいる自分の側がすっかり幽霊になってしまったような心地がしていたのだけど、ようやく自分の体に自分が戻ってきたような、それはそれでヘンな気分になった。座席表を見るとチェッカーフラッグのような交互の一席空けになっており、圧倒的に一人ずつお客さんが見に来ているらしかった。御礼。
 朝からあげ定食。朝からからあげ定食。カラーというものがあるとすればそれは人間中心主義だよ、それで十分だよ、とは、言いそびれた。

2/10(金)
 たくさん寝た。

2/11(土)
 スーパーマーケットの片隅に、買いかけの誰かのカゴのようにして、賞味期限間近のドレッシングと、クリスマスケーキの飾り付けセットが置いてある。
 もし実際の誰かの買い物カゴをまるごと再現したサンプルがあったらまじまじ見てしまう気がする。なじみのない誰かの買い物カゴはなんで面白いんだろう。(ほしいものリストとは大違いだ。買い物カートはもの欲しそうな顔をしていない)
 『テルマエ・ロマエ』テレビではじめて見た。知的探究心と無茶実写化大喜利は笑ってしまう。どっこい、いい話のような気がする何かで始末をつけようとするとなかなかそうもいかない。

2/12(日)
 占いは答えを言う。創作物は問う。そこが違う。しかし意外と占いを求めるひとは多い。

2/13(月)
 ブログのおたよりフォームがちゃんと機能したりしなかったりマチマチになっていた。どっちでもないのはいちばん困る。Googleフォームを埋め込む形に更新した。見栄えは悪い。が、機能はする。するとタイミングよく、フォーム経由ではないけど、ありがたいメッセージをもらう。

2/14(火)
 「善は急げ」「果報は寝て待て」「取らぬ狸の皮算用」

2/15(水)
 ソファで寝てしまう。マスク完備で問題なし。

2/16(木)
 気がつくとなんでこのアカウントをブロックしたりミュートしたりしてるんだろう?ってことは時々あって、そのときの私には耐えがたい何かがあったんだろう、としか現在の私には言いようがないんだけど、だいたいそのままにしてしまう。たとえば文化系と言われるひとびとも文化芸術至上主義をつきつめれば悪い意味のマッチョにしかならない。とりわけ文化を個で味わうより地位や名前やジャンルを愛でるような態度は、なんというか、きつい。そういったタイプのひとびとが、得てして弱い立場にあるひとに対して「中立的」であろうとする傾向が見られる(個人的な観測の範疇に過ぎないが)のは、なぜだろう。私には耐えられないタイプの優しさや朗らかさや笑顔というものが、実にありふれて、存在している。ハラスメントに宥和的な人間に対して私はびっくりするほど宥和的でない。そこには一線を引く。ブロック。

2/17(金)
 オールナイトニッポン55周年スペシャルがはじまる。
 日のあたる窓がミシミシ音を立てる。おそらく直射日光で温度が上がって金属の部分が伸びて、木材とのギャップが生じているのだと思う。

2/18(土)
 スプラトゥーン3はいわゆるクマフェス開催中。ピーキーで難しいブキは使いこなせない私のようなプレイヤーでも楽しめるバランスを成立させているの、あらためてすごいことだ。「でんせつ400」まではたどり着いた。

2/19(日)
 オーディション用に準備したメモの1/5も使わなかった。用意してきたものを必死で全部やろうとするやつになってしまわずに済んだのだからそれはそれでよかった。と思いたい。メモ帳にちょっとしたフィクションの塊が残った。もし死んだら誰にも意味のわからない妄想メモだ。
 夜、バスの中で杖をついたおじいさんが大きなゴルフバッグを抱えた中年男性に一生懸命見当違いなことを話しかけていた。「〜は知ってますか?」「ハンデはおいくつですか?」露骨に心のシャッターを下ろされてなお、話しかけていた。わたしは話しかけられたらけっこう聞いてしまうタイプなのだけど、だからといって見当違いなときは見当違いだなあと顔には出てしまうのだけど、中年男性はなるべく会話にならないようにだんだんとリアクションを絞っていって(デクレッシェンド)、しまいには何もなく、ただ窓のほうを見ていた。ゴルフバッグを抱える左手にはシンプルな結婚指輪をしていた。人間には、さびしさは、きつすぎる。歳をとるとメタ認知が苦手になるのでは、と前々から思っているんだけど、もしかするとメタ認知がビンビンのままだとさびしさがきつすぎて、そのきつさから身を守るための合理的な衰えみたいな機序があるのかもしれない。さびしさ。誰も他人事ではいられない。

2/20(月)
 クエン酸ソーダを飲みながらロフトプラスワンの壁に貼ってあるチェキを眺めていると、すでに亡くなってる著名人が数多く写っているのが目につく。あらためて年月や人数を数えたりはしないけど。むかし私はこのチェキ群を前にこの人もあの人もと目を輝かすタイプだったけど、サブカル・スターへの崇拝のまなざしへの違和感が拭いきれない今となってはこの座席が圧倒的にアウェイなフィールドであるようにすら感じる。かつてとてもおしゃれな表紙で売られていたエロ本が立ち読み防止テープの出現によってえげつない表紙になってしまう本末転倒ぶりが心に残った。ようやくパンフレットを入手(自腹)。
 サバ味噌定食。帰り道、風が強くて半分くらい自転車が倒れている一角があったけど、風で倒れたのか、やばいやつが倒していったのか、倒れているだけではわからない。あんまり人とすれ違わなさそうなので、独り言を録音しながら帰る。自転車を倒さずともやばいやつ。

2/21(火)
 なにがキッカケだったのか、M-1グランプリ2007を見返す。サンドウィッチマンの圧倒的優勝しか印象に残ってなかったけれど、あおりVTRの演出とか、出演者たちの髪型やファッションとか、あんまり飛距離のないボケがスピーディーにテンポよく積み重ねられていくと会場がウケていく感じとか、すごく古くさく見える(サンドウィッチマンを除けば、あんまりウケきっていないネタのほうがいま見ると面白い)。この頃もう大学生だったのだから超おじさんだなと思ってしまう。それにしてもとっくにパワハラ暴行事件起こしてたのに審査委員長か……世の中まったくどうかしてた。未来はすこしはマシであってほしい。

2/22(水)
 巷にはちょっとどうかという陰謀論を真面目に信じているひとも意外といて、それももうずっと前からのことで、インターネットが巨大な岩を転がして、かつての岩陰を文字化・可視化してしまったんだろう。岩陰には岩陰の生態系があって、その範疇ではどうやら成り立っていることになっている約束事があって、外から見ればどうかしているで済む話も、「ようやく仲間を見つけた」ひとにとってはどんなに間違っていようがこの上ない喜びになり得る。科学的にも倫理的にもまったく正しくなく、面白くも新しくもないことを、小学生の考えた暗号のようなジャルゴンを使いあってしゃべることを人生の楽しみとしているひとがどこかにいることが、可視化されている。間違いを、あるいは、間違いへのアクセス権を、停止することは結局不可能だけど、それはできればフィクションのほうにまかせてもらいたいんだけど……「中の住人」になってしまうひともいる。その感じ自体はわりと想像できてしまう。

2/23(木)
 自分の中にあるもっとも厳しい基準を自分自身に適用すると自分は排除される…というのは奇妙なことだけど、もしその時々の都合で基準をゆるめるなら結局それは基準でもなんでもなくなってしまう。ってわけ。

2/24(金)
 銀行へ行った日。トリプルファイヤー。待合の椅子で、変形の貧乏ゆすりが気になる。組んだ足の先を、足首を中心に左右にぶるぶる振るタイプの。音や振動は伝わってこないけど視覚的にめちゃくちゃうるさい。
 トリプルファイヤー、タモリ倶楽部終了までにもう一回くらい出たらいいなーと思うけど、Mステで再会してたらそれはそれでグッとくるし笑っちゃう。

