2016/05/04

ほとんど顔しか覚えていない

 『キャロル』を友達に薦められて見に行ったのはたしかもう一ヶ月以上も前のことで、どの映画館に行ったかさえ思い出せないのだけれども、だからといって印象が薄いかというとそうではなくて、自分自身の記憶の仕方にはありがちなことなのだけれど一点豪華主義みたいな感じになっている。
 映画の最後、ゆっくりとカメラが近づいていって(つまり、登場人物が近づいていって)、じっくりと人物の様子を捉えている。近づいていく側も近づいた先にいる側も決然とした人物で、なので再会はあまりにも決定的すぎる。カメラはずっとこちらに気がつかないでテーブルについている様子を写し続ける。だがこの長い間はカメラのこちら側の人物が逡巡しているから生まれているのではなくて、ただ二人のあいだで機が熟すのを、誰もが待っている時間だ。まだか、いまか、これから、どうなるのか、映画を見ている観客(わたし)がきっと「…いまだ!」と思った瞬間に、ずっと画面の中央にいた人物が視線を上げて、気づき、カメラを見る。そしてその、カメラを見ている(つまり、登場人物を見ている)顔そのものがもっとも決定的な事件。
 ひとつずつ数をかぞえるような引き延ばされた時間のあとで、こんなになにもかも語り尽くすような顔があらわれるのだから、とてもびっくりした。この一点でこの映画はよい映画だった、というようなことに、ぼくの中では、なる。
 映画の話というよりはわたしの記憶の話になってしまった。

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