2021/12/16

端的にGACKT

  端的に書くと、とそれなりに真面目な文を書き始めようとしたら「端的にGACKT」になってしまって一瞬でちゃんと書く気力が消失したよ!

 iOSの予測はしばしば固有名詞、というか有名人のお名前に甘すぎませんか?せめて知人友人の名前や地名を優先してほしいよ。GACKTさんはぜんぜんいいけど、マジでNGワード指定したい名前いくつかある。って脱線著しいな!稿を改めて書きますわい。

 というレベルのこともブログに書いていくことにします。大変革だ!

2021/11/26

「このごろ何してた?」1「黙ってた」

 出演情報ばかり載せるのも味わいがないし、そもそも宣伝目的でブログを開設したわけでもなかったし、と考えはじめると、ここ数年の、当ブログ?のありさまはいったい何だったんだろう、と反省しなければならない。村上春樹の初期の小説にはあからさまに表現にまつわる表現がいくつか出てきたと記憶していて、いずれも〈ぼく〉の友人である〈鼠〉が言うセリフだったように思うのだけれど、黙っているのがクールか、と言えば、もし年中霜取りが必要になる冷凍庫をクールと呼ぶならクールなんだろう、とか、思念でいっぱいになっているにもかかわらず表現する出口を持たないのは、地獄だ、とか、うろ覚えの内容だけをざっくり取り出せばそういう感じ。最低限の誠実さとして、せめて文庫本を引っ張り出して引用するべき場面だと自分でも思うものの、わたしの部屋の本棚は詰め込んだ本の重さで少しずつ横板が広がって棚板が落ち、壊れかけているのだった。この夏、本棚から本を少しずつ出してなんらかの対策をしようとしていたのだけれど、途中でちゃんとやる気を失って、現在はどうにか形を保った本棚の前に大きさもバラバラの本で出来た不安定な塔がいくつか雑然と積み上がっている。季節は冬になろうとしている。(後日、万が一真面目に探すようなことがあれば、ここに引用を挿入する)

 ともあれ、もはや黙っていられないなら、話すか書くか、するしかない。おおきな影響力を持つようになったソーシャル・メディアの中には、黙っているひとはいない。というか、可視化されない。だけど、わたしは、ほんとうは、黙っているひとの言葉を読みたいし聞きたい。それはそれでまったく勝手な話ではある。「空白」「不在」扱いされる黙っているひとたちの言葉や沈黙の代わりに、何が流通するかと言えば、自分の存在や能力や立場や影響力をアピールしたいひとの言葉(あるいはその代弁者による代弁)、いいことを言いたがるひとの言葉、寂しがりのひとの言葉、書き手の想定する大半の人間にとって「よい」「おもしろい」「気分のよい」「役に立つ」「安心できる」「必要な」「広めるべき」出来事や情報…わたしが(あなたが)ほんとうに目にしたいのは、接する必要があるのは、世界の主要な成分は、そういうことだったっけな? という疑問は、たとえばテレビでひたすら情動的な光景をあたかも公に報じる価値のあるニュースであるかのように取り扱っているのを疑わしく思うのと同じくらい、怪しんでおきたい。よかれと思って、どんなことに加担しているのか、いつも考えておきたい、と思う。一見たしかに正しかったことすら、システム上、注目と拡散を巻き起こすちょうどよい刺激物として取り扱われてしまうんだから。たとえば遠くに住んでいるふるい友達に、目的のぼんやりした旅行のついでに会って、ごはんを食べてとくに意味のないことを話すような時間が、圧倒的にない。人間はその身体から切り離された顔と名前と言葉として流通する。閾値を超えず、書かれず、残らないものが、ないものとして取り扱われる。
 だから、逆に今、ブログだ。反逆の長文ブログ。ノット・ソー・ソーシャルだ。正真正銘の不要不急。【拡散希望せず】である。おまけに紙幅はいつまでも尽きない。これといって役に立たず社交的でもなくなんだかよくわからない文章をせっかく書ける場所がこうしてあるのだから、黙っていられない以上は、ともかく書けばよろしい。読むかどうかはこれを目にしてしまったひとに任せればよろしい。仕事でもなく、サービスですらない。もし一人で日記帳に書いているのではその反逆すら見えないので、こうして見えるところに書き残しておく…ことにする。


