新橋うろうろ。なにしろ新橋の大型連休中、チェーン店ではないタイプのお店はここぞと休みをとっている。Mさんとしゃべっていて、ごくみじかい作品ができた。と言われて、たしかにできていた。『ひとりぼっちになるための朗読教室』、家で一枚のカードにする。
自意識以前の世界(たとえば近代以前)のことをすっかり忘れていた。言われて納得。たしかにそういうあり方はずっとあって、クマ撃ちを「こわいから、やる」というのは、それはそうだ。自意識を当たり前のものとしすぎていた。ちょっと反省。
人間の最小単位がひとによって違うんじゃないかという仮説。人をつねに上だとか下だとか判断してる人の最小単位は二人で、一人になれてないんじゃないか。他人を傷つけて、その責任を負わないことで自分を確かめるような人間のメタ認知の欠如を、結局一人のさびしさに耐えかねる人間の振る舞い、と考えてみたりもする。青菜ラーメン。
励まされるようなことばかりである。帰り着いたら超ねむい。
5/4(木)
『ひとりぼっちになるための朗読教室』追加コンテンツとしての『部屋にひとつも詩が見当たらない人へ』。keynoteに正方形のページをつくってみるとポストイットみたい。
5/5(金)
いろいろあって髭が全白髪になって大半が抜け落ちるという夢の終わりの方だけ覚えているんだけど、セルフ・イメージが髭デフォルトになっていることにびっくり。
夜、ロフトプラスワンにU-NEXT配信開始記念トークイベント聴きに行く。ご挨拶もさせていただいちゃった。出て行っただけで桁違いにあたたかい反応だった。あとはひたすら面白かったしライブかっこよかった……って完全にお客さん気分だ。カットされた名場面集はほぼ覚えてた(舞台だったらどれも核になるような場面だったので)けど、自分のセリフだけ完全に忘れてた。そこもお客さんに笑ってもらって、成仏というか消化というか、思いもよらないラッキーだった。映画ができて、上映されて、全国に広がって、配信もはじまって、NGシーンやカットシーンを見てお客さんと一緒にみんなで笑っちゃう、なんて冷静に考えてみるともう奇跡みたいなもんだ、その最中には笑っちゃってるだけなんだけど。「そば湯」みたいなおまけまで味わった……というようなことを思ったのは「6人ソーバー」のせいかもしれない。
気が利く人間になりたい。気が利く人間は決して書かないフレーズ。人に対しては気が利かないとかぜんぜん思わないけど、自分に対しては「まあ本当にこの人は気が利かないね」と思うことがある。ややあてはまる。アンケートかい。
5/6(土)
南南西の風10メートル/秒。立夏。夏立ちにけらし。連休の新宿ぶらぶら。無限に話せそうだし、無限に黙ってもいられそうな気持ち。旅行の話や読書の話や生活の話を聞く。個人的な営みがあって、個人的な不安があって、個人的な喜びがある。神社まで歩いていって柵によりかかってお団子食べる。ふたについたあんを味見。結局自分が自分だから面白いと思っている、と言えるなら、それは他人のことをあたかも自分のように思い込むよりずっと正確な認識で、そこからようやく、なにか、はじめることができるように思う。
NHK「百年インタビュー大江健三郎」より。エラボレイト(「丹精する」)の"エ"は"外に向かって"。何度も書き直す、丹精する、正確にする、豊かにする、呼吸を整える。
5/7(日)
ゲームって、勝率とかランクとかレートって数値化されて可視化されると気になるけど、勝っても負けてもプレイ体験に創意工夫と驚きがあればおもしろい。つまり「いいね」とか「バズり」じゃない孤独なところに原点はある。と私は一人のゲームプレイヤーとして思う。でも同時に、ゲームって、架空であれ、相手がいないと張り合いがないような気もする。たとえ一人プレイだとしても。相手のいる孤独。
5/8(月)
しゃべったり、
って書きかけてあって、ここに、誰と、何の?っていうことなのか、人間はそもそも、みたいなことなのか、完全に謎です。
と、書いていて、思い出した。人はしゃべったり書いたりしているうちにはなかなかしゃべったり書いたりできない自分のことを思い浮かべられないな、と思ったんだった。テレビで、石原良純さんの名前だけが書かれた手紙を見て。
5/9(火)
ウクレレ練習してる人が近所にいるっぽい。