2/25(土)
 エンタメに点数をつけることがエンタメになってると思ってるタイプの人とはたぶん考え方が合わない。百歩譲ってもランキングのほうがまだエンタメだし、つぶさに語るほうがよりエンタメである。いやエンタメってなんだ、そもそも、その略し方は。為替か。かつての、アートとか、文化芸術とか、カルチャーとか、サブカルとかいう呼び名が(つまりジャンルとしての括りが)あんまりうまくいってないからこそ今、流行の枠組みは「エンタメ」なんだろうなー。私は作品とか番組とかフィクションとか展示とか漫才とか言いたい。いちいち言いたい。勝手にそれぞれが「エンターテイン」を目的としていることにしてまとめるのは、なんか、やだ(わがまま)。だがたしかにちょうどいい呼び方がない。作りもん、と言うと偽悪的すぎるかしら。
 似たようなところ(語のうつりかわり)では「陰キャ/陽キャ」にも違和感があって、かつて「ネクラ/ネアカ」という区分で語られていたようなことがいつのまにか取って代わられている、のはわかるけれど、そこで言われている内容は退歩しているように思う。根の部分を問わず、もってる要素や表層からキャラクターを分けるなんて単なる作業で面白くない。他人を類型でざっくり判定するなんて古くてよからぬ因習のようではないですか。根を問わないのはやさしさではないと思う。一人で水族館に行ってもぜんぜん気兼ねがない私は陰キャだがネアカだ。という具合にねじれさせていきたい。というようなことをいちいち考えているのはネクラだ。キリなし。

2/26(日)
 私は注意深くありたいと願うものだけれど、なぜそう思うかというと、あまり注意深くないからでもある。

2/27(月)
 てんでバラバラな友人知人がなぜか集まっているのに先導する私が入る店が決められずに坂の多い大都会をダラダラ歩き回る夢。申し訳なさでへとへと。
 鳥海山、を思い浮かべようとすると、毎回「とりかいさん?」「とりうみさん?」「ちょうかいさん?」の自信のなさをいったりきたりする行程がある。記憶のなかで、加茂水族館のそばの海で見たあの山、の姿は変わらないのだけど、名前はあいまい。「しんかいさん(新明解国語辞典)」すら一瞬よぎる。

2/28(火)
 自分の中のちいさな暴れん坊解放デー。お味噌汁をごはんにかけたり、ゲーム機とスマホで同時にゲームやりながらラジオ聴いたりした。

3/1(水)
 ようやく『花四段といっしょ』第二巻を入手。結局アマゾン。インターネット上であらかた読んでるけど、再読しても踊朝顔三段の回はやっぱり圧倒的にすごい。人間のやりとりの密度がすごい。飲み込まれた、多くは言葉にされないことによって、語られているのがすごい。すごい回。

3/2(木)
 『グッドバイ、バッドマガジンズ』は関東地方で本日最終日。一日おいて、あさってから石川と沖縄で上映がはじまる。さらにこの先、青森と福井での上映がアナウンスされている。桜前線のようだ。
 「通奏低音」という言葉は知っていても、それが、どんなものなのか知らないぞと思ったので、検索してみた。五線譜を使って理論的に解説している動画を見て(コードのような自由度のある指定に沿って即興演奏をすることなんだな、という理解を得たところでちょうど、通奏低音とコードの違いについては次回!と言われて次の動画を探したけどついに見当たらなかった)、それからバッハのバディネリの演奏動画を見た。で、思った。思ってたのとぜんぜん違った。文字面から想像されるものに反して「通奏低音」は軽やかだし自由で、世の中に流通しているたとえとしての「通奏低音」はけっこう間違ってるんじゃないか。
 たとえば「彼の人生のある時期からずっと、怒りは通奏低音のように響き続けていた」とか言った場合、怒りという縛りは指定された上で、そこから様々な表れ方をしていた(ケンカに明け暮れたり、下駄をはいてみたり、ポイントカードをもっているか聞いてくる店員さんを毎度にらみつけたりしていた)というのであれば合ってると言えなくもないかもしれないけども、じっとひとつの感情にこもって向き合うような状態に対して使うのはだいぶ違うかもしれない。
 言葉というのは誰かがそのように使うからそういう意味を生ずるようになるもので、誰かが「ずっと響き続けている低い音」という意味で使ってしまえば「ほうほうそういうことなのね」と思ってまた別の誰かが使い継いでしまう。人間、知らなくても言葉は使えてしまう。(自称)知的生物である、あるいは知的であろうとすることの厄介さはそういうところにあるような気がする。

3/3(金)
 焼きサンドイッチを食べる。おいしい。焼き目も具材もだ。

3/4(土)
 コンテストというのは—よくもわるくも—ルールに沿ってチャンピオンを決めるものだけれど、同時にそれを見ていたそれぞれの人のなかに、こころのチャンピオンが生まれるイベントでもある。規定に沿って勝敗は決まるけれど、なにかを選ぶこと自体は、審査員だけに許されているわけではない。寺田寛明vsサツマカワRPGの二本目対決が見たかったなー、と、よくもわるくも、無責任に思うことができる。優勝しなかった年の空気階段もチャンピオンだし、『強がりカポナータ』の近藤さんは助演男優賞。こころの。

3/5(日)
 「結局は誰が言ったか」みたいなことをあちこちオードリーで呂布カルマが言っているのを聞いて、ふと思ったんだけど、今もあの頃の326のイラストの横の文章の部分をありがたがり続けてるひとっているんだろうか……絵と比べると言葉の力はかなり変化しやすい気がする。でも絶対にいまもファンはいるだろう。たとえば、サングラスをかけた二頭身のキャラクターといっしょになぜかローマ字で日本語の文言を書かれたファンシーな湯飲み茶碗が数十年前にはたしかに栄えていた観光地のぼんやりした記憶とともに誰かの家の食器棚の一角を占めているのと同じように。「WASURE NAIDE YO〜」。
 「結局は誰が言ったか」はたんに現実的というよりは卑小な"リアリズム"への過剰適応なんじゃないのかなと思ったりもする。現実のある一面を捉えてはいるから決して間違いだと言われることもないだろう(=バトルに強い)が、ちょっとワクワクしない。バランス感覚に優れてウソのない人は見ていてイヤじゃないし、面白いんだけども。
 ツイッターのスペース機能がにわかに部室化し、会話はインタビュー化し、切り上げると部屋はひとり夜の部屋に戻る。ひたすらひとに気を遣わせてる気がしないでもない。
 今田耕司YouTube(今ちゃんねる)で見た光景。調子がわるく意思の疎通が図れないペッパーくんの電源を切る直前、とくに会話の文脈と関係のない辞書の項目を一通り「〜らしいよ」を文末につけて読み上げたあと、ペッパー「ねえ、ひとつ聞いていい?」今田耕司「(やさしく)なに?」長い沈黙。

3/6(月)
 夢。空港に向かっているのに、モバイルバッテリーと充電ケーブルを忘れていることに気づき、郊外の駅ナカにある雑貨屋さんでバッテリーを探すが乗り換えの電車の時間があるのでひとまずあきらめて空港に向かう。ちまちました生活感。

3/7(火)
 ちょっとあんまり見かけないほど安い金額のオファーがあって、思わず「アメリカ 組合 俳優 最低価格」で検索してしまった……。これがたとえば友人知人の自主製作だとか事情があってのことなら文句なしに引き受ける……かもしれないけれども、名の知られた企業に大人が揃った上でその金額を提示するのはちょっと意味が違ってくる。ハラスメントの一件以来、足元を見て対応されているのかと思うと、実際に行動を起こすかどうかとまた別に、どうも完全には看過できないところがある。それって、どうでもよいわたしのプライドの問題なんかではなくて、パワーの常習性の問題。スト破りじゃないけども、わたしのような名もなきものどもが「いま、歯を食いしばってはいる」と自分自身に言い聞かせながら無反省にパワーにヘイコラし続けてきた結果が現状なのであって……というところに葛藤がある。
 と、(余計な)思いを巡らす一方で、愛・地球博でエジプト館でダルブッカ(太鼓)を買うときにきっちり交渉したのを思い出したりもする。単純にエジプト式に交渉するんであればこちらも理想の額を言って中間のどこかで手を打てばいい話なのだ。吹っかけてきたら大いに吹っかけ返せばよろしい。そこに立場とか気遣いとかいうものを過剰に介在させるもんではない。交渉するのが当たり前。とはいえ、スタート地点、目ん玉飛び出るほど安い。私は立場に傷ついて、立場を気にしてることにも傷ついてる。めんどくさすぎる。
 交渉するか、誰かに任せるか、あきらめるか。仕事があってありがたいのは大前提としても、こういうオファーが来ることを考えると「ありがたい、ありがとう」だけでは無傷ではいられない。というか、単純に、持続可能性に問題が出てくる。いくらでも理由をみつけてくることはできるにせよ、ムリヤリ仕方ないと言って済まそうとしなくてもいい気がする。今回はこう思った、ということを記録しておいて、もし次があるならちょっとやり方を考えてみよう。
 