 来月『何もしない園』という演劇に出演する(ので、その詳細はまた近いうちに掲載するつもり)。「何もしない」というのは実に観念的な言葉で、誰しもたぶん中学生ぐらいまでのあいだに一回は、人間は結局「何もしない」なんてことはできない、とつい考えてしまうんじゃないかしらと思うけれども、特に昨年・今年とCOVID-19の影響でステイホームせざるを得なかった多くのひとにとって「何もしない」は、それぞれの具体的な時間を想起させるような言葉になったんじゃないか。とはいえ「何もしない」という言葉と「何もしない」時間のあいだには大きな隔たりがある。その時間のなかでほんとうに何もしていなかったわけではないのに、「何もしない」としか呼びようがないような気持ちがあった。つまり「何もしない」かどうかを判断する中に、どうやらなぜか呼吸とか鼓動とか食事とかトイレとかゲームとかは含まれていない。それで、いま、表現の中で「何もしない」を取り扱うってどういうことなのか。たとえば「何もしない」ことで「何もしない」を表現することなんてできるだろうか。言葉と時間ぐらい違う。なにしろ『何もしない園』は演劇作品であって、少なくとも現段階では、台本があり、行動を指定するト書きがあり、言わなければならないセリフがあるわけで、出演者はそのタイトルに反して絶えず何かしていなければならないはずだ。私がほんとうに知りたいような、黙っているひとの時間に触れるチャンスははたしてあらわれるのだろうか。それとも「何もしない」と言ってしまいたくなる気分を元手に、あくまで何かをしている様子をアピールするようなことになるのか。もし後者になるならば、すでにそれなりに近しい感覚や思考を持つ人たちの気分の再確認以上のことは起きるだろうか。

 「何もしない」について考えるにあたって、この約二年、それからさらにその前の、ソーシャル・メディア上にほとんど何も書かなくなった一年数ヶ月のあいだ、自分がいったい何をしていたのか、書いてみようと思った。とりとめなく考えごとをしてるだけの人、はほとんど何もしていないように見える、し、そもそも大半の人目に触れない。「何もしない」の裏側に何があるのか、あったのか、記憶や思考のなかをツアーしてみよう。ともかく私は長いこと黙っていた。つづく。

2021/06/07

グーグルフォーム句会をやってみる

久しぶりに句会を開くことにしました。

集まらずしゃべらずスケジュール合わせずのお気楽スタイル、ということで、グーグルフォームを使って、投句(俳句を作って集める)と選句(集まった俳句を誰が作ったかわからないようにしてそれぞれ選ぶ)をやります。
(メールだと、誰が作ったのかを見ずに編集するのが難しくて…わたしも誰の句かわからない状態を楽しみたい!ので今回はフォームを作ってみました)

参加に必要なのはまず俳句を3つ考えること!
つぎに人の俳句から気に入ったのを3つ選ぶこと!だけです。
投句の〆切はひとまず6/15(火)です。
どうぞお気軽にご参加ください。

参加はこちらから!
https://forms.gle/AEvANNAk91JZCfKF6

【グーグルフォーム句会(2021年の夏)】
○兼題「蛍」「黴(かび)」「枇杷」「青嵐(または夏嵐)」より3句か、それ以上
○投句の〆切:6/15(火)

兼題
・蛍(ほたる)
大螢ゆらりゆらりと通りけり 一茶
親一人子一人螢火光りけり 久保田万太郎
ゆるやかに着てひとと逢ふ螢の夜 桂信子
初めての螢水より火を生じ 上田五千石
じゃんけんで負けて蛍に生まれたの 池田澄子
・黴(かび)
光るもの優勝盃や黴の宿 久米三汀
黴のアルバム母の若さの恐ろしや 中尾寿美子
怠りし聖書の黴を怖れけり 加藤汀子
・枇杷(びわ)
灯や明し独り浴後の琵琶剝けば 石塚友二
枇杷買って舷梯のぼる夜の雨 橋本多佳子
磯の香に峙つ山も枇杷のころ 水原秋桜子
やはらかな紙につつまれ枇杷のあり 篠原梵
・青嵐(あおあらし・せいらん・夏嵐)
長雨の空吹き出だせ青嵐 素堂
青嵐人は山下にありて行く 大谷句仏
鍵かけてわが家の小さき青嵐 尾形不二子
青あらし雲もからすも横向きに 遠井俊二
夏嵐机上の白紙飛び尽くす 正岡子規

