2020/03/18

5才、10才、17才、30才、32才

 ブログ、と言いつつ、すっかり宣伝ばかりの枯れ井戸みたいな場所にしてしまい、マジで長い年月が経った。この期間、お知らせのほかに何も残っていなかった、というのを事後的には記録と言えないこともないが、言えないこともない、なんて言葉遊びのような言葉を持ち出せば、事態は急に大人のおままごとじみてくる。言えないこともない、というのは一見中立の言葉である。言えるとも言えないとも言い切らない。だが明らかに、公正さと誠実さに欠ける。
 大人がおままごとをやっているのを、幼稚園の庭でおままごとをやっていた頃の私は知らなかった。おそろしいことに、見よう見まねでお家ごっこや戦隊ごっこをやっていたのとほんとうに大差なく、大人たちは、何かを分かっている風に、書いたり話したり実際に何かを決定したりしている、と五才の私にわざわざ教えるまでもなく、歯も生え変わって小学四年生になった私は、学校の先生を通じて大人がいかにデタラメかを知ったのだった。その日に行われていたのはクラスの枠を越えて同学年間で交流する国語だかの特別な授業で、数名の輪を作って話し合いをしている最中、手に持った靴か何かでしつこくちょっかいを出してくる同級生を注意したら、こら騒ぐな、とその教室を取り仕切っていた教師から我々に罰が与えられたのだ。お前たち二人は輪から外れよ、と。小学校四年生の語彙で「おかしい」と思ったが、今の私ならこう思う。「まったく公正ではない」。騒ぎを起こした、という理由だけで彼我に等しく罰を与えるならば、すなわち、ちょっかいを出されていても我慢しろ、という間違ったメッセージをクラスの皆に送ることになる。黙れ。調和を乱すな。そうすれば問題は存在しない。センセイ本人や彼をうやまう人びとからすれば、権威や親密さの前で事実は問題にならないのだ。保護者の間でも愛称で呼ばれ何やらありがたがられていたその教師は幸い別のクラスの受け持ちだったので私は小学校をドロップアウトしなくて済んだけれども(いっぽう担任の先生は実にフェアかつフレンドリーな人だった)、そのとき私は悲しみと怒りを感じるとともに、いかなる立場であれ大人たちが必ずしも公正でないこと、評判というものは大してアテにならないこと、かりそめの調和にはしばしば隠れた犠牲が伴っていることを、そういう言語とは全く別の方法で、理解した。17才のときにも、30才のときにも、同じことを、思った。30才のときに言語化した。それは、かつての自分の間違いを振り返ることでもあった。
 大人であれ子供であれ、時に分かってもいないことを分かっているかのように振る舞う、というのは観測可能な科学的事実だ。自分さえよければいい、自分の仲間さえよければいい、分かっている風が通ればいい、取り立てて書くほどでもない実にありふれた態度だ。だがだからそれで構わないということもあるまい。最低限の知性がなければ、想像力が、理想がなければ、人間でいる意味がない。「上から目線」という言葉があるが、私たちの目は地べただけを這っていてはいけない。私は自称リアリストのことが総じて好きじゃない。これこそ"現実"なのだ、という見解を押しつけてくるひとはほんとうの現実の複雑さをどこかで見落としていることをすっかり失念している。失念しているからこそ自信満々でいられる。実際にはひとつの"イズム"にすぎない扁平な"現実"を無神経に追認する。狭い"村"のルール、自分だけのルールを全員に当てはまるものだと勘違いしている。ルールの上でのさもしい最善手を平気で自慢する。理念を夢幻のごとく軽く扱う。損得勘定しかない。恥を知らない。反省がない。歴史に学ばない。バカに見える。救いようがない。人生はゲームじゃない。経験的法則は大いに結構だが処世訓はノーサンキューだ。各々、おそるおそる、オリジナルに、別々に生きていけるようにするために、私と私以外とをどちらも重要視するために、外づらの調和や団結ではなく、公正さと誠実さがあるはずだ。物語も、感動も、興奮も、私たちをひとつにするために存在するわけじゃない。絶えず観察し、思考し、行動し、反省し、てんでバラバラに、勝手に、生きられれば、それでよい、はずなのに。
 いま、私はできるだけ分からないことは分からないと言いたいし、なるべく人によく思われようとしたりしないようにしたい。生き残って、歳をとって、万が一エラくなっても(ならなくても)、間違いや不公正を恥じ入らないような人間になったらどうしようもない。過ちを見過ごしてくれる人ばかり周りに集めるのは論外、だが、わざわざ正してくれる人にも甘えてばかりいられない。




 先日、十七歳のひとに何歳ですか?と聞かれて、三十二歳になりました、と答えたら、見えなーい、って言われた。私が十七歳だった頃、二十六歳と二十八歳と三十二歳と三十四歳の差はぜんぜん分からなかったけどなー、と思いながら、「えー本当にー?」って、言った。最近なにかに真剣になることがばかばかしく思える、というような気持ちのほうがばかばかしく思えてきた。