2016/05/30

右足のつま先だけぬれる

 雨が降ると靴がぬれる。ところがぬれ方が左右で違う。いつも必ず右足のつま先からだんだんしっとりしてくる。やがて左はややぬれ、右はずぶぬれのツートンカラーになる。
 この現象は小さい頃からずっとちいさな疑問だったのだけれど、最近ようやく理由がわかったので、ここに書いておきます。

 まず傘との位置関係ではない。傘で避けきれない雨が当たるとすれば左足になるはずだ。というのもぼくは右利きでだいたい傘は右手で持つことになる。もちろん完全に地面と平行というわけではないけれど、顔の右側を通って傘先が真上を向くように傘を握っている限り、傘の描く円の中心に近いのは右足、遠いのは左足だ。

 次に思いつくのは、歩くときに右足のほうがストロークが長い、という説。足も右利きだから相対的に蹴り出す力が強く、遠くまで身体を運んでいるんじゃないか。これなら右足が傘からはみ出ることが多くなるのではないか。しかし先ほどの傘との位置関係を考えると、この差を逆転できるほどに左右の歩幅が違うということは考えにくい。試しに目をつぶって歩いてみても(人がいない道でときどきやるのだけれど)、極端に左右どちらかに曲がって行ってしまうこともないし、足の長さもほとんど変わりない。そこまで身体のバランスが左右で違うということは考えにくい…

 というようなことを考えながら、雨の日、つま先を見ながら歩いていると、つま先から飛び出すちいさな水滴がある。靴の裏についた雨水は、足が蹴り出された勢いでつま先がわに向かう。つぎに足が前に進みきって重力にしたがって地面に落ちるとき(つまり歩く足が交代するタイミングで)、おそらく急ブレーキがかかったようになって、水滴が靴から飛び出す。このとき左つま先から放たれる水滴は前方に飛んでいくのだが、なぜかぼくの右つま先から飛び出る水滴は上に向かっており、歩くにしたがって進んでいく右足の靴がそれを受け止めてしまっている。なぜ右だけ上に、と右足に注目すると、足を前に出し切ったとき、左足に比べ、足首がすこしだけ、揺れている。
(おそらく右足のほうが蹴り出す力が強く、余った力で足首が揺れているのではないか)

 ともあれ、つまり、右足だけぬれるのは、足を蹴り出す力で水滴が前方へと向かう際のベクトルが、足首の動きの差によって左右でぜんぜん違っているから、ということがわかった!

 のだけれど、雨が降ると相変わらず右足ばっかりぬれる。

2016/05/04

ほとんど顔しか覚えていない

 『キャロル』を友達に薦められて見に行ったのはたしかもう一ヶ月以上も前のことで、どの映画館に行ったかさえ思い出せないのだけれども、だからといって印象が薄いかというとそうではなくて、自分自身の記憶の仕方にはありがちなことなのだけれど一点豪華主義みたいな感じになっている。
 映画の最後、ゆっくりとカメラが近づいていって(つまり、登場人物が近づいていって)、じっくりと人物の様子を捉えている。近づいていく側も近づいた先にいる側も決然とした人物で、なので再会はあまりにも決定的すぎる。カメラはずっとこちらに気がつかないでテーブルについている様子を写し続ける。だがこの長い間はカメラのこちら側の人物が逡巡しているから生まれているのではなくて、ただ二人のあいだで機が熟すのを、誰もが待っている時間だ。まだか、いまか、これから、どうなるのか、映画を見ている観客(わたし)がきっと「…いまだ!」と思った瞬間に、ずっと画面の中央にいた人物が視線を上げて、気づき、カメラを見る。そしてその、カメラを見ている(つまり、登場人物を見ている)顔そのものがもっとも決定的な事件。
 ひとつずつ数をかぞえるような引き延ばされた時間のあとで、こんなになにもかも語り尽くすような顔があらわれるのだから、とてもびっくりした。この一点でこの映画はよい映画だった、というようなことに、ぼくの中では、なる。
 映画の話というよりはわたしの記憶の話になってしまった。