6/22(水)
iPhoneのメモで日記を書いているのだが、一つの画面の下のほうに順々に書き足していっていた結果、だんだんスクロールが面倒になってきたので、ここから新しいページにする。日記のなかで日記のことを書いたり考えたりするまどろっこしさが好きなのは、なんでだろう。飴玉を口の中でなんども転がして確かめるような感じだ。ウィリアム・カルロス・ウィリアムズって声に出して言っているみたいな感じだ。
6/23(木)
スプラトゥーン日記
ガチホコS→A+
アサリA→A+
まさかのA落ちシリーズ……撃ち合いではそれなりに自チーム優位に持っていったものの、わざわざ不利ルートにガチホコを持っていくチームメイト多発地帯だった。どう対策すりゃええねんと思うが、圧倒的に撃ち勝つか自分で持つかだ。S+帯だと撃ち合いがいい勝負になりがちだけど、味方に納得いかない動きをされて負けることはあまりない。ふがいない自分への苛立ちと味方への苛立ちだと、自分への苛立ちのほうがだいぶ取り扱いやすくてマシ、と思うのはヒロイック&浅はかで、自分がそう思ってるということは味方をイライラさせてもいるでしょうねとツッコミが入ってしかるべき。
昨年末のジエン社『何もしない園』が参加したオーディトリウムというイベントで大変お世話になった(『自作自演版・何もしない園』を稽古場の外部に見せるのがオーディトリウム運営チームの方々が初で、あたたかく、誠実に見ていただいたことに何より励まされたのだった。)平泳ぎ本店の演劇作品『俳優の魂/贋作 不思議の国のニポン演劇盛衰史』を見にシアター風姿花伝へ。「ふうしかでん」と打ってiPhoneで第一に変換されるのは「風刺家電」。劇的な瞬間、ではなく、劇について考えている瞬間、でもなく、演劇というものがなにかを掛け違えていくところを冷静に見せるような作品だった。と思う。そこで表された誰かや何かに感情をおおきく動かされるのではなくて、まず起きたことを眺める。そもそもこれってなんだろう? とまで立ち戻って考えるというよりは、否応なく進行するセリフや状況と演技する人や置かれたものとのズレを順に観測してゆく。表し方や表されている内容について、日本の演劇の歴史や界隈のことをそれなりに知っていたりラーメンズファンだったりするからといって、より面白く観られたわけではないような気がする。反対に、ふまえている元々のアレコレを知らないと言ってることやってることがよくわからない、かもしれないが、それが不親切とも思わなかった。そもそもそんな人はほとんどこの作品が上演される劇場には来ない、という前提が意識されているように思われた。極端に言って「風姿花伝」が何なのかわからない人はそもそも見ないだろう、と。演劇にまつわる演劇をやるという名目で行われる作品である以上、第一に「演劇ファン」に向けたものになるのは当然のことだろう。それがいいこととも悪いこととも私には判断がつかない。
ところで私が東葛スポーツで一番好きなのは演技をしている本人の話を毎度のことながら急にラップするところで、それがたとえ嘘だろうが言わされてようが(そもそも演者の背後の壁にリリックが映し出されるのだから誰が書いたにせよあらかじめ決まったことをラップしてるだけなのは間違いない)、ひとりの俳優の話をしばらく集まったみんなで聞くことになるのがとてもへんで、なんというか、観に行った甲斐があって、よいと思う(もし出ているのがきわめて有名な人なら、あるいは会場が巨大な空間なら、同じやり方では虚実半ばの感慨はないだろうとも思う。あくまで"マジ歌選手権"的な技芸として見ることになるんじゃないか)。翻ってこの劇中、形式的には東葛スポーツに似せている場面で、しかし歌詞は「俳優」の抽象された像のまわりを巡っており、主語が単数になっていないのが気になった。熱気のようなものはあるのだが、語られていることも嘘ではないはずなのだが、生きるわたくしそれぞれの集まりだったはずのものを「わたしたち」という形で捉えるのは、あるものを生々しくするのではなくて、むしろ遠ざけるのではないか。ハラスメントの表象がぜんぜんキツく感じられないのにも似た手触りを感じた。その表象自体が一見かわいく縁取られていようがいかにも怖ろしい声で演じられようが、結局のところ、個々の、起きたことの前後の時間こそが問題であるはずなので。劇作家や戯曲賞や劇場など、現実・歴史への具体的な言及が多いが、「わたしたち」の側への切迫した言及があまりない、というバランスのもとでは、すべては「設定」の側に吸い寄せられて、生きている人間をたしかめるのが難しかった(すこしの例外は"道場"についてのシーン)。デウスエクスマキナをぶっ壊すというシークエンス自体がまさにデウスエクスマキナ的な機能を果たして劇の時間を終えてしまうのも、ここまでに書いたような理由で、自分のいる時空間に接続されるような発火点にはならなかった。それは終わりの合図だった。
もしかして:出来事の虚実とはすこしちがうレベルで、その後もこの人たちは生き続けている(あるいは死んだら死に続けている)と思わされるかどうか、というのはドラマかポストドラマかにかかわらず劇場で劇を見るときに(あくまで私にとって、だけど)大事なことなんじゃないだろうか。と思った。
ゆえに、と言うべきか、舞台上でもっとも目立つ服を着ていた舞台監督の方の芝居心みたいなものが心に残った。
あとは、ラーメンズのカバーじゃなくてコピーになってるのをどう考えたらよいやらということもずっとあった。簡単に言うと、見ていてちょっと気恥ずかしい。そこがうまくいっててもうまくいってなくても気になるというか、なんというか、同じものが好きだったら友達、ってわけじゃないんだよな、と最近しばしば思う。一人のお笑いファンとしては、もしアイデアや出来事や形式のオリジナリティを抜きにするなら、「その人が言っている/やっている」ということがプラスに働かないような面白さ(存在として似ているのはたとえばネットミームとか、大学生たちの交わす「おつかれー」とかかな…)では、なかなか声に出して笑うほどのことは起きないんじゃないかしら。仲間内だったら知ってる人がそれをやってるというだけできっと面白いのだけど。畢竟いまのわたしには誰かのことを易々と仲間と思えないので、そういう面白さが届きづらい観客なんだろうと思う(お笑い芸人さんやテレビ・ラジオの放送はその点、誤認させる技法がすごく発達している)。
でもなぜか、熱海といえば、で、急に『東京物語』が再現されるシーンは屈託なく笑ってしまった。なぜなんだろう? その差については答えが思いつかない。
6/24(金)
エリアS+3
ヤグラS+1
ファーゴ、シーズン2本格的に見始める。くりかえし「人間には根本的に賢さが足りない」と思わされる(その観点から言って、愛や打算が何になる?)。シーズン1に比べると出来事の繋ぎ目はやや荒っぽく、その分、音楽と編集(あと未確認飛行物体)で仕掛けているシーンが多い。画面分割(BDっぽい)と扇情的なギター多め音楽。何話か忘れちゃったけどYamasukiが流れるオープニングが印象的だった。日本語らしき音に脳が反応して、おかしな味わいが増幅するのはおそらく日本語話者だからこその聴取体験で、日本語ぜんぜんわからない人にはどういう聞こえ方をしてるんだろうか。5話がお話の腰っぽい。ノリーンが読んでいるのはどうやらカミュ『シーシュポスの神話』だ。せっかく良いことが起こるかもしれなかった(実際こころのなかでは起こっていたのだ)のに、という落差がグイグイ後半の劇を進める。大きな劇の進行の合間を埋めてゆくのは、それぞれの戦争の記憶(描かれない、より大きな劇の残骸)だ。あとはポイントオブノーリターンの先へ落ちてゆくだけ。チェスとか、だんだん択の狭まるボードゲームの終盤戦っぽい。
6/25(土)
『ファーゴ』シーズン2見終わる。シーズン1と2に渡ってあらわされていた毒性つよめの独善性(=意外と実はオリジナリティがない)とは別の形の独善性(平和のための独自言語を考える……)を提示して終わるのがなんか、すごい。お話の始末だけで考えたら特に必要ではないが、とてつもないエピソードのように感じた。聖書などになにか元ネタがあるんだろうか。シーズン3少しだけ見る。爆発するように風が吹くなど。
6/26(日)
エリアS+3→S+4
自分の住んでいる街でファーゴ作るなら舞台の一つはあのビル、っていうビルがある。ファーゴ作るってめっちゃ変な熟語を言ってる。熟語って言葉の使い方合ってる?