3/8(水)
 日記書き忘れデイ。デー。振り返ってもそこには時間は残っておらず、空間だけがある。振り向きざまに、部屋。

3/9(木)
 「好酒沈甕底」=「美酒は瓶の底に潜む(逸品は最後に現れる)」っていい言葉だ(台湾料理屋さんがオープンしたよ、というローカルニュースの一節から)。せっかくだから一度行ってみようと思ってはいるのだけど、ほんとうに行くのはどんな場合か想像してみると、たまたま近所に誰かといて、この辺の食べ物はだいたいもう見当がつくからちょっと冒険してみたいよねって感じのチームになっていないとなかなかむずかしいような気もする。

3/10(金)
 夢のバラバラ大作戦を考える。どうも現実のほうのバラバラ大作戦はなんか、キツそう…あの手のなんでも相対化する"知的な"雰囲気とよく回る口先を売りにした中二病的なヒーローを面白がって売り出すのって、新しくも面白くもなくて、すごく平凡な感性だと思う。村上春樹作品で言うところの「ワタヤノボル」だ。人類が定期的に選んでは間違えてるやつ。結局のところ当人というよりはそれを持ち上げる有象無象が問題の根幹なのだけど、「正しさを相対化したい」という欲望の危険さについては、歴史をふりかえってちょっとは反省してほしい。それはそうと真空ジェシカとダウ90000は気になる(急ハンドル)。『もう中学生のおグッズ』『ぼる塾のいいじゃないキッチン』『アルピーテイル』『凪咲とザコシ(芸人マッチング)』『野田レーザーの逆算』『あのちゃんねる』楽しく見てるやつ、ことごとく終わりがち。『ランジャタイのがんばれ地上波』には続いてほしい。『トゲアリトゲナシトゲトゲ』はド深夜版とおまけYouTubeが面白い(OP曲の「♪(一拍空けて)トゲアリトゲナシトゲトゲ」はクールだったけど「♪(二拍空けて)トゲトゲティービー」はちょいダサ)。『キョコロヒー』は今の枠でよさそう。夢なんだから自由枠でダイアンがメインの番組があっていい。あとヨネダ2000がメインだったらどんなことになるんだろう。さまぁ〜ずのトーク番組(今は違う局で「紙とさまぁ〜ず」があるけど)もあってほしい。さまぁ〜ずというか、いっそ、うぃんた〜すの番組という手もある。
 でも好きな番組ばっかりやってたら胃もたれすごそう。夢のテレビ局で面白い番組24時間やってたら不眠症になっちゃう。
 それをいうなら、なぜ、YouTubeでは不眠症にならないのだろうか。

3/11(土)
 検索して寄付…。すべての悲劇を知ることも覚えておくこともできない。人間の限界。朝、直下型っぽい地震で起きる。
 NHK BSでTVドラマ、シャーロック・ホームズの冒険『青い紅玉』を見る。話のはじまりは酔っ払いに絡まれたおじいさんが落としたガチョウで…というこのしょぼくれ加減に引き込まれてしまう。コヴェントガーデンのガチョウの仲買人を訪ねるシーンでどん底感のあるアレンジで'God Rest Ye Merry, Gentlemen'が流れているのがたいへんよかった。ビング・クロスビーのを聞いてクリスマスのわりにちょっと暗いメロディが印象に残っていたけど、この場面でのこの曲は音歪んでこそ、という感じの迫力。エンディングでメイン・テーマに一節リプライズしてくるのもおしゃれ。愛と寛容の日に、小悪党をひとり見逃す、という展開に、ホームズの美学を無理なくあてはめるにあたり「あんなみっともないものを警察送りにしたらぼくは生涯後悔する」というようなセリフが出てくる。なるほど。どうしたって理屈になりきらない理屈を演技(ジェレミー・ブレット)が飲み込ませてしまう力がすごかった。

3/12(日)
 花粉症ではないと言い切ることで花粉症(軽めの)を乗り切ろうとしてるひとは結構いるんじゃないか。当面わたしは「目や喉に"圧"を感じている」と言ってみている。実際花粉症じゃないと思う。とかいって。

3/13(月)
 ゴウゴウ風が吹き、雨が降り、この街にはサイレンが絶えない。なぜなら消防署がそこそこ近いからである。
 "You're Rick Fuckin' Dalton. Don't you forget that."……地味にめっちゃいいセリフだ。と思って検索したらブラピのアドリブとのこと。恐れ入る。というわけで『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド』を終了間際のGyao!で(劇場以来二度目)。主役の二人がスター俳優とそのスタントダブルであるのもそうと言えばそうだけど、語りと映像が並行し、映像とそれを見ている出演者が同時に存在し(週末のFBIをいろんな場所のいろんな椅子に座って観るひとびと!)、それからこれはありがちだけども劇中オーディオでかけられる曲はやがて劇のBGMとなり…といった具合に「二重化させる」ことが演出面でもストーリーの面でも要の部分になっている。なぜニセモノ、ウソ、ダブル、フィクションが必要なのか。画面に映る事物への愛、フィクションへの愛のことを考えちゃった。ここでいう愛は愛着というよりは信頼である。存在するのかどうかはさておき、見ていてそれがあるように感じられるものと、そうでないものがある。ということ。フィクションによって、けっして直截に現実の命が救われるわけではないが、フィクションのなかに(それぞれの心のなかに)オルタナティブな命、のような別のなにか、が生まれる。

3/14(火)
 「春風よ なぜ私を目ざますのか」かっこいいけど、ずいぶん自分勝手な物言いではある。
 ソーシャルメディアに画像を載せる際、それを見ることができないひとのための「ALT(代替)テキスト」というものがある。視覚障害のある人が私のアカウントにまでたどり着いているかどうかはちょっと判断がつかないけれど、その存在を知ってからというもの、代替テキストを設定するようにしている。写真を言葉でちょうどよく説明するのはむずかしくて楽しい。
📷「公園の空に、右上から木の枝が被さっている構図。地面には人が歩いていて、遠くには競技場の白い三角形をいくつか並べたような壁が見えている。淡く青い空には風で舞い散る紙吹雪のように鳥の群れが飛んでいる。」

3/15(水)
 どうでもよさは大事かもしれない。どうでもよ〜って思えるか。どうでもよくないことを大事にするために。

3/16(木)
 悪夢で目を覚ます。悪夢から目を覚ますきっかけになるのは(出そうとしても出ない)自分の声だったりする。声にならない声が別世界への出口になる。

3/17(金)
 歩道のガードレールにちょこんとカラス。自分の腰あたりの真横にいるタイミングで、つぶらな瞳がこっちを見ているのに気がついたのでビックリしたらカラスのほうもビックリして、ぴょんと離れて、むせていた。心配になった。バサバサ飛んでいったのちビルの上から大声を出していたので一安心。
 ドラクエウォークのキャンペーンでもらったアプリのドリンクチケットを自販機で使って飲んだことない飲み物を飲んだ。飲んだことない味だった。