2021/01/03

あけましておめでとうございます、からピントはずれて

 おめでとうございます、が、ここまでピンとこない年の始まりって、記憶する限り初めてのことで、自分がバグったゲームの中の登場人物になったみたいです。昨年の後半は本格的に気持ちがふさいでいて、そのトーンに沿って「やりたくないことをやらないように気をつける」を実践すると完全に孤立するレベルだったので、最低限の無理をしましたが、しかしやはり無理を押し通すと元気はますますなくなる。そのうちに最低限も下回って、連絡もろくろく返さず、ずいぶん不義理もしてしまいました。出演情報すらいくつか下書きのままになってしまっており、もはやこれはお仕事として問題あるので、これからすぐに投稿しますが…我ながらまったく困ったもんです。トホホ。トホホって口で言ってる人見たことないな。

2020/07/15

7月じめじめ日記・観客席で観客を演じるということ

 7月初旬、日記のような手紙のような。

 日が暮れるのが遅くなったなー、としみじみ思う頃には、実際のところ夜が長くなり始めているわけで、あまり実感というものを信用しすぎてもいけないように思います。

 と、私なりの時候の挨拶から書き始めてみましたが、決まり文句というのはつくづく楽なものです。考えなくてもよく、(事実に則しているかどうかではなく)大まかに周囲と合っていればよく、そのフレーズを知ってさえいればよい。そういうプロトコルによって何が保証されるのかと考えてみると、「ある知識を持った人間同士であることを、少なくとも装飾できている」程度のことで、昔ならその咄嗟の装飾こそがその人のもつ教養の一端を確実に示していたのかもしれませんが、コピーペーストでとりつくろうことぐらい造作もない今となっては、せいぜい装飾する「つもりがある」、という程度の意義しか見出せないとわたしは思います。検索上位に出てきた時候の挨拶やらビジネスマナー敬語やらをとってつけて送り合うぐらいなら最近あった出来事や思ったことをみじかく書いたり読んだりするほうがよほど愉快でしょう。コピー・ペーストできないことがますます輝いて見えるような気がします。140字で書けず、映えず、バズらず、感涙も爆笑も憤激も落胆もしないような日々のハイライトを、自分でもすぐに忘れてしまうんだけど。

🐥🐥🐥

 数ヶ月ぶりに映画館で映画を見た。COVID-19は無症状でも感染拡大する以上、入り口での検温装置の表示「36.1度」はある程度荒い網目のふるいとしてしか機能しないわけで、どこにいくにしても洗っていない手で目鼻口を触らないとか、人との距離をとるとか、しゃべらないとか、そもそもなるべく人と接触しないとか、とれる策をとっておくぐらいしかできず、あとは実感として確率のはっきりしないギャンブル、ということになりそうだ。そもそも私が生活している国なり自治体なりが「感染ゼロ」を目標としているわけではないのだから、現状とられている対策がもし完全に適切であったとしても(不適切だったとしても、もちろん)、リスクは常にある。そういう状況下で、何を選択して、何を選択しないか。それが人によって、人それぞれの環境によって、感覚によって、きっとぜんぜん違う。
 営業が再開されてしばらく、映画館に行くことと、そのリスク、をわたしの天秤にかけるとリスクのがわに傾いていた(映画館の客席、ではなく、行き帰りの道中のことを考えるとひたすら気が重かった)のだけれど、必要な外出のついでに、いま行けるな、と急に思った。見たい映画が上映中で、映画館まで地下鉄一駅分の歩いて行ける距離まで来ていて、しかも雨はやんでいる。一旦階段を降りて、帰りの地下鉄の改札の前を通り過ぎて、逆側の階段をのぼって、見慣れない街を歩く。