6/27(月)
エリアS+4
ガチホコA+→S
アサリA+→S→A+
ヤグラS+1→S+0→S
エリア、ホコは肝になる場所を抑える作戦がけっこううまくいった。アサリ、ゴールも決めるしガチアサリ持ちも一対一の場面でそれなりに止めてるしキルデス比も(当社比)良好だがひたすら死にまくるチームメイトと共に連敗街道まっしぐら。もしマッチングにおいて勝率調整的なものがあるんだとすれば(あるんだろうか?)、それをぶち抜けるほどの力がない……ヤグラも似たような感じでぼこぼこ負ける。人数不利マッチを勝ち切るぐらいの立ち回りが理想。押し引きの見極め。
6/28(火)
明日は久々の友人と会うというのを口実に、数ヶ月ぶりにヒゲを剃る。鏡を見ると完全に山羊髭長髪の男だ。なんでわざわざこんな格好をしているのか自分でもよくわかっていない。ポリシーがありそうで、ない外観だ。まず伸びきったヒゲの中でも短いハサミで安全に切り落とせる部分は掴んだまま切ってゴミ袋へ。ついでに自分の鼻や皮や血管を切っちゃいそうでおっかなびっくり。ヒゲを一生懸命引っ張ってヒゲと皮膚の境目をはっきりさせて、安全を確保しつつ切ってゆく。ぼろぼろこぼれる分は洗面台をぐるっと拭きとる。それなりの短さになったら、シェーバーを使って剃り落とす。自分の口周りの素肌をひさびさに見た。そんなに変化はないような気がするけど、こんな感じだったっけ?
6/29(水)
朝はやくKさんから連絡あり、発熱があり流行病のおそれもあるため今日の会合は延期とのこと。さっぱりフェイスは宙ぶらりんになった。特に活用の仕方は思いつかない。
すごく長い夢を見たのだが、起きてしばらく経つうちにストーリーは抜け落ちて、住んでる家の地下が大学の巨大なキャンパス(屋外)みたいになっていて、その中にある施設のひとつで何かが起きて……という超あいまいな風景の記憶しかない。食堂だったっけ? だったっけ日記だ。
6/30(木)
ひもを引っ張るとあたたまるお弁当のワクワク感はすごい。
アサリA+→S
エリアS+4→S+5
ワクワクするといえば、スーパーファミコンぐいのドット絵鳥瞰図RPGもワクワクする。映画みたいな美麗3Dやフルボイスと比べてしまえば圧倒的に情報量が少ないが、その分想像が加わるので魔法がかかって見える。人物の声や顔がわからないことでいささか真っ直ぐすぎるストーリーにも乗れたりする。なんでもかんでも細かく明瞭・具体的に描写されればいいというわけではない。テキストだけが置かれていることで、人物の声はかえって伝わったりする。たとえばMOTHERのわすれられた男だ。あのセリフに音声がついてたら台無しだ。逆にどんな声ならアリだろうか? だったっけで終わるような文章は特に思いつかないのだった。のだった日記。
7/1(金)
あらためて振り返っても上半期はほんとうにぜんぜん何にもしなかった。今後の自分のためになるようなことは特に何も。下半期はどうだろうか。動き回ろう。
スタジオに入ってドラム叩く。「クリックに合わせる」を目指すと途端にグルーヴを見失う(結果、裏拍が遅れすぎてモッチャリする)。単純に慣れていないというのもあるが、意識して、クリックをあくまでガイドとして使うような付き合い方をしないと妙な主従関係になると思った。あとリズムキープに対してパツパツに注意を向けているとそもそも演奏の楽しみが薄まる。フィルインに対してやや淡白な気持ちで2拍分埋めてつないでいたのを、もう少し派手に、とリクエストを受けて、4小節まるまるフィルインをかましていた高校生の気分をふと思い出した。やろうと思ったら思ったよりはやれた。ただ、頭に思い描いているものを瞬時に体現するためには訓練不足だ。脱力した本人性・手癖足癖を乗り越えるには企みと訓練が、リハビリが要る。
以前なら率先して"毒舌"を発揮していたような場面で、あんまりそういうエンジンをブンブンふかさなくなった。たとえ冗談でも芯を捉えた批判や皮肉しか言いたくない。さもなきゃまったく意味のないことを言いたい。毒舌も肥えて贅沢舌になるのかもしれない。舌が太りすぎるとやがて健やかな眠りを妨げるのかもしれない。しかしなにかを必要以上に低く見積もることは、自分の位置を定めるよりむしろ見失わせる。
ファーゴシーズン3見終わる。この場面ではこういう気持ちになってほしいという誘導が強い。印象的である、というのと、印象づけようとする、というのは、違う。その点でこれまでのシリーズと比べてちょっとのりきれない。たとえば「きりのない貪欲を具現化したような悪役」ではなく、「きりのない貪欲を具現化した悪役」になってしまっているんじゃないか。とはいえ"THIS IS A TRUE STORY."の"STORY"の部分をあえて残すこのシーズンの野心、企みは明らかで、シーズン1・2とは人物たちの動き方が違うように思う。たしからしさ・もっともらしさ・蓋然性によってではなくてフェイク/フィクションによって動かされる人間像を描こうとしている。どうにも居心地がよくないのは、虚構の作品を見ている自分もまた、一時的にであれ、同じような人間の立場に立たされるからかもしれない。お話の展開としてはいくつか"粗がある"と言えそうだが、それもあくまで"TRUE"かどうかという観点で考えたときの話で、"STORY"としては誰かの主観がその途切れ目をつないでいて、ぜんぜんよい。瞬間瞬間にいろいろ思える強度は十分あって、特に描かれなかった時間を示している瞬間は出色。ニッキーの手話はグッとくる。唐突に見える最後の復讐もその瞬間があってこその出来事だと思える。露骨にSTORYに偏るのも見どころで、ボウリング場の出現なんかは出色。ひとつひとつの物語が誰彼の人生全体を覆うのではなくて、ある一時期、どこかからどこかまでを運ぶ乗り物のような役割(いくつもの車たち、コルベット、護送車、緑色のビートル……)を果たしているところが渋く、その有り様は私にとっては"TRUE"であるように感じる。6話7話あたりが濃い味つけとお話のバランスがよくて面白かった。
7/2(土)
エリアS+5→S+6→S+7
ヤグラS→S+0
エリア終盤5試合くらいはチームメイトに助けられ続けた。ラッキー昇格。9月までにXいけるかな。
7/3(日)