3/18(土)
 夜、ChatGPT(3.5のほう)に話しかけて、架空の一人芝居をあたかもすでに存在するテイで質問することでそのあらすじを聞かせてもらったり設定を練ったりしてみた。以前一度ためしに話しかけたときには内容はデタラメなのだが妙に滑らかに断定的なことを言うので、これは「知ったかぶりをしてる人」に非常によく似た態度で、どうも危なっかしいぞ、と感じたものだったけれど、今回、たとえ情報として間違っていようが人間の発した言葉(に含まれる論理や感性)を拾ってきてツギハギしてつじつまを合わせようとする姿勢はむしろ、たしかな正解のない分野において、よくもわるくもマジで役に立ってしまうかもしれない、と思った。
 冷静になると自分だって「知ったかぶりをしてる人」である瞬間はあったし、あるし、そうでなくともつい先日「ジャーニー」を「ヴァン・ヘイレン」と勘違いしていたりしたわけだし(WBC中継の曲のチョイスの奇妙さ!)……もしAIがそういう人間のダメな部分も取り込んで学習しているとすれば、話は複雑だ。AIテキトーかよ!とか言ってる場合ではない。それ、気付かぬうちに鏡に向かって言っている可能性がある。ひとまず当面は「知識は豊富だが、やや思い込みの激しい、思考が英語ベースの、論理的思考は得意なのにどこかうっかりした奴」というつもりで接してみることにした。細かなことだけど完全に思わぬアイデアが一つ出てきたのでそれだけでもびっくり。

3/19(日)
 衣装合わせ。
 私服祭り。案外自前衣装で舞台や映像に出てる率、高い。『おそ松さん』なんか持っていった衣装候補ですらなく、現場まで着て行った普段着で出てたんだった。『グッドバイ、バッドマガジンズ』のパンツも自前。この服でこれ出たリストを作っておかないとそのうちカブる。だがカブったとて、という話でしかない(なぜならそんなことを気にしているのはわたしだけなので)。のでリスト作る予定もなし。「おしゃれ」とか「ファッション」の文脈ではぜんぜん一般化できないが、自分で自分に似合う服を見つける能力は、わりとあると思う。
 映画でも見て帰ろうかと思って坂道をぷらぷら下り始めたところで、胸に名札のついたポロシャツを着た白人二人組に話しかけられる。二年くらい勉強してそうレベルの日本語だ。この話しかけ、結局のところ、話しかけられる側(私)をよくもわるくもどうにかしようというよりは話しかける側のイニシエーションみたいな行事になってるんだろうなーと思う。なにしろ知らない人に怪しまれながらわざわざ話しかけるなんて辛いことだ。しかも異国で、異国語で。旧ポケモンバトルばりの突然さで。意図はどうあれ、すでにこの状況では個人対個人のまともな関係なんてなかなか望めない。そんな苦難、修行にはぴったりだろう。
 でも急いでもいないし迷惑というわけではなく、なによりあまりない機会なので(日本語ネイティブ圏の新宗教やマルチの勧誘をする人はなんらかの理由によりこいつに話しかけるのは時間の無駄と判断しているのだろう。コスパのよい判断……)、しばらくのあいだ投げかけられた質問に対して、真剣に考えて答えた。「いま幸せですか?」「〇〇と聞いてどんかことを思い浮かべますか?」「信じている神はいますか?」「なにか質問はありますか?」。
 最後に私が質問しそびれたのは「なぜ私に話しかけたんですか?」。そのときには思いつかなかった。
 映画を見るのはやめにして(ちょうどいいタイミングでやってなかったというのもある)、近くに住んでるらしい友達に電話して、出ず、それはそれでよくて、延々と大通り沿いを歩いて帰った。とにかく天気がよくて、早く咲いた桜は散り始め、午後の日差しを反射した飛行機は以前より低いところを飛んでおり、尾翼の色まではっきり見えた。

3/20(月)
 目がムズムズすると眠気を感じるのはどういうメカニズムなんだろう。逆じゃないのか。逆だと勘違いするのか。小さい頃は鼻をこするとそれが眠気のサインだったのだが、今はどうなんだろう。

3/21(火)
 近所の桜が咲いて、普段はひと気のない橋にたくさんの人々がたむろしている。普段その辺を寝ぐらにしている生きものはいまごろどうしてるだろうか。

3/22(水)
 久しぶりに行く街はすこし遠く感じる

3/23(木)
 雨のなかを歩く。ダウンコート的なやつはもうしまう季節かもしれない。着おさめ。びしゃびしゃ。
 喫茶店にびっくりするほど立派な造・観葉植物があった。高さ150センチぐらいの。鉢植えで、鉢は本物で(だいたい鉢のニセモノって何よ?)、平たく敷き詰められたウッドチップもどうやら本物のようだったけれど、肝心の木はどこからどうみても完全にプラスチック。人間社会のどうかしてる部分を凝縮した存在かもしれない。

3/24(金)
 占いを信じるのはわりあい気軽にできるが、占いを完全に気にしないようにするには決意が必要。非対称だなーと思う。「そうである」「そうかもしれない」「そうではない」のうち、「そうかもしれない」の領域の広大さ、輪郭のあいまいさ。とはいえ占いを超真剣にどっぷり信じ込むのも難事かも。

3/25(土)
 しずかに消えてゆくものたちにわざわざ言葉をつきさす
 そうしないでいられない人間の過ぎてゆく時間への貪欲

3/26(日)
 ある日とつぜん日記の日付が遡り出したら超怖いな。と思うのは急に戻ってきた寒さのせいだろうか。心のなかの誰かにばかり話しかけて本物の誰かにあまり話しかけていない。
 📷「あかるい灰色一色の曇り空の下、ほとんど満開のように見える桜を背景にした(さらにその遠景には集合住宅)、一本の枝のクローズアップ。枝元に近いほうは咲ききっているが、枝先にはまだつぼみが残っていて、その丸みに雨垂れがぶら下がっている。」

 ダウン乾かしてたので着た。着おさまらず。

3/27(月)
 それぞれが別の言葉で、別のことを、話している、そもそも

 エレファント・ジムから定期的に送られてくるメール、毎度正面から問題にぶつかっていくのがすごくいい。今回は誰かと何かをやっていくということ、そしてそれがなまくらでない、デモクラシーのことでもあるということ。
 ニュースを見ていて:「中国主導の訪中」ってとっても変な言葉だな。しかしおそらく事実そのもののほうがより変だ。

3/28(火)
 たむらしげるも佐々木マキも70代なのか。こどものとも。ということを、夜中のテレビでわたせせいぞうのアニメーションを見て、さらに永井博を経由して、だらだら調べてしまった。
 もはや落ち込んでるとかじゃなくて、ここがベースラインなんだ、というのは悲観的か。それとも実は気が休まるような部分もあるかもしれない。
 鈴木志郎康『住んでる人しか知らない道』をお風呂場で音読。防水ケースをガシャガシャ言わせながら録音してみた。聴きたい人には聴いてもらいたいけど、そのマッチングってどうしたもんか。

3/29(水)
 そっと絶望して、そっといなくなってる人がいっぱいいるんだな、ということが、そっと絶望してようやくわかったような気がする。私はたまたま死んだりしたくなってないだけで、よくもわるくも劇的でなく、そっといなくなっていく感じは実感としてめっちゃわかる。私がいま実存としての「おばけ」に関心を寄せているのは明らかにその辺の影響があると思う。
 あるハラスメント問題に関連する判決が出た。そもそもこれはハラスメントの事実を争うものではなく、被害者に対するスラップ訴訟の類で、それが地裁レベルで棄却・却下されたとのことだった。ひとまず、よいことには違いないが、被害者(でありながらどういうわけだか被告という立場まで背負わされている!)に対する二次加害のうちのほんの一部分がようやくおさまったという程度のことだ。勝った負けたというような話ではなくて、人生はつづく。まったく不公正に、一度ならず何度も、マイナスを背負わされて、それが少しは減ったとて、そのきつさがなかったことになるわけではないし、以降完全になくなるわけでもない。遠くで勝手に想像することしかできない(たとえば直接に声をかけるとしてなにか意味のあることが言えるか?と考えると、さしたる関係性もない私の立場から、その途方もない苦労に見合う言葉は見つかりそうにない)が、どうかすこしでもよい日々を手にしてもらいたい……
 おかしなことに対してまともなリアクションをする(拒絶したり怒ったりする)ことで少しでもマシな前例を人間は残せるはずで、そういった領域を、まかりまちがっても「ポジティブに」「前向きに」などと言って塗りつぶしてはいけない。強いて前向きにというのであれば、十分にきびしい批判こそが前向き、未来向きではないか。「前向きに」とか「明るく行こう」とかいう言葉は、はじめ善意から放たれているのだとしても、残酷な世界から自分の心を守るための呪文になってしまいがちだ。それを他者にまで望ましいものだと思い込み、なにかをあえて見ないようにする方便として使ってしまうなら、その先には一体どんな「前」があるというのか。よしんば一瞬先の自分だけに「明るい未来」を用意できたとして、それで、どうなるというのか。