空脳のコーナー始まったのかって勢いで「イヤー!」ってクシャミの前につけるおじいさん。誰に席を譲るのか決断するのが困難なほどお年寄りだらけのバスの中にいる。①車両中ほどにある段差を乗り越えてこられていて②アイコンタクトがとれて③譲ったときにトラブルにならなさそう、と見てゆくと、その人に座席が必要かどうかとはズレた、別の基準がうまれてしまう。
「悪名は無名に勝る」という実にイヤらしい格言がありますけども、どんなやつなのかわからないやつのほうが、ハッキリとろくでもないやつより、かえって不安に思われる、という側面がある気がしますね。急な語りかけ口調。
『いっき』や『スペランカー』が後年リメイクされたりしているのは、「クソゲー」という称号があってのことで、もしその名付けがなかったらただ漠然とむずかしい・つまんない・不出来な作品として押し入れに眠るほかなかったかもしれない。つまりはっきりした悪名というのは誰かに見つけてもらう目印として、よくもわるくも、はたらく。でもそもそも「クソゲー」には愛らしさもあって(ゲームというインタラクションのなかで、人間の操作に対して難しすぎる反応を返してくるのは、思った通りにならない自然や動物が面白く思えるのにも似ている)、単純な悪名とは言えないか。
パペティア(Puppeteer)という単語を見かけて(NTL版ライフ・オブ・パイの紹介記事から)、なんか英語の歌詞の曲に出てきて発音自体が印象深かったのが記憶にあるんだけど、なんだったっけ。とても検索しにくいタイプのなんだったっけ。特にそれが勘違いであった場合にはほぼ検索不可能。
5/10(水)
なにかの記念に植えられた木のうち、どれくらいが育って、残っているんだろう。
5/11(木)
腕は一人で組めるけど、肩は一人で組めない。
5/12(金)
風で帽子が飛んで行かないようにひもとクリップで留めてある親子を見かける。「いいですか?」ってなんでも聞いて回るおばあさん。
5/13(土)
雨。
先日メモ用紙に描いたちいさな絵に色を塗って写真に撮ったらそこにSiriが「吹き出し」をつけてハンス・バルドゥングの版画ではないか?と提案してきた。でたらめにもほどがあるけれど、バルドゥングはルネサンス期の画家で、アルブレヒト・デューラーの弟子。というようなことを誤認識によってはじめて知る。もし間違いや偶然がひとつもなくなったら、と考えると、それはそれでおそろしい。バルドゥングさん、人間は歳をとって死んでゆくよ、というモチーフを何度も描いているようだ。
絵をカメラで撮って、線を抽出して、ノイズをすこし消しゴムで消して、Tシャツにしてみる。
5/14(日)
'Do not go gentle into that good night' Dylan Thomasの詩。怒りや反逆をいまの人びとは避けすぎているのかもしれない。ゆえに洗練されていない、というか、その思いをぶつける先を間違えて、なにやらみみっちいことになっている、のを見かけるような気がする。手に馴染むまでよく持っておくという選択肢もある。怒りを。
死んでゆくなよ!という"理不尽な"怒りを、なにやら論理的に消費しようとしてないか。
5/15(月)
「おばけ教室」メモが増えてゆく。厄介者ネットワーク、やっぱり作ったほうがいいと思った。
5/16(火)
眠くて爆発しそう。
5/17(水)
近所の神社の境内でヘビを見かける。特徴を検索してみるとどうやらあれはアオダイショウだった。ネズミが人類の天敵だった時代には今の何倍もありがたがられてたんじゃないかしら。スピリチュアル的に富や豊かさのイメージがもたれがちなのも、その辺の食物連鎖のありがたみが影響しているのかもしれない。
ヘビが住んでそうだなと思うような穴に案外ヘビはほんとうに住んでるんだろうか。
「SNS苦手なやつはエンタメ向いてない」ってさらば青春の光のYouTubeでなんの気無しにぽろっと言ってて、なんかそれ聞いた瞬間、すごくもったいないと思った。SNS苦手だろうが表現にかかわったほうがいいひとは絶対にいる。まあでも「エンタメ」で区切ればそうなるか。返す返すもあんまり好きじゃない単語かもしれない。「エンタメ」。
5/18(木)
「自助」という文字を見かけるとビュッフェが思い浮かぶようになってしまった。
5/19(金)
オドぜひの「ぜひらー」の「ら」はどこから来るんだろう。
5/20(土)
THE SECOND面白かった。面白いというのは(まず、まっすぐに面白いところがあった上で、ではあるかもしれないけど、それだけではなくて、)どうしても面白いと思えないことがあるのも面白い。