ざっくりした待ち合わせに件の電波障害が直撃。Hくんに電話がつながらないのでアドレス帳を確認すると案の定「ezweb」だ。ジメジメした街を右往左往。まず大きな本屋に行き、平積みされていた新訳『夜と霧』を立ち読みしながらIくんの到着を待つ。Hくんはこんなとき映画を見ているに違いないと言って、いくつかの映画館の周りを漫然とウロついてみる。あとから話を聞くと「映画館」は間違っていなかったのだが、張り込むべき作品が違った。我々が入り口のポスターを見て幾分ダラダラしていた映画館の作品(ホン・サンス)はもうすでに見ていたらしい。惜しい。東口は急遽の待ち合わせのせいかどこのコーヒーショップも満席で、最終的には駅の反対側の百貨店まで行った。フロア案内のコーヒーカップマーク目掛けて4F婦人服売り場を通り抜けると、まもなく夕飯時ということもあってか、誰もいないわけではないが、といった程度で、いい感じに空いている。広い窓に面したテーブルを占有して、向かいの路地を眺めながらバニラアイスの乗ったミックスジュースを飲んだ。存分に無駄話をしているとIくんに電話がかかってくる。Hくんの見つけた公衆電話のおかげで無事合流。「元気そう」と言い合う程度には、我々は互いに元気そうである。幸いだ。なぜだか千倉の話題に。まさか浅井慎平の庭にアブいっぱい美術館こと海岸美術館(名前はいま調べた…ところ2020年に閉館したとのこと。)を思い出すことになるとは思わなかった。千倉というと私にとっては小学生の頃の臨海学校の記憶でいっぱいで、つまり薬用石けんミューズの匂いと、焚き火に手を突っ込みかけたことと、古い形のひも付き水泳帽と、玄関入って即卓球台があったことと、8月後半の大量のアカクラゲと、山の上の水の冷たい屋根付きのちいさなプールと、地面に穴を掘って暮らしているハチと、食堂の壁に互い違いに開けられた窓と、おなじ壁にかけられた十番まである古い音頭の歌詞ボードだ。海にはそれぞれがバラバラに行くべき、との説は確かにそうだとうなずく一方、地の果てみたいな場所に誰かと行きたいときもある。Hくんの帰るべきタイミングでさっと帰れる爽やかな後ろ姿を褒めながら、残ったIくんと習い性の長っ尻の延長線上で歩く帰り道、よもやまの困惑について交換するようにしゃべっていて、困ってないことに困っている、という言葉が口をついて出て、ありがちな、どこかで何度も見たことのある言葉の羅列なのだが、不意打ちで自分から出てくるとギョッとする。名前や肩書きをありがたがれないなら結局自分でやるしかないと言われれば、全くそうなのだが、もうずっと前からそれはそうなのだが、まだ何か誰かを探しているような気がする。キリがない。懲りてない。一日分の食物繊維がとれるジュースを飲みながら帰った。
7/4(月)
エリアS+7→S+6
エリアを塗るタイミング、相手を詰めるタイミング、お互い意思の疎通は図れないのだが、切り替えと先読みが大事。エリア管理が甘いのを塗っているうちにやられるパターンが多かった。塗りポイントが多くてデスが多い=勝負どころで潜伏して有利な撃ち合いができていない。
7/5(火)
風が強い。大雨が予想されているが、どうなるだろうか。天気は一人の人間にはどうすることもできないことのなかでも、もっとも身近なものかもしれない。
7/6(水)
今月あたりに会いましょうと言っていた人のために落語のCD-Rを準備してみたりした。予定は決まってないし、もはや落語は気になってないかもしれないし、結局会わないかもしれないし、そもそもデータがあればモノにする必要がないし、空振りするために行動してるようなものだ。ディスク容量の限界であるところの80分に合わせて曲目(演目)を選ぶなんてもう何年もやっていないよ、と思ったが、昨年末、開場中の30分間に流す音楽を選んだことを思い出した。ここ数年で古典落語のいくつかの演目に対する感じ方というのはどうも変わってきていて、久々に聞いてみると女性の扱い方がきつすぎると面白い要素を面白がる手前でなんか冷めちゃったりする(深夜ラジオの下ネタなんかにも時々そういう感じがある)。演じ手というよりは鑑賞者の「そういうもんだ」で押し通ることのよろしくなさに引っかかる。逆に、落語は別に根本的に"そういうもの"なわけではないので、期待をなくしてるわけではないとも言える。
ハードディスクつなぎついでに写真をはじめとするデータの整頓。いままでのお仕事データを一箇所にまとめたり、ここ二年くらいサボっていた未整理の写真データを年月ごとフォルダに分別したりした。Googleフォトの顔識別や場所ごとで閲覧できる機能、オフラインで欲しい(矛盾)。さらにiPhoneのミュージックのアートワークがあるときから何故かめちゃくちゃになっていた(例:マヘルシャラルハシュバズのアルバムがNWAの画像になっている、などなど)のを全消しして再度同期し直すも、治らず、さらにもう一度消して同期し直してみたら、治った。なにしろまったく同じことをやって、一度目はダメで、二度目はよくて、メカニズムがわからない。再現性がないので釈然としないが、治った。決意としつこさの問題ということでいいのか。
ファーゴシーズン4見始める。"similar to what?"とか" equal to what?"とか、頭が耕される思いがする。「似ている?だが何に?」「同じ?だが何と?」
ジェシー・バックリー演じるオラエッタ・メイフラワーはあの歩き方から表情や身のこなしを派生させてるんじゃないかと思う。歩き方はすごい。人それぞれの長く歩いてきた歩き方が一瞬で、時間を圧縮して、見ている人に伝える。そこで大胆めの嘘をついている。ちょっと思い出しただけでぜんぜん関係ないが『マルホランドドライブ』のナオミ・ワッツは口元から決めていった感じがする。前後半の違いを見てると。
7/7(木)
ガチアサリS→A+
めちゃくちゃ孤軍奮闘したのち負けて降格……ストレスフル! なのにやってるのはなぜなんだ。ゲーム、面白いからやるんじゃないのか。謎。中毒か。怖い。
7/8(金)
朝、ファーゴシーズン4見終わる。あたらしいチャレンジが毎シーズンある。9話、あからさまに『オズの魔法使い』を踏まえて一話まるごとファンタジックだが、根差しているところを辿れば厳しい状況なのに変わりない、というバランスがとても切ない。いまあえてモノクロというのは人為的な魔法だ。"緑色のサングラスを外す"=カラーに戻る瞬間は劇的だが嫌味がない。この魔法が解けるのを、誰かの庇護のもとから離れる瞬間に設定してあるのがなんとも味わい深い。シーズンを通じて何度か説明抜きに、トルストイの絵本でおなじみ『三匹のくま』のお話が出てきたのだが、桃太郎みたいに国民的おとぎ話なんだろうか。なにしろ私も知ってるぐらいだから思ってる以上に国際的おとぎ話なのかもしれない。自分なりに(自身にとって、でしかないけど)よかれと思ってする行動により不可逆にひどいことが起こる(食卓のちいさな椅子がぶっ壊れるとか)、という点ではファーゴっぽいかもしれない。
洗濯機が壊れているのでランドリーへ。大荷物のおばあさんにこれでもかというぐらいジロジロ見られる。赤ちゃんに見つめられることはよくあるけど、見ている側の意識はさておき、見られる側としてはだいぶニュアンスが違う。こちらからはあんまり見ないようにしてたらおばあさんは備え付けのカゴを手にとり、しばし持ち、やがてそれを元の位置に戻し、屈伸し始めた。ますます見ないように気をつけた。本屋さんで『夜と霧』買って帰る。
現実世界において、暴力はダメ。暴力はダメだし、公文書の改竄・隠蔽はダメだし、一票は一票だし、一人の命は一人の命だ。それはそれ、これはこれ。気分は気分、ルールはルール。それが民主主義の国でしょう。それにしたってファーゴじゃないんだから、とは思ってしまった。タイミングがタイミングだったので。
戦争にもハラスメントにも暴力にもノー。そこでお友達を優遇したりするわけにはいかない。加害者を被害者扱いして構図を転倒させようとするのにもノーだ。また被害者や加害者をむやみにアイコン化するのもノー。ひたすら「ノー」って叫んでる現代美術の映像のぼんやりとした記憶、アレなんだったっけ?