3/30(木)
 週刊文春CINEMAようやくコンビニで買う。週間じゃなくて季刊なのでまだあった。よかった。よこちんが巻末のほうのカラーページに載っている。同じ特集で取り上げられている他の監督たちと比べるとひたすら「今回の作品」のことを語っている(もちろんインタビュアーや構成の影響もあるだろうけど)のがなんだか面白い。面白いの一言でまとめるのはなんだか明らかにうまく言えてないんだけど、比べてどっちがどうのとかいうんではなくて、伝えたさがギュウギュウで、いいと思った。
 直感的な操作でウェブサイトが作れるサービスを見つけて、ブログではなく、自称公式ホームページみたいなやつを作ってみようと思って作業にとりかかる。KORG Gadget(Switch版)もちょこちょこ断続的に触っている。私はスケールやコード進行の理論がわかってないのであらかじめスケールを指定して、いわばガーターレーンにガードレールを設置した"こどもボウリング"状態の鍵盤を行き来したり、とにかく仮置きして実際に耳で聞くことしかできない。シーンまたぎのシンコペーションができないのがちょっとしたことだけどストレス!(その手前のシーンの全トラックの小節数をいじればできなくはなさそうだけど各トラックの繰り返すタイミングが違うから完全に同じ状況を記述し直すとしたらかかる手数が途方もない…)要素をひとつずつ置いてみては、考える。やっぱやめてみたりもする。そればっかり。直感的というより、もはや数字をひとつずつ数えるようなものだ。シープシープシープ、スリープスリープスリープ…

3/31(金)
 三月が終わろうとしている。冷蔵庫が周囲におかれたものと共鳴して、犬が水を飲むような音を立てている。

4/1(土)
 いろんなテレビ番組の最終回を見た。
 トマトが周囲の環境からストレスを感じると人間には聞こえない周波数の音を出す、とニュースでやっていて、それが新発見なのはわかるけど、トマト農家さんの耳にスマホを近づけてその音を聞かせるのはニュースではなくないか?と思った。興味関心バズり度合いではない、別の重要度でキュレーションしないのなら、それこそテレビの意味がない。

4/2(日)
 ロフトナインとロフトヘブンを間違えてユーロスペース前に立ち尽くながら、これぞ渋谷の変貌に取り残されるサブカルおじさんの末路だ…って思った。
 上の段落は、どうかするとひとに日記的な文言を送りつけてしまうので、日記は日記に書こうと決意を新たにして、誰かにあてたメッセージからカットしてきてペーストして少し修正したものである。ってこれこそ誰向けの文言なんだろうか。十年後の私へ…みたいなやつを急に始めそうになる。

 ライブ見終わった頃に、頭のてっぺんのあたりの髪の毛を小猿が引っ張るような感触が何度かあり、すわライブハウスの幽霊か、と思ったが、三度目の感触にいよいよ振り返ると後ろの席のお姉さんが「ゴミついてました」とゴミをつまんで見せてくれ、それはけっこう立派な大きさの白い糸くずで、「ゴミ、わざわざ、ありがとうございます」思わず受け取ってカバンのポケットに入れてしまった。あとから振り返ってみて、もらってその場で地面に落っことすのもややサイコパスみがあるし、この場合のぴったりの正解が絶妙にわからない。ともかくリラックスしたいいお客さんのいる客席だ。しずくだうみ楽曲群、やっぱり地方都市の図書館やプラネタリウムみたいな存在だなあと思った。よく音楽と結びつきがちな情熱とか情念とか情動とまた別に、もうすこし落ち着いた感触や感情や記憶はあって、ずっとあるのにだからこそかあえてフォーカスされることもあまりなく、だが確かにあって、あらためて、そこにそれ、あるよなあ〜と思わされる。たんに明るいか暗いかというよりは、落ち着いている。文章を読んでいる状態、ちょっとした発見がある状態に近い。
 📷「#都市の盆栽 #shibuya 夜、手前には国道246号線が左下から右上に向かって斜めに通り、右手にはブレーキランプを灯した車が数台信号待ちをしている。奥には首都高速の側壁が見え、さらにその奥にはおそらく地上10階建てぐらいのビルがたちならんでいる。その上に、都市の照明で暗くなりきらずにぼんやりと青黒い空。画面下中央には車の転回するための道路がぐるっと円形に敷かれているのだが、その中心には人も車も立ち入らない浮島のようなスペースがある。周りにはその島への接触を防ぐため赤白の棒が立ててある。浮島には高速道路の高さをすこし超えるほどの高さの木が数本、植えられており、その下には草も茂っているようで、それらが高速道路と一般道の黄色い灯に強く照らされている。」

4/3(月)
 コード打たずに画面上でレイアウトしてウェブサイト作れるサービス、引き続き触ってみている。でも結局マージンとパディングの違いを調べたりはしなければならない(初歩オブ初歩)。仮に、工事中、ってものすごく久々に打ち込んだ。
 日記を書くこと自体が自分にとってだんだん面白くなっている。間が空くこともないではないし、時にはその日の出来事ではないものを持ち込んでしまったりするんだけど、誰かに読ませるためでも、あとで読むためでもなく、書くために書いている。ここ何ヶ月かなんのためにかわからない感じで書いてきて、書いている自分のための心のかたむきみたいなものが醸成されつつある。

4/4(火)
 何日か前に表参道の交差点で見かけたスカジャンが印象に残っていて、あれ、色が品のいい薄ピンクで、スカジャンの文脈を踏まえてずらすような柄で(虎がいて、周りに花がいくつか咲いていて、そのひとつひとつの中心に眼が描かれている)、着てた人が明確にそれを選んで着ている感じがあって、というのはたんなる思い込みだけど、言い換えるなら当人とそのアイテムの毒と品とが見た目のうえでよくマッチしていて、スタイリッシュだったなー、と思って、「スカジャン 虎 花 目 ピンク」で検索したら出てきた(→"ヒグチユウコ スカジャン ギュスターヴ&花虎")。変わったものを見て、「あれ、なんだったんだろうなー」で終わる時代とはぜんぜん違ってる。学帽に桜の花びらを拾い集めて帰ってきた小学生の頃とはもう世界が違う。
 答えだけはすぐに見つかるけど、あえて想像しようとしなければ、その途中はなくなる。もっとも、服は見つかるが着ていた人は誰だかわかんないわけで、というか、人に関しては、名前や顔がわかってもそれは答えにはならない。私はその人を知らない。人は変わらずに謎。

4/5(水)
 「素敵」の「敵」にはとくに理由がないらしい。なんでだよ。

4/6(木)
 怖い夢見た。怖かった。生き物の気配。行きたくないと思ってるのに行ってしまう展開。
 犬のお誕生日。もういないからお祝いする相手がいない。かこつけて甘いもの食べるぐらいしかない。
 先日とはまた別のハラスメント事案に関する裁判で判決が出た。加害者ならびにその問題に向き合わなかった組織が賠償金を支払うという方向性そのものはよかったけれど金額が被害に釣り合っていないのは誰がどう計算しても明らかで、というかお金のことに限らないけれど、この社会の仕組みが問題含みであることに変わりはない。被害者の資質によって結果が左右されてしまうこと自体、ほんとうは望ましいことではないとわたしは思うけれど、この件に関して心ある被害者とその支援者がめちゃくちゃがんばった結果でもこの結論なのだから、法的な手続きは部分的な事実の認定としては機能しているが十分な罰にはなってないんじゃないか。
 人を雑に口説いたりキレたり殴ったりして(その発端が突発的だろうが計画的だろうが)、その責任をとらないことによって、自分のもってる力をたしかめようとするなんて幼稚な価値観をもった人間をありがたがるのは即座にやめなきゃダメだし、それをあえてグレーゾーンに置いたり、もっともらしい「原因」を捏造したり妄想したり吹聴したりすることで、利益(お金になる、仕事になる、作品を無邪気に楽しめる、不安や矛盾をなかったことにできる……)を得ようとするような周辺人物もぜんぜんダメだ。ダメだよ。それはなにかの中毒になってるよ。