5/21(日)
「私怨」と「義憤」を対置するようなツイートをうっかり見かけて思ったこと:①まずこんなものを「おすすめ」しないでほしい。②こういうことを書けるひとはおそらく、自分なら見分けられると思っているが、なんならそれが間違いのもとではないか。③書けるひと、といったん言ってはみたものの、人間だいたい書くか書かないかはともかく書けるので、それはほとんど人間のことだ。④自分/誰かによって書かれた物語に引っ張られることのよさは「想像力」や「創造性」といった文言で称揚されるけれども、わるさだって当然あるわけで、それをなんと呼ぶべきか。⑤「呪い」かもしれない。⑥「これは私怨を出発した義憤で、あれは義憤のふりをした私怨だ」なんて他人に向かって言えるほどの材料なんて、いつだって、あるだろうか。⑦「そう思いたい」ということはある。誰でも。書ける。だがほかの誰かの心を決めることはできないだろう。ましてや「怨」なんて。⑧自分の心はどうだろうか。書けるだろうか。⑨おわり。
このところずっと、わたしにとって切実に必要なのは物語ではなくて、詩と批評なんじゃないか、という気がしている。それで、なのか、「名前をありがたがる」祭礼の場所にはいかずに、ときどき誰かと話したり、ゲームばっかりやったり、している。物語中毒とソーシャルメディア依存はわりと似たようなもんじゃないのかな。たとえば有名人の訃報がわーっと広がる中で、たまにきちんと個人的なことを書いているひとを見かけるとホッとする。
5/22(月)
夕方、たくさんの人が一斉に帰ってゆく場所がそれぞれ違う、という当たり前のことが急に不思議に思える。また人がたくさん出かけるようになって、当たり前のことに目新しいような気持ちで行きあう。馴染みのない駅前の再開発のために置かれた長大なフェンスの前で。フェンスには再開発後の理想的な光景が印刷されている。
陸の孤島みたいな位置に置かれた電話ボックスを見つける。
5/23(火)
音楽の機材紹介YouTubeをたまに見る。ブエノスアイレスの人が考えてつくった、コードに特化したピスタチオ色のMIDIの機材。なまりのある英語。自動で字幕が生成される中に、実際にはまったく存在していない[applause]とか"Thank you"とか"foreign"とか……人間の耳ではけっして空耳できないタイプのAI空耳がしばしば発生している。
5/24(水)
圧倒的にさわやかな気候。ふらっとバスに乗って動物園に行く。
弁天堂で浴酒祈祷というのをやっているらしい。シャンパンファイトのような光景を思い浮かべてしまったが、お堂の中はしーんとしていた。人のお土産に芸能お守りをひとつ買う。
5/25(木)
きのう撮った写真を眺めてみる。どちらかというと地味な色の動物を多めに撮っていたことに気がつく。猿が仏像のよう。パンダは非常にパンダしている。
5/26(金)
勢いよくレタスやキャベツを食べてると自分が青虫になったような気がしてきませんか。
5/27(土)
「そういうもんだと思う」ことが人間の生活を成り立たせてるときがある。たとえば納豆。「そういうもんだ」と思ってなかったらぱっと見ではだいぶ食べにくい。期限切れで食感がシャリシャリしていても、それがうまみ成分の塊であることはもうわかっていて、難なく食べてしまう。
「そういうもんだ」はしかし、考えないで済ます回路を成立させもする。怠惰な脳みそ。
デパート物産展の一角でお蕎麦食べる。戸隠のお蕎麦。壁際に置かれた机と椅子はほとんど取調室(入ったことないけど…)のようだけど、おいしい。誰もそば湯を飲んでないっぽかったのでおそるおそる、そば湯、ないですよね? と聞いたらぜんぜんあった。赤いカクカクしたそば湯のときしか見かけない入れ物。大満足。
5/28(日)
ラーメン屋さんでラーメンチャーハンセットを食べているとラジオはトーキョーエフエム。二人くらいのパーソナリティがゲストを紹介すると眉村ちあき。持ち帰り寿司のお店に貼られていた「閉店のご挨拶」に曲をつける、という企画らしい(…あとで調べてみると『世界には歌詞が溢れている。』という番組)。曲名はそのまま『閉店のご挨拶』。不意打ちのよさ。
短歌をめぐるNHKのドキュメンタリーを見ていて、作者本人の音読が圧倒的によい。書かれたものに対して、距離がないフリをして真に迫ったように読んでもこのよさにはなかなか敵わない。この差は巧みさでは突破できないように思う。(ここでひとつの手段として「棒読み」というのが出てくる気がしているんだけど、いまのところ、その理屈をつきつめよう、という感じでもない…)
