2022/06/22

三週間と三日坊主日記(2)

5/28(土)
 六本木にはぜんぜん行かなかった。家でテレビ見たり、軽い筋肉痛を言い訳にして、だらだら省エネ状態。明日行くかもしれない。

 日記、といえば、「何丘ブログ」をロシアによるウクライナ侵攻以来、定期的に巡回して読んでいる。方々のニュース記事はなにか、戦争から(いまのところ)遠くにいる我々のためにカスタマイズされすぎている、とでも言ったらいいのか、どうも何かが足りない感じがしていたのだけど、特に何丘さん?一家がウクライナを出国するまでの期間の文章を読んでいて思ったのは、地べたからの視点があるかどうかが重要なのかもしれない、ということ。生きている個人に根ざしたものの見方・考え方、が、いま遠ざけられがちなんじゃないか。
 正反対の例として思い浮かぶのはインターネット上に無責任に書き込まれる匿名のコメントで、発信源は(基本的には)生きている個人のはずなのに、文体も内容も複製品になっている。ああいうマナーの文字列(周りの"空気"に毒されてなのか、すっかり平気で顕名で類似のトーンの言葉を並べ立てる人がいるが、マジで信じられない)を見ると、脳になんらかの傷を受けるような気がしてしまう。内容の拙劣さ以上に、結局のところ都合よく現れたり消えたりできる幽霊のようにして、なんの責任も負ってないことが、なんというか、とても、ダメだ。小市民ぶって暴力やハラスメントを温存させようとする言動と同じくらい(実際、似ていると思う)、腹立たしい。理想や未来を持たないのが「本音」なんて考え方はきわめて馬鹿げているし、間違っている。
 ひとびとの個人的な不安を逐一穴埋めする雑駁な"説明"がメディア(マス・ソーシャル共に)上にあふれているのは、多くの人に求められているからなのだろうけど、ほんとうは順序が逆なんじゃないか。安心のために誰かの作った筋書きに自分のこころを当てはめていいのか(ジョーカーは辛い目に遭ったからあんな風になっちゃったとさ……本当にそうか?)。地べたにいる一人の目線を通じて、大きな問題、大きな力のありようを捉え直すと、結局、どちらかといえば、不安になるしかない。むしろ不安に身を投げ出すようにしたい。ただ、どうしても、不安ではある。
 それから日記に話を戻すともう一つ時々読んじゃうのはQJウェブに載ってるテレビのスキマ「きのうのテレビ」だ。ときどきヤフーニュースに転載されては地獄のコメント欄に「日記かよ」と書かれており、あからさまに見当違いなツッコミ風天然ボケだけれど、まさにそこに価値がある、と案外本能的に理解されているのかもしれない。自分より熱心にテレビを見てる人がいる事実に、なぜだか少しホッとしてしまう。終わってしまった番組たち、『勇者ああああ』や『ぼる塾のいいじゃないキッチン』や『マヂカルクリエイターズ』や『有田ジェネレーション(地上波版)』や『あさモヤさまぁ〜ず』のよさについて知っている人が自分のほかにも実在している、という奇妙な実感。それにしたっていちいち「各日付のタイトル」「続きを読む」で2クリック/タップ必要なのが非常にめんどくさい。ページビュー至上主義がヤフーでは地獄のコメント欄を生み出し、QJウェブでは余分なもう1クリックを生み出しているわけで、もう少し人間が幸せになる広告効果の測り方はないんだろうか。これは日記に書くようなことだろうか。
 ここまで三日分書いたのをあんまり深く考えずにブログに転載してしまったので、なんかこう、間違ってよからぬサービス精神的なものが混入してブレてる気がする。ブ(レてる)ログ。

 横井庄一さんの妻・横井美保子さんが亡くなったというニュースを見た。名古屋の横井庄一記念館に行ったときのことを改めて書いておきたい("完全避難マニュアル"的な場所だった…)が、今日はやめとく。
 (ここは後日書き足した→)と言いながら、少しだけ書いてみる。「もしこの海の上を歩いていけるなら一歩ずつ歩いて帰るのに」といつも思って過ごしていたと言っていた、と何度も言っていた横井美保子さんは、そう思ってるときの横井庄一さんの頭の中にはまだいなかったわけで、自分自身は含まれていない思い出(間接的な、そう言っていたのを聞いた体験があればこそだが)を伝え続けること自体「海の上を一歩ずつ歩いていく」みたいな行為だな、と思った。家の中に途方もないスケールの時間があった。本当の住居だった民家を記念館として使っているので、知らない人のおうちの玄関を入って、ふすまを開けると一部屋まるごとが突然ジャングルの土の中に作られた穴蔵(のレプリカ。清潔なプラスチック製)になっている。衝撃的だった。"アート作品づくり"目当てでなく、記憶を物質化する欲望が人にはある。人の記憶の内臓が露出しているようだった。それから、"勇ましい"人びとが横井庄一さんを攻撃していたということはきちんと記憶しておきたい。ひとりのひとが生きのびようとすることよりも「その人の信じる"勇ましさ"」を優先させることのグロテスクさについて、人間はいくら反省しても反省しすぎることがないと思う。戦争にたとえられるようなすべての物事の下で。


