2021/11/26

「このごろ何してた?」1「黙ってた」

 出演情報ばかり載せるのも味わいがないし、そもそも宣伝目的でブログを開設したわけでもなかったし、と考えはじめると、ここ数年の、当ブログ?のありさまはいったい何だったんだろう、と反省しなければならない。村上春樹の初期の小説にはあからさまに表現にまつわる表現がいくつか出てきたと記憶していて、いずれも〈ぼく〉の友人である〈鼠〉が言うセリフだったように思うのだけれど、黙っているのがクールか、と言えば、もし年中霜取りが必要になる冷凍庫をクールと呼ぶならクールなんだろう、とか、思念でいっぱいになっているにもかかわらず表現する出口を持たないのは、地獄だ、とか、うろ覚えの内容だけをざっくり取り出せばそういう感じ。最低限の誠実さとして、せめて文庫本を引っ張り出して引用するべき場面だと自分でも思うものの、わたしの部屋の本棚は詰め込んだ本の重さで少しずつ横板が広がって棚板が落ち、壊れかけているのだった。この夏、本棚から本を少しずつ出してなんらかの対策をしようとしていたのだけれど、途中でちゃんとやる気を失って、現在はどうにか形を保った本棚の前に大きさもバラバラの本で出来た不安定な塔がいくつか雑然と積み上がっている。季節は冬になろうとしている。(後日、万が一真面目に探すようなことがあれば、ここに引用を挿入する)

 ともあれ、もはや黙っていられないなら、話すか書くか、するしかない。おおきな影響力を持つようになったソーシャル・メディアの中には、黙っているひとはいない。というか、可視化されない。だけど、わたしは、ほんとうは、黙っているひとの言葉を読みたいし聞きたい。それはそれでまったく勝手な話ではある。「空白」「不在」扱いされる黙っているひとたちの言葉や沈黙の代わりに、何が流通するかと言えば、自分の存在や能力や立場や影響力をアピールしたいひとの言葉(あるいはその代弁者による代弁)、いいことを言いたがるひとの言葉、寂しがりのひとの言葉、書き手の想定する大半の人間にとって「よい」「おもしろい」「気分のよい」「役に立つ」「安心できる」「必要な」「広めるべき」出来事や情報…わたしが(あなたが)ほんとうに目にしたいのは、接する必要があるのは、世界の主要な成分は、そういうことだったっけな? という疑問は、たとえばテレビでひたすら情動的な光景をあたかも公に報じる価値のあるニュースであるかのように取り扱っているのを疑わしく思うのと同じくらい、怪しんでおきたい。よかれと思って、どんなことに加担しているのか、いつも考えておきたい、と思う。一見たしかに正しかったことすら、システム上、注目と拡散を巻き起こすちょうどよい刺激物として取り扱われてしまうんだから。たとえば遠くに住んでいるふるい友達に、目的のぼんやりした旅行のついでに会って、ごはんを食べてとくに意味のないことを話すような時間が、圧倒的にない。人間はその身体から切り離された顔と名前と言葉として流通する。閾値を超えず、書かれず、残らないものが、ないものとして取り扱われる。
 だから、逆に今、ブログだ。反逆の長文ブログ。ノット・ソー・ソーシャルだ。正真正銘の不要不急。【拡散希望せず】である。おまけに紙幅はいつまでも尽きない。これといって役に立たず社交的でもなくなんだかよくわからない文章をせっかく書ける場所がこうしてあるのだから、黙っていられない以上は、ともかく書けばよろしい。読むかどうかはこれを目にしてしまったひとに任せればよろしい。仕事でもなく、サービスですらない。もし一人で日記帳に書いているのではその反逆すら見えないので、こうして見えるところに書き残しておく…ことにする。


 来月『何もしない園』という演劇に出演する(ので、その詳細はまた近いうちに掲載するつもり)。「何もしない」というのは実に観念的な言葉で、誰しもたぶん中学生ぐらいまでのあいだに一回は、人間は結局「何もしない」なんてことはできない、とつい考えてしまうんじゃないかしらと思うけれども、特に昨年・今年とCOVID-19の影響でステイホームせざるを得なかった多くのひとにとって「何もしない」は、それぞれの具体的な時間を想起させるような言葉になったんじゃないか。とはいえ「何もしない」という言葉と「何もしない」時間のあいだには大きな隔たりがある。その時間のなかでほんとうに何もしていなかったわけではないのに、「何もしない」としか呼びようがないような気持ちがあった。つまり「何もしない」かどうかを判断する中に、どうやらなぜか呼吸とか鼓動とか食事とかトイレとかゲームとかは含まれていない。それで、いま、表現の中で「何もしない」を取り扱うってどういうことなのか。たとえば「何もしない」ことで「何もしない」を表現することなんてできるだろうか。言葉と時間ぐらい違う。なにしろ『何もしない園』は演劇作品であって、少なくとも現段階では、台本があり、行動を指定するト書きがあり、言わなければならないセリフがあるわけで、出演者はそのタイトルに反して絶えず何かしていなければならないはずだ。私がほんとうに知りたいような、黙っているひとの時間に触れるチャンスははたしてあらわれるのだろうか。それとも「何もしない」と言ってしまいたくなる気分を元手に、あくまで何かをしている様子をアピールするようなことになるのか。もし後者になるならば、すでにそれなりに近しい感覚や思考を持つ人たちの気分の再確認以上のことは起きるだろうか。

 「何もしない」について考えるにあたって、この約二年、それからさらにその前の、ソーシャル・メディア上にほとんど何も書かなくなった一年数ヶ月のあいだ、自分がいったい何をしていたのか、書いてみようと思った。とりとめなく考えごとをしてるだけの人、はほとんど何もしていないように見える、し、そもそも大半の人目に触れない。「何もしない」の裏側に何があるのか、あったのか、記憶や思考のなかをツアーしてみよう。ともかく私は長いこと黙っていた。つづく。