5/29(月)
しとしと雨。だらだら歩き。
5/30(火)
「人を試すなんて動物のすることだ」というなんともインチキな警句のような言葉を思い浮かべる。
スプラトゥーンバンカラマッチS+10には到達したので、次のシーズンは即Xマッチに参加できる。
5/31(水)
劇場には行けない(行きにくい)けど稽古場には行ける、みたいな感覚についてはもう少しつきつめて考えてもいいかもしれない。もっと言えば部屋にはなぜ、いられるのか。デパ地下にも全然いけるし。道も歩ける。公園も大丈夫。美術館はどうだろうか。
なんて考えてたら、稽古場に行く用事を急にもらう。
6/1(木)
のむヨーグルトのビンが割れてしばらく経つと、割れたガラスの破片が地面にべたべた貼り付いてますます危険。アリも集まってくる。
「お客様同士のトラブルにより全線で発車見合わせ」って繰り返しアナウンスされると、それはどんな人たちなんだろうか、と考えはじめてしまう。遠い駅でのトラブル。電車は来ないし。
というわけで微妙に遅れて「思いつきゲスト」に。コメントしなきゃいけない、という状況になってはじめて、自分がふだん大づかみに把握していることが言葉になりはじめたりもする。報酬はケランチム。
言ったことをそのまま書くよりはその先のことを少し書いてみたい。①いいセリフが罠だと言うなら、それはなぜ、どのようにして、罠なんだろうか?②私たちが興味深く見る映像のなかでは"事件"が起きている。と、ひとまず考えてみる。と、言ってみたものの、私たちの目をひき、カメラを動かしうる"事件"と、見え透いた企みとの違いはどこにあるのか。"事件"を起こそうとしてしまったら、それは案外容易に後者へとスライドしてしまうのではないか。そのような滑落を回避しながら作為的に"事件"を起こすやり方や条件はどんなか。そもそも"事件"を別のことばで説明するなら、なんだろうか?③「うまくいく」と「うまくいかない」のどちらもが許されている場は間違いなく貴重な発見の機会(になりうるの)だが、そもそも「うまくいく」と「うまくいかない」を隔てているのは一体何なのか。それでも「うまくいく」ことを目指さずにはいられないのは、なぜだろうか?
ワゴンタクシーから飛び降りて、雨の中、3.5駅分歩いて帰る。傘なし。靴と服とカバンの中の文庫本はめちゃくちゃにビチョビチョになったけども、夏のぬるい雨に一時間程度うたれてもすぐにお風呂に入ればぜんぜん問題ないのがわかった。
6/2(金)
まさかいくらなんでも寿司をひさしぶりにいただく。前からさけフレークのコーナーあったっけ? と疑問に思ったけれど、名前から言って「ます」「さけ」「かに」「いくら」を入れると考えるなら絶対にさけフレークはあったのだった。
6/3(土)
100円ショップのタッチペン+無料のお絵描きアプリが楽しくてTシャツをもういくつか作ってみる。SUZURI夏のTシャツセール。
それにしても。入管法改正をめぐって明らかになってきている事態の深刻さ(難民認定制度の運用そのものがどうやら不適切と言っていいほど不明瞭である…柳瀬房子氏が全件数のうち圧倒的な割合の審査件数を任される一方、相対的に難民を認定する傾向にある担当者には入管からだんだんと審査が回ってこないようになっていたようだ。一人当たりにかかる審査の時間を計算すればいささかおかしなことになる。ところがよりによってこの柳瀬氏の「難民を探して認定したいと思っているのに、ほとんど見つけることができない」との発言が立法の根拠とされている。この状況のいびつさは言うまでもない)と、それによって直接に悪影響を受けている/受けうるひと以外のひとびとの反応の鈍さのギャップが大きすぎるように感じる。もちろんこの事態、それから法改正がまさに行われようとしていることもショックなのだけれど、この鈍さがなにより恐ろしいと思う。直接にダメージを受ける人がこの社会の中にいる人数で考えれば少ない、ということがこのような反応の鈍さに繋がっているのだとすれば、いよいよ深刻にまずい(なにしろ難民であれ、外国人であれ、なんらかの事件の被害者であれ、人数だけで考えるなら、常に少数なのだ)。社会に参加し、社会を構成するひとたちが、当事者であることを捨てている。それでどうやって抱えている問題を改善できるというのか?