5/29(日)
 当日券なし。私のような人間がいっぱいいて、会期のギリギリになってようやく行くなら行かないやら考え始めるから、このような、会期末ギュウギュウ世の中になっている。
 もしそこにじぶんの仕事や使命感があったらさっさと見に行くわけで、〆切ギリギリ見逃しがち問題は要は「行けたら行くわ」だと思う。社交辞令と捉えられがちなフレーズではあるけれども、行けたら行くという気持ちに(基本的には)嘘はない。だからといって行けたら行くという程度の気持ちがそこへ行く原動力になるかというと、もうひとつなにか別のきっかけが必要なのだ。誰かに誘われた、とか、もう終わっちゃう、とか、ついでにその辺を旅行する、とか。それで行けたら行くつもりだった人びとがギリギリに駆け込んで美術館や劇場や閉店の決まった食堂がパツンパツンになる。のでは?
 結局まだ一度も行ったことのない(行けたら行きたい)文学フリマの会場のアクセスの微妙さと終了時刻の早さ(別に早くはない)に思いを馳せる。題字が和田誠風の『ぽてと元年』は買っておきたかった。

 はじめてiPhoneを介した電子決済を店頭で使ってみた。慣れれば便利そうなんだけど、ポイントでお得、便利、そういうものの奴隷になるのってどうなのよ。と現に期間限定の残高を使うためにわざわざモスチキンを買った私が思っていること自体、手遅れ感ある。モスチキンという字はモレスキンに似ている。超どうでもいい。

5/30(月)
スプラトゥーン日記
エリアS+1→S+1
ガチホコS→S+0
ヤグラS→S+0
アサリS→S
 不利な状況で気持ちが追い込まれるとプレイが雑になり、よくない。プレイングの中でも手元というよりは特に判断の分野。台上から降りるタイミングに注意(不利なときは降りずに安全を確保して味方と連携すること)。選択肢の一つ目として真っ直ぐ突っ込む動きが想定されている場面では、左右や壁際のフェイントを意識的に入れておきたい。サブやスペシャルを忘れて撃ち合いに熱中しがちなのも気をつけたい。敵味方のスペシャルを含めたイカランプの把握を身につけたい。

5/31(火)
スプラトゥーン日記
アサリS→S
エリアS+1→S+2
 味方が上手いと思ってると案外自分が上手いし、味方がやばいと思ってるときは実は自分がやばくなってる、という事態はベタだが起こりがち。冷静にプレイすること、連戦で気分が偏ってるときは一旦リフレッシュすること、気をつけたい。

6/1(水)
 試写会へ。以前見た、整音される前の素材とはまったく別物であることが面白い。編集は容赦なく、それがどう作用しているか知るのもとても興味深い。現場だけでも、完成品だけでも、編集の作用を丸ごと見てとることはできないわけで、この体験は作品がつくられていくのに伴走することのよさだと思った。私個人に限って言えば撮影時の記憶と完成時で比べたとき、どう考えても編集にめちゃくちゃ助けられている。技術チームの技術は私の目から見るとときどき魔法みたいだ。ラッシュ時とはいわゆる"オチ"の部分が大きく変わっていて、セリフや存在(不在)で見せる演劇と、画面と音で見せる映像の差のことを思った。これは映画だと思った。カットされていたシーンのいくつかは舞台作品であればおそらく肝になる場面だったのが、とても象徴的に思えた。
 ところで、闇の中で酔っ払って反動的になるのは、それはそれで法に触れなきゃひとの勝手だが、私の基準では、だめだ。(たとえば誰かの悪口なんかを介して)ホモソーシャル的に結託したところで、その場にほんとうの個人の自由なんてない。酒場だろうがソーシャルメディアだろうが。みっともないし。面倒だけど、あえて逆らっておくことにするけど、私はそのうちそういう集まりにはそもそも行かなくなるのかもしれない。おのずと醸成される"空気"を仲間意識とすり替えてしまわないように。私の本音はあくまで理想の側にある。人間の本音を低く見積もることぐらいおろかなことがあるだろうか。他人は他人である。愛は計り知れない。悲しみを即座に解消しようとするのは危険なことだ。溢れそうになったらそっとこぼしてほしい。私は自分の怒りや悲しみをもって、誰かの怒りや悲しみを受け止めたい。連帯は、孤独な作業だ。雑に扱ってくる奴のことだけは雑に扱う。弱い立場の人間を犠牲に、結託したりキレたりハラスメントしたり殴ったり戦争したりするのはノーサンキュー。
 逆向きの電車を見送ってから、一本遅い電車で帰る。そういう選択をするのも久しぶりだ。私はおしゃべりが大好き。

