2023/10/06

【出演情報】自由が丘商店街PRムービー『女神の街』

自由が丘商店街PRムービー『女神の街』第2話「花の街」・第3話「1-29」に出演しております。


2023年10月8日(日)・9日(月・祝)に開催されます「自由が丘女神まつり」内
自由が丘駅前特設ステージにて
10月8日(日)18:15〜19:00『女神の街』スペシャルプログラム
が予定されております。
ぜひお運びください。
(※当日、善積の登壇予定はございません。)

▼自由が丘女神まつり 公式サイト

三日坊主日記(6)

6/8(木)
 キーマン、ドアマン、ロックマン、近くにいそうなのに全部ぜんぜん違う。

6/9(金)
 きのこ帝国と赤い公園の名前が脳の中でごっちゃになることがある。もちろんきのこ公園や赤い帝国になるわけではない。

 空也上人立像のCM(「そうだ京都行こう」シリーズ)が流れ出したときから、このギターの演奏は誰なのかなーと思って、不定期に何度も「そうだ 京都 行こう ギター」でツイッター検索してたんだけど、今日ツイートしてる方がいらして、アレンジ・演奏者は閑喜弦介さんだというのがわかった。

 このごろグーグル検索よりツイッター検索のほうが正解に早く辿り着くケースがあり、さらにこれがいずれインスタTikTokその他に分散してくるとふだん情報をどこからとってきているかによって見ている景色がぜんぜん違うということにもなりそう。というかグーグルってもともと断片化していた情報を「検索ワード」というひとつの条件で横断的に閲覧できるようにしていたのがすごさの根幹部分だったはずで、なんで今、イマイチそうなっていないのか、専門家に聞いてみないとわからない。検索エンジンの仕様を逆手にとったサイトが増える→ノイズになるようなものをカットオフする→個人発のマイナーな情報も一緒に抜け落ちる、みたいなことなんだろうか。あくまで妄想。
 あとツイッター検索っていろんな物事に対してひとが抱く感想を見るのにも便利なんだけど、同時に「人間、文字化していることに引っ張られ過ぎ問題」のことを考えずにはいられない。とくにレビューを集めて読んだら書いたりするのを目的とする場では、よほど気を確かにもっていないと先行する感想に引っ張られるだろうなー。あとは誹謗中傷もそうか。
 人間のもつ「感想」って凶暴なものなんだよな。意識的な「批評」(すくないけど・批評家が距離感をうしなった「感想」書いてる場面すらあるし)に比べると野生生物みたいなもんだと思う。それ「自分の欲望とどのくらい合致しているか」みたいなことしか、いま、言ってませんけども? って問い直されたりする機会もないし、やりたい放題以外の選択肢がない。感想というフィールドでは。それはそれでいいのだけど、それ、人工的にものを作る人がグッと体重かけてよりかかれるものでもないはずで、だから話はふたたび「文字化すると影響受けすぎ」というところに戻ってくる。受けすぎ、とは言ってみたものの、受けすぎてはいけない、気をつけよう、というようなさじ加減の話ではなくて、人はどうしても受けすぎてしまう、という前提の再確認にしかならない。ならないちゃん。

6/10(土)
 どんなに評判がよくても俳優をぶん殴ってダマでええかっこしてる演出家の作品は見に行かないと決めている。ひとりの演者として、あるいは文化芸術を好んで観る人間としてなにやら「損してる」ようにも思えるが、それより手前、そもそもひとりの人間としてどうなの、ってところまで立ち返らない「愛」ってなにかね。見て見ぬふり、というのは結果的に自分の(ダンスの)ステップを大きく制限すると思う。ひいては未来の誰かのもだ。それこそ損得で言ったって損なのだ。

 (ダンスの)って要る?

 NHK「地球ドラマチック」〜科学で解明!動物たちの遊び〜より、イヌ科動物遊びのルール。遊びにはルールがある。エキサイトした遊びと争いが区別されなければ危険なので。
・お互いにプレイバウをする(play bow:前足をのばして頭を低くし、お尻を高く保つポーズのこと)。
・危害を加えない。怪我をさせない。
・もし上記ルールに反した場合には過ちを認める。(遊びはただちに中断される。再びプレイバウして、相手がそれに応えると再開)
・これらのルールを守る。(ルールを守らない=ズルをするものは群れにとって危険なので、その遊びあるいは集団そのものから追放される)

6/11(日)
 日記というよりは疑問ノートをつけたほうがいいような気がしてきた。日記というよりメモ書きなのは、前からそういえばそう。

6/12(月)
 ひとから愛想笑いをカツアゲするようなことになるとたいへん反省する。

 お昼、重たいシャンプーボトルを養生テープでガチガチに固めてTBSラジオへ。ロン毛ヒゲリスナーの一員として「こねくと」のラジオブースに潜入! なんにもしゃべれなかったけど面白かった(メモ帳にエピソードのメモ用意してしまった……)。みなさんロン毛ヒゲに加えてラジオ好きで、やさしい。ノベルティとヒゲの大敵シュークリームをお土産にいただいて、とっさの洒落っ気に恐れ入りつつ、社会科見学みたいだ…って思う。
 ロン毛ヒゲ軍団が人工芝の敷かれた広場をいろんな方向に歩き出して解散してゆくのが味わい深かった。芝は(なにしろ人工なので)短く整っている。小雨。駅前のおいしいインドカレー買って帰る。おいしい。

6/13(火)
 髪切ってなさすぎて美容師さんの出てくる夢見る。夢の中の美容師さんからなぜか、アーケード市場にあるなにかのお店を紹介してもらう(実際の美容師さんもけっこうおすすめスポットを紹介してくれるタイプなのだった)。夢の最後、鳥に襲われてメチャクチャになってる店の前を通りかかるとおばあさんに怒られる。理不尽。悪夢の悪夢らしさは内容のひどさよりなにより、理不尽さだ。悪夢は理不尽。
 ジューススタンドぐらい季節がわかりやすく表示されてる場所ってなかなかない気がする。今はスイカ!
 フェイクグリーンの写真を撮る。造花の観葉植物版のことをフェイクグリーンと呼んでみる。フェイクグリーンの存在感や役割のことを考えはじめると、生きている植物と同じくらいは喋り出しそうな存在のように思えてくる。葉っぱがあからさまに化学繊維の布だったり、茎にバリが残っていたりするのに、そんなことはおかまいなしに、そこにいさせられていることによって、その妙な役割をいきいきと演じているように見える。

6/14(水)
 権力や権威の引き起こす問題(差別、ハラスメント、おかしな法改正や運用などなどなど……)について:これらを決して「意図」や「読解」の問題にしてはいけない。なぜか。解釈以前に、もともと事実はある。意図的か無意識的かはともかく、事実を曖昧にする"ものの言い方"はいくらでもあって、ネットの海からいくらでも拾ってこられるうんざりするようなレトリックの例をいちいち書かないけれど、その最たるものが「〇〇が言っていたから」だ。順を追って考えれば、当然「〇〇が言っていたから」の多数決が、物事を決定づけるのではない。
 事実はさほど、ひとびとの興味を惹かない。であるから"大勢"が決してさえいれば、だいたいそれをそのまま受け取って、多くの人は満足してしまう。おまけに、誰かが言っていたから、のあとには(それを信じただけの私には責任がない)と続けることすらできるのだ。そのイージーさはあたかもノーリスクを装って、容易にあなたの考えを止める。このように、多数のあいだにまぎれたがるひとの性質を利用して、意識的にか否かはさておき、ある種の権力・権威は「〇〇が言っていたから」ゲームに持ち込もうとする。
 しかし、繰り返しになるけれども、事実はある。それがどんなに考えるのもイヤになるようなひどいことだったとしても、事実は絶対になくなったりはしない(考えないようにするために人は間違った方向にだって努力する。だが、当然、告発者や被害者をいくら攻撃しても、なくなるわけがない)。事実を見ようとしないことは、いずれ私たちにとってのリスクになる。なぜなら問題の根幹を把握しなければ、同じことが起こるのを防げないからだ。
(その意味で、たとえば近場のハラスメントの問題で言えば、創作者や批評家の思い入れや友情なんてものは役に立たないどころか……ということは言うまでもない。一見思慮深そうに見えて、お友達を前にするとその思慮を投げ捨てるような人は少なくない)

 錦鯉のまさのりさん、意外と「承認欲求」とか言葉がすらすら出てくるひとなんだよなあ。ラジオ。承認欲求でないところで面白がる"上客"渡辺さん。でも面白いってそういうことだよなあ。自分を確認するためにわざわざ誰かや何かを使うようなことじゃない。みりちゃむの謝罪に対する見識(謝罪は自分が悪いと思ってるからするんじゃないの?許されるためにするのは順序が違うでしょ……っていう視点)も真っ当で、真っ当って、真面目な賛意や気づきを超えて、ときどきめっちゃ面白いときがある。真っ当すぎて笑う、って、なんででしょう。

6/15(木)
 フェイクグリーン、ぜんぜん、すでにある単語だった。どっかで聞いたことあったのか、それともただその言葉の組み合わせにたどり着いただけなのか、今となってはわからない。
 真夜中、NHKで「もうひとつの『千と千尋の神隠し』」再放送に行き合う。このドキュメンタリーがなにやらいい話としてパッケージしようとしている部分についてはさほど共感しなかったし、演出家だけがひとり、マスクゆるゆるさせてるのを誰も注意できてないのはちょっと危なっかしい(単に感染症対策という点だけでなく)けれど……
 稽古場だ!稽古場いいな!と思ったのは、「なんで窓を開けるんですかね?」って言ってた瞬間。車中、千尋にフォーカスしているシーンの、千尋の母のふとした動き。
 (描いた人や描かれた人のことはさておき)絵や文字そのものに動機はなくて、それが当たり前なのに、人の目には動機のない身体というのはとても不自然に浮かび上がってしまう。逆に言えば、ほとんど常に、人間の身体というメディアはなんらかの動機をまとってしまう。劇が要請する「なんで?」と生身の人間の「なんで?」との潮目で、「なんで?」って考える場所。
 ところで、自分自身を人質にとってしまうような言動を俳優はしがちであるようだ。身に覚え、ある。それ、自分自身を含む、俳優たちの身を守るために必要な場合もあるんだけど、カメラに映し出されたそういう態度を見ていて、ふと思った。どうやらフェアじゃないときもある、というか、なんというか、言ってること自体まっとうだとしても、それが対話の糸口になりにくい、というか……。といっても、演者がこの手の発言に至る場合、その手前で既にいろいろとうまくいってないことも多々あって、外部から筋が通っているように見えるかどうかとはまた別に、そこにある、演者の身体を無視するな、という一種の悲鳴のようなものなのかもしれない。
 なるべくよいルートを選べる状態をつくって、保って、選んでいきたい。どちらかというとこれは自分用の判断基準で、他の人にどうこうなっていてほしい、わけではない。
 稽古場に行きたい。見学させてもらえる稽古場探そうかしら。稽古場見学記書かせてもらいたい。

6/16(金)
 ジェットコースターに乗る。英語だとローラーコースターだけど、どっから来たんだ「ジェット」。ジェット成分ゼロ。謎の手拍子で送り出して、拍手で迎えるノリだけは本当になくていいのに、と思う。
 延々とチェックリストを音読する人を眺める時間が発生して、とくに問題がないのはもうわかっているのに、読む人も聞く人も、なぜこれを止めないんだろうか、と思った。つまるところぜんぜん人に優しくない丁寧さというのはこういうことなんじゃないか、とか、そんなようなことを思ったような気がするけれど、聞いているあいだの無、すっごく無。
 
6/17(土)
 「旧態依然」のことをなぜだか頭の中で「キュウゼンタイイ」と読んでいることに気づいた。キュウタイイゼンに決まっている。なぜだ。

 オードリーのオールナイトニッポンin東京ドームのステッカー、コンビニのシールプリントで手に入れる。一目散に配布の列に並ぶでもなく、転売は当然無視した上で、データ片手にそっとコンビニへ行く「命の回転」、ひたすらに地味。
 いま「いのち」と打つと予測変換は「あなた」と示す。使う仮想キーの位置は一緒。実になんというか、短歌かなにかになりそうな現象だ。

6/18(日)
 見えないけどある、ものはある、けれど、見えるけどない、ものってなんだろう。見たことないけど蜃気楼とかか。「蜃気楼が見える」という現象はあるわけで、「それがそこにない」のと「ない」のは違う。

6/19(月)
 インターネットで。「笑った」と書いてるうちの半分くらいは笑ってないと思うし、「吐き気がする」と書いてる人のほとんどは吐き気がしてないと思う。
 
6/20(火)
 ノイシュバンシュタイン城。ノイ-シュバン-シュタイン。new-swan-stone。新白鳥石城。

6/21(水)
 いやーやっぱりハラスメントの件を抜きにご威光をありがたがるっていう態度は見てられない。比喩じゃなく、リテラルに見てられない。見かけたらそっとミュートしてるけどちゃんとブロックしてゆくべきなのか考えてしまう。そんな都合良い「デカフェ」みたいなのあるの?
 ハラスメント加害者の残した業績や作品にまつわるよさや面白さについて考えたり語ったりするのがダメなわけじゃない(むしろそういうことは行われるべきだと思う)んだけど、そこで一切の問題をスルーできる神経は、わからない。注釈なり留保なりを一切抜きに信仰告白するとして、それ自体は自由だが、その態度で未来に何を伝えられるのか。いったい何に向かって拍手しているつもりか。わからない。もし問題をスルーするのが「バランス感覚のよさ」なり「品のよさ」「趣味のよさ」「マナー」だというのならそのバランスの秤はもうぶっ壊れている。

 「犬のいない暮らし」だなと思う。犬がいたから、いま犬のいない暮らしをしている、と思う。

6/22(木)
 早寝早起き。

6/23(金)
 駅の片隅に直列したATM、自動販売機、証明写真。お金、水分、アイデンティファイ。

 巨大100円ショップを歩き回ってくたびれる。

6/24(土)
 お蕎麦屋さんで。「蕎麦屋のカツカレー」というメニューがある。頼もうとして、「蕎麦屋の…」と言うと、目の前のその人がまさしくお蕎麦屋さんであることに気付く。なんか気まずい。「お蕎麦屋さんの」と言いたい。というか、「そもそも全部そうじゃん」という気持ちもないでもない。
 シャバシャバしたお蕎麦屋さんのカレーはシュークリームと同じくらい計算が立たない動きをするのでヒゲの大敵であることがわかった。

 まったく同じASA-CHANG&巡礼のジャージを着て、さらに腰に巻いている状態で、まったく同じ状態の人と会う夢。本物は部屋のハンガーに1枚かかっているだけなので、夢で4倍だ。でもそれ、まったく出来事の主軸ではなくて、この偶然についてはあとで話そうぐらいのつもりでいたのに、いろいろあってうやむやになったんだった、と夢を振り返ろうとしてもどっちでもいいというかどうでもいいというかもう記憶がない。何人かで車に乗って、牧場みたいなところに辿り着いて、見たことのない生き物(ウサギとバクの中間みたいなの)が走ってきた勢いのまま腕の中に飛び込んできてキュウと言ったところで目が覚めた。生きものの感触。犬の記憶。

 歩き回って書き回る、量が足りない。

 「無受罰性」ということば、ものすごくクリティカルなように思う(何丘ブログ)より。まさしく人間の腐敗はそこから始まるのだろう。

6/25(日)
 ヤマバト(キジバト)の鳴き声を「デデーポポー」と表している文章に行き当たる。「ホー、ホホーホホー、ホー、ホホーホホー、ホー」だと思っていたので「デデー」は新鮮。自分の聞こえ方だとホーは裏拍(4拍目)スタートだけど、デデーで考えると1拍目のウラだ。
 笑点の演芸コーナーでトム・ブラウンが不穏なつかみ(例:「夢屋まさるは殺します」「キャー」)を全カットして、ものすごくゆっくり丁寧にやっていた。「ダメー」の直後の間で謎の拍手が起こる。巻き起こるちょっとした不安な気持ちを、笑うでもなく、拍手で解消してしまう観客席……なかなか老獪な手口だ。
 ベッドシーツを替えたり、部屋を片付けたり。もういろいろ捨ててもいいような気がする。本、半分くらいにしてもいいかもしれない。

6/26(月)
 不条理劇と不条理は違う。「舞台にスポットライトが当たっているが、登場人物が不在」というのは単に不条理で、このような状況を不条理劇と呼ぶのはどこか噛み合わせが悪い。不条理劇というのは不条理、に直面する身体や顔や声を見る劇の時間のことなんじゃないか。
 思うに、劇というのは常に具体的なもので、あまり比喩には適していない。「悲劇」なんて言葉が使われるときも、ほとんどの場合は「悲しくて衝撃的な物語のような出来事」を意味していて、それはぜんぜん劇ではない。

 最高の休日は人それぞれだけど、最悪の休日にはあんまり違いがなさそう。一般に幸せ/不幸せで言われることとは逆かも(幸せな家庭はよく似た姿をしているが〜みたいなやつ)。最悪の休日は夕方の起床にはじまる。

 オリジナルのスカジャンを作るならどんな動物をいれたいか? ゴイサギ、マレーバク、トビウサギ。でっかいプードルもよさそう。ラッコも好き。

 あいかわらずフェイクグリーンを見かけると写真を撮ることにしている。「岩」風のボディに植えられた「草」風のなにか。フェイクグリーンにフェイク岩。全フェイク。

6/27(火)
 ハリーポッターのあたらしいスマホゲーム、いろんな元ネタゲームのキメラみがすごい(音ゲー、クイズゲー、キャラクターとの交流シミュレーションゲー、お絵描きボドゲ、リアルタイムカードバトル、家具配置、世界探索、ソシャゲ)。しかしなんといってもそれらのガワであるところのビジュアルとおなじみの音楽はつよい。原神もそうだけど、際限のない競争心(時間、課金…)ではなく世界観でゲームへの関心の寿命を長くしようとしているのはどちらかというといい傾向だと思うんだけど、なんか聞いたことある、みたいなゲームを試しに触っていると、むしろ世界観捨てにいってる傾向のものも結構多い。ストーリースキップ前提スタミナ消費周回作業ゲーみたいなやつ。じゃあやらないかというと、たまにやっちゃうんだけども。ハムスターはなぜ回し車に乗るのか。それに、世界観ゲームもそれはそれで構えが必要で疲れてしまってやらなくなるのだけれども。一貫性はない。