ある問題によってダメージを受けた人、受ける人だけじゃなく、問題を引き起こす制度や権威を追認している人間だってとうぜん当事者だ。損得で考えるからわかんなくなるんだけど。「なるべく黙っておいて」「知らなかったことにして」得をとろうとする人は都合よく当事者を脱ぎ捨てている。いざ知らなかったでは済まされないとなるとなにやら感傷的な弁明の発表に勤しむ。それで社会はましになるチャンスをまたひとつ失う。ますますひどくなる。実は大損害だと思う。
ニュース参照元:
https://www.tokyo-np.co.jp/article/253697
https://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/513769
6/4(日)
自意識まみれの表現、というのは存外多くの人に好かれるものだと思う。作っている人や出てくる人が個別に「ナルシスト」かどうかとは別のところで、ある種の作品はナルシスティックな態度を示している、とでも言ったらいいのか。なぜそれが好かれるかというと、おそらく、大前提がゆさぶられないからだ。枠の外について考える必要がない。ナルシスティックに、自分を疑わない態度は、それが結局どこに辿り着くかを問題にせず、ただそのときの気分を最大限味わう時間をくれる。根拠のない自信こそが、安心して一体化したり、感情的になったり、してもよい根拠になるのだ。
ある作品に対して、おそらく私よりもずっと"きれい好き"なひとが「何この自意識だらけのくだらない……」というような容赦ない言葉を書いていたのを読んで、それまで視界にべったり染みついたセンチメンタリズムを一瞬ですっと引き剥がせた。のだが。もともと私はどちらかというとそのときどきの感情に右往左往させられるのを楽しむのにあまり抵抗がない。泣かせにきたらまんまと泣くが、そのあとで考える。
フィクションを見る、ということが持つさまざまな機能のなかでも、見ているあいだ、思う存分感情的であれることがいま、異様に価値を持ってしまっているんじゃないか。他人の目がなければ暴虐の限りを尽くす独裁者になれる、その権益を確保するやり方のひとつが、観客席を一席おさえることである。
ともあれ、劇場は、フィクションは、感情のためだけにあるわけではない。悪い意味で使われがちな「劇場(型)」や「ポエム("ポエマー")」をあるべき場所に戻す方法を考えたい、とは思っているのだけど。「してはいけない」ネガティブリストではたどり着けない感じ。
6/5(月)
自分の寝言は聞けない。
でもまあこうして書いている日記はほとんど寝言みたいなものだ。
でも自分の寝言は聞けない。
6/6(火)
夢で文章を読んでいて、それがあまりにまったく相容れない考え方だったので目が覚めた。なんて書いてあったのかうまく思い出せないけれど、大意としては「誠実さなんて意味がない、人間にとって立場こそが大事」というようなことだったと思う。よくもわるくも、もうちょっとうまく書いてあったんだけど、思い出せない。オイオイ逆ダロ!って感じでもうハアハア言いながら目を覚まさずにいられなかったんだけど、この順でものを考えてるひとだって確実にいるわけで、ゾワゾワした。誰のどんな文章(というテイ)だったんだろうか。二度寝すると、自分のいるビルの5階がふっと浮き上がって8階ぐらいの高さから今度は急降下しはじめていつまでも落ち続ける夢。窓の外は真っ暗な土なのに、まだ落ち続けている。これはゾワゾワはしない、安定的悪夢。
NHK「うたコン」をだらっとみていたのは「テレビ70周年」をキーワードに爆笑問題が出てきたからだけど、後半、菅原洋一さんがピアノ伴奏だけで『知りたくないの』を歌う。90歳。すごいものを見た。富と名声についてはよくわからないけれど、幸運と鍛錬のことを思った。「歌は語れ。セリフは歌え」は、似たような言葉を時々耳にするけれど、こういうことだ、というのを見た。
日記に番号をふってみた。
6/7(水)
ツイッター経由で知った『彼岸花』。おおまかには時系列順であるストーリーを語っているけれど、時間感覚としては同じことを何度も少しずつ角度を変えながら繰り返しているように読むほかない。クールな表現をふまえて生きることはクールばかりではいられず、しかし、その表現としてはこれまたクールなのだった。まいった。まだまだ大変なことになりそう。というのは作品も生きていることもだ。
序盤中盤で「何もしない」についてなにか、あたらしい角度の光があるようにも思った。
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