6/2(木)
 とにかく長く寝る。「趣味のよさは疑ってかかるべし」という30歳以降、徐々に出来上がりつつある私の妙な判断基準をもう少しくわしく言語化したい。急いでないので今ではないが。
 ジャンル問わず営業力が高い人を見かけるたびに本当にすごいと思う。私のような、営業する価値がそこまでないであろう人間にまでその力を発揮してる人のことは、ぐっと親しみを感じるというのとはまた違って、なんというか、すこし遠くに置いて尊敬してしまう。「ひとをただの頭数扱いせずに、必要なものとして扱う」ってとても大事なことで、それが自動的な習慣であろうが、意識的な振る舞いだろうが、得難く、ありがたいのは間違いない。
 文章の書かれ方について書かれた文章をソーシャルメディアの上でしばしば目にするんだけど、たとえば「よさは自意識を捨てた先にある」とか「余分に装飾的で難しい語彙を使わず、まずは論理を確認し直せ」とか……どちらかというと悪い例を目にしたときに書き込みたくなるんじゃないかと想像してしまう。そして今書いているこれは、いかにもそういった人たちのなにか言いたさを刺激するようなシロモノになっているのではないか。なんつって。自意識と余分な装飾だらけである、ということを含めて、ガードはもう下げることにしている。面倒であることを隠すと、結局より面倒なことになるのだ。便利なやつだと思われる生存戦略があるのもわかるけど、貫徹した上で復讐できる人が選べばよろしい。私にはそういう志はない。私は面倒。
 先日ふと自分の口から出た「プロフェッショナルなフレンドリーさ」という言葉を反芻して、あとから結構ゾッとした。私は自分にはそれが上手くできないので、基本的に「褒め」のスタンスから出てきてはいるのだが、響きとしてはおそろしく残酷だ。そう評される誰かよりも、そう口にする世界観の持ち主のキツさよ。と思った。あたしだよ。にしおかすみこだよ(←消すか迷ったが、書かないとこのくだらなさは永遠に消える)。

6/3(金)
 二駅分歩いてファストフードのモーニングをテイクアウトするつもりが時間を過ぎていたので甘味で涼む。100円ショップで必要なもの/必要ではないがあったらよさそうなもの/自分には絶対に必要ないものたちを、それぞれに応じた興味をもってぐるぐる見て回るのはなんであんなに面白いんだろうか。思いもよらないものがある。前回はプラスチックに書けるボールペンを買って、アンケートに答えるとポテトSがもらえるレシートに番号を書いて(必要なもの)、ボトルガムのフチにちいさく「プラスチックにも書ける!」と書いたっきり(必要ではないがあったらよさそうなもの)、特に使っていない。

6/4(土)
 K監督短編上映会のため渋谷へ。駅前、なんだかよくわからないチラシをもった集団(おそらくYouTube的な仕掛け)にぶつからないよう歩いていると、勢いよく駅方面へ向かう男性にすれ違いざま思いっきり靴の端を蹴っ飛ばされそうになる。おなじみの光景に、やや疎外感をおぼえる。私(はここにいるが)が、そこにいるかもしれない、とはもはや思えない感じ。トークにAさんOさん、会えばついついはしゃいでしまう愉快なひとたち大集合なので、行ってきた。トーク自体はK監督が徹底的に嘘をついていないのがハイライトだった。嘘をつかないようにするのは難しい。多くの人前ならなおさら。
 二つの短編映画にはそれぞれ、まず写真の美しさがあって、短い小説のようなマジカルな展開があって、それに無理なくついていける人間の動き(と言葉)があって、音も予感を誘導しすぎず抑制が効いていて、思いもよらない遠いところに連れて行かれるようだった。
 作中「突如裏切り/去っていく女」というモチーフが多くて、人間観、女性観、のことがなんだか気になった。そんなに絶望しなくても……と思うのは私が未だ甘っちょろいだけかもしれない。村上春樹の長編に出てくる女性のことを想起した。見た作品とは直接関係ないが、「謎の女」は一見自由に見えるが、あまり主体的とは言えないよな、というようなことを思った(「謎の女」は結局"謎めいて見られる"ために物語の上に置かれる。ときに男性が「去られた」被害者的な位置を占めるためのパーツになっていることもある。生きたキャラクターであれば瞬間瞬間どこかで反逆するほかあるまい)。Oさんは典型的な「赤い服の女」にはならずに、お茶目なところと冷たいところ、つまり個別のよいところが出ていた。Aさんは「器用である、ゆえに何を考えているのかわからない」というような人間のおそろしさをもちながら観客のやりきれなさを部分的に引き受けるという、複雑な役割を果たしていた。技巧と人間味。
 アートの技術と人間観は結局ぜんぜん別なのだが、それゆえになるべく気にしない派の人とそれゆえにどうしても気になる派の人がいるんじゃないだろうか。私は後者。技術があればあるほど、気になりはじめる。すごく昔、舞台『cocoon』を見たときに考えたことを反芻したりする(私は泣ければオーケーなのか?……感情を揺さぶり動かす技法が確かだとして、それは何のために使われるのか? ある一瞬、たしかに心を動かす歌声が耐え難くうるさいと感じた)。
 AさんOさんだけでなくMさんとも久しぶりに喋れてハッピーだった(Mさんの体現している役柄もとてもよかった)。Oさんの"ユーミンはドラムのことを"ラム(↘︎頭高型)"と発音する"というニュアンスを理解するのにひどく時間がかかったのが最もくだらない瞬間、かつ、この日一番の反省点だった。Kさんとも一言しゃべった。