6/28(水)
 もし冗談が面白くなくなったらやばいと思う。質やタイミングの問題も大きいけど、どちらかというと味覚の問題として。冗談を言おうとするというのは、外界に向かってなにかを確かめるようなところがある。そして、ひとりではなかなかむずかしい。
 なぜゴドーの二人はずっとふざけようとしているのか(そしてそれはうまくいかないのか)、その理由として仮置きすることもできるような気がする。
 とかなんとか言ってる間にも私の口にする冗談は致命的に面白くなくなっているかもしれないし、もともと面白くなかったりするかもしれないのだった。

6/29(木)
 ワークショップにふたたびお邪魔する。見て、なにかを言う。それだけ。信じるものが違う(かもしれない)ひとにも通じるような言葉を探さなくてはならない。すなわち、できるかぎり具体的に。ちゃんと思ったことだけ言おう、と思ってはみたものの、それ、得がなさすぎる!とも言ってしまえるのだが、そうしてみて実際のところ、得るものは多い。
 先日来「どうやったら自信が持てますか?」に対する答えをずっと考えてしまって、いい質問だと思う。自信がなく見えているのもわかっているし、実際に自信はないけれど、どうすればいいのか。とてもよくわかると同時に、実にむずかしい。「むずかしいですよね〜」ってつい言ってしまう。その場で直接答えるにはむずかしすぎて、ずっと宿題にしていたところもあるかもしれない。

 「自信を持って」と誰かから言われるとき、ほんとうに求められていることはなんだろうか。そもそも自信とはなんだろう。(他人の心のなかを確かめることはできないので、「自信ありげ」とか「自信家」とかいう言葉があるように、他人の自信について言えば、外から見て推測するしかない。自分自身のことを別にすれば、これから考えることはほぼすべて当て推量だ……)
 自信とひとくちに言っても、中にはよくないタイプの自信もある、ような気がする。たとえば自分や他人の目を曇らせるような心の働きも「自信」と呼ばれているときがある。「自信」をアピールしたり確かめたりするために、他人を大事にしないことで自分の力を誇示するような振る舞いをしてしまう人は、それが意図的か無意識的にかはさておき、ときどき見かける(一番ひどい例……はとても長くなるので、一番しょぼくれた例を挙げるなら、"禁煙"と貼り紙のある大きめの共同楽屋でアイコス吸ってるようなやつね)。その手の「自信」の持ち主は「自信があるように見せるアピール」をせずにいられないんじゃないか。もしそうなら、本物の、と区別するには何が本物なのか実はよくわからないけど、少なくとも、望ましいタイプの自信からはかえって遠ざかっている。と私は思う。それに、そういう「自信」を見せてくれとは誰も言っていない気がする。
 結局のところ、吹けば飛ぶような実態のない「自信」をなるべく疑わずにいられるように、オラついたり、札束を数えたり、占いを信じたり、取り巻きを増やしたり、アツい思いを語ったり、してしまうのが、よくもわるくも人間だ、と思ってはいるものの、自分もまたその一員なのだから、と開き直って済ますほど鈍くもいられない。ので、考え続ける(この段落、丸ごといらない段落だ)。
 "自信"問題("「自信」or自信"問題)の根幹のひとつは、演技をする(広く言えば、表現にかかわる)人間にとって、自信の根拠となるべき実態のある力がなんなのか、よくわかっていないということかもしれない。実態のある力……遠くまで砲丸を投げられるとか、ダウンザラインのバックハンドの確実性が高いとか、スポーツの世界における実力に比べると、人前・カメラの前で演技をするときの「実力」を説明できる人はあまり多くはないだろう。
 スポーツにはルールがあるが、表現には(基本的には)ない。ない、というか、実感としては、毎回変わる。法律・憲法や人権の尊重は守るべき最低限のルールで、だから表現にだってルールはある……といちいちわざわざしつこく書いておきたくはなるけれども、これは、ある表現を作り上げ、よりよくする、という目標に向かうとき、頼りにするルールとはすこし違う(人間社会における「反則」は禁止、というのだけが"ほぼ"共通ルールで、勝利条件がない)。ルールの上で、ホームランが得点になり、得点を多くとれば勝ちにつながるからこそ、遠くまでボールを打って飛ばせることは実力だと言える。けれど、めちゃくちゃ単純化して言ってしまえば、表現によって、大声を出したほうがいい場合と、大声を出さないほうがいい場合がある。俊敏に動いたほうがいい場合と、どんくさく動いたほうがいい場合がある。パワー、スピードの意味するところさえ変わる。よしあしは瞬時に移り変わる。しかもその振れ幅はものすごく大きい。つまり、何が何点になるか、どうすれば「勝ち」か、その場をとりしきっている人ですらほんとうにはわからない。
 さらに、スポーツの厳密なルールの中で発揮される実力は「それを誰がやっているか?」とまったく関係がない。プレイヤーが誰であれ、その力やスピードや正確性だけが問われる。だが、パフォーマンスを見るとき、ひとは「それを誰がやっているか?」に大いに影響を受ける(ただ、ややこしいのは、ひとはスポーツをだいたいある種のパフォーマンスとして見ている。だからたとえば、魅力的な、ただの空振り三振、みたいなことはよくあるし、彼らの示す能力の継続性のみならずそのキャラクターを踏まえて私たちは次に起こることを期待してしまう)。
 人前で行われるさまざまなパフォーマンスについて、そのパフォーマーの実力を十分に客観的な基準をもって考えることが難しいのは、①そもそもパフォーマンスごとにルールがまったく異なる、ということに加えて、②その人自身の存在や歴史とは完全には切り離せない、ということがあるかもしれない(この点で、最近しばしば話題になる「出演者の不祥事を原因とした作品キャンセルの当否」という問題にもつながる。「じゃあ問題ある人間が工事にかかわった橋だとわかったら完成してても通れなくするのか」というような文言を見かけると小学生が一生懸命考えたみたいでニヤニヤしてしまうけれども、橋とパフォーマンスの間には"誰がそれをやっているか"がその成果物と分かち難く結びついているかどうかの差がある。橋とパフォーマンスに上下の区別をつけるようなことでなく——表現にかかわる作り手、演じ手は仕方なく結びついてしまっているだけで、ぜんぜん偉くない——ただ自ずからどうしても違う性質のものなのだと認識しておかなくてはならない)。ということはたぶん、その人の歴史ごとに自信の成り立ちが違う。これからなにかをやろうとする人と、これまでなにかをやってきた人では持てる自信がまったく違う。
 俳優業をいまの社会の産業の一部("お金と影響力の大きさを競う"ルール)としてドライに考えるなら、わかりやすく強い力をもっているのは「知名度」と「顔」かもしれないし、「スタイル」や「ファッションセンス」や「おしゃべり上手」なんかも入ってくるかもしれない。それらが自信に直結しているひともいるかもしれない。だが、表現において強い力をもっているのは、どうもそういうことではないような気もする。不思議なダンジョンみたいに不安定なルールに立ち向かっていく力の根源は、なんだろうか。
 日常はどうだろうか。たとえば音楽家はどうか。練習を繰り返すことによってより正確に、より速く(あるいはより遅く)弾けて、よりたくさんの選択肢を持つ。表現できるものごとの幅が広がる。観客からの賞賛や名声は、何者にも代え難いが、コントロールできない。だが、練習は、すくなくともコントロールできる。でも俳優にとっての基礎訓練とはなんだろう。(くたびれたのでここで中断。話も散らかってきた。また別の日に続きを書こう)

 これまで自分ではあんまりないと思ってたんだけど、「結果的にひとを励ましたい」というような願いが、自分のなかにはあるようだった。直接に、狙い通りに、ではなくて。なんかの拍子に、結果的に。そういうやり方で。「勇気と感動を与えたいです」的な考え方では絶対に辿りつかない場所に届くように。でも、そういう願い方もどうなんだろう、それは、なんか、考えるのを放棄する方便のようでもあって、大いに疑問は残るし、第一ことばにしてみると実に恥ずかしく思えてくる。

 ひさびさに人に名刺を渡した。今となってはほとんど意味のないようにも思える名刺だけど、ちょっと作り足そうかしら。楽しいので。

 夜、ものすごくしっぽの立派なねずみを見た。

 余分に歩いて、はじめて肉眼で新しい国立競技場を見る。ザハ案のが見たかった。もっと遡って考えれば、元のやつをただ改修しただけの景色が見たかった。ワタリウム美術館でなにを見たのか忘れちゃったけど、帰り道ぼやぼや歩いて入り込んだ団地はもうない。

 フィクションのなかに登場するものたちは人間たちのリアクションによってはじめて存在する。銃や刃物やカーチェイスはわかりやすいけど、ちょっとした段差やセリフにならない三点リーダー「…」ですら実はそうだ。

6/30(金)
 最近ダイアン見すぎて相槌が「ほえー」になってるときある。

7/1(土)
 蒸し暑い。
 家のトイレットペーパーホルダーは文庫本を置くのにちょうどいい。

 中国語はわからないけど、少年の声がロックスターみたいに枯れているのはわかる。かっこいい。

 差別的な文言を見かけるたびに、自分の身体や心にはどうしても選べない部分がある(だからこそ選べないことを攻撃してはいけないし、選べる自由をとことん大事にするべきだ)、ということを、ひとは、教育の過程かなにかで、もうすこしわかっておいてもいいんじゃないかと思うけれど、選んだわけじゃなくどうしても頑迷な心を持っているんで、頑迷なのはもうわかってるんで、と言い返すようなひとにかける言葉はあるだろうか。そうやって、自分に満足していられて、他者のありさまを考えずにいられるのは、単にラッキーだったからじゃないか、と、受け入れ難い言葉を放つ人間をたんに無遠慮な他人として片付けようとしてしまうことがあるけれども、当人の中でもう完結してしまって、頭を振り絞って考えた上で自分も自分に我慢しているのだから誰も彼も皆我慢していてほしい、と願うひとにはほかにどんな幸せがありえるだろうか。ある種のインターネットの表面だけをなぞってコピーペーストを繰り返すひとびとの、増殖してゆく既視感しかない文言そのものよりも、ふるまいから想定される理想の「暗さ」がどうにも気になってしまう。自分の満足のためにだれかを引きずり落とそうとするべきではない、と自然に考える人間と、同じくらい自然にまったく正反対の考えを持つ人間がいるとして、オマエみたいに「考え方に恵まれた」やつの言うことなんて聞きたくない、と思われたらそもそもしゃべれない。その暗闇のなかに、力への欲望の根っこみたいなものがあるような気がする。

7/2(日)
 「メモしない派」の定番コメントに、書いておかなきゃ忘れちゃうなら所詮その程度だったってこと、みたいなのがあるけれども、書いておかなきゃ忘れちゃったかどうかもわからないようなことを書いておきたい。というか、そんなことばっかり書いている。
 ヒゲを伸ばしてみてはじめてわかることは細々とたくさんあって、たとえば意外と自然と抜けがち。考えごとをしていると手をやってしまいがち。白でも黒でもない色ありがち。あるある、すっかりRG流あるあるの言い方になりがち。

7/3(月)
 途方もなく眠い。

7/4(火)
 「しょうもない趣味のよさ」っていちばんイヤかも。ときに「趣味のよいしょうもなさ」というのもあるんだろうけど、そういうつもりで前者へと滑落してゆく「趣味」、しばしば見かける。
 倫理抜きの表現なんて実はつまらないのだ、ということを「趣味人」は平気で見落とす。あえてそれを悪趣味とは言うまい。むしろ「趣味がいい」からそういうことになるのだ。

 「暴力後生存記」を書く、と考えてみる。書くためにも生きながらえる必要がある。人間の間違いの歴史には常に反面教師として参照される余地がある。都合の悪いことを書かない輝かしいだけの歴史なんてのちの役には立たない。せいぜい同じようなズルをしたい人間の憧れの的になるだけだ。

 「あ、共感とかじゃなくて。」は、とても簡単な語彙で、あらためて考えたい物事の的確な位置を指す言葉だと思うんだけど、あくまで共感の範囲だけを行ったり来たりしている人にはそのニュアンス、通用しないだろう、というところがまず困る。共感だけを求めていたら事実にすら耐えられなくなる、ということすら直感されない知性に、どう働きかけられるのか? がんばれ美術館、と他人事でもいられないのだった。

7/5(水)
 『アオイホノオ』1巻61ページ。「あわてるな…/俺たち若者は——/無限の可能性があるんだ‼︎/先走った自己評価で勝手に負けることもない!」最後の一行が聞いたことないほど直球すぎて面白い。直球すぎてあまり人が言わないことというのはある。サンデーうぇぶりでいろんな漫画をダラダラ読んじゃう。

7/6(木)
 スレッズ触ってみる。あらためて希望をもって触れないのはなぜかというと、もしこの先、機能面で的確なチューンナップがあったとて、ソーシャルメディアはもうこれ以上あんまりうまくいきそうにないからで、その方法でしか連絡を取れない人がいたり局地的に便利だったり、といった理由で使うしかない……という消極的選択でしかない。権威とハウツーと映えの再放送。ポストペットみたいな楽しいインターネットはもうない。出さなくていいろくでもないメールをいっぱい送っちゃったな。

 生きるのに必要なのは哲学なのかも。すっげえ当たり前のこと言ってるかも。でも欲望やゲームの勝利条件みたいなものに対して距離を取るために必要なのは、力の強さとか思いの強さとかじゃないんだよな。認識が必要。

 北前船の廻船問屋のことをイメージしながら「北回帰線」って言っちゃった。

7/7(金)
 七夕。

 何回見ても「蟠り」という文字には一瞬ギョッとする。目がスピードダウンしてしまうから意味にもピッタリ。見るとそこに虫が突然いるような気分。

 今まで真剣に考えたことがなかったけど、警察の不祥事は誰が捜査して証拠集めするんだろうか。もし外部に独立した組織を用意しなかったら、少なからず揉み消す方向で動く人間がいると思うんだけど。世界的にはどうなってるんだろう。

7/8(土)
 ママタルトの二本目見たかった。ツギクル。

 疑いのなかに不安なままでいることを、インスタントに解消するのではなく、その場所その状況を認識し、問題の核心に迫ったりする助けになるものが必要だ。遠くを見ようとすること。つぶさに見ようとすること。油断すると近くだけをぼんやり見るように仕向けられる。暴力は思考を奪う。

 めっちゃアレな事務所(営業面でどうのこうのというのではまったくなくて、ハラスメント被害を受けた人間に「もし相手を訴えたり被害届出したりするならウチやめてからにしてね」と言うような組織……冷静に振り返るとその瞬間に即、縁を切るに値するレベルのダメさだ)にいてしまったから芸能プロダクション全般に対する信用がなさすぎる。いい予感が持ててない。ということに気づいた。後遺症は多岐にわたる。それを書いていくとすると、同時に「なぜ私がこんなにもだらだらしているかというと」と言い訳する文章にもなる。とまれ、この点で、まともな事務所かどうか、って外部から知るの、むずかしすぎ!どっかないですかね!って誰に聞いたらいいのか。

7/9(日)
 ソーシャルメディアにはもう具体的なことだけ書こうと思う。抽象的なことは日記で。
 ことさらポップさをアピールしたいということもないけれど、新鮮さのない抽象ばっかり文字にしてあっても、読む側からすると暗すぎるし、そういう場に書くには手応えが感じられないだろうし。人前では「なに言ってんの?」と「わかる〜」を行ったり来たりしたさ、ある。で、そうでないところで延々と考えたさも、ある。

 "義理人情"をとって信用を失ってる人めっちゃいっぱい見たので失望に新鮮味はないがだからといって失望しないわけではない。ドーナツの歌はもうちょっと昔ほど楽しく聞けないかもしれない。なにものかへの愛は行為を正当化しない。権威によりかかる人は「(自分の判断、言動の)理由はほかにある」と言いながらしばしばそれを明示しない。その方法こそまさに、権威をそのまま利用しつづけるのにもっとも効果的だからだ。彼らはみな、嫌になるほど似ている。とても見慣れた風景。
 しかし一旦立ち止まって考えると義理人情というのも四字熟語のテンポ感でごまかされているが全然別物である。義理と人情。人情を言い訳に義理を通して筋を曲げようという人がその辺の都合を"美しく"飾って言い立てるのにピッタリだが、それが義理なのかそれが人情なのか、浮ついた四字熟語を選びたくなったときほどよく考えたほうがいいのかもしれない。(以前に「公正中立」についてハラを立てていたのと同じような構造。やはり魅力的なリズムに言葉は引っ張られていってしまう、それに引きずられて認識も)

7/10(月)
 またまたロフトプラスワンに。役名を間違って紹介されたのをそのまま引き受けて間違って自己紹介してしまった、けれど、ほとんど気づかれてなかったかも。お客さんにも戸塚くんにも上野毛くんにも申し訳なかった!

 誰と、の手前に何を、があるはずなのだった。ここ数年で煮詰まったことどもが、うっすら声枯れるほど、言葉になって、解呪されて、朝!