4/7(金)
 夢に出てくる建物はだいたい謎の増築をして継ぎ足したようなのが多い。同じ角を曲がっても違う場所に出る。A-B-C-B-D-B-Eみたいな。
 ノスタルジーは甘いが実際にはその持ち主をより孤立させる力にもなる。あぶない。

 ずいぶん前の話だけど、TVドラマの予告で、登場人物の家の外壁に、「人殺し」などと印字されたA4のコピー用紙が大量に貼り付けられているシーンが使われていた。そういうことをするような輩がまず原稿となるデータをせっせと作った上で家とかコンビニとかでわざわざ印刷してきた紙束とセロテープかなんかをでっかいカバンに入れて現地に足を運んで一枚ずつペタペタ貼った、と考えていくとその異様さは明らか(あるいは、一人一枚ずつ持って百人がバラバラに来てたとして、それ、ますます異様)で、百歩譲っても手書きだろうし、人ん家に落書きする時点でもうどうかしちゃってるんだから、あえて紙を貼ったりせず直書きするだろう、と思った。本編は見そびれてしまったんだけど、あれはあくまで(ソーシャルメディア上の炎上を表すための)イメージのシーンだったんだろうか。もしくは、そのくらい通常のリアリティから逸脱したヤバい(たとえば筆跡などで特定され得る近しい立場であるとか、逆にまったく何にも考えられなくなってるとかで、あえてそういう奇妙な行動をする)一人の人物を描写するためのシーンだったんだろうか。
 これリアルタイムでも日記に書いたっけな? メモアプリ上で検索がうまく機能しないので二回目かどうかがわからない。もしこんなことを二回も書いてたら私もたいがいどうかしてる。

4/8(土)
 なぜかwordleは今どうなってんのかな?とうっかり検索してやってみるも、何答目かで、まさかそんな英単語があるわけない、という奇妙な綴りの答えにたどり着く。果たして意味はSituation Normal: All F**ked Up、略してSnafuということだった。第二次大戦中の米軍兵が言い始めたアクロニム(あとで忘れたときように書いておくと:頭字語)らしい。

4/9(日)
 ひたすら申し訳ない気持ちになる夢。息が苦しくなって、目が覚めた。"本人"は笑顔を見せていても近くにいる人が怒っている風景がつよく印象に残る。そういうことってある。謝っても謝りきれないことはあって、謝ったから、あるいは一歩進んで、傷つけてしまった当人にいちど許されたからといってそれでよしとなるわけではなくて、つまりあったことはなかったことにはならない。その罪悪感や割り切れない不安に「ケリをつけた」ことにしたいからといって実在する誰かを利用するべきではなく、記憶とそれにまつわる感情を、あくまで人間はひとりで、抱えておかなくてはならない。本人には真摯に向き合っているつもりでも、周辺には言い訳がましくなるような人間の弱さも、ほんとうはひとりで、抱えておくしかない。

 「亡命者にして周辺的存在、そしてアマチュア(as exile and marginal, as amateur,)」って原典ありそうだけど辿り着けず。それにしても必要十分な、いい言葉だ。(引用部分:TBS塩田アダム記者のプロフィール欄より)

 ChatGPT(3.5)との会話、ぜんぜんダメなのも含めて面白くて、おそろしい。
 平然ともっともらしい文体でデタラメを並べ立てるところがポイントで、こちらが実在しないものについてもあたかも存在するかのように聞けば、わりと答えてくれる。嘘を。正しい情報を正確に伝える能力はないが、うそつきの才能がある。AI本体が直接作った俳句よりも、〇〇の代表作、として挙げられたデタラメ俳句のほうが明らかによくできている。固有名詞などの条件付けによって、デタラメなりにツジツマを合わせる精度が上がるということはあるかもしれない。

4/10(月)
 お風呂にダラダラ入って一日の境目を溶かす。
 最近わたしが関心を寄せているいくつかのハラスメント裁判をめぐる情報あれこれを読むにつけて、くたびれもするのだけれど、気分としてはアレサ・フランクリンだ。Respect。Think。人間のまともさを励まし、応援し、育てていかなくてはいけない。
 髪や髭は過去最長になってると思うんだけど、せっかくなら一週間に一度くらい写真を撮っておけばよかった(何ヶ月準備するとこうなる、という資料になるので)。ヒゲは去年11月頭のテアトル新宿での舞台挨拶のときにはつるんとしていたので、それ以来、約5ヶ月でこのくらい伸びる、というのはざっくり把握できた。あんまり自撮りしない(残っているのは、めちゃくちゃ日焼けして水ぶくれができて試合直後のボクサーみたいな顔になってたときとか、ハチャメチャな寝癖がついたときとか、コンディションの悪い、人様に見せられない状況の自撮りばかりだ)から、こういうときにちょっと不便だ。
 私は『チョコボの不思議なダンジョン』の音楽が好きで、ちょっとした階段を降りてるときなんかに脳内で流れ始めたりするんだけど、そういえば、あれらの曲を作った方(FF13の『閃光』で有名な浜渦さん)は今どうしてるのかなと思ってふと検索してみたら(完全にいい意味で)めんどくさいブログを書いておられて、なんだか安心した。まともはめんどくさいが、避けても仕方がない、というか、避けていたら結局よりひどい状況を招くだけだ。

4/11(火)
 ふだん物産展みたいなのをやっているスペースに、金物屋さんが出店をだしているのにたまたま行きあって、ハサミコーナーのなかにヒゲ用のハサミを見つける。しばし真剣に検討した。取手部分まですべて金属で刃先が細くまっすぐなものと、取手がプラスチックで刃先が鋭くなく斜めになっていて着脱可能な櫛のついたものと、ぜんぜん考え方の違うものが同じ「ヒゲ切り用ハサミ」として売られている。
 むかつきすぎてメールやメッセージどころか日記にもどうしてもうまく書けないこともある。
 沈黙の螺旋理論というのはマスメディア時代に限った話でなく、誰もが発信できるソーシャルメディアでもぜんぜん有効な仮説だと思う。

 今まで何度も通りかかった道のすぐ脇にステキな公園を見つける。しっかりよそ見をしておかないと見つけにくい場所にその公園はある。

4/12(水)
 パン屋さんでパンを取り違えられていることに家で気がついたり(見た目で損してるレーズンパンだ!)、カフェで食べようと思ったパスタだけ、注文カウンター上のメニューにちいさく"Sold Out"と手書きのシールが応急処置的に貼られていたり、食べようと思ったものがなぜだか食べられないことが最近何回もあった。だからってこれといった意味とか象徴とかを求めようがなく、食べ物自体は十分にあり、あれ食べたかったな、という一時の気分だけが宙に浮いている。