 なんとなく渋谷を去るのが名残惜しく、路地をダラダラ歩いてからTOHOシネマズで『犬王』を見た。歴史として書き残されなかった時間、人物をフィクションの力で描き上げる、という根本的なよさはあったと思うんだけど、なればこそネームバリューで見る作品ではないというか、なんかアンビバレンツな気分。いくつかの個別のシーンにはもってかれた(屋根に雨が当たって建物の形がだんだん見えて来る場面の鮮やかさや、一番になりたいという空虚な欲求/妖怪にとりつかれた人間が誰にも見られていない瞬間にリアリスティックに破裂するおそろしさ!)。他方、ボヘミアン・ラプソディのようであること、最重要な歌唱シーンの音楽がほぼ完全に西洋のロックミュージック調であることが(いわゆるサントラはビシっと来ていたので、"ロックオペラ"になる前までの序盤中盤ワクワクがすごかった)、気になった。フィクションを通じて室町時代を描くにあたって西洋音楽がチョイスされていてもまったくグッドなのだけれど、それが当時の観客が感じていたかもしれない刺激的な面白さの翻案としてはわたしには感じられず(現代の観客のひとり:私が刺激的だとは感じなかった)、既視感のある何か、何かに似た何かに見えて、その選択の理由を探しはじめてしまったように思う。
 アニメーションはもし描かれ・配置されなければそこに何もない、というのがやっぱりとんでもない。見ている側としては、違和感との付き合い方がどこか違ってくるような気がする。もともとそこにあったもの、たまたま写り込んでしまったものが面白かった、という事後の目線が想定されうる実写の場合とは違って、すべては意図的で人工的であるわけで、ではなぜそのように表現されたのか? が直感されるかどうかで感じ方がおおきく変わるんじゃないかしら。理屈があろうがなかろうが。序盤の、音で見える風景の描かれ方はとても面白かった。すでにある何かのように見えることで中盤はぼんやりした。しかし映画館で見た(集中せざるを得ない)ことで、最後は何か無理やりにでも納得させられるようなところもあった。それぞれの声はとてもよかった。帰り道、今年初のサンダルは意外と軽い。バスはもうないので電車に乗る。

スプラトゥーン日記
ガチホコS+1→S+0
エリアS+2→S+3
アサリS→S+0→S
 やはり打開の部分が課題。自チームに有利な状況では自ずと効果的なプレイが出やすいが、一旦押し込まれた場合に52ガロンベッチューのサブはボムではないので、考えて動かないと相手の有利を崩すのが難しい。まず台上でぼやぼや死なないようにすることが大事。ギャンブルする前にせめて確率を上げるように、スペシャルをためつつ味方とタイミングを合わせるようにしたい。とくに試合終盤の不利はこちらの選択肢が限られるため相手方の対処は容易になる。そもそも試合終盤が不利にならないようにうかつなデスを避けたい。射程内では撃ち合いに強いブキなので、初動、イーブンで撃ち負けないようにしたい。カバーし合えるように、味方の位置を把握したい。

 出かけている最中、『ダブル』がWOWOWで放送されていた。一瞬出ているはず(カットになってないといいな…)、後ほど録画を確認しよう。かぶりものをかぶるお仕事シリーズ。第一話なので8月末まで無料でオンデマンドでみられるらしい。

6/5(日)
 かなり古いデジカメやビデオカメラの整理。2000年代(ゼロ年代)のテクノロジーはトイカメラ化しつつある。単純な画素数や手ぶれ補正の有無などの機能でいえばiPhone以下だけど、これはこれで、という味わいと、いざ壊れちゃったりしても仕方ないか、という手軽さとが、早くも出てきている。それぞれのカメラに入れっぱなしだったコンパクトフラッシュとかメモリースティックとかSDカードからデータを読み出していると、前の前に住んでいた家や家族や犬や私が写った写真に混じって、どう考えても自分が行ってない場所の写真が出てきた。空港、石造りの、ヨーロッパ風の建物、ショパンの墓、看板に書かれているのはフランス語、すなわちどうやらこれはフランスの旅を記録したものっぽい……といったところでこれが怪奇現象でなく、また私が見知らぬ人のメモリーを泥棒したというのでもなくて、誰のいつ頃撮った写真なのかはわかったのだが、なんで私の手元にあるのかはわからないままだった。できれば返したいものだが、何かのついでに、という機会はおそらくない。今や使い道の想像がつかない512MBのコンパクトフラッシュを、お返ししますので(会いましょう、とか、ご住所お伝え下さい、とか)……と連絡するのもなんというか、まるで自分が別のことを考えて連絡してるみたいな感じがして、ちょっとやだ。なんてのも自分の側の単なるわがままでしかないので、本来こんな風になる前にひとつひとつ返すべしだ。私の部屋にはいろんな人から「借りパク」状態になっているものがいくつかあって、CD棚の一角にまとめてあるのだった。我ながらだらしない。気まずい「怠惰の罪」の棚だ。その罰に、とは言えないが、うちにあるラーメンズDVDボックスには誰かに「借りパク」された一枚分の空きがある。

6/6(月)
スプラトゥーン日記
エリアS+3
ガチホコS+0→S+1→S+0
ヤグラS+0→S+1
 カウントを進めるにあたって確保すべきポイントを狙う、という意識づけができて、動く指針ができてきたように思う。イーブンな初動で迷った状態から撃ち合いに入ってやられるケースが多いので、自分なりの定石を作るのはどうだろうか。迷うと遅れる。味方のカバーをもう少しこなしたいし、チームの他のプレイヤーの位置も利用して有利なポジションを作る動きをしたい。
 コツコツやるとなんでも上手くはなる、というのがここ2年弱スプラトゥーンを続けてきた実感で、そんならもっと意味のあることをやって上達すりゃいいじゃない、というようなことをもしだれかに言われたら、うん、本当にそうだ。と言ってしまう。Xまで行ったら別のものを一から習得しよう。