🥚🥚🥚

 家で映画やドラマやその他映像を見ているときに「ちょっと待った!」としか言いようがない気持ちになることがある。納得がいかないとか違和感があるとかいう意味ではなくて、むしろよい・あるいは・よくできた場面に多いのだけど、なんだか見ているこっちがいっぱいいっぱいになってしまうような瞬間に、たとえば、リモコンの一時停止ボタンを押して、冷蔵庫から飲み物を取り出してコップに注いで一口飲んでからまた再生しちゃったり、しようと思えばできる…という状況に置かれていると、必ずそうするわけではないにせよ、純粋な一観客ではない自分が意識の上でふと割り込んでくることになる。映画にしろ演劇にしろダンスにしろ、劇場で見ている限りは、目をつぶろうが最悪トイレに行こうが、わたしのことなどおかまいなしに作品の時間は進み続ける。ところがわたしの家では映像の大半はわたしのコントロール下におかれてしまう。見ないことも止めることも手元ひとつで、ほとんどおとぎばなしの王様みたいな立場である。不意に権力を手にしてしまったわたしはそわそわし始める。わたしは王様、だが王様のご機嫌を伺っているのもわたしだ。どうやらわたしはいまちょっとおやつを食べたがってるみたいだけど、わたしは一旦映像を止めさせるべきだろうか? 結論はどうあれ、その時点でもうすでに気が散っている!
 この数ヶ月、さまざまな映像配信が行われていて、そのいくつかを目にしたりもしたのだけれど、結局わたしはこのそわそわ感を持て余してしまって、大半をまともに見られなかった。はじめから映像作品として作られた映画やドラマやテレビ番組については、習慣として観客でいることをどうにかキープできるのだけれど、なにかの生中継だとか舞台芸術の収録映像を見ていると、映像が写っている画面のこちら側には自分の居場所がまったくないような不安定さを覚えて、足元がぐらつく。わたしが無限に遠ざかってゆく。粗忽長屋状態。再生したのは確かに俺だが、見ている俺はいったいどこの誰なんだ?

🦚🦚🦚

 もともとをあまり知らないので道端を歩いている人の数が多いのかどうかはわからない。ずっとゆるやかにカーブしていて先は見えないが、道なりにまっすぐ。高い建物を目印にすれば地図は必要ない。曇り空からときどき雨粒も落ちてくるが、この数日と比べても涼しくて、歩くのにはよい気候だった。書店兼カフェの窓の向こうには国外にルーツをもつであろう人の姿もちらほらとあり、ずっと住んでいる人かもしれないし、急に帰れなくなったり、帰らないことにしたりしているのかもしれないし…というようなことを、実際の光景を目にするまではなかなか考えないな、と思った。高級ブランドの立ち並ぶ坂をのぼらずに、大通りを進む。わたしの頭の中の地図では、そのまま進めば見覚えのある交差点に出ることになっていたのだけれど、その手前にトンネルがあった。いまだになんとなくトンネルを徒歩で通りたくないのは『マザー2』のお化けのせいだと思う。無事に通り抜けるには陽気な音楽が必要だが、今日はイヤホンを家に忘れてきた。トンネルには入らず歩道からそれて、すっかり有名になってしまった多目的トイレを横目に、階段をのぼる。確かにこの辺はあまり人気がない。
 発券機には他にも並んでいるひとがいて、ほっとした。誰もいない映画館も普段だったら悪くないのだけれど、切実に存続してほしい場所がガラガラでは困る。ロビーは必要以上に涼しげで、しかしじっと座っていられる場所がない。もうチケットは確保したので、上映時刻までシェイクでも飲んで過ごすことにする。映画館から出て、ハンバーガー屋さんに向かう。この辺りはアートナイトで何度か夜通しうろつき倒しているから、と自信を持って歩き出したもののホテルのロビーに出そうになったり地下駐車場に降りていきそうになったりして、一向に見慣れた看板が見当たらない。わたしの自信なんてこの程度なのだから、過信してはいけない。仕切り直して建物の外に出て、地上の歩道から看板の案内にしたがって100パーセント確実に行く。記憶よりも遠い。肩からカバンを一旦下ろしてシャツを脱ぐ。改装工事中。それは看板にも書いておいてちょうだいよ!
 すっかり口がハンバーガーなので来た道を戻って大通りを渡って別のハンバーガー屋さんへ。緑茶とレモネードを合わせた飲み物がめずらしくて、セットドリンクに選んで注文マシンのボタンを押す。会計を済ませて受け取りカウンターに目をやると、女性モデルが緑茶レモネードを激烈に昭和のノリでプッシュしているポスターがでかでかと貼ってあり、あたしゃそういうつもりで選んだわけじゃない…と誰にともなく思わずにいられない。カウンター席には移動可能な透明の間仕切りがいくつも用意されていて、室外機の置かれたベランダに続く窓は換気のために全開になっている。何年か前、あの室外機の脇に大きなオオミズアオを見かけた。人のすくない窓際の席を選んで座る。歩き回ったせいで思いのほか早食いする必要がある。

🦜🦜🦜

 映画を見終えて外に出ると、雲がものすごいスピードで空を流れている、っていう光景までたどり着くつもりで書き始めたんだけど。つづく。