 全体主義、権威主義とはやっぱりどうしても私は訣別しなければならない。個人の自由が確保されている、というのがまともさの唯一の出発点であり目標でもある。自由を出発して自由に帰ってくること。この点で「よい全体主義」などと呼べるものはない。

7/11(火)
 昭和の言語表現に「ナムサン!」っていうのがあるけど、考えてみるとあれなんなんだろう。「ええい!あとは野となれ山となれだ!」みたいなニュアンスのときに出てくるやつ。次元とかブラックジャックが言ってそうなやつ。「南無」は「〇〇に帰依します」だから、「三」がなんかの略なんだろうなー。
 日記とは別に、「きょうの演劇」という文章を書いてみることにした。きょうの演劇は「体重計にのる」。
 存在しない体重計にのって、存在しないスマホに体重と体脂肪率を入力して、足の親指で体重計の電源を切る。映像に撮るところまでいかなかったので明日は部屋を片付けて映像を撮ろうと思う。

7/12(水)
 世界中で共通の動き、暑かったらあおぐ。インドの熱波に関するニュース映像で、病院で看護師が患者をあおいでいるようだったのだけど、見たことのない形のうちわを見た(左右に振ると下向きに風が吹く形。持ち手の部分が木刀ぐらいの長さでそのまま真っ直ぐ伸びた背骨のようになっていて、その下にぶらさがるようにしてくっついている長方形の羽の部分には外枠に骨が入ってたわまないようになっているようだ。見慣れたもので言うと、店頭に並んだのぼりを引っこ抜いてきて四角く固めてあおいでる格好と考えるのがかたちとしては一番近い)。ベッドに寝ているひとをあおぐには最適。
 「うなずく」「首を振る」「首をかしげる」はなんで大体共通なんだろう。逆の意味になる地域ってあるのかな……首を振るのが肯定になる地域があるというのは聞いたことがある気がする。(調べたらブルガリアやインドでは逆転しているらしい)
 首をかしげるに至ってはイヌとも共通だ。

 オニヤンマのブローチをつけてると虫が寄ってこない、かもしれない、らしい。面白い。ハチめっちゃ苦手なのでちょっと欲しい。アウトドアよりの人にあげて感想聞いてみたい。

 部屋ぜんぜん片付かず。映像をつくるのではなく、書くことを進めてみる。という方針にしちゃう。

 ずっとソファーに座っている状態、というのは、状況描写としては成立するけれども演技としては成立しづらい、のは、何故か? たとえ動いていなくとも、人の内面で出来事が起きていないわけではない。しかし傍目にはなにか超然とした、時間感覚からかけ離れた存在になってしまう。「あえて演技をする」のはたぶん、動きに起こすということだ。ということで"きょうの演劇"は「ソファーに座っているを考える」。どうすればそれは演技になるのか。

7/13(木)
 部屋から古いおみくじが出てきてふと思う。おみくじの有効期限はいつまでなんだろう?
 初詣で引きがちなのでなんとなく「1年間有効」のような気もするし、悪いのが出てすぐもう一つおかわりを引くようなひとのことを考えると、「最新のおみくじを引く瞬間まで」としておきたい気持ちもなんとなくわかる。おみくじ自体は未来に向かって線上に伸びてゆくようなこと、「〇〇すれば吉」とか「旅は西に行け」とか、書いてあるけれども、おみくじを引いた瞬間における運勢を取り出したのだとかんがえると、その少し後にはもうまったく有効でないのかもしれない。

 きょうの演劇は「思ってることが顔に出る」について。

7/14(金)
 文章書くのは全然苦じゃないけど、同時に全然人に読ませるつもりもない。するとこういう謎の文章が漫然と残る。
 ふだん残留思念的なものが頭の片隅にこびりついているせいでむやみに早口になったり人に長文を送りつけたりしないように、くれぐれも気をつけようと思ってはいるのだけれど、私のメッセージは総じてすごく長い。余分なことはなるべくここに書いていって、長文はやめにしよう……と思ってはいるのだけど……
 おしゃべりのほうが楽なのは聴いている人の反応を見ながらリアルタイムで感覚的な編集ができるからで、他方、文章は自分の純粋な編集力が問われているからあんまり人に見せたくならないのかもしれない。反省力不足なんだと思う(これはこれで雑。今日、全体的に、雑)。
 きょうの演劇は、えーと、ぜんぜん思いついてなかった。「換気扇の下で」にしようかな。

7/15(土)
 チワックスプー、みたいなイヌを抱っこして歩いている人がいた。軽そうだった。

 空白を、都合のいい妄想や手頃な物語で穴埋めすることの暴力性に対するひとびとのアンテナの鈍さには驚くほかない。インターネット上の平等な会話なんてもはや望むべくもない。名前を出す出さない、ということ以上に、責任を持たない人間とは結局会話なんてできない。したいとかしたくない以前に会話が成り立たない。自分の顔と名前を出していても、目の前にひとがいても、なお責任を持たないような人はいる。
 個人の自由を尊重するためには、おそらく常に具体的であるべきだ。具体の前にあるとき、ひとは立場によらずなにかを思える。だからといって即平等ということにはどうしてもならないが、思ったなにかを表出するのに上も下もない、という状況を作るためにも、徹底的に具体的である必要がある。歳をとるにつれどんどん具体的になってゆきたい。という感じ。ひるがえって、印象論というのはパワーゲームになりがち、という点で退けられる必要がある。

7/16(日)
 サングラス日和。駅前に集合するとすこし遅れて来たIくんもサングラスなのかよ。サングラス日和だねと言う。

 題材のチョイスゆえに一見、とりこぼされる人たちをみつめて「思慮深くやさしい」ようでいて実のところ傲慢なのではないか、というような作品は、ある。いずれのセクションにおいても表現がリアルに沿っていけないわけではない(したがってほんとうにそういった人が着る服や話す言葉ばかりを求めるのは筋違いである)けれど、ひとたびリアリティ(リアリズムとは別の)を取り逃してしまえば消化しがたい記号ばかりが残る。小ボケや素っ頓狂なかわいらしさややさしいマフラーにデコられた的確に記号的なまずしさの、つらさ。なにより、人は死んでゆく(ある人は死んだ/あらゆる人は死ぬ)、という一般的事実と、登場人物がストーリーテリングの都合やある伝えたさのために死んでゆくのは、ずいぶんと別のことで、しかしその言葉にすれば当たり前のことに、なにか、うまく言えない引っかかりを感じた。フィクションのなかで、"このようにして、死んでいるが、いる"と示すことにも、個別のつらさまずしさにも、納得できるし共感もするのだけれども、それはつまり描写としてひとつひとつ成立しているがけれども、それでは何のためにそのように描写されているのか、という部分で、やはり、なにか、飲み込みがたい。その外側のなさのおそろしさ。言葉が見つからない。作られたものの話をしていさえすれば「やさしく」「誠実に」あれるというのであれば、それはやはり、なにかが決定的に間違っている。と思えてきてしまう。それにしてもやはり私は作品単体ではなく背景にある態度を見ているようではある。どうしても現実に引っ張られてしまうところがある。
 ところで、この劇を見ているのは誰なのか。観客の居場所はどこにあったのだろうか。出演者がナレーションを担うとき、暫定的な正面として客席の方向を向いているだけで、意識はそこにすわっている観客には決して向けられてはいないようだった(すなわちこのとき観客は正面を向くためのアリバイになっている——かりに席には誰も座っていなくとも起こることに万事変わりないのではなさそうだった)。空間に対して大きすぎる声で、目の前の、ここにいる誰かを無視するようにして放たれるエネルギーを、感情豊かで"割に合った"表現だと受け取る人はいるだろうか。いるだろう。だが、それは、すくなくとも私からすれば丁寧でも繊細でもない。頭上を通過していく大声を聞きながら、たんに演者や演出家をどうこう言うのでもなくて、これをよしとしている誰もが鈍感だ、と思う。大きな音がすればそっちが気になる。机を叩いたりドアを強く閉めたりするのと同じことだ。そうしてはいけないわけではない。だが、そうするのにはそうするだけの理由が必要だ。なぜそうするのか、そうなってしまったのか、たんに演劇だから、フィクションだから、という開き直りなのか。それならそれでもいいし、いちいち言葉で説明できなくてもいいが、そうする人はせめて自分の回路を通さなければ。見る人もだ。この瞬間にもいったいどんな約束事を飲み込まされているのだろう。これを一言でいうなら、頭ごなしだ、と思う。題材選びが、人物たちへの眼差しが、いくらやさしかろうが、頭ごなしの態度。また、ちょうどよく脱力した小ボケやくすぐりを、迎えに行くように笑いにいって、安心を得ようとしている客席の実に技巧的なありさまに対してどう思えばいいのだろう。とも思った。私はそれ、どうしても笑えない。それはやさしいだろうか。趣味がいいだろうか。なにも笑う必要なんかなかったし、あなただけが覚えているような特別なこともなかった。(「あなたはもう去年のことを忘れている」そんなわけない。「あなた」は劇の中におらず、したがって、観客は自分に向けられたとしてこれを受け取るほかない。だが、少なくとも観客席に向ける言葉としては客席に座るひとりひとりを低く見積もりすぎているように思う、し、そんなことを言われて感傷的に泣いているようではいよいよ忘れっぽすぎるだろう。忘れているのは実際、だれなのか。「あなた」はだれなのか。"繊細"でいるだけの鈍さに、すこし唖然としてしまう。弱さのうちにいることはどこか心地いいことではあるのだが。作ることは、というよりも、見ることは、そういうことなんだろうか。)いまの私には、こういったものも、こういったものをありがたがる磁場も、まったく必要ないように思えた。ノットフォーミー。あの観客席に、すくなくともいまの私がいる必要がなかった。作品のありさま以上に、観客席のありさまを疑わずにいられないような時間だった。

 カワセミという名前の飲み物を飲む。エアコンはぜんぜん効いていない。カワセミ(漢字で書かれたメニューでは「翡翠」なのだけれど、これだとヒスイと区別がつかない。おすすめのメニューを店員さんに聞いたからこれは確かにカワセミ)。どんなものかというとパイナップルジュースと緑茶が二層になって、コップのふちにはシロップ漬けではない生のさくらんぼが飾られている。お会計のときに「どうでしたか?」と聞かれて、「面白おいしかったです」と言った。

 新宿でテレビクルーに声かけられる。「ふるさと自慢を聞いてまして」。東京出身で残念がられる。

 たつやで鳥丼食べる。

 『マルセル 靴をはいた小さな貝(Marcel the Shell with Shoes On)』YouTubeのコメント欄を見て「オーディエンスがコミュニティになってない」とは言い得て妙。見たいものを見て言いたいことを言うだけのオーディエンスを、わるく言うんではなくて、それが「コミュニティではない」ことを指摘する的確さ! 世界の広がりを、説明しすぎずに存在で示しているプレッツェルくんたちや虫たち、もうひとつの呼び名、お見事だった。これら観客を信用してやりとりを成りたたせる細部が愉快。カメラに向かって話しかける場面がたくさんあるし、その多くは説明である、にもかかわらず、いわゆる説明台詞と思いにくいのは、第一にモキュメンタリーとしての設定があるからなのだけれど、どうもそれだけでもないような感じがする。なんだろう。やっぱり話者自体がフェイクだからだろうか。
 君たちはどう生きるか、圧倒的に満員。もう少し空いていそうなタイミングで見ることにしよう。

 きょうの演劇は「観客席に語りかける/または/カメラ目線」ということにしてみる。ちょっと時間のかかる話だと思う。

7/17(月)
 ニュース記事にコメント欄をつけるのってどうかしてる行為(コメントするのが、ではなく)だと心の底から思うけど、ある芸人にまつわる害のない、もっと言えば意味もない書き起こし記事のようなものに対して、「こいつはいつも一言多いんだよ」とコメントが書かれていて、ろくでもないのに違いはないが、素直すぎてびっくりした(ありふれた罵詈雑言のほとんどは所詮この程度の認識で放たれている、と考えておくべきだろう)。なにしろ芸人さんたちはちょうど一言多いのが仕事だよ、と思う。少し前にナンチャンがヒルナンデスで「言語化するのがタレントの仕事」とぽろっと言っていたけど、なかでも余計な一言をちゃんと言語化するのがお笑いだ。
 それにしたってなんで国内のメディアはニュース玉石混交っぷりが凄まじい。ほぼ石だが。配信元とタイトル決めてるのが別なのも責任が曖昧で厄介な構造だけども、クリックベイト丸出しの記事タイトル「〇〇ランキング2位は××!意外な1位は?」。大喜利のお題か。だからといってBBCやCNNばかりに頼ると国内のちっちゃい出来事が書かれていなくて、それはそれで困る。
 もちろんニュース記事にはかなり丹念に書かれたものもあって、そういう玉の部分をシェアするのがかつてソーシャルメディアの理想的な使い方のひとつだったような気もする(『グッドバイ、バッドマガジンズ』きっかけで知ったのもあって、自分がSNSで広めたりするのは違うなと思うんだけども、日刊スポーツの芸能面の村上記者の記事は熱量高い。是枝監督の記事など)。いまやアクセス数、インプレッションに最適化したソーシャルメディアには「刺激的な、とがった、ただの石」がごろごろしている。

 ソーシャルメディアといえば。もしあなたがAでなくBのような観客ならば〇〇を見に行って楽しむ/感動するべきだ、的なツイートを見かける。それが感想のファーストステップなのだとしたら、よほど特殊だ。もともとの感慨や思考から何段階も屈折しなきゃそうはなるまい。趣味嗜好興味関心思想信条(←四字熟語が嫌すぎてつなげてみた)の上下左右を問わず、ソーシャルメディアに最適化されたある種の宣伝の作法にすっかり飲み込まれてしまっているんじゃないか。分断を通じて仲間づくりを進める「あの手口」だ。「たかが感想」のひとつであるとしても(感想を書く、というのはまっとうな表現のひとつで、"たかが"と出たり引っ込んだりするモグラ叩きみたいな考えはあまり通用しないと思う)、ここにも「一見誠実そうな尊大さ」が認められるように思う。ヒネた当てこすりが自分なりに成功すりゃ満足するような悪意もスケール小さくて好きになれない(たとえば松尾潔とイヤミの画像を並べてニヤニヤするようなのとか!ぞっとする)が、善意で差し出している裁断機の刃みたいなものにどうしてそう無関心でいられるのかね。それは刃ですよ。やさしく、愛に溢れた、思慮深い、刃ですよ。私はそういうのって本当によくないと思う。善意や愛は免責事由に含まれません。こんなことばっかり何回も書いてるな。
 しかしこのぐらい書いてようやく、自分が何が嫌なのかだんだんわかってきた。とも思う。

 真夜中NHK-BSでフランク・シナトラの武道館コンサート(1985年)一瞬見かける。「私は酒場で歌うシンガーです。酒場の歌は悲しい歌ばかり」みたいな導入から、グラス片手に金ピカのマイクで歌い上げるフランク・シナトラ70歳。背景に禁煙の文字が映り込む。

 あしたのパンみたいに、あしたの日付だけを先に書いて用意しておく。「7,/,1,8,か,変換,改行」

7/18(火)
 お客さん、という立場を批判的に乗り越える必要があるのはたとえば政治家に対する態度なんかでもそうで、「早く代わってくれ〜」なんて他人事のように言っているのはおかしな話だ。いつまでもおかしな人をトップに据えているのであれば、それはもはやトップ個人の問題なんかではなく組織の問題なのだから、そのような組織・人びとは選挙で落ちるように、議論し、投票すればよい。あるいは立候補すればいい(この点で日本の選挙における供託金は高すぎる)。ともかく代わってくれなんて遠くの方でお祈りするような立場ではない。

 たくさんのくじの中にひとつしかない、という意味での大当たりと、すばらしいものである、という意味での大当たりは違う。

 ワイヤレスピンマイクとスマホリグが届く。プライムデー、やってみたさに対する後押しとしてはなかなかありがたい。動画配信ロケラジオ(二人まで)できる状態に。しかしなんのあてもなく。

 オノ・ヨーコのWaterdrop Painting(1961、日:長い絵)の指示書(スコア)を見かける(本人ツイッターにて)。観念的で美学的で、ともするとやや無責任にも見える(最終的には作った本人を含む、それを目にする人間に自分で考えろと言っているようなところがある)のだが、書かれていること自体はきわめて具体的である。自分がこのところ書いている「きょうの演劇」は要はこういう、一種の指示書づくりなんだと思う。まだ見ぬ完全ななにかの設計図であろうとするよりも、考えたり作ったりした時間の存在によって書き残されてゆくただの痕跡として、つまり見る人からするとかえってその完成形にはいかないようにする手がかりにもなるようなものとして、なにかであるような、スコア。具体的であることで、乗っかることも反撥もできる、なにか。あえて無視もできるト書き。
 「きょうの演劇」公開しない限りその効力は自分にしか発揮されないわけだけど、誰に対して公開するようなものなのかがわかっていない。自分でも一体なんでこんなことやってるのか……わかる人には説明しなくてもわかる気がするし、わからない人には説明してもわからない気がしてしまう。私は説明書をよく読むタイプの説明好きなんだけど、説明にはどうしても罠がある。私はまんまと罠にハマるタイプでもある。無限に説明してしまいそう。出すならやっぱりディスコードあたりなんじゃないかという気はする……

7/19(水)
 伊藤ガビンさんのツイート読んで、Amazonのレビュー欄、良質な書き手がいなくなる仕組みなのかー知らなかったー、と口をぽかんとあけてしまう。要約すると、無料で、質の悪いものと並べられてはプロの書き手にとって書く動機がないから、書かない。ゆえに質の悪いものがますます増える。なるほど。
 「参考になった」や「いいね」はいいことではあるんだろうけど、プロにとっての働く対価にはならないよね。いいレビューが集まって、それがいい影響力を持つ場はどうすれば作れるんだろう。
 というような問題はAmazonに限らずあちこちに転がっている気がする。

 あとから検証され得る、とすることで、人はその振る舞いをある程度いいほうに変えることができる、というのは単なる思い込みなのだろうか。

 ところで私は物事に5点満点で点数つけることを避けるような人の書く文章が好きだ。例外もあるが傾向として。つけるなら星ゼロか星∞の気分。

7/20(木)
 すこし風が吹いていて暑さやわらぐも、雲がなくなって急な日向があらわれる。日差し痛烈。

 そういえばいつのまにかメモ帳アプリのバグ(時間をおいて開いたときに直前に開いていたメモが空白の状態で表示されるのでタスクキルして起動し直す必要があった)がなくなっている。