6/7(火)
 歯医者さん定期検診。今回は助手の方のチェック&クリーニングが100%で、先生はマスク越しの顔しか見てない(「そのTシャツいいね、どこで買ったの?」)のだが、これはこれで信用がある。とも言える。
 昼、家ではなかなか食べる機会がない、ということで冷やし揚げ餅そばを選ぶ。ノーマスクで延々としゃべってるギラついたオジサンと若い女性二人がすぐ横の席にいて、しかもどうやら彼のトークテーマはマスクをすることのばかばかしさ、のようで、なんか、すごく嫌だった。諸外国ではマスクをつけていない場面も多いようだし、いまや大したリスクではないと考える人も出てくるだろうけど、少なくとも屋内で会話する際はまだマスク着用が推奨されているし、逆の立場でマスクしてって言いづらいだろうし、マスクしないおじさんを前に自分がただマスクするにも気をつかうだろうし、立場に甘えてひたすら鈍感。それじゃ仕事でほんとうに必要な情報を伝達できないんじゃないの、と思った。余計な想像だ。かくして外食のたびに要らないストレス(とちょっとしたリスク)を負うのである。そんなら私は行かなきゃいいやで済む話だが、なんといってもお店をやってる人たちが大変だ。一通り学校に通った経験をもってすれば、ひとりの大人は科学と他者の自由から逆算して行動の指針を作れるはずで、空気のことしか考えなくなっちゃうのはなんでなのかしらね。金と空気以外の判断基準、と言ったところで出てくるのは地位と知名度だろうか。地獄。これも余計な想像。
 レジ付近でdポイント貯まる使えるとの案内が流れている中、「すみません、当店、Tポイントは取り扱ってません」と店員さんのクールな声が聞こえる。当然起こる事故だ。こうなったらイーポイントとかピーポイントとか韻踏みつつ増やして徹底的に世の中のレジの周りを混乱させればいいと思う。そば湯とそば茶をがぶがぶ飲む。

6/8(水)
 早寝早起き。日記を書くことにだんだんと慣れてきた一方で、これをわざわざアップロードすることへの疑問はますます大きく、最初の三日間以降の日記はこうしてメモ帳にたまっていくのだった。結局きっかけがなきゃ何もしない、という点で、私は一人で完結するプロジェクトをこなすのにつくづく向いていない。誰かの手助けをする、というのが解決策のひとつで、それ以外に自分で何かやるとなれば、折々に人の目や人の手を借りることが必要なのだが、人の目や手や時間は年々貴重さを増している、ような感じがしている。おいそれと話しかけられない気がしてくるのはなんでなんだろう。そんなんだから日記を書き始めているのかもしれないが、それにしたって、なんでなんだろう。時間感覚、死との距離感、それぞれの生活。
 一人でやるには、自分で自分に〆切を作るしかない(日記という仕組みは、暫定的な〆切をもたらす)。生き物はいずれ死ぬ。〆切。と呼べるほど切迫してないのが問題。

6/9(木)
 私の部屋には「音の出るものボックス」があって、椅子として使える強度の箱の中に、主に叩いたらいい音のするものが詰め込まれているのだが、用事があって(だいたいケーブルやドラムスティックを探しているとき)開けると、とてもいい音がする。わざわざトイトロニカを自作せずともその一瞬でけっこう満足してしまう。私はけっこう簡単に満足してしまいがちだ。

6/10(金)
 ホームセンターに行って木材を買い、指定の長さでカットしてもらう。長らく放置していたぶっ壊れ本棚を補強して建て直すため。ネジにはものすごくたくさんの種類があり、そのすべてに需要があって、誰かに探されている。専門知識がないのでそのうちの一袋を適当に買う。ペットコーナーを見てから帰る。昼過ぎの動物の仔たちは眠そう。「ちょっとかわいそう」だから買うというような人間の心理は昔から一貫してあるんだろう(「功徳になりますよ!」)けど、ケージの隙間から外の私やキャットタワーに手を伸ばし続けるロシアンブルーを見て、この仕組みはなんなんだろう、と思った。

6/11(土)
 毎週土曜は山形の加茂水族館がクラゲのオールナイト中継配信をやっている。それを見ていたせいか、あるいは札幌の動物園のハイエナの動画を最近見たせいか、明確な理由がわからないのがブラックボックス化したアルゴリズムのこわいところだけど、YouTubeのおすすめにMonterey Bay Aquarium(モントレー湾水族館、カリフォルニア州)のラッコの水槽の中継が出てきて、見る。最初たまたま何もいないように見えたが、しばらくすると数頭のラッコが現れて水面をスイスイ左右に泳ぎ回る。ときどき陸に上がったり潜ったり丸まって縦に回転したりする。背泳ぎだからなのか、わざとなのか、ラッコ同士がぶつかったりもする。水面下、水槽のなかには立派なケルプがあるようだ。ずいぶん昔、リニューアル前の薄暗いサンシャイン水族館にはラッコがいて、私が水槽の前を右往左往するとそれにピッタリ泳いでついてくるのが妙にかわいらしかった。今のサンシャイン水族館にラッコはいない。日本ではラッコの見られる水族館はずいぶん少なくなっていると何かで読んだ記憶があるが、その時々に偶然出会うのがぜんぜん当たり前ではない。行った半年後に閉館した犬吠埼のピンクの壁の水族館にいたイルカ(水槽の水が濁っていた)やウミガメ(見たことのないほど吊り上がった目で一点を見つめていた)は今どうしてるんだろうか。岩場に開いた穴はトンネル状になっていて、そこからラッコが上がったり水中に戻ったりしている。岩場にはケルプを模した形の鮮やかな緑の布が置いてあって、ラッコが自ら器用にくるまっている。明かりはどうやら太陽光らしく時間と共に色味と影が少しずつ変わっていく。
 モントレー湾水族館、行ってみたい場所リストに入れた。グーグルマップに細々と行ってみたい場所リストを作っている。カリフォルニア州ではスヌーピー・ホーム・アイスに続いて2ヶ所目。ってハリウッドとか天文台とか、もっとなんかあるでしょうよ……でもハリウッドの文字列看板を観光してもな。ラッコの絵文字があるなんて知らなかった🦦