ぜんぜん今日の現実とはかけ離れた話として。日本のような国ではなくて、たとえば合法的な政権交代がおよそ不可能な強権国家で虐げられる人びとを助けるために振るわれる暴力があったときに外側からそれはダメです、と私は言うだろうか。言わないと思う。暴力はダメ、と言いながら、それはぜんぜん嘘ではないのだけれども、原理原則は暴力ダメゼッタイなんだけれども、倫理的に例外はあるべきだろうという予感があるし、人間各々の中で、どこかにもっと微妙な線引きがある。それが人によって感覚的に違っていて、誰かが説得したっておそらくほとんど変わらないであろうところに厄介さがある。(その厄介さは「正しさの暴走」みたいなスローガンではぜんぜんうまく捉えられてないと思う。そうやって正しさを相対化して引きずり下ろしても意味がない)
7/9(土)
エリアS+6→S+7→S+8
ガチホコS→A+
ヤグラS+0→S
こりゃ果たしていまテレビがやるべきことだろうか、という自問自答はなされているのだろうか。利害が先に立って(組織の中での立場上の、ではなく)個人的な責任において決断されているわけではない、という人間の引っ込んだところで決定される振る舞いって、何がダメかって、やっぱり無責任だからなんじゃないか。
Kさんから電話もらう。とてもありがたい。
各党党首の演説を見ながら、「相席食堂」のまだしゃべっているのにカットしたりしゃべり終えたあとの間をあえて残したりする編集のことを思った。
7/10(日)
選挙行ってタピオカ飲んだ。投票所である体育館の肋木にはパネルが設置されていてボルダリング装置になっていた。肋木よ、最後までなんだかよくわかんなかったけど、さようなら。でもボルダリング・ブームが去ったり誰かが激しく落っこちたりしたら突然元の肋木に戻ったりするんだろうか。パネル取り外しも簡単にできそうだった。
選挙の次の日の朝はだいたい絶望的、と言ってもいいような気持ちになるのだが、これはいわゆる勝ち負けによるものではなくて、自分とはおよそ考えの違う人がどれだけいるのかが明確に可視化されるなんてなかなかないイベントだから、投票した人が当選しようがしまいがショックはある(選挙区・比例とも投票した候補は当選したようだったが、それでも、それはそれとして、ということ)。仮に自分が応援してる候補者や勢力がどんなに大勝しようが(大敗しようが)、ぜんぜん違う選択をした人がこれまた大量にいる、という事実がつきつけられるのは変わらないわけで、さてこっからやっていくしかあるまい、どっこいしょ、という感じだ。こうして書いてみるとそこまで絶望的でもない。どっこいしょだ。民主主義は時間がかかる。誰かに任せておけばなんでも簡単にいくわけではない。ということがあまりにも明らかな昨今だ。それにしても名前書くんじゃなくてチェックボックス式にしたらいいとは思う。その時間や手間は少なくとも国民サイドにはこれといって必要ないんじゃないか。「選べるけど書けない」人はいるんじゃないか。手間さえなきゃ投票する人がいるんであれば、手間なんてないほうがいいに決まっている。普通選挙の民主政国家なんだから。数年前から投票用紙の書き味のよさがある種の"いい話"として日本語ソーシャルメディアに流通しているけれど、政治を迂回して選挙を活発化するための"いい話"っていい話だろうか。私は正直なところ書き味とか文房具に興味あるけど、政治を避けて選挙を語る態度はちょっと疑問に思う。つまりそのチョイスを安全策とすることが長期的には危険ではないのですか、みたいなことです。あとインターネット投票についてはたとえばそれぞれのスマートフォンを使った場合に「投票先を自由に選び、それを秘密にすること」を守れる仕組みがないのが難しそうだ(例えばたくさんの人がひとつの部屋に集められてある組織や個人に見張られながら投票するということも起こり得る)が、投票所がもっとたくさん作れて駅に行くついでにタッチパネルですぐ選べて、みたいなことは技術的に実現できるんじゃないのかな。
それにしてもどうしようもない(としか言いようがない)改憲草案を出しておいて特に引っ込めて再検討するでもなくいささか草案とは違うトーンの選挙公約出してるあたり、いまの政権与党の信用できなさというのは主義主張以前にその手法から来ている気がする(しばしば野党の協力関係を野合と呼ぶケースがあるが、与党内での政策論議を戦略的にあえてふわっとさせたまま共通の利害のために集まっているのも十分に「野合」と言っていいだろう)。主義主張以前の問題としてまず思い浮かぶもののひとつに「公文書や統計の改竄」というのがあるけれども、たんに法的・倫理的に問題のあることを行うというだけではなくて、さらにそれを権威主義的にあとから正当化しようとするなんて振る舞いは、デモクラシーとあまりにもかけ離れた姿勢だ。国民も政治家も、平等と情報公開という民主政の根幹部分をないがしろにしてはいけない。TV中継で河野太郎さんが核廃棄物最終処分場に関する質問に対して、絶えず話を逸らしまくっているのを見ていてそんなことをますます思った。「わあわあ議論するのがいいのか…」と言っていた。仮にも国民の代表として選ばれている議員がわあわあ議論するのを避けてどうするんだろう。麻生太郎さんの「あの手口学んだらどうかね」(2013)を思い出さずにはいられなかった。
でも国民の多くは議論そのものが嫌いなんだと思う。なにしろ批判と悪口(と致命的な暴力)の区別がついてない人はどうやらそれなりにたくさんいる。そもそも今起きていることのほとんどは主義主張やいわゆる議論のぶつかりあいですらない。強いて言うなら気分主義だろう。どういう勢力を支持するにせよ、ある権威を信じてい(ることにす)れば考えなくて済むし、間違っていても責任を負わずに済む。現与党はその気分に"寄り添って"議論を避けることによって議論を無視できるほどの"実行力"を誇示し、ますます支持を得ているように見える。変な話だ。しかしこれは現与党どころか政治の話にも限らない。たとえば、見たことのある例で言うなら、戯曲賞の運営なんかもそんな風だった。どっこいしょ。
7/11(月)
このところ絶えずうっすらと眠たい。ヒューマニティー、
(以下、翌日追記→)と書いたところでこの日記は途絶えている……
スローな自暴自棄、という言葉をつかまえたのがこの日の収穫、と言えるだろうか。スローライフというよりはスローデス。
7/12(火)
上野周辺をうろうろ。不忍池の蓮が見頃です。ほどよく空いている。とてもいいズボンがあった。弁天様にお参りして帰る。
7/13(水)
回転寿司食べる。後ろの席の人がめちゃめちゃ咳してた。そういうときは勇気を持って帰ってほしい。
7/14(木)
三軒茶屋へ。ラジオをやってみる、という企み。どうなっても楽しいけど、ナチュラルなスタミナだけでやると絶対にすぐダレる。プランがあったほうが、そこから外れることもできる。なにか書いて準備する必要があるように思う。久々に会ったYさんはじめKさんIさん、真剣に応対してもらうことのありがたさを感じる。餃子食べて帰る。
7/15(金)
37.2℃。発熱。近所の耳鼻科に電話をかけて検査の予約をする。37.7℃。陽性。「コロナですね」検査キットをもった医師「写真撮りますか?」「手も写っちゃうけど」。とても日常的で気持ちが落ち着くが、これからどうなるかは誰にもわからない。自分でどうやら死にそうにないと思ったらホテル療養したい。死ぬかもしれないのであれば窓の開かないホテル(とは限らないけど)よりは自分の家にいたい……変な基準! とにかく最短でも25日いっぱいまでは外出不可(熱が出ればもっと続く)。ロキソニンのジェネリックは無料でもらえるとのこと。薬局は病院以上に受付のガードが厳重だった。だんだん熱が上がる。ゼリードリンクと水を飲む。
7/16(土)
熱と背中付近の痛みでウンウン言いながら寝たり起きたりを繰り返すうちに朝に。部屋の電気を入口まで歩いていって消す余裕もなかった。明るくなってからようやくあべこべに電気を消し、まとまった時間寝る。昼すぎ、Amazonで頼んでたものがポロポロ順番に届く。iPhoneのケース(集合写真を撮るときに人に自分のスマホをなにげなく渡した瞬間、かつて無色透明だったケースが燻したような茶色と黄色の中間のようなクリアカラーになっているのに気づいて、とても恥ずかしかった)、iPhoneで映像撮る用のミニ・ビデオライトとマイク、ゲーム配信用のキャプチャーボード、カメラ用の乾燥剤、など。家にいるかホテルに行くか迷ってけっきょく今日は都の窓口へ電話をしなかった。とりあえずパルスオキシメーターを貸し出してもらえるように都のフォームに入力した。酸素飽和度ばかりは感覚だけでは状況わからずなにより他人とのやりとりが難しいので早めに手元に届くとありがたいのだが。感染急拡大で対応する側は大変だろう。
週明け、友達に誘われていた柴田聡子のライブ観に渋谷WWW行ってドリンクカウンターで投票済証見せてラッキーワンドリンクをもらうのを夢見ていたんだけど……残念。頭の回転は通常営業に近い感じになってきたので少しずついくつか連絡。夜になると熱はすこし上がる。
7/17(日)
Amazonで届いたものたちをバリバリと開封していった結果、きょうのリクエストから24時間後の許可がおり次第、YouTubeゲームなどの生配信が可能になった。思いもよらない展開だ。機材を試しながらぶつくさ自撮りしたりゲーム画面の録画を試してみたりしてみたが、どうやらスマホ用マイクの入力レベルが低すぎる(あとから音量を引き上げるとノイズが乗ってしまう)ほかは、ナイスプライムデーだったっぽい。
7/18(月)
もともとあやしかった曜日感覚ではあるものの、リアルタイムのTVに触れないことによってさらに揺さぶられている。しかも今日はカレンダーの上では赤い日、海の日だ。前は海の日じゃなかったはずだ(調べてみると→1996〜2002:7月20日、2003〜:7月の第3月曜日、※但し2020と2021はオリパラ特措法に基づいてそれぞれオリンピック開会式前日の7月23日(木)・7月22日(木)に変更……ややこしすぎる!)。急に海をありがたがらせてみたり経済やらオリンピックやらの都合で日にちを変えてみたり、勝手に動かされるとありがたみや親しみはなくなってくるし、混乱はする。「ハッピーマンデー」のハッピー、誰がハッピー?