 短い文章。意外と400文字って少ないし、一分は短い。文章を半分に切る。制限があることで自分の中で優先順位が見えてくる。極端な切り方をして、人にどう見られるかの部分がないがしろになる。なんか不気味な完成形になった。

 お風呂場で水飲んでるクモをアイス屋さんのカップとクリアファイルのセットでうまいこと逃がした。高速で歩く大きめのクモ。何を食べるクモだったんだろう。

7/21(金)
 すっごい眠いんですけど。

 『花四段といっしょ』声にはならないが心のなかの一番正確なツッコミを明示された言葉にできるのってマンガならではだ。と気づく。次回への引きになっている「対局直前の二人のおすまし顔」がアルカイックスマイルというか、すごく仏像っぽい。見ているこっちが瞬間的にストーリーを思い入れられる顔。朝顔さんの回もめっちゃよかったけど、このところ熱量高まっている感じで楽しみ。

 何日前のことか忘れてしまったけれど(読み返してもどうやら日記に書きそびれている)、『映像研に手を出すな!』めっちゃ面白い。作者ご本人ツイッターで第一話と第三話を読んで、グッと来たので、アプリでゆっくり読んでいる。「世界観(監督・演出)」「動作(演技・アニメーション)」「外的条件の調整(プロデュース・制作)」の連帯が、ほんのり落語口調とともに出現している感じ、理想的ななにかを見出してしまう。それが"ご都合"に見えないのもすごい。彼らの動きに、絵に、漫画になっていることに、説得されてしまう。しかもこれがアニメにもなってるのかよー、ってものすごく世間から遅れている(前に友達にアニメをお勧めされたんだった)。遅れて楽しめる。最高。

 あと梅雨で雨が続いていた時期、家を出ると見事なクモの巣がキラキラするほど自転車に張っていて、きっと大雨に対する緊急避難なんだろうなと思ったことも書きそびれていた。

7/22(土)
 そびれ、について、考えてみると、めちゃくちゃ気になる。人はどんなことに、どんなときに、そびれてるんだろう。
 この人に話を聞いてほしい/話してほしい、という気持ちがラジオの原動力で、だからパーソナリティって呼ばれるんだろうな。テレビはタレント、ラジオはパーソナリティ。呼び名のちがい。

 27時間テレビ深夜の部、夜中どうしても起きつづけてまで見たい感じがしなくて、それがなぜなのか、と考えると、すでに先行する正解が多くありすぎて、ひとつひとつそれを選んでいってるような感じが、もうあんまり正解にも思えないってことが原因のように思う。一見ワチャワチャぐだぐだしてるように見えて、意外と予定調和しかない。チームプレイを内部からわざわざ崩すような人はなかなか出てこず、どうも、孤独に飛び出してくるようなチームプレイに見えないチームプレイに期待してしまうところがある。

7/23(日)
 日記なのにけっこうあとから書き直したりしてしまう。語の選びや句読点を修正していって、より的確になるのは楽しい。だがその日の記録としてはどうなんだろう。ほんとうにその日の勢いで書いたすがたは残らない。紙に書いてたらこうはいくまい。消したところも残るし。紙に書いたほうがいいかなあ。
 パン屋さんにパンを買いに行く。朝から首筋がじりじり音を立てて焼ける。

 約束事をやぶるために約束を守る、みたいなことはあるかもしれない。お約束をちゃんと見透かす、のは不可欠で、でもそれだけでは、コミュニケーションにならない。
 結局冷徹MC上田と大ギャンブラー有吉で笑ってしまった。27時間テレビ。ダイアン大活躍。

7/24(月)
 TwitterはXになったらしい。よく考えるとマジでどうでもいいことなんだけど、目を離さないでいるのはなぜなんでしょう。眠い。

7/25(火)
 ファグラダルスフィヤットル火山の噴火をYouTubeライブで見る。ライブカメラばっかり見てたら他のライブカメラもおすすめされてしまう仕組みで、まんまと見る。
 ファグラダルスフィヤットル火山(この表記は外務省のウェブサイトから。たぶん古い日本語表記なんだと思う)について調べる。ファグラダルスフィヤル、Fagradalsfjallはアイスランドのレイキャネス半島(Rekjanes Peninsula)にある。レイキャビクから車で1時間ぐらい。爆発的な噴火ではないので、比較的安全(とはいえ、突如べつの噴火口ができたり有毒なガスが出たりする危険は常にある)に近づいていって見ることのできる珍しい噴火スタイルなんだとか。今回の噴火は7月に入ってから始まったもの。2021年に約800年ぶりの噴火があって、半年ほど続いたらしい。2022年も夏に噴火している。

7/26(水)
 日記ってなんでもありか。昨日は調べたことメモだ。賞味期限ちょっと過ぎたヨーグルト食べる。

 ミニサボテンが縮んでいるのでそっと触るとぶよぶよ。おそらく根腐れだ。ショック。

 粋というものに言及しようとすると、野暮に転落するような落とし穴が多すぎる。なぜそう思ったかというとね、と話をするにはまず手に負えないくらい野暮な例を挙げねばならない。粋をキープできる話術ないし文章術というものがあるならそれはさすがに粋かもしれない。粋という文字を三回も持ち出している時点でどうしたって野暮だ。野暮天だ。野暮天ってなんだ。

7/27(木)
 効率の悪い移動で駅ビルにたどりついて中を何度も上ったり下りたり。計画性がない。ドリフトドリフトミニターボ。
 エスニック雑貨屋さんのセール。不思議リュック。

7/28(金)
 ぐずぐずしてる。

7/29(土)
 誰も校正してない(であろう)文にまぎれた変な言葉に目が留まる。「独走的」「芸術欲」。わからなくはないですよ、と共感してしまいたい気分も、そんなもんないですよ、と断じてしまいたい気分のどちらも、なくはないんだけど、なにか、言いたさが先にあって、そういうブリコラージュというか、DIY言語が生まれてくること自体が興味深い。なんとなく耳で聞いたことのある音をくっつけている心の手の動きを感じる。

 「日記を通じて、自分の文章から他者や教則の枷を外す」なんていいこと言ってるそばから「日記は感想禁止!にすると面白い」的な文言を惹句にしている動画を見かけて、ちょっと、げんなりした。ちょっとだけ。どないやねん(感想)。
 いや、本当のところを言えば、言いたいことはわかる。"感想"に押し込めるのではなくて、その感想がうまれるディテールを書いておくほうがその事物や感情に出会い直す契機になる。わかる。いいことだ。たぶんいい文章ってそうだ。にしても、あたらしい教則を作ってしまってどうするんだ。楽しかった、と書きたかったら書けばいい。当人は思慮深いつもりでこの手の振る舞い、大した害があるわけでもないけど、ちょっぴりウンザリしちゃう。思慮浅く乱暴な振る舞いをしてる人に対してはさらにその何倍もウンザリするけれども、そうでないからすべてヨシということにはならず、どうしても思慮深い風がフリオチのフリとして機能してしまってそれはそれで印象は悪い。

 「必ず見つめる」「思い出しすぎている」小室哲哉も変な言葉メイカーである。

7/30(日)
 ザ・法事へ向かう特急。車内販売のおじさんの調子が独特すぎて、どうやってこうなったんだろうと思う。「アイスクリームは、いかがですか〜?」超小声でひたすら語尾が上がり続ける。こっそり録音しておきたかった。いまとなっては正確に再現できない。くやしい。

 たわむれに山のかたちを真似ている雲

 「演技ヘタ芸人」の方々を見ていてわかったこと。彼らは、演技のよしあしの差があんまりよくわかっていない、というテイで振る舞うことをもとめられているのだけれど、たぶんほんとうによくわかっていない瞬間がある。

 一日中パンツがうしろまえだった。不具合なくて気づかず。

7/31(月)
 バーベンハイマー燃える夏。よりによってグレタ・ガーウィグの作品でそれやる?と言いたくもなるけれど、それはいわば「言ってやりたくなる」というような、言葉の浅瀬でギッコンバッタンしているシーソーみたいなもので、実際のところこの手の固有名詞への信用はだいたい裏切られるから、すっかりもたないようになった……というのもいちどはこうして140字では書いたけれど、ツイッターには投げ込まずにこうして日記に書き置いておく。制作に山師がいるのは当然だけど一線をひく倫理観は必要で、ヒューマニティーを基軸におけないのは結局おおきなリスクになる。なぜなら作品にかかわる人間も観客も数字ではなく人間だから。
 "出演者不祥事作品お蔵入りどないやねん"論についても似たようなところがあって、その作品のパフォーマンスが外部の文脈によって決定的に変わってしまう問題はある。作品に罪があるとかないとかそもそも誰も言ってないことを並べ立てても仕方ない。そりゃ罪はないよ、作品は人じゃないんだから。しかし事実として、見え方が違ってしまう。作品がベストなパフォーマンスを発揮できるように環境を整えるのは各セクションに求められる仕事であって、制作だろうが出演者だろうが、誰かを犠牲にアクセス数や「いいね!」を稼いでる場合ではない。よくないね!

 運営元が変わったハンズ(byカインズ)をうろうろ。ルーズリーフ詰め合わせにたいへん心を惹かれたけれども、ルーズリーフやノートやスケッチブック、家の中でかき集めれば十分あるはずで、いま白紙を増やすよりはその辺にあるものに書きたいかもしれない。白紙のノートやペンばかり充実していってしまうことのむなしさって、すごい。

8/1(火)
 八月。雷。すぐ近くの木に鳥の巣ができてるような気がする。雨がやむと声が聞こえる。

 以前にもあったことだけど、タリバンが楽器を壊したり燃やしたりするニュース。画像を見たとき、自分が思ってる以上に衝撃を受けてしまう。あらためて、なぜ、と考えると、だれかの楽しさやだれかの賢さを恨みにおもうような心のはたらきをそのまま立体化したような光景、を現実に作り出しているのは、おなじ人間なのだけど、こんなに話が通じなさそうな人間像はほかに思い浮かべることができない。破られた太鼓のヘッドが人間を傷つけるか?燃やされたピアノが人間に致命的なダメージを与えるか? この観点でいえば表現はほとんど無力だからこそものすごく価値がある。爆弾より花火。微力と自由(だからこそ表現を愛することが権威主義に取って代わられてしまったら意味がない。つねに名前ではなく具体を愛すること)。あるいは末端の人間はただ命令に沿ってブラックな労働ないし単なるストレス解消の大暴れをしているに過ぎないのかもしれないが、このような事態を引き起こす組織のどこかで誰かが、おそらくきわめて真剣に、表現に向かうような人間のこころを、理性や感性を、嫌っている。ちょっとばかり話が通じない人なんていくらでもいるけれど、全体を言い訳にして個人の自由を恨む人は、話をしたくない・聞きたくないだけでなく、自分以外の誰にも話なんてさせたくないだろう。そうやって暴力をふるう人間と話なんてできるだろうか(表現の世界のちいさな山々にもそのような人間は、いるけれど)。どうやって。どう考えても、ものすごく、話が通じない。

 フリースタイルティーチャー見てて、なんでこんなに私はチーム吉本のスタイルに妙にイライラしてしまうんだろう? と思ってつい見続けてしまう。久保田さんがきわめて口先上手く話そらすムーブしてるのがイヤなのか? 中山功太さんの必要以上の小物ムーブがキツいのか? 場に対してものすごくグリップできている久保田さんと微妙にグリップしてない中山さんの温度差なのか? ステータス高い悪役中ボス感あるからか? ぜんぜんわからなくて、見てしまう。ラップスキル云々はぜんぜんわからないし、お二方そのものがイヤなわけでもない(バトル以外の時間ではほぼ常にむしろ好ましい。毒づいているときも人のを聞いてるときも素敵)。不思議。ともあれヘッズでもなんでもない人間がなにかを思えるというだけですごいプログラムだ。ダンジョンのほうではスキルや態度に感心することが多かったけれど、もう少し場のこと、キャラクターのこと、スキルじゃないところに、不自然なしつらえに、なにかを思える。たまに見ると面白い。逆にラップ大好きな人はムカついてたりするのかな。それにしたって、基本的に私はバトルがきらいなんだった。自分のなかに好戦的な部分が全くないわけではないだけに、避けてる。毎度それを確認しているフシはある。

8/2(水)
 長岡花火大会の生中継映像を見る。区切り目で流れるSEがものすごく古くさくて、味わい深い。NHKでは聞くことのできない各企業のサウンドロゴもそうだけど、「打ち上げ、開始でございます」の昭和感すごい(昔の小田急線沿線の商店街で流れてたようなテイスト)。セブンアンドアイがスポンサードする花火はオレンジ・緑・赤の三色。
 牡丹、錦冠(かむろ)、公式中継ではちょこちょこ技術的な用語が出てくる。トリプル・トーループ、みたいな感じで、見ているうちになんとなくわかってくる。「ベスビアス」はどういう意味なんだろう。ベスビオ火山と関係あるのかな。

 何年も前に現地で見た帰り道、羽化したての、まだ羽のふにゃふにゃした白緑色のセミを見かけたのを思い出す。

 夜、玄関の前に鳥のヒナがちょこんと立ち止まっている。まだ巣のあるであろう高さに自力で戻れるほどは飛べなさそうで、心配。しばらく見ていると、ほぼ真横に飛んでどこかに行ってしまった。

8/3(木)
 ちいさな観葉植物を買ってくる。

8/4(金)
 ぽかーんとしている。

 M-1ってもう始まってるんだ。とYouTubeで知る。この絶え間ないサイクルはちょっとおそろしい。他人事ながら。

 なんでだったのか、と言えば、友達に誘われて、なんだけど、ほりぶんのケンタッキーの地獄の話は2回も観てしまった。町屋で。照れる人はぜったいに立てない舞台だと観るたびに思った。
 訃報を目にするたびに思うことがあって、それは、才能を、ではなく、あくまで不在を惜しみたい、ということ。その点で、私には特段言えること、言うべきことがない。ほとんど知らないひとだから。

 私ははじめから照れないのではなくて、照れを乗り越えるのがスタートだと思っているのだけれど、すこしでも油断するとただ照れてるやつになってしまう。と言っている自分自身、もともと照れのある人間のほうをむしろ信用してしまうのだけど、照れを見せないひとのほうが演者として手堅いのは間違いない。結局、お友達とお客さんの差だと思う。本当はどう思ってるかがそれなりに大事な関係と、本当はどう思ってるかはあくまで関係ない関係のちがい。さてはこいつ、それがあんまりわかってないんじゃないか、と思われちゃう。照れてると。演技する前から演技ははじまっている、と見るタイプのひとにとってみれば、照れ屋さんというだけで失格になりかねない。そしてそれは半分くらいは当たっているような気もする。むずかしい。
 私は友達付き合いの少ない人間だけども、かえってあらゆる人と友達付き合いしようとしすぎるところがあるのかもしれない。

 日記なんか完全にゼロ地点だ。広げて見せてる場合なのか。ほんとうは全面的にウソの日記を書くべきところだ。

8/5(土)
 日本のどこかが災害級の天気に見舞われていると、それだけでなにか、口が重くなるような感じがあるんだけど、どこかにそうならないで済む基準線みたいなものがあって、それを越えちゃうと平気でパカパカしゃべる。もし世界中どこでも不幸なことが起きることに我慢ならなくて押し黙ってしまうなら、もう二度と話せないわけで、いま自分がどちらかというとそういう極に寄っていってる危険を感じないでもないけれど、けっきょく人間はどこかで線を引いて鈍感になる。

8/6(日)
 夜中もサイレンが聞こえるのが平常運転の都会に生まれ育っている。故郷のイメージが246近辺。静かでのどかな場所は常に旅先である。そのことがどこか、カッコ悪いというか、決まりが悪いというか、居心地が悪い。でもこの感じを共有するのってとてもむずかしい気がする。この文章もむしろかっこつけてるようにしか読めない。書いてみたものの。画にも言葉にもなりにくい。

8/7(月)
 ニュージーランドにある標識、"Kiwi Wandering"。

 深夜『最後の講義・みうらじゅん』観る。続けて『最後の講義・柄本明』だ!あわてて録画ボタンを押す。観るかちょっと迷う。リアルタイム(再放送だけど)で観るのがおっかない。と思ったけれど歯を磨きながら横目で見て、結局全部見た。

8/8(火)
 変な天気だった。と書くとあとから読んでもどんな天気だったのかわからないよね。「書くと」と書こうとすると変換一番手にGACKTって出てくるの本当にやめてほしい。高須院長やデヴィ夫人を単なる面白キャラとして取り扱うのぐらいやめてほしい。絶対に使わない場面だぞ。文中にGACKT、滅多に出てこないって。変な天気だった。とGACKTは言った。どんな同人誌だ。
 急な雷と急な雨がきちんと集合せずてんでばらばらにやってくるような天気だった。そこから書き直しちゃったよ。

8/9(水)
 この世の地獄ことヤフーコメント欄に「全てが素晴らしいではやらせだ」という言葉が書かれていた。地獄味が凝縮された言葉だと思った。万が一ほんとうに全てが素晴らしくても信じられない人。むしろ安心して悪役にできる欠点や嘘つきを探しまわっているんじゃないか。
 そんな人のために安心できる嘘を一粒どうぞ。と商売する人もすごいな。本気のひとと本気じゃないひとのぶつかる潮目だ。

8/10(木)
 重複する言葉シリーズで「落雷が落ちて」というのを聞いたのは今日じゃなかったけど、思い出したので書いておく。落雷が落ちて。遠雷が遠くて。

8/11(金)
 夜中、黒川さんのひらいたスペースで詩を音読した。奈良のホテルでもらった備品の便箋を持って帰ってきてふと突発的に書いた詩。そんなことはあんまりやらないのだけど、というようなことのいくつも重なったところにぽつんとある。紙が一枚。

