2015/11/28

「石には念がこもっている」説

 ときどき石を拾ってきてしまう。とはいえあくまでときどき、それもよほど何となくが極まっての行動だから、三、四個、海辺で拾ったガラス片と一緒にごろごろと、100円ショップで買った小さな木の皿に乗せてある。あらためて見たり触ったりすることもないから、普段は棚にしまってあって、部屋のあのカーテンの向こうに石がある、ことだけが記憶の中にはある。

 石を拾ってきてはいけない、なぜなら石には念がこもっているからだ、と誰かが誰かに話しているのを小耳に挟んだ。ずいぶん前のことで、それがどういう経緯で話されたのかとかどのくらい真剣な話なのかみたいなことはさっぱりわからないけれども、わからないからかえってその言葉はもうはっきりと決まったことのように思える。それは誰の(何の)どんな念なんだろう。誰がその念の存在を言い伝えたんだろう。最初にそう言い出したのは誰だったんだろう。

 眠りそびれた夜、石はカーテンの向こうにある。そのことは知ってる。何となく拾った石のふるさとはもう忘れてしまったから返しに行くこともできず、果たしてその石たちをこめられた念ごとその辺の道ばたに投げ捨てていいのか、投げ捨てたほうがいいのか、別にこのままでいいのか、わからないまま、真夜中、石と、カーテン越しに、同じ部屋に、横たわっている。

2015/11/20

わざわざ書くようなこと

 わざわざ書くようなことなのか、と思うようなものごとを画面の上で目にする機会は結構あって、それは何故かといえば、わざわざ書く人がいるからだ。

 ところで、書くほどでもないことを書き留める人がいなければ、書くほどでもなかったことは目に見えなくなる。記憶からなくなるかどうかは場合によるので、消える、とまではいえないけれど。忘れるかもしれない。少なくとも、なんとなく、目に見えにくくなる。

 最近、書くほどのことかどうかを考えるのは余計なことだと思うようになった。たいしたことを書く必要はないんじゃないか。
 ブログにしても手紙にしてもメールにしても、何かたいしたことを書きたがっている自分がいて、いま改めてわざわざこんなことを考えているのも、素直な部分からというよりはやっぱり「たいしたこと」を探しているせいで、だから本当はもっと別のことを書けばいい…という判断をしているのも「たいしたこと好み」から出発している。「たいしたもの好みする自分」はたいしたことないことをすぐに消してしまう。そういうわけで、今、消さないで書いておくことにした。
 考えてみれば自分の過ごしている時間の大半はたいしたことないんだから、それを消しちゃうのは親や空気をないことにしているようなものなんじゃないのか、等々、うっかりするとまた何か大したことの話をし始めるかもしれないので、ここで終わっておこう。
 「たいしたもの好み」は油断ならない。おしまい。