昼間、ABEMA『しくじり学園』の最新回に大いに揺さぶられる。あくまで自分の軸を持ち続けるハマカーン神田さんと自分の軸を「バラエティ」に差し替えて仕事をしているバラエティ猛者たちがお互いにとても優しいのが、ヒリヒリした人生のぶつかりあい方としてもはや感動的なぐらいなんだけど、より切実に違いを浮き上がらせている側面もあった。バラエティ的な"品性下劣"さを自分にはできないとんでもないスキルとして見上げつつ(=決してほんとうに下劣とは思ってない)、もしそれだけになったら大事な一線を守れないっしょ、という点で疑わしくも思う、という神田さんのバランス感覚にはひたすら共感してしまった。能力の面でも絶対に向き不向きはあるけれど、一度ひどい目にあったら大きな物語を(ほかの人と同じようには)信用できない、という人間の精神のことを考えてしまった。
昼間はもうなんともないかな? と誤解するほどなのだが、ぐっと体に探りを入れると背中の違和感/痛み/ゴワゴワ感はぼんやりと続いており(おそらく肺……なのか?)、夜になると少しだけ熱が上がる。とはいえ、眠たくなればぐっすり眠れる程度なのが幸い。
7/19(火)
昼ごろまで寝る。(この一行しか書いてないのでさすがにあとから思い出そうとしても他の日との違いがわからない日々だ……)
7/20(水)
東京都からパルスオキシメーターが届く。酸素飽和度は97%で安定しているが、前に貧血風の症状を起こした直後に測ってもらって99%だった記憶があって、あのときよりは悪いのか、あるいはたとえば近年の運動不足なんかの影響もあるのか、それとも機材の差なのか、わからない。ほとんど平熱。
7/21(木)
朝起きる。たくさん寝る。ちょっとしたプラスチックのカゴ(本棚整理用)にトランク(ホテル療養の準備のために出したが、結局ここまで自室にこもるスタイルを続けてしまったのでたぶん行かない)を載せたものを食卓としている。これまで自分の寝室には食べ物を置かない(虫が来ないように・なぜなら・虫が苦手なので)、というマイ・ルールでやってきたので、なにかひどく悪いルール破りをやってるような感じがして、楽しい。
7/22(金)
夜ふかししてしまった。ゆっくり起きる。YouTube配信に挑戦。画面や音が安定せず。部屋に積んであった本を少しずつ本棚に入れてゆく。本、二度と読まないだろう本や一度も読んでいない本の処遇を考えるが、この先に読むかどうかと、本棚に置いておきたいかどうか、はちょっと別だ。変なの。大きさ別ではない容れ方をしていくと文庫本用のスペースが足りなくなりそうだ。この事態を意外、と感じる私には計画性や先見性が足りないと思う。
7/23(土)
わずかな喉や鼻水の症状のほかは平熱だし酸素飽和度は安定しているし意識もしっかりしている。じゃあ健康、と呼べるかというと、なんかこの生活の果てしないダラダラ感のせいか、はたまたメランコリーな気分のせいか、健康なあ……と言いたくなるのだが、贔屓目に見ても贅沢言っており、「健康なあ……」じゃなくて健康だがメランコリーって現状に向き合ったほうが無駄がない。なんかこう、言葉やポーズにもってかれるべきではない。同情よりも正確さだ。つきつめるとやはりアンチ・ソーシャルということになるのだけど。二度目の配信やってみるがたまに画がブレる。音声は問題なさそう。
7/24(日)
相変わらず設定をいじりながら配信テスト。音声、時々途切れる。問題大ありだ。早朝、換気のために窓を開けると朝のぬるい風とともにセミの声が飛び込んでくる。
7/25(月)
療養期間は本日いっぱいで終了。身体のほうは大まかには問題なさそう。配信のほうはゲーム音の途切れ(数十分に一度起きたり起こらなかったり)や画面の乱れ(小学生の頃、線路沿いにある友達のお家のスーパーファミコンでドンキーコングやってて電車が通ると画面がゆれたのを思い出すような、周期的でなく断続的に起こる微妙なふるえ)がなくならず、常にダメなわけじゃないから判断がかえって難しいのだけれど、不良品である可能性が捨てきれない。最終的にどうやって確かめればいいか考えなければならない(おそらくケーブルの差し替えや別ソフトでの検証が必要)けど、サポートにメッセージしたほうがいいのだろうか。検索していくとどうも機材相性(Macとキャプチャボード間)の問題である説が有力。だが決定打はなく、配信画面はゆれる。パススルーしているゲーム画面はきわめて安定している。
7/26(火)
体調は良好。ものすごくたくさん寝る。療養明けたのに寝るんかい。
7/27(水)
久しぶりに朝からリアルタイムで放送中のラヴィットなど見る。YouTubeもradikoもTVerもAbemaも、好きなものを好きなタイミングで、っていう受け取り方だったので、リアルタイムであることが新鮮。いま同じ瞬間に起きていることは、アラスカの河で遡上してくるしゃけを待ち構える熊のライブカメラと、先日書いた水族館のラッコのライブカメラと、Abemaの将棋のなんかタイトル戦(調べてみたら王位戦だった)ぐらいで、人間が出てきて沢山しゃべるタイプの出来事は全部録画だった。いま劇場でなんか見たらとんでもなく情報量多く受け取れる気がする。
7/28(木)
朝から電車で移動して仕事だ! グッドタイミングでありがたい。地上高めの線路を通る電車の風景、なんか久々。朝の雲の様子が愉快。
体力はどうかなと思ったけど、とりあえず大丈夫だった。そもそもそんなに負荷のあることもなかったけど。帰りは夕立に降られる。大きい道の信号がちょうど赤だったので、角のファミリーマートで用事を済ませて、出てみるとまた赤信号だった。軒下で待っていると看板の青い部分だけが見える。この青なんでしょう、と突然目の前に出されても、ファミリーマートの三色のうちの一色、にはなかなかたどりつかないだろう。
夜、ゆうばり国際ファンタスティック映画祭で『グッドバイ、バッドマガジンズ』公開(公式オンデマンドで配信)。数年前の冬のゆうばりを思い出す。バスに乗って、窓ごしに地元の人たちと手を振りあって、メロン熊に噛まれてはしゃいで、映画祭ファンの方に励まされて(やや消極的な姿勢に指導が入ったといってもいい)、妙なバーに紛れ込んで、地元のおばあさんが編んだ帽子を爆安で買って、サイン(楷書で)して、帰ってから泊まってた施設を「ここに泊まったんだよ」というために検索したら「(施設名)心霊」がサジェストされたりした。真偽はともかくサジェストしないでほしい。脱線だ。到着した頃、この駅はまもなく役目を終え、ここには電車が通らなくなるという話を聞いた。廃線だ。夕張、またいつかいきたい。
#GBBM、まずは人目に触れてほしい。作品まるごと、演者は言うまでもなくいいけど(手前味噌)、エンディング曲がいいのもオススメできるポイント。
7/29(金)
二日目。若い助監督さんがものすごく人当たりがよくて人知れず感動する(たとえば、資料上の名字間違いを面倒がらずに直してもらった。名字間違いはしょっちゅうあるのでそれ自体そこまで気にすることもないんだけど、指摘しても結局ぜんぜん直さない人とか、面倒がつい顔に出る人とか、とかくいろんな人に出くわすので、ややこしい名字が時としてリトマス試験紙的な役割を果たしがち)。数ヶ月前より確実に口から英語が出にくくなっており、長年の旅館フロントアルバイトパワーがいよいよ途切れつつあるのか、というか家でも英語読んだり聞いたりすりゃいいんだけど、話す部分は意識的にやっておかないとダメだ。そもそも日本語ですら前より咄嗟にしゃべれなくなってるんじゃないかと思わないでもない。となるといよいよ問題だけど。たぶん実際そう。
このコロナ療養期間にようやくバイト先の社長の香典返しのカタログギフトでもらったミニ地球儀を開封して本棚の空いたスペースに飾ってみた。季節ごとのおいしい果物を何度もくれた香港のご夫婦は元気にしているだろうか。私にとって世界との窓口になっていたのがアルバイト先の旅館だったというのは誇張抜きの事実で、大学や演技の仕事とはまた別の場所が確保されていたのはすごくいいことだった。私は誰かのリクエストに真剣に全力でこたえるのが好きだ。即席のコンシェルジュには、自分の当意即妙さへの満足と誰かの満足への満足がある。