8/12(土)
 肩まで届く髪の毛は能では怨霊を表すらしい。(NHK ETV特集「黒澤明が描いた『能の美』」より)

 ある様式に沿った動き、というのは見ているとどうも「自分を人形化する」みたいなところがあるように思う。擬人化の逆、というか、自意識を他に投射するのの逆、というか。自分のありさまを部分的に他者化することで、かえってはじめて自由であるような領域。

 今年の夏はなんとなく、手持ち花火やりたいな、と思ってたら友人たちから写真が送られてくる。そうそうそういうこと、ってワシおらんやないかい。いないやないかい?おらへんやないかい?いてへんやないかい?おらしまへんがな?関西弁わからなすぎる。

8/13(日)
 賞味期限を大幅に過ぎたゼリー飲料をおそるおそる飲む。飲み慣れてないから普通の味との差がわからない。しかしだんだんなんだかワイルドな感じがしてきたので捨てる。その後数時間のあいだ体調にこれといった変わりはなく、あのワイルドな感じはたんなる気のせいだったのか、実際存在していたワイルドな感じとわたしの胃腸がそれなりのところに妥協点を見つけてくれたのか、その辺はわからない。

 もし仮にある映画が「フェミニズム映画」と呼ばれるようなものだったとして(そもそも責任を逃れた外野からなされるラベリングの多くは粗雑で、創作にかかわる人間であればそういったやり方で作品を語られることの害をよくわかっているはずだけども……)、そういう作品があること自体なんの問題もないわけで(「なにか問題でも?」)、それじゃ今度それがひろく世に出回ることのいったい何が問題だというのか?
 ニヤニヤ笑いでマウントとるだけで中身のないタイプの発言、いちいち怒っていたらキリがないぐらいありふれているダメさだけど、ダメなもんはダメだと思う。挙句問題点を指摘されて「攻撃されている」ポジションに入るのなんて実にしょうもない(DARVOってやつだ)。ボヤかして、自分が何を言っているのかよくわからなくすることで(たとえば架空の対立する立場の人間に対し)優位に立ってやろうという匿名インターネットにありがちな振る舞いの逆輸入、ダサ過ぎる。
 私はこれが違うと思う、私はこれが嫌だった、私はこのことに乗れなかった、私とはこの点で優先順位が違った、私にはここが正しくないように思えた。それならよい。書く側にも書きながら傷つく余地があるし、読む側には反論の余地しかない。なぜならきちんと私を主語にして目的語をとった時点で「私」だけを問題にしていないから。それでよい。いっぽう「私」の所在を明らかにしないのはダメだ。何を言ってものれんに腕押しだ。かえって大事な領域は開かれない「私」の側に押しとどめられている(「ご縁とご恩」みたいなのはわかりやすい例かもしれない。それはきわめて私的なことのように見えるがじっさい「私」を語ることを避けており、問題を無限にずらす。彼我の立場に力を発揮させようとする。さいごに判断するのはワイルドカードの「私」である、と言ってるだけ。)。言っていることがポジティブだろうがネガティブだろうが、無意味なゲームだ。匿名か顕名か、ではなく、その姿勢の差が決定的。
(お笑いを語るお笑い芸人さんの言葉にときどき「私」の不在が見てとれて、どうも居心地わるいことがある。私を隠すことで増すパワーもあるにはあるのだけれど。「私」をやめると冷静に分析できるかというとそうではなくて、実は権威的な力関係がすべてになってしまうときがある。言葉でそれをやるとアンフェアさが浮かび上がる。他方、身体でそれをやるとむしろその不可能さが浮かび上がりもする)

 とにかくこんなに余計なことばかり書いているのとはまた別に、バービーと君たちはどう生きるかは見に行かなきゃしょうがない。バービーに関してはアメリカのウェブプロモーション担当にだけは一円も行かないようにしてほしいけども。そうもいくまい。困ったことだ。

 人間にかぎらず生きものが死ぬことに「意を表する」ことの意味のなさに打ちひしがれて、ほんとうに黙ってしまうことの多いここ何年かだった。他方ソシャメ(ソーシャルメディア)の訃報中毒みたいなありさまには心底うんざりしてしまって、Je déteste ça!って言いたくなる。このことと、最近の劇場へ行きたくなさ、はほぼ同じ根っこからやってきていて、つまるところ権威主義への圧倒的嫌悪感だ。生臭坊主にも犠牲の羊にもなりたかないよ。名前は名前でしかない。

8/14(月)
 だんだんと暗くなる中を自転車で走って、テイクアウトの食べ物を頼んで、待っている間にクーポンつかってシェイク飲んで、完全に夜。自転車のライトがつかないので渋々押して帰る。夏の後半に入ったな、という感じがする。
 家のテーブルの上にもってきてはじめて紙袋のしみに気がつく。容器の端からこぼれた液体で危うく紙袋が爆裂して全食べ物を台無しにして泣くところだった。雨の音も聞こえてきた。セーフセーフ。オールセーフ。

 「今では、二つのハワイがある。私たちが暮らすハワイと、そういう人たちがいる、そういう人たちが訪れているハワイだ」(BBCニュースから)

 同一の場所に対して実際には二つの(一つ以上の)場が発生している、という複雑な事実を端的に言い表しているこの言葉を読んで、ついフィクションとフィクションを愛することの圧倒的な差のことを考えたりしてしまう(その起点になるのはやはりハラスメントに対する人びとの鈍さなのだけど)。旅を愛する観光客の無邪気さが損なっているものは、旅を愛する人たちからはよく見えない。よかれと思って、のストーリーの中で、すべてはエメラルド色だ。
 
 ポジティブという名の怪物が事態を悪化させている。
 こう書いている私もどこか観光客的だ。

 目の前の通りに「こどもたち」と書かれた劇場が爆撃されたことを、また思い出す。

 被害者か、さもなくば観光客か、としてしか語れないなら私はどこにいるのか。
 もしかすると、私が、というよりむしろ、私の「劇場」が、幽霊のようだ。

 電池は液漏れしていた。ごしごし拭き取って、電池を交換した。手にはなんだかよくわからない黒い汚れだ。自転車のライトは点いた。

8/15(火)
 私は実はずっと悪役がやりたいんだけど、なにしろ一度も職質されたことがない。そこそこ最近にも、初対面のひとから「いい人そうですね」と言われる始末だ。仮にそう思うまではいいとして、本人にそのまま伝えてもいいと判断されるってなんか、相当だな、と思う。ほんとうのところはまた別にして、あくまで見かけ、なんていうか、どうせ悪くなさそうなのだ。その辺が私のポジションだ。その辺。その辺を逆手にとるような悪質な悪役やりたい、と思ってはいるものの、そういう気分は冷凍庫に入れておいて機会があるまでとっておく。誰かチンしてちょうだい。

 現実世界の私はというと、私や私以外の悪について、おおきく二度、反省して、し続けている。悪役、やれると思う。悪の機序を知ったうえで体現すること、解毒することができると思う。

 終戦記念日。ひとの死について考えるとき、生きているひとが生きていることを確かめているようなところがある。長崎の地面に埋まっているお茶碗のかけらをどうにか想像することができるのは、それを知った上で、地面の上を歩いているからだ。
 けっきょく生きている人がいちばん大事、とは思うけれども、それだけでは自分を含めた「仲間」さえよければいい、ともなりかねず、同じくらいこれから生まれてくる人のことを大事にすることができるのが人間だ、と思う。そうするために、もう死んでしまった人のことも考えたい。「わからない」と「フェアネス」に立ち返るために。百年後に目を向けつづけるために。じじいになっても百年後を見続けたい。
(でっけえこととはまた別に、日々のこととして、投票はし続けるし、それだけじゃなく、問題は問題だと口に出して言い続けなきゃならない。政治的なトピックも近場のハラスメント問題もまったく避ける必要はない。なにせ全体主義とポジティブおばけ(=あらゆる批判を避ける)のむすびつきは最悪のコンビネーションを発揮する。空気にほだされて健全な批評精神を失ってはいけない。なぜそう書くかといえば、いつだってあぶないからだ。簡単にひとは見逃すからだ。感受性を守るとは、感情に差し障るものを見ないようにすることではないはずだ)

 近所の鳥の巣になっていたであろう木、ヒナが地面に降りていたのを見て以来、静かだ。

8/16(水)
 浅い眠りとか浅い考えとか、浅いのは総じてどちらかというと質のよくないことのようになっているけれども、浅いのがいい場合ってなんだろう、と考えると、遠浅の海だ。遠浅はいい。歩くも泳ぐも選べる。あまり怖くない。
 それから被写界深度も浅い(=ピントの合っている距離が短い)のがいい場合がある。「一眼らしいボケ味」みたいなやつ。明るいレンズじゃないとできないやつ。なにに注目しているのかがはっきりする。
 書くことが思いつかなくてこの浅さよ。

 誰もがそこに至れる浅さ、にも自分だけと思える深みにはまり込むような危険はあって、それはたとえば陰謀論みたいなものだ。「誰でもアクセス可能な深み」の浅さ、浅はかさ。深さにあこがれるのは浅さ。

8/17(木)
 あたらしいエアコンのなかには「パトロール」機能のついているものがある。暑さや湿度が一定以上になっていると自動的に冷房が起動するらしい。
 心がけに頼るんじゃなくてテクノロジーで解決するってすごい。ただ、その機能がシリアスに必要な人に届かないといけない。設定の仕方とか。そこが大変だ。自分でリモコン操作できる私がすげーって言っててもなんだかしょうがない。

8/18(金)
 「味のしない飴」がひそかにヒットしているらしい。「飴をなめる」って味や栄養、成分をとる以外の要素として、口寂しさを埋める行動でもあったりする(禁煙中の人が代わりに選んだり)。また、喉の渇きへの対策になっている場面もあるみたいだ(マスクをしていてまめに水分がとれない、とか、何らかの手術後、喉がはりつくような感じを軽減するとか)。で、そういう機能を求めているひとからすると従来の飴では糖分をとりすぎたりやたらスースーしたりする問題があったのだそう。思いもよらないことばかりだ。味のしない飴。とくに切実な理由もないまま一度食べてみたい気もするけど、ここに書かなかったらすぐに忘れてしまいそうな気もする。

8/19(土)
 日記というか、三面記事の切り抜きみたいだ、このところ。そういう日だったってことだ。
 文章でまあ、っていったん書いて消すこと、すごく多い。自分で書いてるくせにまあってなんだよって思っちゃう。口頭でもなるべく言わないようにしているはず。「まあ」よりはより意味のない「ああー」を選んでるはず。でもまあ言っちゃうけど。

8/20(日)
 ひさしぶりにスプラトゥーン3を長時間やる(いわゆる「クマフェス」)。くたびれるとあからさまに口が悪くなる。誰にも聞かれない部屋で口が悪いのはもう純粋に口が悪い。よくない。

 劇場でハラスメントに関するフォーラムを開く、そこにいるのは演出家かプロデューサーばっかり、ってポスター的なビジュアルを見かけた時点でもう失望しそうすぎてとても足を運べないな、と思っていたけど、観客席含めて案の定的なことはあったらしい。いや、でも、「案の定」というほどもともと絶望はしてないし、その場を作ろうとしてる人を悪く言いたいわけではないんだよな。ただ単純に「もうこれ以上がっかりしたら死ぬ」って感じ。ちびマリオ状態。無理ができない。で、どう考えても危なっかしい。パネラーはもちろんのこと、手を挙げて発言しはじめるトンチンカンな人を止める方法がないだろうし、危険が多過ぎる、と感じてしまう。
 個々のハラスメントは権威をもった人間が引き起こすけれども、それをできるだけ見ないようにし、建前上は消極的にであってもけっきょく容認する権威主義が問題の解決を阻む(ひいてはハラスメントを構造的に温存する)わけで……「権威主義」というとなにやら頭でっかちにきこえるけど、カンタンに言ってしまえばあらゆる市井の人の理屈以前の感覚(えらいひとはえらい、すごいひとはすごい、おもしろいものはおもしろい、いやなことは知りたくない)こそが問題の根幹部分で……なんて面と向かって言われたら「私はやってません」「私は悪くありません」みたいなことを思っちゃうんだろうな、みたいなレベルからどうにかやってかなきゃいけないから大変すぎる。実際「やってない」し「悪くない」からこそ問題は厄介なのだ。
 空間の設計からして、観客席から台上を見上げるようではそもそも違うのかもしれない。つまり、「フォーラム」で議論をして見せる、お見本になる、のではなくて、同じ高さでほんとうに議論をするほかないのじゃないかと思うけれども、書いてみると危なっかしすぎてその場所にまだ私は行きたくないなあ。「問題視するひとをあえて問題視する」というような、いくら悪気がないとしたって小学生みたいとしか言いようがない泥仕合を人生半分すぎてもやってるような人はいて、心底どうしたもんか。と思う。これすなわち観客席をどう設定するかによってはそもそも表現なんてやってられますかいなというような事態にもなる。世間に希望を持てないままでなにかやるって時点でもう矛盾を抱え込むことになる。少なくとも「世間」に向けてなにかをやろうとすること自体が困難だし、「審査員」とか「エライひとたち」に向けてやってる場合じゃないってことだ。じゃあ誰に?

8/21(月)
 変な生活リズムだ。
 日本語圏の人権感覚ってどうしてこんなことになってんだろうな。これが「考えるな、言うことを聞け」の行き着く先という気はする。

8/22(火)
 モーニング。にわか雨をかわすためにおかわりコーヒー。
 われわれを蒸すために天は水撒いたのかというぐらいの蒸し暑さ。サウナストーンとかロウリュに例えてみたいけど思えば映像で見るばっかりで体感したことない。ふつうのサウナに短時間いたことしかない。
 
8/23(水)
 それは果たして「薄めて撹拌すれば大丈夫」というようなことなのか? というのは実にどうもいろんなところに転がったままになっている奇妙な仕組みで、そもそもおそらくこれまでの社会問題の多くも、局地的には大問題なのに国単位に薄めてしまえば「大丈夫」とされてきてしまっていたのではなかったか。
 なにか問題が起きたと聞かされたとき、第一声で「まあでもよくあることだから…」と言い出すひとは経験的統計でものを言っているだけで、責任について何も考えていない。ひとつの事実を無数の"架空の世間"で薄めて撹拌してるだけだ。(「芸術というのは…」「やられる側にも落ち度が…」この辺も典型例だ。悪気がなければ際限もない。薄め水ワード)
 このところニュースから派生して話題になっている「露出度の高い服を着る」についても、責任という点で落ち度がないひとに、無理矢理なんらかの原因を見出すようなインチキをこねくりまわしているようなのは、結局「責任」と「経験的統計学」を混同して話がわからなくなっているトンチキか、その二つを意図的に撹拌して話をわからなくしようとしているトンチキでしかない。
 おまけに「責任」なんていうと、「私にある」と言いながら実際なんにもしないようなのがすまし顔している。立場がそんなに大事ならまず筋道を大事にしなよ、という話でしかない。自分で土台を崩しておきながら立場に拘泥しているようではあべこべだ。責任をとるなら、たとえ役職を失ったとしても彼の立場は守られるのである。その真逆の手順で立場を守ろうとする人間が多過ぎる。一度起きたことはけっして元に戻らない、ということを忘れてはいけない。

 あらかじめ問題となりうるであろう部分をスルーした上でなされる「説明」は、実際のところ説明にはなり得ないわけで、意図的であるかどうかは関係なく、見落としがあってはならない。その意味で見落とすことを意図的・常習的に行っている人たちの挙動は厳重にチェックされなければならないはずで、彼らの「説明」をそのまま放出するだけではマスメディアの仕事になっていない。「飲めるぐらい」と言いながらそう言う人間が飲むことなんて絶対にない(飲む人間は言う前に飲む)のだから、つまりハナから単なるレトリックで話をそらす振る舞いでしかないのだから、まんまと飲むかどうかとか飲めるかどうかという話をしている場合ではない。そういう人たちの「説明」を速報するのではなく、検証するのが仕事なので、どうにかそういう報道を探して見つけておきたいが、検索して出てくるのは一次的な「説明」の数々で、どうも困る。けっきょくBBCのいくつかの記事にある程度まとまっているのは見つかったものの、国内のマスメディアは「風評」というストーリーのほう(もちろんその影響も非常に大きいのだけど……)を追いかけている印象。
 ともあれ、立場によらず、法と科学に基づくほかない。正しさとはつまるところ手続きの正しさなのだから、なし崩しではダメだ。不安をむやみに否定したり、ひたすら容認したりするのではなく、分け入って行って検証することでしか意味のある前進はできない気がする。

 いずれにせよ、とりかえしのつかないことにくらべて、言葉はとても軽い。世界がぐらつくようなとき、ついその軽い言葉にすがりついてしまうのが人間だけど、良心をかなぐりすててまで飛びつくのは、ちょっと考え直すわけにはいかないものだろうか。でたらめやあやふやの砂糖菓子で足場を固めたときの安心はそんなに大事だろうか。

 不安と向き合って飼い慣らす術を練習したほうがいいような気がする。

8/24(木)
 劇場に行く気が起こらなすぎて、こりゃ不義理してるなーとは思うけれど、やっぱり劇場に行く気が起こらない。こんなに短いのにずいぶんへんな文章だ。「起こらなすぎて、起こらない」とは。劇場でやってることが気にならないかというと気になるけど、行きたくない。もしかすると、明日になれば、行く気、あるかもしれない、と思ってはいる。でも今日は行かないし、今日の気分ではとても明日の予約はできない。これじゃ私の側がゴドーだ。

 編み方に「天竺」ってあるの、ものすごくありふれているのにワクワクしてしまう。

8/25(金)
 「同じ誕生日有名人」の話をちゃんと楽しめるタイプだ。オドぜひに出てきた方のプレゼン力がむやみに高くて笑ってしまった。たわむれに自分のを調べてみるとラインナップがけっこうシブい。BoA、ペーター佐藤、ブラザー・コーン……ダントツ最強カードはティルダ・スウィントンだ。

