2014/08/21

恐怖の正体

 わたくしよりものわかりのよい人におびえて何も言わないのはつまらないから、くだらなくとも時々なにか書くことにします。
 近ごろ高橋悠治さんの本『ことばをもって音をたちきれ』を読みました。絶版なので図書館で探したら、あった。これは1970年代に世に出た本ですけれど、書かれていることばや問われている何かは今も使えるように残されている。使えるというのは、理解できるとか便利であるとかお金が儲かるとかいうことではなくって、自分なりに誤解できる、ということで、鬼の首をとったように誰かの言葉をそのまま掲げるんではなくて言葉とそれにまつわる、態度、を自分のなかに写し取ることができている、気がしています(もちろん、これも誤解だ)。
 それからしばらくして『高橋悠治コレクション1970年代』(平凡社ライブラリー、これ誰かにちくま文庫って言っちゃった。間違いでした、ごめんなさい。)を買ってすこし読みなおしたら、ほとんどそのままのことを非常にはっきりと書かれた一節があった。
 ひとはことばでかんがえる。思想はことばではなく、ことばも思想ではないが、とりとめもなくとびちろうとする思想をつなぎとめるのはことばである。ことばはソバのつなぎだと、折口信夫は言った。しかし、眼にみえるのは、このつなぎの部分なのだ。思想は、のこされたことばを手がかりに毎回つくりなおされる。ことばは世界の種である。
 思想のためのことばの、いちばんたいせつな要素はリズムである。ことばのリズムは、日本語の五・七の拍や、ヨーロッパの詩の律や音韻のように単純な周期性の図式につくされるものではない。それは複合体としてのことばと思想の交点でバランスを測定する道具なのだ。リズムのよしあしは、ことばが記憶され、特定の文脈をはなれて引用され、誤解される度合いにかかっている。これらの条件をみたすことばは、アクセントのくりかえしをふくみ、デリケートで吹けばとぶようなものではなく、おもいがけない不調和で注意をとらえる。 思想が誤解されるのは、それが紙の上でおわるものでなく、現実に向かって踏みこんでゆくためにあるからだ。誤解されない思想は、ものの役にたたない。
(『高橋悠治コレクション1970年代』平凡社、2004年、pp.35-36)
 書かれていることをただ言い換えただけになってしまっていて、恥ずかしい。それにしたっていいことばじゃありませんか。「音楽」とはまったく別の場所にこの本を置いて、わざわざ誤解したくなるような魅力を感じました。

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