ときに自分が属性や数字で見られることのイヤさってなんなんでしょうね。私自身、そういう目に遭う経験が少ない環境にあったと思うけど、とはいえ、だ。もうちょっと自然に、無視するでも枠にあてはめるでもなく、ただ互いにそこにいることができないものか。異なるものをむやみに遠ざけずに尊重することの必要性って、いざ自分の身に何かが起きるまではなかなか気が付かないのかもしれない(それに、気づいたとしても人は繰り返し忘れる)。害をなす輩だけは徹底して許さず遠ざけるけど……
ハラスメントについて:いまはまだ権力・権威が集中してしまっているがゆえに「おじさんは」という形で語られることが多いけれど、どちらかというと権力・権威を持っている立場と不釣り合いな個々の資質(たとえば、女性で立場のある方が「コトを荒立てるな」式のパワハラ容認発言を平気で被害者の目の前でしているのを見かけた)や、利害関係のために所在の明らかな問題を放置して現状を追認する組織(たとえば、起こったハラスメントの是非をあえて棚上げして謝罪や説明の有無や手続きの問題に話をすり替えてる会社組織を見かけた)が問題の根幹である場合が多いわけで、最終的には「女性というのは〜」がNGなのと似たような文脈で「おじさんは〜」も使わずして問題に対してもっともクリティカルな言葉が使えるといいんだろうなーと思う、けれど、今の時点で「おじさんは」と怒る気持ち自体はまったく否定できない。まず個々の怒りを可視化することはおかしなことを是正する原動力なので。つまるところ、まず、「あいつは」「あいつらは」ってことなんだよな。
7/30(土)
いま2時20分だぞ、もうすこし寝ろよ、と言ってもセミには通じまい。
最近はFacebookばかりでなくTwitterも「ホーム」は常時フィルタリングされた(つまりそれを「アルゴリズムで最適化された」と言い張っているわけだ)状態で、もはや時系列順に並んではいないらしい。そもそもインターネットの情報は、重要度(いいねの数)とは関係なく並んでいるからよくもわるくも以前のメディアと違う力を持つのであって、「(多くの人にとって)好ましい(であろう)」ものしか並べないのはぜんぜん意味がない。広告効果と影響力の最大化のために最適化されたソーシャルメディアは船頭のいないマスメディアに先祖返りしている。わけのわからない0いいねのつぶやきをどんどん見しとくれ。というわけでやはりブログだ。たくさんの人に、自分のペースでブログ書いてほしい。それをひとつひとつRSS登録していきたい。時代に逆行。していーます(勇者ヤマダくんだ)。
7/31(日)
やたら早寝早起き。
8/1(月)
エリアS+8→S+9
ガチホコS→A+
エリアS+9→X
ついに初のウデマエX達成! ゲーム画面は録画してたけど画像と音声はやや不安定、リアクション録るマイクも入れてなかった。それにしても長い道のりだった。直前にガチホコはA+まで落ちてるし…。全ルールXへの道は続く…(その前に3出そう)。とりあえず計測完了までやって自分のXパワーを知りたい!
どうにもElgato HD 60SとMacの相性に問題があり、数分に一度音が途切れるトラブル(おそらくOBS Linkの挙動による)や画像のゆれ(これはGame Capture HDでも起きていたのでHD 60Sのハードの不具合かも)が解決しそうにないので、えいやっと返品して別のものを買いなおすことにした。すこしリサーチして信頼と実績と出荷爆速のサウンドハウスがプライベートブランドで出してるやつに目星をつける。目星って不思議な言葉だ。ざっくり検索する限りでは、頭をぶつけたときに飛ぶやつではなくて、「目印」的な意味合いから来ているらしい。
出かけついでに書店で『花四段といっしょ』探して買う。コミック雑誌発でない単行本は探すのがむずかしいが、はたして「著者別」の棚にあった。なるほど。村上春樹の新しめの文庫を立ち読みしてたらその瞬間に自分がユニクロ村上春樹・佐々木マキTシャツを着ていることに気がついて、一人赤面した。立ち読みは切り上げて、買って帰って読む。
8/2(火)
エリア計測中
ガチホコA+→S
リニューアル後の昭和レトロを売りにした西武園ゆうえんちの駄菓子屋のおばあさんキャラは児童文学作品が元になっているらしい。思えばいまの小学生が読んでいる新しい児童文学なんて全然知らない。意識的に調べない限り、知るタイミングがない。
「年上」やりはじめた人たちは年上であることがまだ新鮮で下の世代に興味津々、ということはしばしば起こっているような気がする。人はそれぞれの位置に案外不慣れなのではないか。上下関係抜きに、というような意味合いのことを上の側から言うのは当人の意志はどうあれ下手すりゃ欺瞞にしかならないからよくよく気をつける必要はある(それを面倒くさがったらシンプルにもうオシマイだ)けど、年代の違う友人知人ってけっこう大事な気がする。ぜんぜんいないけど。
8/3(水)
ぜんぜん好きじゃない歌でも何回も聞けば覚えてぼんやり歌える。多少興味があっても接触しないことには覚えられない。
8/4(木)
ガチホコS
エリア2173→2255
計測できた!計測マッチは10戦中2敗か3敗で駆け抜けた。
8/5(金)
エリア2255→2193
ガチホコS→S+0
ヤグラS+0→S+1
エリア2193→2144
こつこつやる。エリアでは撃ち負けるケースが多い。フェイントや駆け引きのレベルが足りておらず、こちらが直情的に動いてまんまとやられがち。Xおそるべし。
8/6(土)
日記を書くことに飽きている、わけではなくて、書く手前のところでなかなか起動しない感じ。書くときは楽しい、というか、少なくとも自分なりにやめずに続けられる程度の何かがあるんだけど、書き始めるまでに億劫さにからめとられがち…と言葉にするとありきたりだ。ところでコロナでわかりやすい後遺症みたいなものはないのだが、ときどき喉の奥のほうがしつこくズルズルしているようである(※この文章を見直している8月中旬にはこの症状はなくなっている。よかった)。がんばれ免疫。追い出せウイルスの残骸。やってやれ俺のホメオスタシス。
あと後遺症といえばブレインフォグって超怖いと思ってたんだけど、仮にブレインがフォグった状態で私のブレインは今フォグっているなってどうやって認識できるんだろうか。なんかおかしいなーと身体は感じつつも、脳や精神のほうでは、私は平気、と自認していてその実フォグっているということが起こったりしないんだろうか。ただでさえ明確な線引きが難しい中(もしなにかがおかしかったとして、それがコロナ感染歴のせいなのかコロナ禍のせいなのか人との接触機会の減少のせいなのか脳や精神の異常のせいなのか特になんにも理由がないのか……)、さらにそこに判断する側の異常が混ざればますますどうしたらいいのかわからない。とりあえず今のところブレインはフォグってないつもりですけども。ノーフューチャーで五里フォグ中ですけども。
8/7(日)
ヤグラS+1→S+0
アサリS+0→S
8/8(月)
ガチホコS+0→S→S+0
8/9(火)
ガチホコS+0→S
エリア2144→2017
エリア大ピンチ。瞬間ごとに動きのアイデアが湧くときは比較的エイム(イコール身体と目の反応)もよく、追い込まれたり自陣でオタオタしてるときはあんまりだったりする。インスピレーションと身体は助け合っているんじゃないかと思う。というわけで栄養や休憩を含めたコンディショニングって大事。朝、水も飲まずにコントローラーにかじりついてやってはいけない。
8/10(水)
「幽霊」という単語について考える。仮説:「人間」−「身体と生活」=「幽霊」。「人間」−「幽霊」=「身体と生活」=「生きもの」。きわめてフィクションめいている。実際のところ、身体と生活なしには精神や思考がそもそもないだろうけれども、自分に隣接したなにか習慣化したありさまとは別の在り方を想像しようとすると、たちまち幽霊は興味深い存在になる。どんなに自分を疎外してみても、たとえば引きこもりには引きこもりの生活があって、何もしなかったといっても言葉にならない何かはしていて、食べて寝て生きている…生き物としての人間が生きている。それで、なにかを思う瞬間に幽霊が立ち上がる。と考えてみる。人間のこころがいまここ私から離れた何かを見ようとする瞬間。
ここで考えるのを一旦中断してメモが残っている。幽霊の条件。もらったメッセージにあった「幽霊の解像度が高い」という言葉の並びのおもしろさ。