 ランドセルを背負った小学生がいる。いまどきの小学校の始業式は9/1じゃないこともあるらしい。東京でも。ぜんぜん知らなかった。子供を育てているひととは常識がぜんぜん違ってしまっているだろうな。

 うろ覚えの自分ちの薬かごの中のあのあれ、ええと、「自家薬籠中のもの」だ。ろう、の部分を忘れがち。タイムラプスをタイムラスプって言いがち。

 贅沢な夢を見た。見ていた気がする。夢で旅行してあたらしい友達ができた。もともと別のグループでたまたま隣り合った気の合う友人。探しに行きたいぐらいだ。

8/26(土)
 ポケモンGO祭りだった。むやみにフレンドを増やした結果、ギフトを送る数が一日の上限に達してしまった。そんなことがあるなんてフレンドがあんまりいないので知らなかった。
 なんてフレンド・悲しい・ジョークでふと思い出してしまったけど、おもに十代のころにやっていた「友達いない自虐」って、友達だと思ってるひとをむやみに傷つけたり試したりしているようなところがあって、あれ、ほんとうによくなかったなと思う。

8/27(日)
 「欠席裁判」というのは現代もっぱら比喩に使われるもので、実際に当事者が欠席した状態で裁判が行われることを表すケースはほとんどないと思われるけれども、先日イギリスで新生児連続殺人事件の犯人が最終的な量刑言い渡しの際にその場におらず、その場にいない被告に向かって裁判長らが話しかけるような場面があったらしい。法的な決まりによってなのか、慣習に沿ったのか、それとも心情的な原因によることなのかはわからないが、いないという状況に沿うのではなく、「いるテイ」が必要だったらしいのだ。いない人をいないままにしては話しかけられない。想像上であっても一時的に呼び出す必要がある。

 蚊に刺される。二箇所。どうやって考えてみても、刺されたのはテイクアウトの出来上がりを外のベンチで待たされたからで、ぜんぜん空いているカウンターの隅っこにでも座らせてくれていればこんなことにならなかったのに! 夏の終わり、外に十五分いて、夕暮れは美しく、蚊に刺され二箇所。

8/28(月)
 「よく考えると使いどころのわからない便利グッズ」代表といってもよい、潜望鏡みたいな仕組みの、座っていても寝っ転がっていても(自分の真正面からみて真下の)手元の本やスマホが見えますよメガネ、が部屋から出てきたのだが、表面のプラスチック部分が猛烈な加水分解でベトベトになっており、アルコールウェットティッシュで拭いたりしてみたものの、黒いベトベトは際限なく手のシワや爪の間に入り込んでいく。石けんで手を洗ってもなおあちらこちらに黒い点々が残る。もともとのどうでもよさを考えると、なんというか、とても割に合わない。

8/29(火)
 ひょんなことから「インコがタブレットをくちばしか額でうまいこと操作して、同じ種類のインコの写った動画を選んで再生する」動画を見かけて、検索しまくってどうにかオリジナルに辿り着いた。(Twitterでも拡散しているが元々はインスタグラムだった:https://www.instagram.com/reel/CtIzWvDgWzX/?igshid=MTc4MmM1YmI2Ng==)。かわいいとか面白いとかいう感情もなくはないのだけれど、ことはそれだけではなく、なにか、自分のような姿をしたものを見ていたい、という孤独が、動物のあいだにも通底しているような気がして慄然とした気持ちも起こるのだった。

8/30(水)
①https://x.com/yu_miri_0622/status/1565308736398569472
②https://x.com/yu_miri_0622/status/1190242052929277952
 https://x.com/yu_miri_0622/status/1190243507773964288

(※なるべく何度も文字列を目にしたくないので直接引用せずにリンクにしておいた。個人的【閲覧注意】だ。メモアプリ日記ならでは!)

 一般論でこう書ける人(①)が、他方、平気でこう書いてしまう(②。つよい思い入れの前に立てば、被害を受けたひとのことなんか見なかったことにしてしまう)、ということについてあらためて考える。柳美里個人を今更どうのこうの言いたいのではなくて、ある種の問題意識のはたらきがしっかりとある人であっても、これがけっきょく「仲間」とか「絆」の罠に簡単に引っかかってしまう、という好例だと思う。もちろんご本人は簡単なことなんかではなく、なにものにも代えがたい思いや考えがあってのことなんだと自分でもお思いだろうけれども、もしここで「ご縁とご恩」が勝るのであれば、つまりそれは本当の意味で「問題意識」と呼べるものなのだろうか? 実のところ、「問題意識」に見えるそれは、仲間意識の延長線上にしかないから、そういう、なんというか、やわなことになるのではないか?
 しかしながら、こういった振る舞いでむしろ総じて「かんがえのある人」としてのプロップスは高まってゆく。本人のふるまいはあくまで自由だが、その構造はちょっとどうかしている。オーディエンス!

 と、やや雑に一般化してはみたものの、やはり私は常磐線を上って演劇祭を見に行ったりはしないだろうと思う。(①のツイートをまったく関係ない場所で——どちらかというとやはり「思慮深い」ブログ記事のなかで——見かけたので、あらためてこんなことを考えてしまった。こういうのは基本的に時間の無駄なのだけれど、何度も考えるのも無駄なので一度しっかり書いてもう終わりにしてゆこうと思う。柳美里と似たようなところで豊崎由美についても(さらにこの一件から離れれば伊藤比呂美の振る舞いもとてもよく似たものだったし、思い返せば松江哲明に関してはあの森達也がこのありさま——https://x.com/moritatsuyainfo/status/1219838250044444674——だ)、きちんとまとめておいたほうがいいと思ったけれどすっかりめんどくさくなってしまった。どうしたってわざわざイヤなものを目にしに行く作業になるので)

 いやなことで日記が終わるのもさびしい。つづけて何か書こう。

 夏が終わる! いや、まだだ!
 『紙とさまぁ〜ず』で「夏は何月何日から何月何日までですか?」という質問があって、考えるのがたのしい質問だと思った。番組では7月1日〜8月30日派(なぜ?)と〜8月31日派しかいなかったのだけど、私からすると夏というのはむやみに長い。だいたい、それなりに本気の蚊に刺される時期が夏、という感じがする(まれにいる春の蚊は真剣さに欠ける)。その感じに従うなら、夏、6月16日〜9月30日だ。で、秋が10月1日にはじまって、11月20日ごろにもうコートが手放せなくなって終わる。で、11月21日から2月28日が冬。あまりの約三ヶ月が春。書き出してみるとなんかバランス悪い。私の好きな秋がやたら短い。春に対する思い入れが少ない。

8/31(木)
 なんだか最近「不快指数」という言葉を聞かない気がする。
 ということで検索してみると、tenki.jpにも専用ページはあって、特になくなったわけでもなくて、あまりメディアで使われていないだけのようだ。
 定められた公式に沿って計算するページがあった。(https://keisan.casio.jp/exec/system/1202883065)本日最高気温の14:30は気温32℃・湿度63%で不快指数83.2、最高湿度の19:30は28℃・84%で80.3。「日本人では、不快指数75で約9%の人が、77で約65%の人が不快に感じるようです。」どこからの情報なのかわからないけれど、仮にそういうものだとすると、不快指数76のあたりがそこにいるひとの半分が不快になるラインがある、ということになる。(たとえば気温28℃、湿度55%で不快指数は76.4)

 ミスタードーナツのトイレに入って便座開閉ボタンを押した途端、ドビュッシーの『アラベスク第一番』が流れてきた。まさか。換気扇のほうから聞こえてきているような気がする。新しいタイプの「音姫」(あらためて読むとこの名前、どういうことよ?)なのだろうか。流すと音が止まる。気になったのでもう一度便座を開閉すると、今度はグリーグの『朝』だ。
 まさかの二曲目。キリがなくなっても困るので出ることにした。

 これら二曲の曲名で検索してみると、LIXILのサティスGという機種の便座?便器?に行き当たる。なかでも音楽再生機能は一部の高級な型番のものにしかないらしい。スピーカーは換気扇ではなく、便座横に仕込まれていたようだ。収録曲目数は驚異の30曲。ひとつずつフタを開け閉めして聴いていたら大変なことになるところだった。

9/1(金)
 エビは入ってないプレートのつけあわせのフライドポテトにエビのしっぽがひとかけ入っていた。不在のエビ。

 9月1日。自分のやり場のない不安を立場の弱い・属性の異なる他者に押しつけ、デマを流して殺すまでに至った人間たちがいた、という事実を、政治家が認めないどころか積極的に有耶無耶に/なかったことにしようとしているのはたとえようのない異常事態(例①小池百合子都知事(都民ファーストの会)https://www.asahi.com/sp/articles/ASR8K5600R8KOXIE01J.html②松野博一官房長官(自由民主党)https://mainichi.jp/articles/20230831/k00/00m/010/220000c)で、この一点だけでも彼らは国民・市民を代表するのにふさわしくない。厳然たる事実を立場でねじまげようとするのはあえて政治家的な定型文で言うなら「デモクラシーに対する重大な挑戦」だろう。こういう手合いを「歴史修正主義」と呼ぶのは手ぬるい。そんな出鱈目な主義があるもんか。「歴史改竄珍走団」だ。それはかつてあって。

 岡田索雲『追燈』「ひでぇ話だなぁ…」「命か…/魂か…」「どっちか選ばなきゃいけねぇなんてよ…」(p.34。https://comic-action.com/episode/14079602755100864512)

 暴力。魂を選んでここ5年死んでいた。と言いたくもなるが、ほんとうに死んだひとのことを思えば、まったく別の言葉を全力でさがすべきだろう。むしろ私は魂のほうを捨ててしまったのかもしれない。
 以前とまったく変わったとはいえ、生きているわけだから。

9/2(土)
 「まめまめしきものはまさなかりなむ。」ってすごく記憶に残る響きだ。意味をすっかり忘れちゃってたので調べると「(何を差し上げたらいいかしら、という文脈で)実用的なものではつまらないでしょう。」というようなことだ(いまさらだけど、これまた忘れちゃうとわるいので作品名を書いておいちゃう。『更級日記』)。
 人に言われた、というテイの言葉だけど、ほんとうにそう言った人が書いたひととは別にいたんだろうか。それとももっと違う言い方だったのを整えて書いたんだろうか。

 物語というものにハマることのワクワクと虚しさとをあとから振り返るにあたって、ひょんな入り口が「まめまめしきものはまさなかりなむ」なのはなんだかいかにもよくわかる感じがしてしまう。これはなにかに使えるとかお得だとか、ふと気がつけば、日々の暮らしのなかを、まめまめしきものどもが占拠してしまっていたりもする。それで、こんなことでは、まさなかりなむ、なんて自分に言い聞かせて別のものに没頭しようとしたりする。のだが、そういう心構えみたいなものがこれまたまめまめしくって、まさなかりなむ。

9/3(日)
 『リンカーン』は出てる人が豪華で企画がなんだかこなれていない、という妙なアンバランスさが持ち味だったけど、後継番組を作るといってもどうしたって同じようにはならないだろうから……みたいなどうでもよい差を発見できるのがテレビバラエティを見続けることのどうでもよい楽しさで、それにしてもどうでもよい。

 知ってる人がテレビに出てくるとついニコニコしちゃうんだけど、悔しがる人のほうが、なんていうか、エネルギッシュだよなーと思う。
 ひとがうまくいってるのと、自分のやることがうまくいくかどうかとはほぼ関係ない、というのは理屈で、理屈はただしいが、そうでないところで人はさまざまな心を燃やして動いている。
 ……とはわかっているものの、(めったにないことだけど)だれかに悔しがられたりライバル視されたりするとにわかにひそかにドン引きしてしまう。あれ、あのときのドン引き、あまり他に類がないほどで、一体どういうメカニズムなんだろうか。だれかにライバル扱いされるのは光栄なことではあるのだけれど、われわれは競争の途中にあるんでしたっけ?ゴールはどこに?それ本気で言ってます?ってどうしても思っちゃうのだった。(表面的であっても正解の乗っかり方を一個見つけておきたい)

9/4(月)
 雨、降ったり止んだり。グリーンスムージーにヨーグルトを足すとほんのりお寿司みたいな味。ヨーグルトの酸味が酢飯っぽさを生み出しているんだろうか。ケールが海苔めいてくるんだろうか。

 バーデン・パウエルの曲をどこかのお店屋さんで耳にすると、ああ、素敵な曲、だけど、えーと、誰のだっけ? って毎回のように思ってる気がする。『Deve Ser Amor(恋に違いない)』。

9/5(火)
 夕暮れどきになじみのない街を歩いていると無闇に不安な気持ちがやってくる。知りようがない無数の生活が押し寄せてくるような感じがする。
 チェーン店に入ってすこし落ち着く。しかし窓の外に見える「放置自転車撤去作業中」と書かれた幕の張ってあるトラックも、木目調だがあからさまにドットの見える荒い印刷の壁紙も、この場所はどうも私をけっして歓迎はしていないぞ、といった感触で、そそくさ電車に乗り込んで帰る。

9/6(水)
 数年前のVOGUE JAPANのインタビュー記事(若草物語の頃のグレタ・ガーウィグの)を読んでいると、文中に出てくるいくつかの有名人の名前にはアンダーラインがしてあって関連記事へのリンクが貼られているのだけど、それらに混じっていくつかのブランド名にもばっちり貼られていて、よりによって記事のハイライトになりそうな部分なのに、そのアンダーラインが妙に気になって話の終わりのほうがあんまり入ってこなかった。直接の広告なのか、それともお得意様的な関わり合いがあった上での目配せの一種なのか、その辺のことはわからないけど(すくなくとも記事に【PR】の表記はなかった)。「スマイソンのノート」ってわざわざ書いてるリンクしてあるの、ほんとうに微妙にわざわざ感があって、堂々と宣伝してるよりもだんぜん違和感をおぼえたのだった。

9/7(木)
 ハラスメント自体にも、それを黙認することにも、べつべつに、相応の責任があってしかるべき、という認識が共通のものになっていかないと大きな意味で同様の問題の再発防止にならないので、個別のケースで適切な対応がとられることを後押しする意味でも、ダメなものはダメなんだ、といくらでも言わなきゃいけないと思う。言ってるとうんざりもしてくるのだけど、マジで年単位でだいぶうんざりしてきたんだけど、問題があっても言わないのが大人とかビジネス的にはベストとか平気で言ってるような姿って未来に残すべき前例なのか? その問題は「いい人」とか「才能」とか「名声」と天秤にかけるようなものなのか? ひとたび密室に入ったらそんなしょうもない態度がとれるのか? それは主義主張や「本音と建前」以前の問題じゃないのか? といった具合に、私はその手の酒場の本音の残響みたいなやつにもう本当に何千倍もうんざりしている。よりによって誰に向かってものを言ってるか自分でわかってるのか? わかってたらそうはするまいよ。それともそれでも平気でするのか? そこまで頭使わずにしゃべってるのか? これまでも/これからも一体どうやって生きてきた/生きていくつもりなんだ? せっかく人間やっとるんだから時間の尺度を長くしてモノを考えて言葉を使っていこうやないかい、とエセ関西弁でまくしたてたい。こんなことをいつまでも考えなきゃいけなくて悲しい。

 『十戒』stoneが動詞なのに驚く。"Stone him!"って見当違いなストーンはあくまで口にされるだけで、劇中では投げられないのだが。群衆、わりとすぐ言う。"Who is on the lord's side"思わぬ「ロードサイド」の出現。"So it was written, so it shall be done"と映画の最後に示されると、つい脚本のことを考えちゃう。ずっと気が散っている。

9/8(金)
 同意の有無、合意の仕方がいちばん重要で、それを一から考えるのがハチャメチャにしんどいから、ひとは上下関係やメンツやネームバリューに頼る。おそらく。「メンツでコミュニケーションしてるのこそ"コミュ障"では」Iくんのメッセージ内でも言い得て妙ハイライトだった(あとで読み返そう)。自分はさておき他人がラクなほうに行くのを止めるのは難しい。いや自分だって難しい。常に暫定的にやっていくしかない。関係は常に暫定的。

 まっとうな批判については言わずもがな、見当はずれの悪口言われるようになってこそ人前に出る/なにかを出す人間としては一人前、ってところはどうしてもあるよなあ。褒められりゃきっとずっと嬉しいけど、大海の荒波をいっさい浴びずに遠くまで行けるかというと。とはいえそれはフィクションという手続きを経ているからどうにか受け入れられるんであって、本人へのダイレクトアタックはぜんぜん意味が違う。インターネット文字伝達はその辺の距離感をバグらせがちでもある。(私はだいたい褒められたことしかない半人前であるよ……)

9/9(土)
 このところ日記ともういっこ「きょうの演劇」を書き続けてきたのだけれど、iPhoneのメモアプリでたびたび書いたり消したりした履歴、ということなのか、同期しているGmailのメールトレイにおそろしい量の複製されたメモが保存されつづけていることがわかった。最新版だけを残しておくのではなく、どうやらいちいち新規保存する仕組みらしい(受信メールを検索してアレコレ振り分けるフィルタを作りたいだけなのになにげない検索結果にめちゃくちゃ自分のメモ(万物書き散らかし日記)が引っ掛かってくる……)。
 ということで、この辺でこのアプリを使ったメモはやめにして、他の方法でクラウド同期できるメモを探すことにしよう。iCloudはいまいち直感にあわない挙動をすることがあるので第一候補はGoogle Keepかなあ。