6/12(日)
 日記なのに「きのう、」で書き出すのはおかしなことなんだけど、きのう、ようやく壊れた本棚を立て直した。まず空っぽにして(床は本だらけ)、扉を外し、床に寝かせて(粘着テープでくっついている天井つっぱり棒が本の山に引っかかりまくる)、棚板と同じ長さの木材(1×2のSPF材、764mm)を背面にT字金具(60×60mmのものだと木材側のネジ穴がひとつ機能しなくなるので、80×80mmにすればよかった)で横板に固定して補強し、扉があまりに重いのでしばしやる気をなくし、休憩し、水を飲み、扉を捨てることを決意したのち、耐震グッズを挟み込んで元の位置に立てた。数年ぶりに本棚が壊れていない! 壊れたけど直った! という喜びは自然と湧き上がってくるが、冷静に判断して、この数年のやる気のなさはすごかった。よくぞ現実世界に戻ってこれた、という感じ。いざやろうと思ったら二日で出来ることを延々と先送りしておいてしまった。壊れた本棚を直すことがドラマチックになるほどのやる気のなさだった。
 今までは大きさで本を並べていたので、テーマごとに並べることにしよう、と思ったところでエネルギーが切れたので、まだ本棚は空っぽ。
 ……と、ここまでを早朝、隣家の仏壇のおりんの音を聞きながらトイレで書いた。

6/13(月)
 遅刻する人のために文字はあり、映像はあるのではないか。たとえば私のことだ。きわめて適当なことを書いてみた。もういっそ時間のずれたことをやっていったほうがいいかもしれない。共時性のないひとりぼっち。遅刻常習犯から、「いま、ここ、わたし」じゃない未来に向けて。書き置き。ボイジャー号のゴールデンレコード。受け取る宇宙人からすると、本当に全然いらないかもしれない、ということは一旦考えないでおく。
 本棚に「映像」「詩・俳句」「舞台芸術」「考える」「楽しい」「友だち」のコーナーを作って少しずつ本を入れたところで満足してしまった(とくに「楽しい」のコーナー)。棚とは別に「未読」「誰かにあげるか売る」「思い出」の山を作っている。「未読」の山、高し。「誰かにあげる」目処はない。「思い出」はまたあとでいつか誰かが捨てることになるわけだけど、今はそのときでないからそう呼ばれる。
 作業中、もし自分が一冊の本だとして、どこに置かれて誰に読まれるものなのか? とスマホのメモに書きつけたが、答えはない。というかあんまり真剣に考えてない。書いてみただけだ。バックパッカーが旅先の宿に捨てて行ったっきり、誰にとっても扱いに困る遺失物としてフロントのカウンターの中で埃をかぶっており……みたいなストーリーを考えて、やっぱりその真剣じゃなさが自分でも気になる。決意のない自虐みたいなのが、なんか気になる。
 人間目線で理想的なのって、誰かから誰かへ、ささやかにプレゼントされて、何度も読み返されて大事にされるような本だろうな。本目線だったらわかんないけど。
 「AIが意志をもった!」という記事を途中まで読み進めて、anthropolomorphize(擬人化する)という動詞を知る。アンスロポロモーファイズ!

 横山翔一監督・山本健介脚本の『グッドバイ、バッドマガジンズ』がゆうばりファンタスティック映画祭で上映されるとの速報あり。続報やら特報やらを待つ。(これは、ニュースサイトだったら「【PR】」って入れるやつですね。)

6/14(火)

 100円ショップから布屋さんに移動して、本棚用のカーテンのための品物を揃える。つっぱり棒、かもいフック×2、カーテン用スライドリング2袋、気に入った色のシーチング2m。厳密にはサイズの合っていない布をテキトーに折り曲げて本棚の前にぶら下げる……というところまでは来た。いくつかのメッセージをやりとり。人と会ったり言葉を交わしたりするたびに長いこと無風で漂流していたような感じがする。ソファで寝てしまった。眠いので明日書こう。(←実際、次の日に書き直した)
 通りがかりに、ユニクロで村上春樹TシャツMサイズが一枚だけ棚にあって、500円に値下げしてあった。発売を知ったときに迷って買ってなかった『1973年のピンボール』のだ。買った。
 佐々木マキの絵を見ると、なぜか小学校の図書室を思い出す。