8/11(木)
オゾンホールってゆっくりとふさがりつつあるらしい。
8/12(金)
スプラトゥーン3の宣伝が活発化してくるのに伴って、過去シリーズのamiiboが再販している、との情報を目にして、近隣の電器屋さんを巡る。種類によっては売り切れの店舗もチラホラある中、ヒメ、イイダ、タコをゲット。店頭に並べられていないもの(ヒメ・イイダのセット)についてもカウンターで店員さんに名前を言うともってきてもらえたりした(転売対策?)。箱の底だけ切り取ると箱込みでそのまま飾れる仕組みになっていて、なにしろフィギュア的なものを買ったのがはじめてなもんだから、フィギュア界では大概そういうものなのかそれとも任天堂がマメなのかわからないけど、人間のへんな欲望が細やかに実現されていて、感心した。
『天空の城ラピュタ』で一番好きなのは、光っている飛行石が落ちているのを見つけたムスカがおそるおそるちょこっと触ってみてから安全を確かめて拾うシーン。最高の細部。人間味。
8/13(土)
ガチホコS→S+0
エリア2017→2022
ガチヤグラS+0→S
幽霊の条件って言葉をだらだらふわふわ頭の中に思い浮かべていたが、そのものズバリ『幽霊の條件』というタイトルのGhostlegの曲があった。
8/14(日)
エリア2022→2042→2050
8/15(月)
終戦記念日。暴力はある瞬間に終わってきれいさっぱりなくなるものではない。そのことを思う。なかったことにしたがる人がおそれているものはなにか。横井庄一さんの穴蔵(思い浮かべられるのは名古屋にあったレプリカのほうだが)のことを思う。
8/16(火)
『鬼の詩/生きいそぎの記』Amazon経由で古本屋さんから届く。Twitterで一節を引用したツイートがリツイートされていたのをみかけたのだった。読み終わったらYちゃんに貸すかあげるかしよう。と一瞬思ったが、どう考えてももうとっくに読んでるだろう。
8/17(水)
引き続き幽霊・オバケについて考えたい。身体がなけりゃ言葉もダンスもないんじゃないかと言ってみたくなるが、次にその「ないもの」ってどんな感じなんだろうという気分が出てくる。おばけのダンス、おばけの呼吸。
山崎努さんの日記のなかで、悪い例として「一つの感情をだらだら表現し続けること」を「感情のオバケ」と呼んでいたような気がする。
エリア2050→2029
『生きいそぎの記』演技として起こしてみたくなるような会話の場面がいくつも出てくる。
8/18(木)
ガチホコS+0→S+1
8/19(金)
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「この花は散らぬ花……」
監督は、老樹よ幹を掌で叩いてみた。幹はぐらぐらと揺れ、紙の花弁が乾いた音をたてた。
「散らぬ花は、死んだ花でげすな」
監督の掌は、幹をやさしく撫でた。手の表情と言葉が一本の造花を庇っているように聞きとれた。
「死んだ花は、散らぬ花でげすな」
「はい」
(『生きいそぎの記』p.76)
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読み終わった。
日記じゃないけどメモ。
ゴーストフラワー(そんな言葉はない、というかおそらく違うものを指すが)→造花
ゴースト()→造()
8/20(土)
ベッドの上で『ゴドーを待ちながら』を音読している様子を録画してみる。今日はひとまず、ラッキーがしゃべりだすまで。本格的にあてどない。充電しながらマイク接続できないのがiPhone不便。別途アクセサリーがいる。
8/21(日)
エリア2029→2076→2079.8
お酒に弱いひと強いひとがいるように、自分に酔いやすいひと酔いにくいひとみたいなこともあるんじゃないかしら。私はお酒にも自分にも比較的酔いやすいほうだと思う。乗り物には強い。
口をついて出る「最悪」は言うほど最悪ではない場合が多い。
ヤグラS→S+0
8/22(月)
エリア2079.8→2044.9
10k2dで負け、9k3dで負け…つっこみすぎず、危ない位置・タイミングを避ける感覚がなんとなく掴めてきたが、このまま負けが続くとプレイングが歪みそうだったのですぐやめた。打開であわてない、よくないときこそあわてない。夏休みの終盤、スーパーマーケットにはお子さんとお買い物に来てる家族が多い。
8/23(火)
ガチホコS+1
アサリS+0→S→S+0
エリア2044.9→2082.1→2088
ぼーっと寝転がって空を見ていると、視界の隅を蜂がウロウロしている。蜂? 幻覚ではなくて、屋外にいるのですらなくて、出窓とカーテンのあいだにちいさな蜂が一匹迷い込んでいた。どうやって&どうして入ってきたんだろうか。蜂のほうも困っていたようで、おそるおそるカーテンの間からカギをあけて窓を全開にした瞬間、飛び出して行った。いいチームワーク。
8/24(水)
Discordのサーバーを作ってみた。先日のゴドーとか、公開できない・または・公開未満の試みをまとめておく倉庫みたいなものとして。誰かとシェアするのがいいと思うのだけど、公開の場で呼びかけるのは変だし、どうしたものか。とりあえず一人サーバー。誰かに会ったら紙でQRコード渡してシェアするみたいな仕組みにすればいいのか? 声をかけるべき人や知りたがっている人とマッチングする回路がいまいち見つけられてない。
8/25(木)
エリア2088→2053
100円ショップを巡ったり、モニターの上にちょっとしたものを置く台を買ったり、肉を食べたりした。
8/26(金)
ヤグラS+0→S→S+0
ガチホコS+2→S+1
『花四段といっしょ』もし実写化するなら、踊杏四郎さん、やらせてもらいたい。願望書くだけなら自由なんだから、願望はどんどん書いておこう(あとで自分で読んでどう思うかはさておき)。踊杏四郎さん、将棋界にひょっこりいるけど将棋がよくわかってないヴィデオゲーム好きの長髪バイト。私にピッタリ! と言いたい。誰に言えばいいのかわからないけど… (あと難点があるとすれば、ツッコミ役をやるには私の声質はいささかモッチャリしてる…)。今度似たような格好して写真撮ってみよう。『バクちゃん』にも思ったことだけど、増村さんは劇の視界の端にいる人たち・ものたち・言葉たちへの焦点の当て方が愉快&優しい。それで、その世界がグッと立体的に感じられる。たとえばジャスミン先生の頭上を赤ん坊がウロウロするときだ(『バクちゃん』)。たとえば『アンダーテール』の「としょんか」の存在がもたらす世界の説得力みたいなことだ。たとえばでたとえるのが難しい。必要かどうかではないことこそ必要なんだけど、それを表現するには理性が必要。リスペクト。
8/27(土)
友達が行けなくなった分のチケットを受け取って、別の友達を誘って、うまいこと都合ついて、といった約一週間の前段を経て、横浜で快快『コーリングユー』見る。スカスカなのがとてもいい。美術も人間(+衣装)も音楽も個別にカッコいいのだが、劇場空間を嘘で埋めようとしてない。センチメントや視聴覚をつよく刺激する技術的興奮や圧倒的に異物化した身体…といったような演劇の武装を大幅に解いた上で、嘘を嘘と言明し、誰かの名前が出てきたらそれが誰なのかを(=それが自分ではないことを)説明し、電話線がつながっていないことをぜんぶ見せた上で、それでも嘘をつく、という核心の部分を、生々しい(がんばってたらがんばってる分だけがんばってるように、演技してたら演技してる分だけ演技してるように見えるような)身体で示す、という態度が最高にカッコいい! 最後列で前のめりでときどき笑いながら観た。これほどまでに一般論と私を行ったり来たりできているのってなかなかないよと思う(快快の演劇活動の発端・触媒となった師であるところの、「極私的ラディカリズム」という言葉を見つけて掲げた年老いた詩人はだんだんと「私」を失っていくし、私もそのうちに私を失っていくし、私にはそれがいつどうやってなのかはわからないし……と劇の時間内に指し示された内容を抽出することはできるかもしれないが、なんといってもこれを「私たち」という形で(=ひとつのほんとうのこととして)表さず、「私とあなた」という形(=ひとつのドラマ)でも表さず、「私と私(と私と…)」という形で表していたこと(私のこと?が沢山ある状態)がつまり、先に書いたような態度のすばらしさだった。見ている私の心に降り積もったのは「ありがとうっす」であり、「とがりんぼう」であり、「まりー」であり、想像より少し深いプールであり、トイレから出てきてもまだ扉越しに聞こえているイタリア語だ。こうやって具体的に思い返してもどんどんいい)。それゆえか熱を持ってハイパーシリアスな感想と最近考えていることを交換しながら急行で直帰。友達(Tシャツ買ってた)と見れたのもでかかったと思う。