9/10(日)
 思慮深さにも地獄はある。やったぜ、同期した。
 
 ということで今日からこの新しいアプリで日記を書くことにした。今のところ書き進めるにあたって動作に問題はなさそう(というかiPhone純正メモより軽快)だし、数秒〜数十秒単位で同期されているっぽいので、保存についてもとくに悩まずに済みそうだ。なぜ不都合をわざわざ我慢してたんだろう、というのはこのことに限らない。(おそらく変わることに対して怠惰だからだ。)
 メールトレイ内になぜか重複して保存されていた最新のメモ(ここ数ヶ月の日記)は最終的には8000通分以上にまで増殖しており、1GB弱もの容量を消費していた。おそらく過去の他のメモも追いかければそれぞれ書き足していった期間の分だけ増殖していることだろう。忘れないうちに調べておかなければ。知らぬ間にメモが引き出しの中で単細胞生物のように勝手に分裂して増えていってパンパンになっているようなものだ。おそろしい。

 このアプリ、改行を入れると即、新しい段落と判断して自動的に一マス空けしてくる。若干「いけしゃあしゃあ」感ある。それにしても「いけしゃあしゃあ」ってなんだ。非難するニュアンスをもつ接頭語である「いけ」(他の例に「いけ好かない」)+水の流れている音をしめす「しゃあしゃあ」(典拠不明だが水をかけてもカエルが平然としている様子から来ている説あり)。いけのつかない「しゃあしゃあ」はちょっと逆にいいような、「しゃあしゃあ」してたい気もする。

 と、ここで、直前の行でおわる段落で一マス空けしないと次の改行では一マス空かないことがわかった。すなわち直前の行を含む段落で一マス空けているかどうかを受け取ってそれを繰り返すようだ。前の段落を真似て自動的に一マス空けた直後、手動でもう一行改行しようとするとこんど、改行はせずに一マス戻る。こうなるといけしゃあしゃあというよりはいよいよこまめによく考えられている感じがしてくるが、この仕様では「一行空けで新しい段落をはじめようとする」と結局一マス空かない(「改行」で一マス開け改行、「改行」で一マス戻る、「改行」でマスの開かない改行、「スペース」で一マス開け。計4手要る。)わけで、そういえばこれ、グーグル作なんだから、あくまで英語圏の段落の書き方に沿っているのではないかと思う。

 『舟を編む』人物と状況の配置がすごく面白い。公開は2013年で、舞台設定はPHSの出始めた年なのでおそらく1995年〜(劇中「12年後…2008年」とのテロップがあったので1996年だった)。ギリ紙の時代。用例採集カードへのワクワク。語釈、料理、営業、励まし……それぞれのひとに得意分野があることがぐっと目の前にあらわれてくるのも楽しい。

 人は自分の言葉の網目に引っかかったものでしか世界をとらえられない、といってしまえば、じゃあ言葉の外の感性はどうなるのだと反発したくもなるけれども、五感によってとらえたさまざまな情報を綜合して世界を認識して考えるときにはけっきょく言葉に戻ってくる。知識や心がけによって補える部分があっても、かたよりそのものはなくならない。そういうところに、他人がいる、ということの貴重さもある気がする。得意なことも得意な言葉も違う。そういう当たり前を当たり前に忘れてしまうことがある。なによりこういう一般論を超えたところで、人間がいきいきしてて面白かった。

9/11(月)
 ドリンクバーやパン食べ放題は、概念としての無限が目の前にあらわれるのでワクワクしてしまう。「パン無限」だからポケットに入れる食いしん坊、は私ではない。

 クラブクアトロでトリプルファイヤーとZAZEN BOYSツーマン(渋谷ラ・ママによる企画。10代無料キャンペーンをやってるらしい。エラい)。
 トリプルファイヤー。パーカッションが入っているのもあってか以前見たときのタイトな印象に比べると隙間を感じさせる。曲間MCで「高校生の頃メールアドレスを「nam-ami-dabtz@〜」にして…」みたいなのは笑っちゃった。自分がそうしてたわけじゃないのにわかりみがすごい。このMCを評してIくんが「大喜利力のあらわれ」と言っていたのも面白かった(言われてみれば確かに。どこを切り取るかのあざやかさ。私は大喜利を見るのが好きだけど、きらいだというIくんの言うこともなんとなくわかったような気になる。そのような能力を競争的に使うことは実はなにかよくないことなのではないか、と、ふと思う日はある)。『銀行に行った日』は何歳まで歌ったり聴いたりできる歌なんだろう。「このあと続けてたくさんやります」的なMCのあと、急に密度が上がってバッキバキにカッコよかった。つづいてZAZEN BOYS。もう何年ぶりだろう。最後にライブ見たのはまだメンバーが変わる前かもしれないが、なにしろそれさえ定かでないぐらい前だ。『CRAZY DAYS CRAZY FEELING』が最初それと気がつかないほど進化していてしびれた。ドラムとんでもない。『Sugar man』の「やさしい」も非常に刺さった。最近ぜんぜん音源追いかけてなかったな……と思ったらTHIS IS向井秀徳氏曰く11年アルバム出してないとのこと。出てないだけだった。

 冷やし鳥唐そば。

 Iくんの「拍手は違うと思うんすよね」本当にそうだよなと思った。相変わらずグレイトポイントオブビューだ。権威ほぐし拳の使い手。
 客席からの無断撮影を注意する向井秀徳=わかる、それに拍手する観客たち=わからない。「自分の言うべきと思ったことをすぐさまきちんと言葉にしてて偉いぞTHIS IS向井秀徳!」ってぜんぶ口にするならわかるけど、拍手はナイ。注意に関して、賛否を示す必要がない。ミュージシャン当人を含めた権利各所がダメならダメだし、撮影拡散OKならOKだからだ。「談志vs居眠り客」と同様、そら当人同士の話なんで、尻馬に乗っかって拍手してるのはいったいどこの誰やねん、となりはすまいか。

 「私はこういうことが恥ずかしいと感じてしまう」ということを思いきって口にしたらすこし、恥ずかしくなくなった気がする。私は「自分の編集の手つきを見せるのが恥ずかしい」のだ!はじめて言語化できた!興奮。(だから何につけても全部見せるか全部見せないかになりがちだ)
 そういうことってある。つかまえた!と思ったらもう違っていたりする。そのときにはたしかにそうだったけれど、もう今は違う、という、そのどちらもが間違ってはいない。

 二駅余分に歩いて帰る。「裏腹に」というのが二つのバンドに共通しているいいところだと思う。お客さんがどうとるかはともかく。

9/12(火)
 なぜ「精神論」がはびこるかというと、十分な知識がなくても自分で考えてなくても一丁噛みできてる気がしてしまうからだ。自分の見えている範囲だけで判断したうかつな「人間性」への評価なんかも似たような性質があって、「いいひと」とか「失礼」とか、言ってるうちにわかったような気になってくる、というようなところがある(実は「才能」なんかもよほど気をつけて使わないと同じような転倒が起きると思う)。
 徹底的に調べるか、とても注意深くする以外ないんじゃないかと今のところ、思う。

 調べてみると「いっちょかみ」って関西弁らしい。知らなかった。

 そろそろ髪切ろうか。ヒゲは上下のラインを整えると清潔感が出るらしい。マジで?

9/13(水)
 夕暮れ、雲のない夕暮れだ。昨日みたいな明日があるような気がいつまでもしてしまう。あっという間だ。

 ディスコードのサーバーをあらためて作ることにした。以前やってみたときは妙に観念的になってしまったのだけど、その作業はバックヤードで済ましておくべきで、もう少しいい意味で表面的なしつらえにするほうが親切、と思ったのだった。(可能性として)他人にひらくというのは、思ったことをなんでも言うのとは当然違う……今更?
 何においてもそういうところはあって、油断するとハイパー観念放流人間になってしまう。なにしろ名前が全文字抽象概念だし。「善」「積」「元」。草花や水の気配なし。

9/14(木)
 ひとがファミレスのお運びロボを見る眼差しは、犬猫を見るときとどこか似ている。
 ツバメの巣の跡は、オフシーズンにもずっとある。

9/15(金)
 感謝や謙虚の定型文で自意識を抑えつけようとしているひとを見かけるとむしろその岩盤のすぐ下にまでせりあがっているマグマみたいな自意識の所在がはっきりしてきてちょっとこわい。というのはいじわるなものの見方だろうか。とはいえ、こわいもんはこわい。真っ裸のヤバいやつはわかりやすくこわいが、身なりの整ったヤバいやつは一見わかりにくく、よりこわい。よりこわ。
 あらゆる人間は、自分自身も含めて、厄介なんだということを知って知りすぎるということはないような気がする。こわくない、というのはウソにしかならない。で、もし、あるとすれば、その先にしか感謝や謙虚はないと思う。畏敬。

 ちょっと知ってる街のぜんぜん知らないビルのぜんぜん知らない投函箱に〆切ギリギリでたどり着く。〆切ってすごい。やる気が出る。

 もののついでで、ようやく『君たちはどう生きるか』を見た。一般2000円にドルビーシネマ+700円でしめて2700円、は、もはやかつての小劇場演劇のチケットの値段を上回るほど(いま目に入る範囲で言えばもう少し平均が高くなっている)であって、そのせいもあってなのか、直前でもぜんぜん好きな席を選べるような状態だったので、文字通り「なんぼのもん」なのかいな、という気分とともにチケットをとってしまった(せめてもの節約で飲み物をドラッグストアで買ったら、客席のドリンクホルダーが500mlペットボトルにギリギリ対応していないサイズで、ちょこんと乗せるかっこうになった。落っこちはしないが、ずっとちょっと斜め。ほんのり不安。私が、というよりなにかその状況全体が、なさけなく思えてきた……)。はたしてドルビーシネマ、最初にドルビー自ら上映するデモンストレーション映像の「客席の背後を高速で移動する光の玉がブンブン言ってる音」が体験としてはマックスで、定位のしっかりした音響、というより先のことはよくわからず(なにしろ劇の出来事は基本的にスクリーンの画角+左右の中で起こるし)、同じ作品をすぐさま平均的な劇場で見比べないことにはちょっとなんとも言えない感じだった、のだけれど、音響のために最適化されているのか、劇場の形自体が球形に近く、妙に劇的で面白かった(一人ずつはっきりと足音が聞こえるのも相まって、サイドの通路から宇宙船のような場内に入ってくるひとが皆、まさに舞台空間へ登場してくるような存在感なのだった)。
 後期宮崎駿作品に対する「俺はこれはわかる」という勝手な気持ち(…この例はさっそく宮崎駿じゃなくて高畑勲だけど『かぐや姫の物語』のワープするシーンなんか、とてもよくわかる。設定やストーリーの脈絡以前の、原初的な感覚でもって、ある世界に生きているものがそのように思ってそのように動く、ということが、アニメーションを通じて納得させられてしまう。)も、そろそろ呆然とするくらい裏切られるのではないかと予想してもみたのだけれど、またしても・まんまと「俺はこれはわかる」と思ってしまったのだった。繋ぎ目はどうにも荒いのだけど。それでかえってやりたいことははっきりしてくるようにも思える。人間の「悪意」。ますます伝えるのが難しいことをやろうとしている。自然や環境、文明や社会ではなくて、はじめて人間をど真ん中にした作品だったように思う。

 ドラクエウォークを続けている。4周年のキャンペーンで登場した新機能、宝の地図(なつかしのドラクエ9のすれ違い通信を踏まえたもの)のなかで「神奈川の明日マニアのホンニャラの地図」というのがプレイヤー間で出回っているようで、何度か目に飛び込んでくる明日マニア明日マニア……「あしたまにあーな」のオープニング曲を歌ってたのは誰なんだろう?とふと思いはじめるとあの歌い出しが頭から離れない。家に帰ってきて調べはじめ、最終的に「Quinka, with a Yawn」にたどり着く(ボーカルの方が脱退して始めたプロジェクト。いまSpotifyで聴ける最新のアルバムは2013年の『さよならトリステス』)。あの元気いっぱい90年代商業ノリと真逆の繊細でグッドな作品つくっててなんだかとてもよかったと思った。頭のなかのメロディ、ちゃんとおさまる。

9/16(土)
 人にある種の態度を要請する、というのは見ようによっちゃとんでもない強欲なのかもしれない。グリード。

 エアコンの壊れたラーメン屋さんでチャーハン食べる。入り口には書いておらず(発見できていなかっただけかもしれない)、券売機に「本日エアコン故障中です」とあって、これ、絶妙に引き返しがたいタイミング。真夏の屋台で食べてるみたいで食欲増進感なきにしもあらず。

9/17(日)
 「ありがたがれなくなった」ことについては、よくもわるくも、と言える……ような気がしている。 pros and consリストを作ってもいいかもしれない。あれなんの略なんだろう。proとcon。

 「"町を守るいいヤクザ"のおはなし」みたいなのはけっこうちゃんとうんざりかも。個々人が応援、賞賛するのはさておくとして、「考察」なあ。それ考察と言えるような代物なんかな。アリの巣観察キットに入れられて断面図見えるように巣を作らされてんのを考察やってますねんなんて自分で言うてたらそら、お笑いぐさやんか。まあでもいちいちこんなん考えずに「げろげろ〜」とか「ええやん〜」とか言って楽しむこともできるわなあ。おーん。阪神ファンのひとたちの複雑な喜び方に歴史を感じる。大脱線。
 
9/18(月)
 ドラッグストアで。あまり広くない通路のちょうど真ん中らへんにしゃがみこんで熱心に商品を見ている日焼けした四、五十代のおじさん。短パン。若作りであるがゆえに、めんどくさそうな気配もある。私は細身とはいえ大きめのリュックを背負っていたので、できれば前後どちらかに動いてほしかったんだけど、おじさんは一歩も動かずしゃがんだまま首だけ回して「通れるだろ」顔をしてきた。その気合いで一体なにを探してるのかとうっかり棚のほうを一瞬見るとコンドームが並んでおり、よけいに堂々としておきたい気持ちになるのもわからなくもないんだけど、そんな堂々たるおじさんのしゃがみ側頭部にリュックの角なんかぶつけた日には厄介この上ない展開だ。堂々もいいが文字通り譲歩して一歩ぐらい動いてほしいものだと思いながらリュックの尻に手をかけて注意深く前を通った。で、実際、通れたんだからおじさんの「通れる」顔も間違っていないけれど、私の注意深さにもちょっと感謝してほしい。果たしておじさんが「通れただろ」顔していたのかどうか、振り返らなかったのでその辺のことはわからない。

9/19(火)
 匿名インターネット界隈に存在する「自分語り」という概念、不思議。こんなもん外国語文化圏にあるのだろうか。「自分語り」があたかも悪であるかのようなムラの掟があり……みたいな気配はすくなくとも友人知人同士の会話や文章でのコミュニケーションにはない、ような気がする。そもそも自分のことを隠したままなんらかのトピックについて核心の部分を話したり書いたりするのは難しいはずだ。匿名ムラの掟と、たとえば店員さんを過剰に店員さん扱いする(名前のない役割だけの人として考える)態度には、なにか共通の短絡があるように思う。「私はだれでもない/だから/お前もだれでもない」そんなわけがない。
 そもそも誰しもがよりよいコミュニケーションを求めているわけではない、とすると腑には落ちるが先はない。

9/20(水)
 「芸能にズルいも何もないね!」(清水ミチコ/『太田上田』)

 夜、自主的にあたたかい紅茶を淹れてしまい、こりゃもう実は秋なのかもしれない。一度くらい手持ち花火大会がやりたい、って前も書いたっけ。でも本気の蚊に襲われそうだ。海にはクラゲ、陸にはヒトスジシマカ、夏の終わりは居場所がない。ひとつところにだらだらしてられない。手持ち花火、手に持ちたい。

9/21(木)
 面白いつもりでつまらない人とか、つまらないのがわかっていてなおつまらない人とか、昔ヤンチャしてましたアピールが漏れ出る人とか、ただいるだけで暴力的に見える人っている。しかしそれ、暴力そのものとはまったく別ものなので、別の形容詞が必要だ。「押しつけがましい」というとまだ心理的に拒否できる感じがするけれど、存在はなにしろ有無を言わさないものなので、もうちょっと差し迫ったところがある。「きちぃ」(きつい、の若者なまりみたいなやつ)的なことですか。
 それと、別につまらない人なんてひとりもいない、というのが本当のところで、ここでいうつまらないというのを正確に言おうとするなら、たぶん、人の話を聞く気がないし人の姿を見る気がない人のことだ。言いたいだけの人。自分だけの人。きちぃですわ。ガチ自戒込めまくり。

9/22(金)
 「くるり」とか「あの」とか「野呂佳代」とか、正しいアクセントが意外なパターンけっこうある。

 目薬をさそうとしたら天井のハエトリグモと目が合った。というのはウソで、見慣れぬ黒いなにかが視界の端に入ったのをよくよく見たらクモだった。深夜、KORG Gadgetでみじかい曲を作ってたら聴きにきた。というのはウソで、再生してたら偶然また出てきた。事実は「クモを二度見た」。

9/23(土)
 ボーロに赤べこの絵が印刷されている。最初は一つずつつまみあげて、どんな絵が描いてあるのか確かめながら食べるのに、だんだん慣れてしまって、なんの気なしに口に運んでしまう。

9/24(日)
 「本来性回帰への欲望」。雨でぼろぼろになった『暇と退屈の倫理学』にむやみに美しい架空の都市が描かれた四季報のしおりが挟まっている。その取り合わせがどうもおかしい。
 とっくにわかっているはずなのに、捏造された本来性("あるべきすがた")は、どうしても人間の欲望をとらえてしまう。自分がコントロールできないことをコントロールしようとするあまりに陥る罠なのではないか。繰り返し蒸し返される全体主義が実際そこらへんにいる個々人の延長線上にあるはずの"全体"にまったく寄与しないのは、ことばのうえで「全体」を握ったことにしてコントロールしたがる個人の欲望に基づかざるを得ないからで、芸術至上主義であろうが権威主義であろうが新自由主義であろうが民族主義であろうが、それは「全体」の描き方の違いでしかなく、"全体"の実相からはほど遠く、いずれも自分の欲望をつかみそこねている点で、地図上の出発地点を勘違いしている点で、ごく簡単に言い換えれば自分の至らなさを自覚していない点で、すでに失敗している、のではないか(長年、彼ら彼女らはその構図を十分わかったうえであえて利益をとるためにそういう言動をとっているものだとわたしは考えていたのだけれど、最近いよいよどうも本気で信じているように見える)。
(また、大枠では個人の自由を支持するような主張を持っていそうなひとであっても、個別のケースにおいて、仲間・内部の権威性を無批判に支え始めてしまうひとは実に多い。そうやって自分自身も支えられる側面があるからだろうと、構図は理解できる。だが……)