6/15(水)
スプラトゥーン日記
エリアS+3→S+3
ヤグラS+1→S+2
アサリS→A+→A
 アサリ、まさかのA落ち。この日はフジツボでの勝率が極端に悪く、戦い方のコツがわかってないのかと考えてみたが、通算ではそこそこ(やや勝ち越し)なので、ランク落ちに伴ってプレイが雑になってるメンタルコントロールの問題が大きいかもしれない。

 日記をおやすみしたいときにスプラトゥーン日記を書いてる気がする。でもスプラトゥーンがいいのは義務にならないところ。やってもやらなくてもいい(のにやる)のがゲームの楽しさ。自由なのにわざわざルールを設けて創意工夫する、という人間のおかしさ。ゲームが義務になったらちょっとしんどい。スマホの無料ゲームの多くは、毎日ログイン/プレイすることが決定的な差を生む仕組みになっているけど、(ゲームの楽しみによってではなく、)コンコルド効果などなどである程度計算が立つ程度には心理的に人を縛りつけておきたい、というビジネス的な目論見を感じずにいるのは難しい。じゃあやらないかといえば、一時的に楽しくやるんだけども、自由とルールを行き来するワクワクはない。義務ゲーム、ゲーム義務。
 ところで演技をするのは行きがかり上やらなきゃいけなくなっても面白い。なぜか? やらざるを得ないからといって、面白さの質が落ちるわけでもない。その違いについて考えると、演技の側にはルールがあるようでない、ということがある。たとえば二週間同じ演技をする、というのは二週間同じゲームをやるのと比べるとあまりにも難しすぎる(再現性が低い)。そこまで極端な例でなくとも、そもそも人は同じことを二回できない。したがってゲーム外のルールを自分で決めることになる。そのルールづくりの部分に思いもよらない自由がある。レースサーキットの形は決まってるけど、走路はドライバーが選べる。水が流れる流路を設計する自由。ある順番、あるタイミング、あるニュアンスで、ある言葉を言ったり、ある動作をしたりする、という決まり(脚本と演出)の中、どうやって自由にやるのか? ということが掴めれば、何度でも楽しい。そこがないと、繰り返しの作業になってファーストタッチからどんどん新鮮さが失われていく。
 「どうやって効果的にやるのか?」にしたらより"プロフェッショナル"なんだろうけど、私の場合、そっちにシフトすると「理想的な正解ゴースト」や「うまくいった自分のゴースト」を追いかけてしまう、というか、追いかけているつもりでゴーストに追いたてられている。さらには自分が「効果的」と思うこと自体、微妙にズレてる可能性はぜんぜんあって、最終的に効果は外部(脚本、演出、編集)で計算されたし、という側面もある。「どうやって自由にやるのか?」というのはとても抽象的な言葉だけれど、自分なりのルールづくりには必要な観点だ。「そこに犬がいる」の説得力に近づくような、ルールのなかのルールづくり。追い立てられながら自由でいること。
 あとは、終わりがはっきりしている、ってこともある。無限に続く演技は(演技というものを人間の一生レベルで捉える場合を別にすれば)、ない。

6/16(木)
 カツカレーはおいしい。おじいさんになったらカロリー過多でなかなか食べにくいだろうけど、何歳まで食べるんだろうか私はカツカレーを、と思った。

6/17(金)
スプラトゥーン日記
エリアS+3→S+2
ヤグラS+2→S+1
 そこそこ健闘しつつも逆転されるケースが多かった。全体的に正面から撃ち合って勝ったり負けたり、ということが多い。味方と挟む動きを意識的に入れたいが、裏抜けしにくいステージ(モズクなど)だと効果的な動きが見つけにくく漫然と戦ってしまいがちだ。金網・塗れないゾーンのあるステージの動きが直感的なギャンブルになりやすい。ゲームの勝利条件:各ルールのカウントを進めて相手チームのカウントより上回る→カウントを取る(あるいは進ませない)ためのポジションを確保する→ポジションを取るために必要な箇所をクリアリングする/スペシャルを使う/塗り状況を整える/潜伏撃ちから人数有利の状況を作り出す、等々、逆算して意味のあるプレイをしたい。

 金曜ロードショーで見たトイ・ストーリー3はやっぱりとてもよくできていて、シリーズを通じて人間を見つめるおもちゃの目線を丁寧に確保してきたことがラストシーンを何倍か効果的なものにしている。今更ながら実写でも2Dアニメーションでもなくツルッとした3Dであることがおもちゃを描写するのにピッタシだと感心しちゃう。4はどうやらネット記事で「賛否が〜」と書かれるタイプの作品らしい(そういう書き方は本当にまったく意味がないので誰かひとりの目線をきちんと伝えるべきだと思う)が、とても面白かった記憶がある。やがて消えゆく人やモノが自分で自分のことを決める、ってことのかけがえのなさは、1〜3では描けない内容で、まぜっ返すような言葉を使うなら「大人」って言えなくもないんだろうけど、大事なのはもちろん大人か子供かってことではない。
 MOTHER3やトイ・ストーリー4は幸福なシリーズの最後、大団円のその後にやってくる「自由」がほろ苦いんだけど、フィクションのなかの登場人物を感傷のために都合よく使い尽くすわけじゃない、と思わされる複雑さがあって、キャラクターたちに自由になってもらうことがどこか、作り手の使命になっているような感じがして、私の心の目がぐっと追いかけてしまう。フィクションと「消費」の関係に対して私はそこまでドライになれず、「感動」でも「考えさせられる」でもない「自由」のよさは大事なんじゃないかと思っている。