Tシャツ、めっちゃよかったけど、色あれば。白と黒の服はたまに買ってみてもなぜか結局ぜんぜん着ない問題があって、売り場で伸ばしかけた手が止まるので、世の中のグッズ考える人はできるだけカラーにチャレンジしてほしい、とひそかに自分勝手に願っている。や、待てよ、ただ私が白いTシャツを染める技術を持てばいいのか。そうすれば安心して記念に白いTシャツを買ってこれる、染めればいいんだから。面倒がってたのは私のほうだわ。思いついたら買ってたかも。早く思いつきたい。
8/28(日)
スプラトゥーン3前夜祭! 強さのグー、賢さのチョキ、以前だったら間違いなくその二択から陣営を選んだはずだが今の私は優しさのパー(なお、ぜんぜんゲーム内ではそんなこと言ってない。「攻防一体のパー」みたいなことだったはず)、を選んでフェスに参加。
実際にプレイしてみると、システム・インターフェイスの微細な不便さや試合開始直後のテンポ感やマッチング待ちでの手持ち無沙汰(コントローラーでミニDJやるのも楽しいけど…)など、プレイヤーが遅さを感じる要素を取り払う方向性での改良点がとても多い。デフォルトの移動速度すらやや速く感じる。マップの形状そのものは複雑だが、ここが攻守のキーポイント、という地点がわかりやすくなったように見えて、これもマップの理解・習熟という点で「遅さを解消する」要素だと言えそう。
中間発表ではチョキ優勢。三陣営によるトリカラバトルは新要素で興味深いのだけど、2名チームは効果的な連携が難しく、4名チームは挟み撃ちに遭う、というそれぞれのストレスがあり、しかも交代しない(1位チームが常に4名で防衛する側になる)ので、各チームに同程度のチャンスが与えられ結果的に勝ち負けがうまくバラけるかどうかという平等さとはまた別に、ちょうど同じくらいの重さのハンデが課されていると実感しにくいので、不満を持つプレイヤーは出てきそう。主観的・心情的な平等と機会の平等と結果の平等はそれぞれ全く異なっている。
結果発表、一位はグー、二位はチョキ、パーは三位だった。優しさを選ぶのははじめから負け戦だが、次も優しさを選ぶ。優しくありたいあまりだれも言ってないことを聞き取るのはもはや狂気じみている。
製品版が楽しみ。
また三ヶ月分も日記をためこんでしまったのでそろそろブログにコピー&ペーストしよう。
8/29(月)
エリア2053→2022
8/30(火)
iPhoneのメモ、起動すると画面真っ白になるバグがあり、そうなると毎度一旦タスクキルしている。検索してみてもどうやらあまりメジャーなバグではないっぽいが、私のiPhoneでは再現性高い。メモ起動する→しばらく別のアプリを使ったりスリープしたりする→再度起動する→真っ白!
あと改行するとたまに明朝体になるバグもある。基本的にゴシック体を使っているので、急に気取りはじめて叙情的な調子でなんか言ってらあ感が出る。とはいえこの「感じ」は共有可能なのかわからない。町にはときどき怖いフォント(たぶんハンコの文字が由来のやつ)で看板出してる食べ物屋さんがあるし、他の人が書体からどういう印象を受けているのかってわかるようでわからない。逆に怖い料理屋さんをやってるつもりなのかもしれない。
8/31(水)
スプラトゥーン3のシール付きスナックをいくつか買ってみたら蓄光シールだ。やったね。大人は大人買いしないんじゃないかしら。「欲望をぜんぶ叶えるのが大人」っていう価値観、大人と呼ぶには幼い気がする。三つ買って運を天に任せるぐらいの楽しみ方ってどうでしょう。大人かどうかを気にするのはほとんど大人だけだが、その価値観も大人と呼ぶには危うい気がする。
9/1(木)
パラッパラッパーのガチャポンを見つけて買う。子供だったら開けるのがとても難しそうなツメのがっちりしたカプセルに入っている。「カエル先生」ことフリースワロー(はじめて名前を知った)をゲット。昨日に引き続き小学生みたいだ。外に出るとお蕎麦食べがち。
9/2(金)
窓の外からYUMEGIWA LAST BOYのイントロが聞こえると思ったら電気自動車がバックしてるだけだった。
寝る直前、机の上をアリが歩いていた。蟻? 先日のハチに引き続いて、幻覚ではなくて、中くらいの大きさのちゃんと実在するアリだった。目の前に読んでる途中の文庫本を差し出して、乗りうつってもらって、端にたどり着くたびにくるくる回しながら、玄関開けて、外に逃した。
9/3(土)
帰り道がわからなくなる、というような気持ちがあったときに、たぶん「帰り道がわかる」のも「帰り道がわかった気になる」のも、その解決にはならない。ならないんではないか。帰り道がわからなくなるときが、あるよね、ということを別の角度で、別の方法で言ったり言ってもらったりすることに、帰り道がわからないままなのに救われる。んではないか。
部屋の片付け。思い出に埋もれて死んでいくことの無意味さ。未来に誰かと共有できるかもしれないという理由だけでかつての経験の些末な(さらに追加の解説を必要とする)証拠を保管しておくことの虚しさ。一方、ほとんど誰にとっても価値がないけど私にだけにはギリギリなにかであるものこそ私が持っていなくてどうするんだろうとも思う。すべて捨て切ってしまったら何が残るのか。そしてなぜスピリチュアルと片付けは結びつきがちなのか。
ガチアサリS+0
いよいよ3出るまでカウントダウン気分。一生懸命サーモンランやって集めた大量のギアパワーのカケラの行き所のなさを反省する。
朝、なかなか起き上がれず、劇場で開口一番、地獄へようこそ、と言う自分を想像する。自分だったら絶対にニヤニヤを抑えながらつとめて軽めに言うだろう。だがもし本当に頭のおかしくなってしまった人がその台詞を言っている、とするのなら方法は変わる。真っ直ぐな目をしたまま言われなければならない。まったく別の誰かや何かのせいにして、それに向かった怒りを込めた真っ直ぐな目をして。お約束を互いに共有するのではない、とっかかりを作るのではない、ひたすら他者に対して説得力のないふるまいこそが本当におかしくなってしまった人のそれだ。この想像を経てヨシ、って起き上がるってどういう効能?
9/4(日)
ダイアン津田さんの「なんっっっでやねん!」の「っ」やっぱり面白すぎる、お風呂で思い返しただけで、面白い。不条理さに応答する身体、「っ」の長さ。
香港料理屋さんの壁に「1/1,400,000,000」と書かれたTシャツが掛けてあった。それはそれで自由というにはあまりにも不均衡なことだ。自由の失われた(であろう)香港のその後があらためてすこし心配になる。
100円ショップでクリアファイルをこれでもかという量まとめて買ってきて片付けは続く。一色ずつのつもりでカゴに入れていたところに水色のが重なっていたのをそのままピッとやらずに、「これ2冊でいいですか?重なってましたけど」と店員さん。ありがたい。
明朝体バグのせいでこの辺はもはや全面的に明朝体。簡単な直し方がわからない。いちいちゴソゴソとゴシック体の文章をコピーしてきてスタイルごと貼り付けて対応する。ここからはゴシック体に戻る。
9/5(月)
エリア計測中
アサリS+0
ヤグラS+0→S
「明朝体」と書くとさらに自動的に「みょうちょう」と判定され、アンダーラインを引かれてカレンダーへのリンクが貼られてしまう。どこにいても書けるしデバイスによらないのはいいんだけど、いろいろと不便すぎるので別のメモアプリを探そう。
9/6(火)
歯医者さん定期検診&クリーニング。前の前に住んでた家の近所なのでたいへん遠い。ただ周りを歩いているだけでも気楽で愉快だ。二駅分歩く。
古本の端折れ千切れ小灰蝶
調べてみるとシジミチョウは春の季語扱いが基本らしい。最近よく見かける。
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