4/13(木)
 NPRがTwitterへの投稿をボイコットするようにしたとのこと(「政府出資メディア」とのラベリングに抗議する旨で)。私はNPR MusicのTiny Desk Concertシリーズが好きなので(膨大すぎてぜんぜん見れてないけど)、ビジネス的にも態度の面でも、うまくいってほしい。ほんとうにイーロン・マスクにはうんざり。自分の悪ノリが現実に影響を与える!ということを喜んでいるチビッコじゃん、と言ってしまえば、無数にある例のひとつでしかないが。
 伊藤比呂美が典型的二次・三次加害を言い逃げしていて、これまた桁違いのうんざり。ここ数年来、舞台芸術やら文芸やらの周辺で見飽きるほど見かけた光景ではあるが、それにしたってどいつもこいつも、と言いたくもなるよ。「言いにくいことを」「炎上覚悟で」などとカッコつけるやつに限って、なににも向き合わないようにしている。で、モニャモニャと「事情」とやらを手前勝手に斟酌して、何も言わないのが大人の態度と言わんばかりの周辺人物たち。
 私も焼き鳥屋さんに呼び出されて口止めされたのを思い出す(そこに本人なりの逡巡や葛藤があったにせよ—なかったにせよ—つまるところその内心や動機がどうであるにせよ、実際にどのような効果をもたらすのかを考えれば誰にでもわかるような、典型的二次加害)。ああいうのは、なけなしのリスペクトが一瞬で消滅する。おまけに取り巻きが業界にむかって事実と異なる風説の流布するとこまでおんなじ。以来、某博物館もH社の出版物もボイコットすることに決めている。「お友達」のご立派な書評家さんも「同期」のご立派な作家さんも「師匠」の件はスルーして他のハラスメントに怒ってみせるご立派な演出家さんも、ありがたる気も面白がる気もさっぱり失せた。みなさんご立派。馬鹿馬鹿しすぎる。
 名前を出せば「攻撃」、間違いを訂正すれば「お互いハラスメントをなくすためにがんばりましょう、議論する気はありません」、特等席で楽しみ続けたいだけの上品でご立派な趣味人のお歴々。フラッシュバックと呼ぶには、鈍く長い時間の話だ、これは。
 ぶん殴られたやつに「騒ぐな」という前にまず、ぶん殴るやつに「殴るな」と言えない人たち。そんな物事の順序さえわからなくなってしまった人たち。いる意味ある? 筋を曲げてまで保ちつづけた"趣味のよさ"になんの意味がある?
 ビッグネームであれ顔見知りであれ誰も信用できないことがだんだん身に染みてきて接触機会を減らす方向性になるといよいよヤバい。でも正直なところ解決策が思いつかない。私はマジで劇場に行かなくなったし、今もあんまり行ってない。誰かのお名前をありがたがる態度と創作、鑑賞、広報の環境とが不可分すぎて。
 凡庸な悪をなぜか真っ直ぐに糾弾できない、遠くにいる巨大な敵なら、友達じゃないやつなら、"仲間"に都合の悪いことを言うやつの足元なら、いくらでもつっつける、ごく身近な、身に覚えすらある、あの凡庸な悪をなぜか真っ直ぐに糾弾できない、ならば、どうするか。

 尊敬に値しない人が思ったより多かったときにどうするべきかって、この世で、本当にむずかしいことです。

4/14(金)
 やっぱり「おばけ教室」という作品を作ることには意味があるような気がしてきた。つまりいかに率直に・正確にものを言ったところで届かないような人に対するコミュニケーション手段として、あるいは、どんなに正確に言ったところで言い当てることのできないややこしい物事を指し示す方法として、まだフィクションには頼れる領域があるというか、さいごにはフィクションにしか頼れない部分はあるんじゃないか……というか、「いない扱い」をされるような「おばけ」という位置からもう一度この現実を捉える必要があるんじゃないか。と、このような途切れて散らかったレールを、仮に置いてみる。

4/15(土)
 夜中にいろんな音が聴こえる。ふだん雨が当たらない金属部分に、たぶん木の枝から伝わってきた雨垂れが二十秒に一度くらいのペースでぶつかって、「ドゥン」というので目が覚める。窓ガラスや出窓の屋根を叩く雨の音とは桁違いの存在感だ。「(タッタカタカタカタカタカパカラタカラ)ドゥン!」おそらく水の落ちてくるルートになっている枝を切ったりしないとなくならないだろう。でも雨が止んだら結局このことをすっかり忘れる気がする。

4/16(日)
 路面電車の運転手さん同士の無線から「現在〇〇方面で雹が降っている」と聞き知る。ひたすら妙な天気だった。こういう日は太陽がより奇跡的に見える。
 そういえばわたしは雨に大粒のものから霧状のものまであることの理由を科学的に説明できない、と思いながら、とりわけ大きな粒の雨が地面にビタビタ音を立てながら水玉模様をつくりはじめるのを見ていた。

4/17(月)
 書かれていないセリフを捏造してどんどん即興的に言わなきゃならないのと、用意された長ゼリフをきちんと正確に言うのと、で、自分のモードはすぐに切り替わらないんだなというのが発見といえば発見だったけど、それにしてもせっかく二塁打打ったあとに併殺打二本、みたいな感じで、後味としては圧倒的に反省…。慣れないことをやるからこそ準備が必要なのに準備不足だった。問題は、いつもやってるはずのほう(存在するセリフを乗りこなすほう)なのに、という点だ。それこそ油断かもしれない。アドリブのための下準備に気を取られて、セリフの準備がおろそかになっていた。と思う。結果的に。奥歯かみしめ終バスに乗り込む。
 舞台と違うのは、たとえ現場でしっちゃかめっちゃかになってしまう瞬間があろうが出せるだけ出したらあとは素材として編集してもらえる、というところで、なるべく確実な一撃必殺をひとつずつ狙うのとはぜんぜん違うアプローチがありえるんだなーと思った。今までは自分が(舞台でのやり方を意識しないまま踏襲して)なるべくかっちり外さないようにやろうとしていたのがわかった。思い切ってポケットの中身を全部ひっくりかえすようなやり方もあるのかもしれない。
 それにしたって瞬時にモード切り替えてちゃんとセリフやれる状態でなくてはならない。行ったり来たり。バス停をいくつか余分に歩いて帰る。

4/18(火)
 広告や政治家(政治ではなく)に言及したくない気持ちというのはどこから来るんだろう。
 もし自意識も公共心もなかったら(ところで自意識ぬきの公共心なんて結局ありえるだろうか)、判断基準は(自分とか「仲間」の)利益以外になくなるわけで、さすがにそれ、私はごめんだ……と思う程度の自意識を自分に許している。「自意識は敵!」なんて方向性で「仲間」を集めたってしょうがない。どこまでも処世術に自分を売り渡せる人はいる、というだけの話だ。それはそれでよろしい。利益は最大化される。そういう人びとからすれば、私は、ものわかりのわるい、バカな、厄介なやつである。美意識も自意識も大いに結構。そこからコミュニケーションするしかないんだから。

4/19(水)
 スパムメッセージの日本語はなんだか面白い。いまだクオリティの低い自動翻訳ならではのリズムや表現が見慣れないものであるのも物珍しくて楽しいのだけれど、書かれている内容を、書いている人間もたぶんぜんぜん信じておらず、読んでいる私ももちろん信じておらず、にもかかわらず文章だけがそこにある、という状況は異様で、興味深い。フィクションであれば、差し出す側がありそうなこととして提示するとか、受け取る側が一旦ある設定を受け入れておくとか、それが結局うまくいくかは別にして、言葉はやりとりの出発点になるはずなのだけど、スパム文は本来求められていたであろう機能(「褒めていい気分にさせる(そして、お金を奪おうとする)」とか「不安を生じさせて脅かす(そして、お金を奪おうとする)」とか)をいっさい果たさず、純粋な無駄としてインターネットをただ漂っている。かけられたが誰も通ることのない橋、などときざに言ってのけることもできそうだけど、実態としては嵐の次の日に見かける壊れきったビニール傘だ。もはや言葉の形状やイメージを味わうしかない、という意味ではちょっと詩みたいになっている。
 「おはようハンサム.」は曲のタイトルかと思ってしまう(…『がんばれメロディ』からの連想かも)。「私は用心深い人です。」もなんだか用心が足りていない感じがいい。自分が天才ハッカーであることを一生懸命説明すればするほど、そいつが現実にはいないことがどんどん明らかになってしまう。悲しい。

4/20(木)
 暑い。
 変な姿勢で眠ったあと、肘をついて半分身体を起こすと、関節の細かくきしむ音がハードディスクドライブみたいだと思う。
 眠っている私の部屋のカーテンが全開で見知らぬおじさんが部屋のなかをじろじろ見回しているのを止められない、という夢。その状況が見えているのなら「わたしは実は目を覚ましていて、」ってなるところなのだけど、やっぱり私は眠っていて、その全体を見ているのは誰なんだろう。夢で一度も見たことない人の顔を作り上げているのも不思議。

4/21(金)
 反マッチョはいきすぎると反肉体みたいなことにもなるのかもしれない。←テキトーにものを言っている。
 「仲間思いの差別主義者」とか「趣味のいい芸術鑑賞を生きがいとしている二次加害者」とか「配偶者を殴る"天才"芸術家」とか、実在の、そういった例から考えてしまう。