 23:59までが視聴期限だと思っていた見逃し配信がチケット購入時刻の二週間後まで(=23時6分)となっており、見ている途中で唐突に配信終了してしまった…。画餅……。八木光太郎さんはどこで見てもなんかいつもいいのはなんでなんだろう。ぜんぜんイヤじゃない大きい声を出している人ってよく考えるとジャンル問わず珍しい。部分的感想。変則的遅刻癖。

6/18(土)
スプラトゥーン日記
ガチホコS+0→S→A+→S
エリアS+2→S+3
 キレて味方撃ちしてるチームメイトはだいたいちゃんと動けていない。連敗した挙句、あからさまな自滅を繰り返すチームメイトにあたってまさかのA+入り。そっと通報&ブロック。友人知人に暴言吐いてるTwitterアカウントもそっと通報。適切な居場所や適切な手段を見つけられないしんどさは他者にぶつけても解決しない。個々の辛さ苦しさとは別に、責任はとられなくてはならない。
 トゲアリトゲナシトゲトゲのダイアン津田ツッコミビンゴがあんまり面白くて何度か繰り返してTVerで観てしまった。「なんっでやねん」の小っちゃい「っ」の味わいがすごい。

6/19(日)
 私が何に絶望しているのか、ということをきちんと書き出したほうがいいと思う。しゃべるよりも書いたほうがいい。なぜなら外部化できるから。意図よりも結果だ。ものぐさな私でも、写真や文章はあとから見返せる。と書いたところでどうにも元気がないから今日書くわけでもない。
 本谷有希子云々(二人の俳優が出演予定だった舞台作品の公演が中止になり、「責任をとって」「誠実に向き合った」結果、作家本人の作・演出・出演の一人芝居として公演が行われるとのこと)、であらためて(昨年末、ジエン社のときにも思ったことだが)俳優の存在は透明化されているなーと思う。そこにあるひとびとの努力や上演の成果を否定するものではないが。公演の成立過程における俳優の役割なんてことをわざわざ考える俳優以外のひとなんてよほど暇か想像力豊か、と言ってしまえば当たり前なんだけど、舞台/画面に現れない俳優のことなんてほとんど誰も気にかけない。ともあれ、意図がいかなるものであれ、すでにある名声に乗っかって「誠実」を唱えることは、少なくとも声を奪われた人にとって、実は誠実ではない、と私は思う。観客はまだ見ぬ作品のために、作家の名声を頼りに劇場へとやってくるわけだし、見ている最中だってそりゃありがたがったほうが楽しいに決まっているわけで、観客たちや興行主のその(ありがたがる/ありがたがらせる)自由を咎める理由はまったくないけれども、いびつな関係性はそこに厳然とある。いちいちいろいろ言わない選択が権威をより強化することに自覚があってやってるならそれはどうなのか、って話だし、ないならそれはそれでどうなのか。つまり誰が悪いということではない。
 私はもはや誰かの名前や立場やジャンルまるごとを「ありがたがる」ことができない(なぜなら……という部分は、いずれ書く必要がある)。どうにか残されている方法のひとつに「面白がる」があるわけだけど、先に書いた通り面白がるつもりで/ために、ありがたがっている、という現象は一人の観客のなかで、ぜんぜん簡単に起こり得る。その傾き方にはどうしても隙がある。で、困って、立ち止まってもいる……根本的に大事なのは「そのまま見る」「個々を尊重する」ってことだけど、それは別に創作にかかわる作業や鑑賞に限ったことではない。

6/20(月)
 ずいぶんと日が長くなりました。19時ごろに気がつく。抽象的なことを考えるのは好きだけど、具体的なものに反応すること、旅行や散歩やそれこそ日が長くなったとか風が強いとか雨が降りそうとかいう日常的な観察があってはじめて私は考えはじめることができる。ほとんど家にいてずっと書いている劇作家がいるのは驚くべきことで、本人のなかでどうやってその劇が始まるのか? 終わるのか? 疑問は尽きない。天気は劇的だが劇ではないし。

6/21(火)
 三日坊主日記、がいつのまにやら三日と三週間ぐらいつづいた。三週間と三日坊主日記だ。『オッドタクシー』をダラダラ見返した(はじめに見たときは半分見終わるまでマツモトクラブが主演声優だと思い込んでいた。一回だけ不意にエンディング曲がトニー・フランクになるところがすごくいい)の勢いついでに、ドラマシリーズの『ファーゴ』シーズン1(2014)を朝晩まるっと見た。圧倒的に共感できない悪役を出現させる手つきに清潔さを感じる。それぞれ(たとえばリンダ)の助かる道があるとすればそれはおそらくただ単に事実に対して正直になることだったはずなのだが、人間たちが目先の感情や損得でごまかして事態を悪化させるさまをこれでもかというほど見せつけられる。とくに第一話の「あれよあれよ」感が圧巻だった。殴るフリをされてビビってガラスに顔をぶつける、という短い動作で暴力の複雑なありさまが見事に描かれる。壁や冷蔵庫に貼られたスピリチュアル風ポジティブな文言の数々にいちいち笑っちゃうんだけど、なかでも気の抜けた魚の群れのイラストとともに"What if you're right and they're wrong?"……このほとんど悪魔のささやきのようなポスターに集約されてるといってもいい。人間が間違え続ける劇が。



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