2016/04/27

歴史上の人物は全員死んでいる

 『ヘイトフル・エイト』で何で登場人物が生き残ったりしないのかというと、おそらく誰もヒーローではないからだ。圧倒的な悪役も万能のベビーフェイスもいない。お話の軸になる人物がその時々で現れるだけだ。この世界観は残酷だろうか。ぼくはむしろチアフルだと感じた。すこし気が楽になる。

 もう死んでいる人は死んでいる。歴史上の人物は全員死んでいる。歴史、といって皆が名前を唱えられる人たちの話ではなくて、いやもちろん彼らも死んでいるが、特に名前入りで歴史に残ったりはしない人たちもまた、死んでいる、ということをぼくは時々忘れてしまうような気がする。南北戦争後のアメリカという辺境でどうにか一番マシな選択をして、つまりなにかよいことの芽を残すようにして、死んだ人たちがいる、ということが本当にあったかどうかは関係なく、すとんと腑に落ちたのは、本当に丁寧に作られた「つくり話」の効用なのだろう。こうなると忘れないような気がする。

 『ヘイトフル・エイト』の劇中にはいくつも「つくり話」が出てくる。厳密に言えば、話している本人以外にとっては本当か嘘かわからないエピソードを登場人物たちが話す。どれもアヤシイ。しかし観客には嘘だと断定する証拠もない。話している内容ではなく話し方で本当かどうかを見分けようと試みるしかない。わずかな痕跡を別にすれば、真偽を判別する根拠はその部屋の中にはなく、いま話している人物を見つめることになる。
 各々の必要に応じて、自分を殺させないようにするため、挑発して銃を手に取らせるため、初対面で(白人に)信用してもらうため、さまざまなエピソードが語られる。その風景は本当であれ嘘であれ一度は頭の中に思い浮かぶことになる。映画だからそのつくり話に沿ったカットがときおり提示されるけれど、というかそんなことを言い出したら全部つくり話だけれど、やはり実感として真偽はわからないままだ。だいたい、この話は嘘だと告白したところで、その告白が本当かどうかわからない。
 劇中何度か出てくる「リンカーンからの手紙」はよくて、本当であれ嘘であれ、いいな、と思う。それがこの映画全体のフィクションの楽しさと通じている。よくもわるくも説得力は真偽とは別のところにある。少なくとも「つくり話」の中では。


 余談だけど、最近『真田丸』を観ていて、人生ではじめてちゃんと大河ドラマを追いかけている。自分がおじいさんになったような気がしちゃう。実際自分や自分のまわりの人たちの人生がだんだん大河化してくるわけで、大河ドラマの大河さが少し身近になってくるということはあるのかもしれない。大河さってなんだ。「ヒューマン・ドラマ」ってなんだ。「J-ROCK」ってなんだ。
 閑話休題。ところで、歴史をくわしく知る人からしたら、この人たちがいつどこで死ぬか全部わかった上で、見るんだから、なんといったらいいか、すごいことだよね。当たり前なんだけど。これはこれで「歴史上の人物は全員死んでいる」感がある。そんなことがいちいち新鮮です。たぶん物語ではなくてものがたりかたを見ることになる。だから世間では演じ手が話題になりやすいのかもしれない。作り手も演じ手も史料のすくない人物をここぞとばかりに膨らませたりするのは楽しいだろうなあ。制約がある中で自由が威力を発揮しているのを見るのは愉快。
 もっともぼくはあの登場人物たちがいつどこでどうやって死んだか知らないんだった。ドキドキしながら歴史のお勉強。

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