4/22(土)
 自分自身に対して「そんなことなくない?」と思うのは、車にブレーキをつけるのと同じくらい必要不可欠だと私は考えるけれども、ときにブレーキがずっと強くはたらくことでどうにも身動きがとれなくなるような場面はある。
 それで、なのか、どのような考えをもっている人たちのなかにも「そんなことなくない?」という疑問そのものをやがて憎んだり敵視しはじめたりする人たちはどうやら出てくるらしい。それ、ブレーキをなしにすれば車の平均時速はあがる、と言っているようなもんで、それは計算上そうなのだろうが、事故は起こる。知りながらあえてなのか忘れてなのか、目に見えない誰かを犠牲にする速度を求める尊大さを人間は持っている。まったく身近な、卑近なところに限界はある。だから考える……というだけでは結論にはなりようがなくて、考える。

 代々木上原をひさしぶりにウロウロすることになる。ごきげんな酔っ払いたちと一緒に。よい歩道橋と滑り台があった。犬の水飲み皿を買ったお店も古本屋さんも焼肉屋さんも健在で、この風景を17歳ぐらいのころの記憶と見比べている…ということがなんだかもう途方もない。

4/23(日)
 脱力タイムズのダイアン津田&母きみこフィーチャリングMCごんのすけの回、仕掛けと自然のバランスが面白すぎた。というのを思い出した。ほかに最近のテレビで言うと、にちようチャップリン番外編特番のどこでもチャップリンでランジャタイがすごかった。あとは信用して見てる側に預ける、みたいな時間にばっちり周りの芸人さんが反応していて最高の余韻。いま面白いテレビバラエティをざっくり知りたいひとがいたらカロリーそこそこ多めで紹介できる気がする。テレビ見過ぎ。でも一番熱意があった時期はもう少し前だったかもしれない。

 投票済証をもらい忘れた。そのあと喫茶店でスイートポテトを一口食べて、あれ、そういえばいつから台紙がなくなったんだろう? と思った。そんなことをわざわざ考えるこの人はぼーっとしている、と思った。

4/24(月)
 家のトイレに入ったときに一瞬だけ外からほんのり映像の世紀で"好景気に沸くマンハッタン"を紹介してるときみたいな曲が聴こえた。ご機嫌な家だか工事現場だかが近所にあるのだ。どちらかといえばいいことだ。

 人間が匿名になるとだいぶAI的な存在に接近する。いかにもありそうなリアリティ・ラインへの接近。たとえば、評判、というものの半分くらいは実際に見聞きしたり考えたりされたものではなくて、評判を聞いた人が語る評判なんじゃないか。とか。
 なぜか繰り返し何度も言葉を受け取っていると、だんだんとありそうなことのように思えてくる…という人間の認識のエラーはポスト・トゥルース時代の"やり口"の基礎にして奥義なのではないか。人ひとりが接触できる人間(らしき存在)の数には限りがある以上、たくさんのアカウントを「善意」なり「金」なり「信心」なりで動員すれば難なく世論は動く。いつだって「あの手口」は「わあわあ言わないで」静かに進められている。別に政治の話には限らない。

 YamasukiのYama Yamaをかけてゆらゆら踊る。

 事件、あるいは二次的な事件、といったものに目が向けられがちだけれども、それをなかったことにしようとする有象無象に、かつてダメージを受けた人たちはあらためて絶望するんではないだろうか。有象無象の彼らは決して直接に糾弾されにくい/されないことを知った上で(あるいはもし"わざわざ"糾弾されたとして、それを「過剰な/見当違いな攻撃」扱いして)、「なかったことにする」。「やったのは/やられたのは、わたしじゃない」。ある物事の時系列を追いかけていて、人が絶望するタイミングのことを思わずにいられなかった。それは事件や直接の二次被害によってではなく、「なかったことにされた」ことで引き起こされたことのように思えたのだった。

 reputationのためには動けて、integrityのために動けないというのはどういうことなんだろうな。そのダメさ自体、必ずしも身に覚えのないことでもないのだけど、人間、なんでそうなってしまうんだろうな。厄介なのは、自分なりには自分のことは騙せてしまうというところだ。それで済ませてしまえる人たちは沢山いるし、また重ねて言うことになるけれど、自分がそうではないとは言えない。

4/25(火)
 こわい話を読んだらおでこにニキビがひとつできた。ストレスだと思う。おやつカルパスを日に二本以上食べたときにもしばしばニキビができる。塩分油分だと思う。

📷 「公園の一角。奥には金属製のフェンスと小さな建物のタイル地の壁があり、地面は灰色で固い砂地になっており、そこに黄色一色のキリンの形をした遊具(といっても座る以外にはとくに用途がない)が置かれている。キリンの首は下まで降りていて、五本目の足のように地面と接触している。キリンの目はつぶっているように表現されている。晴れた昼間。」
📷「青い壁のビルの中間部分。建物は上にも下にも続いているようだが何階を写したものなのか判然としない。画面真ん中には横長に窓が連なっていて、これまた青いカーテンがかかっているのだが、左から二番目の窓の左半分だけカーテンがあいている。その窓際に白と茶色の猫がこっちを見て座っているのがかろうじて見える。カーテンのあいた隙間が暗くなっている分、反射した空とアンテナがくっきりと見え、猫に重なっている。」
📷「窓越しの風景。運転席の窓には雨垂れが光り、日差しよけの影が太いカギカッコのように右上に模様を作っている。画面中央奥に向かって路面電車の両面通行の二組の線路が伸びている。右には電停があり、屋根の下の椅子に座った男の影はほとんど真っ黒に見える。空は明るい灰色で、路面電車のための電信柱と電線がそれを細かく分割している。地面は濡れて、均等に置かれた枕木とまばらな草がところどころ光っている。」

 すっかり入り組んじゃってる。入り組んじゃってるのを説明しようとしても、誠実さと簡単さを両立することができない。そうなると、ますます入り組みの奥へと、掘り進めるほうに向かうことになる。
 いまのわたしには物語ではなく、詩と批評が必要だ。

 どうやらきのう食べた賞味期限大幅に過ぎてたインスタント麺でちゃんとちょっと体調悪いっぽい。

4/26(水)
 夢。なごやかな舞台袖にいる。広くてひとがたくさんいる。あきらかに過去だ。だが私の記憶にはない。ふと自分がもう死んでいることに気づく。
 目を覚まして、二つの時間を同時に生きることはできない。と思った。

 GoogleのBardはまだ英語しか通じないが、ChatGPT(3.5)と違って、ないものはない、と言うタイプみたいだ。GPTちゃんは人間があると想定しているものをないと言って気分を損ねないようにするのを最優先にするあまり、変なことを引っ張り出してくる。(ふとこの構図から「森友学園」的な問題が思い浮ばないでもない…)

4/27(木)
 「つらい目に遭った人にしかできないこと」なんてないほうがいいに決まっているのだが。

4/28(金)
 おでこのニキビは大まかに治った。明るくなるまで夜更かししてしまった。
 ややテンションの高い(内装、BGMのボリューム…)お店の、カウンターの上や機器の配線やバックヤードがやや雑然としていた。味わい深い。

4/29(土)
 おそらく、善い行いをし、徳を積む、という意味であろう「行善積徳」のなかには文字列としての善積が紛れ込んでおり検索に引っかかる。あと時々「善積んでるから当たってくれ〜」とか、チケット抽選のために日頃の行いをよくしようと心がけている人も見かけることになる。

4/30(日)
 四月最後の日! 早すぎる。曇ったり雨が降ったりすると自分がいま海底で暮らしているような気分になったりするけど、なにしろ普通に息をして動いているので、その「海底」は本物の海底よりスポンジボブ世界に近い。
 いいこと言うのは(別に)いいことだけど、いいこと言わなきゃやってらんないのは危ないことだと思う。砂上の楼閣がたんなる夢だったらいいのだけど、質量をもって倒れてくるのはなお困る。
 おもろい、グッとくる、それだけでは片付けられないなにか、へのリンクが送られてくる。拝聴。感想は一晩置くことにする。

5/1(月)
 「スポンジボブ 笑い方」で検索すると日本語版はわりとオリジナリティのあるフレーズになっているのがわかる。ワワワワワワ、ってやつ。この検索ついでにTiktokには演技してる人たちいっぱいいるんだな、ということに今更気がついた。「あるある」系のお笑いはブリッジとか自己紹介抜きにネタ振りを文字で見せといてショート動画で完結するのか!って気づくの数年単位で遅い。
 『グッドバイ、バッドマガジンズ』U-NEXTで先行配信開始。