 わたしは、わたしは、から始める。いちいち戻る。ひとまずは。

 ラジオ書き起こし記事の文中「ニヤついていた」とあり、想像上のニュアンスを伝える表現としては短く適切であるけれどもその根拠をたどれば絶対にない(だってラジオだから)不思議な存在だ。すごくどうでもいいことを書いてしまった。

9/25(月)
 インボイスに対する反対の意思表示や制度への批判がマスメディアで取り上げられていないのはずいぶんおかしなことだと思う(普段見ないようにしているヤフーニュースをわざわざ見に行ったけれどやはりトップにあげていない)。「心配」や「困惑」といった言葉を使って心情的なストーリーのみに矮小化するべきでもない。おかしなことをおかしいと言わずに済ますのを「穏便」と呼ぶなら、行き着く先は穏やかな破滅でしかない。
 政治について考えたり話したりするのを、つい選挙のときや大事件のときにまとめてしまいがちだけれど、それ以外のときには忌避するような感覚が、結果的によからぬものを助けてしまっていやしまいか。ある程度正しいとされることをまっすぐそのまま言うのは基本的にはあまり面白くない(意外性がない)ことで、かっこわるいものとされてしまいがちなのだけれど、そういう、悪ぶる中学生みたいな美学的な価値判断(自分のなかにもあると言えばある)とは別に、批評的な視点からものを考えることをまず人間の仕事として認めるのがデモクラシーの基礎で、どうやらなるべくろくな大人を育てないように気をつけてきたこの国にはその土台がない、と気づいたのはなんといってもハラスメント事件のあと、当人はもとより周囲のいい年ぶっこいた(十代〜六、七十代の)大人たちの鈍さを目の当たりにしたからだ。伏目がちな小市民としてあらゆることを他人事扱いしてやり過ごして自分の美学に引きこもるのは、端的に、幼稚だ。ドン引きだ。逆にすげえ。品と趣味だけはいい"けもの"じゃないか。人間やめてんなら早めにそう言っといてくれ。と思ったものだ。と時間をおいて書いてみたものの、思ってることはいまもぜんぜん変わっていない。熱量同じ。ともあれ、批判的に見ることの必要性ってどうしてなかなか身に付かないもんだろうか。
 
 なんで「エンタメ」という概念がいまいち好きになれないか考えてみると、ある種の〈病気〉に対する抵抗力がぜんぜんない(ように見える)からだと思う。人間を機能ではかるとどうなるか、もう数多くの失敗例があるのにまだ反省が足りていない。そんなこと言い始めたら、当世風のさまざまなジャンルの「アート」やなんかもだいぶ危なっかしいのだけど……数字やビッグネームに対する疑念を持てない(疑念を持つことが不利益を招くから不合理な選択になってしまう)と、そりゃ抵抗力ゼロである。しかしこの〈病気〉をなんと呼ぶべきか。
 
 名前や立場はかならず力を持つ。一見すると誠実そうな「力を持たないようにする」という心がけや宣言の類はどうしたって失敗に終わる。ほとんどおためごかしと言ってもいい。「力なんてないですよ」「だれも傷つけようとしてません」とはとんだ甘ったれである。そして問題はかならず起こる。

 前段として、

⓪力をただしく使おうとする。

のは、心がけやポリシーのレベルで存在するべき、しかも目に見えるようにしておくべき、だが、しつこく言うけど、問題は起こる。いまの人類がすべての問題を未然に防ぐことはできない。

 したがって、

①間違った力の使い方をする人には、周囲がその力を与えない。
(※力の誤用・濫用に対する「責任」は必ずそのようにとられなければならない。同じ力を与え続けることが周囲の利益となるケースも多いが、それを理由に力を与え続けてしまうことが同じ人物による問題、あるいは同種の問題の再発を招く)
②前項①が達成されるようなルールや環境を整備する。(たとえば事実の確認・公表や力の一時停止あるいは剥奪など。ルールの適用や環境の整備を通じて行えるように準備しておく)

これだけが唯一、問題が起きたときにできる再発防止策で、未来に差し出せる"まだマシな"前例なんじゃないかと、いまの私は思う。
 ⓪の部分に力を込めて飾り立てている人たちにどうも信用がおけないのは、それをよかれと思ってやってればやってるほどに、どうも全体像がわかってらっしゃらなさそうだからで、しかし説明する方法もタイミングもむずかしい。

 「目の前のあなた」or「群衆・大衆・大文字のよきことども」というのは完全に間違った二択であって、そのようなご都合主義の二択を用意して「あなた」へつながるストーリーを選ばせようとするのは、意識的か無意識的かはさておき、詐術の一種だ。この手の物言いはつきつめれば「私(とそれについてくるあなた)だけが真にグッドである」と言ってるようなもんだ。そうした「素朴さ」への回帰は、社会正義へのバックラッシュ、の一言で説明するにはすこし悪質すぎる。(志向そのものを悪と断じることはできないけれど、人類の散々な失敗のあとを生きている人間の一人として、それがもたらす害について冷静に振り返って注意深く避けてもよかろう)。今日そういうことを言い出す原因や言い訳は無数にある(なにしろサブカルチャー、にかぎらずあらゆる種類の小さな山々のボスザル気取りたちがそういう振る舞いをしてきた大量の前例がある)し、だまされたがっている人びとがしばしば進んでだまされるものだけれど、第一そのような語り口を採用している当人自身が罠にはまりこんでいる。気が付かなければ抜け出せまい。両取りしていけばいい。個人のグッドと私たちのグッド。断然いい。そこにない二律背反を言い訳にする必要なんかない。
 同時に、グッドでなきゃならないわけじゃない。ただ、グッドであることをおそるるなかれ。(バッドな過去があってもなくても)

9/26(火)
 めっちゃ変な時間に寝たり起きたりしてしまった。
ニュース記事に「思わず声をあげてしまうような悪臭」とあり、思えば確かにくさいとくさい!って口に出したくなるのはなんでだろう。暑い寒いも外出るたびに言ってる気がするし、そういえば、どっちでもないときも「うわーちょうどいい!」って言ってる。
 それなりに学術的な答えもありそうだがたどり着くまでの検索ワードがむずかしい。つらつら関連するページを眺めていると意外と「聞いててイライラするから暑い寒いをいちいち言うな」派の人がいておっかない(なかには「言うのはスピリチュアル的に損!」とか言い出すものさえいる。どういうスピリット)。こういう人たちが「フワちゃん出てたらチャンネル変えます」とかわざわざ書き込んでるんだろうか(純度100%の偏見)。でも落ち着いて考えるとインターネット上にわざわざ身近なイライラを書き残すのは「暑い寒いをいちいち口に出して言う」以上の害がある気がしないでもない。ずっと残るし。もう見るのはやめにしてQAサイトにあったどこかのだれかのとくに根拠も示されていない説を以下に要約して暫定的な説明としておくことにした:暑いとか寒いとかひとつの言葉にして、いったん外的なストレスの細々した情報を集約することで脳の作業スペース(コンピュータでいうところのメモリ)を空けて、具体的な対策をとる思考や行動をやりやすくしている、のではないか。との説。
 この時間、無為すぎ!?ってここにバナーを表示したほうがいいかもしれない。

9/27(水)
 「お客様が不在nのため」スパムメッセージ。不在より不在nのほうがより不在っぽい。点Pに不在n。

 情報番組がアート紹介と称してひたすら写真映えスポット紹介してる違和感。あれ、なんだろうか。
 でも花を見て美しい、と言っているのとそこまでおおきな差はないのか。花は繁殖するための方法として美しいのだけれど、花は美しい、でも間違ってはいない、のか。(観客としての人類は勝手そのものだ。)
 アンブレラ・スカイについて、もともとポルトガルのPatricia Cunhaによるインスタレーションであるとの説明を省いて、町おこし鯉のぼりみたいに取り扱っているのもなんだか誠実さに欠ける気がしてしまう。想像するに、あくまでアイデアが同じだけ(=法的に保護される表現・著作物ではない)、との判断から日本のあちこちで「〇〇アンブレラスカイ」が設置されているのだろうし、オリジナルに一切言及しないことが商業的ベストアンサーなんだろうけれども、それにしてもオリジナリティのことを気にかけてなさすぎやしないだろうか。仕掛けるサイドは言わないほうがいい、お客さんサイドは考えなくていい……丸ごとよくない循環になってるように見えるし、よりによってそれをアートと呼ぶのは皮肉すぎる。ひたすらフィーリング。(心のなかのアレサ・フランクリンがThink! Think! Think!)

 ぜんぜんもともとの文脈とはかけ離れたことなんだけど、インボイスをめぐるツイート(Xのポスト。とわざわざ書いてみたり)の中に「中小俳優」って言葉を目にして、しみじみとなんかわかるなあと思った。大俳優、中小俳優、零細俳優。音で聞くと赤ちゃんタレントみたいである。

9/28(木)
 このところSwitchのインディーゲーム無料トライアルをまんまとやっていて『Spiritfarer』は作業が繰り返し&忙しすぎるけれどもゲームで死や記憶を取り扱うやり方としてなにか練習になる、というようなところがあった。最後までやる元気が出てきたタイミングでちゃんと買って見届けたい。『Moonlighter』は聖剣伝説っぽい武器持ち替え可能な見下ろし2DアクションRPGとダンジョン探索商人シミュレーションゲームが組み合わさっていて、これまた昼夜忙しい。スマホゲーの"スタミナ"や"ログインボーナス"制度がむしろ現実の生活の側を時間マネジメントゲームにしてしまうのが究極形だと思うけれど、「タスクを絶え間なく/同時並行で与えてとにかく忙しくさせる」のが最近のゲームのよくある作りのようだ。「さまざまなエンターテインメントとの余暇の奪い合い」を戦うための方法論としては理解できるし、ある程度忙しいことではじめて活性化する感覚的な部分がある(たとえば平田オリザの誰でも"自然に"セリフを言えるようにする演出の方法——セリフの途中で聞かれたら時計を読んで答える等等——も、余計な自意識や演技へのかまえを落とせるという側面とはまた別に、タスクが増えることでむしろそれぞれの対象となるものやことばの解像度が上がる現象を引き起こすと思う。あれ、なんでなんだろう)のも確かなんだけど、自分で進んでやっておきながら「やらされている感」と戦いはじめることにもなる。
 本みたいにずっと置いておいて、別のときまた出会うことができる、というゲーム内世界に完結した体験が実はいちばんおいしい部分なんじゃないか、と思いはじめる。毎日やっても、久しぶりにやっても、なにも得がない、ということがむしろよいことである可能性がある。この点で期間限定トライアル自体がまたひとつのタイムマネジメントゲームと化してしまっているので、気になったら買って置いておくのが吉、かもしれないがSwitchの容量はパツパツだ。塊魂のリマスター第二弾も出てるんだよな〜。

9/29(金)
 数年ぶりに学生会館に足を踏み入れる。ある一仕事の区切りを自分なりに祝いに行く。「目的を定めず、この時間、ここにいるから、来てくれたら会えます、という部屋」というのは実にたのしいアイデアで、「その人対自分」の一対一ばかりではなくて、その人がその地のお地蔵さんのようになって、まったく違うところからやってきた人同士が出会う契機にもなる。(お地蔵さんとしての才覚は問われるかもしれないが。)

 ファミレスがさっさと店じまいする2020年以降の大学生はどこで朝までだらだら話すの? って質問したら居酒屋かレンタルスペースなんだそう。レンタルスペース!知恵!しかしだらだらするにも若干の計画性が必要になってきそうだ。

 バナナジュースが名物のお店だったのを、メニュー見て思い出すなどした。わっしょい。飲んだ。一杯200円。十年くらいぶりの再訪だ。氷で冷やしたピーマンにメキシコ的な味わいのひき肉(あたたかい。結果ひやあつ)を乗せて食べるの、おいしかった。ピーマン苦手なので、メキシコ味がちょうどよかった(ひき肉、名前を忘れたので調べた。タコスミート)。メキシコ風はクミンの味、と教えてもらう。台湾風はハッカクの味、メキシコ風はクミンの味。

 活動をみつかりにくくする、というのが、知らないうちにひとつの潮流になっているのかもしれない。と同時に、「コアが出てきてるのがおもしろいんであって、奥底に潜んだコアはおもしろくない」って言葉が率直で、笑ってしまいながら、記憶に残る。素朴の魅力と退屈と危険性。

 いまの私は「観客席が信用できない」(からたぶん)「なにをやったらいいかわからない」、とはっきり言葉を取り出せたのはよかった。そこからやっていくしかない。

 終わりかけの満月を窓越し雲越しに見る。ちょっとだけ見える。

9/30(土)
 苦寒コーヒー店。ガムシロがない。サンドイッチのパンもない。そしてクーラーが効きすぎている。すごい。(ガムシロに関しては注文の前に一言言っておいてほしい。ホット頼むから。)

 radikoで「あなたにオススメ」的な欄に放送大学の「総合人類学としてのヒト学」という番組が出てきたのでながら聞きしてしまった。南太平洋の島々では長い航海に伴う食料の欠乏にも耐えられる人が生き残ってきたことから、いまも"倹約遺伝子"を持つひとが多い(ゆえに十分な食事をとることで現代、肥満体型になるひとも多い)、というのがなんだかすごく納得がいく説明で、興味深かった。

 ねるまえ、頭の上に髪の毛をまとめると階段の天井をかすかにブラッシングしてしまう。

10/1(日)
 十月だ。いっそうぼんやりとしている。「している」を「ひてちる」と打ち込むくらいにぼんやりしている。秋の虫が全力で鳴いている植え込みと、そうでもない植え込みがある。

10/2(月)
 ドリンクバーのコップを手にした瞬間、まったくスピードゆるめずわたしの右腕にぶつかってきた人がいた。白髪混じりのおじさんだ。冷たいドリンク用のガラスコップの割れる音が店じゅうに響き渡る中、おじさんはすこしもスピードをゆるめず歩き去っていった。謝りたくない、とか、俺は悪くない、とか、実はすごくトイレに行きたかった、とか、ケンカになっても勝てそう、とか行動の背景にある物語はいろいろ考えられるのだけれど、あくまで目の前で起きたことに限って考えれば、シンプルに話の通じない頭のおかしいひと、としか思えず、そうなると自分の身の安全のためにもむしろコミュニケーションが発生しないように放っておく、ということになる。不合理! きびきびした店員さんに、心情的には二人分、謝る。店員さんの手際のよさに一層感謝する。

10/3(火)
 頭の回転の速さもその場の空気を一瞬で掌握する力も、使いようによっちゃ邪悪である。本人の「人となり」も関係のないことだ。
 人間は拍手ではなく言葉で応答できる。しかもそういう仕事でしょうが。
 
 「きょうの演劇」というタイトルの文を毎日区切って書き続けているのだけど、日記と並行することで、毎日ふたつの箱が目の前にあらわれるようなところがある。あったこと、思ったことを放り込んでゆく箱。「日記」、「演劇」、それ以外。妙な分類だ。書いているうちにわかったことがあって、どうやら私が「演劇」という表題のもとに書くもの≒「演劇」のようだと感じるものはだいたいが「考えてみる」「やってみる」という形になっている。なにかになりきるとか、没入するとか、笑っちゃうとか、ストーリーにもとづいたイリュージョンを志すのではなくて、ただそのへんに転がっている可能性にトライしようとする、というところになにか、「演劇」を見ようとしているらしい。そうなると、戯曲やセリフというのはあくまでその形式のひとつであって、だが、もしそうじゃない方法があるなら、それはなんだろう。どうすりゃいいのか。

 え、キング牧師って39歳で死んでますのん?

10/4(水)
 いつのまにやら、生きてるうちにサグラダファミリア完成しそうになってた(2026年)。
 
 二十代の頃、共演した先輩俳優が私の年齢を聞いてきて、自然に笑いながら「ああ、まだ辞めれるね」って言った、というエピソードがあって、これを聞いたある友達が真剣に怒り出すまで私はこの一件を失礼かどうかの視点でぜんぜん捉えておらず、むしろ「親切なひとだなあ」と思っていた。あとから冷静に考えるとたしかに才覚を認めた人に向かっていう言葉ではない(100パーセントない)けれど、キミ辞めといたほうがいいよ、じゃなくて、一歩引いたところでわざわざ他人の人生を考えるなんて親切(あえて悪く言えばおせっかい)だと思うし、なにせ結局やめずに続けてる人が言うことなのだから、どこかニヒリスティックな「同病相憐れむ」みたいな気配もある気がしたのだった。
 いずれにせよ、プライドみたいなものとは無関係の部分でどうやら私は不遜なのだ。どうなってもどうにかなると思い込んでいる。タフなのではなくて、たんにプライド方面のアンテナがない。厄介なやつだ。困ったもんだ。そのうちに、うっかり辞めそこねちゃいました、と伝える機会もあるかもしれないが、言ったほうはまず忘れてるだろうし、私は私でぜんぜん忘れてそうだ。
 
 私は私でずいぶん皮肉屋さんだけど最近は個人のちいさく真剣なチョイスに触れるようなことはわざわざ言わない傾向にある。もっとも、本人なりに真剣なつもりでも悪どいやり口については手ひどくやるし、どうにもならない生き死にレベルのことも平気で言ってしまうけど。他人の意志や存在を軽んじない、のは、自分自身にとって重要だ。今。

 「100」って打とうとして入力が〈ひらがな〉になってると「あわわ」になる。スマホタイポシリーズ。