カンパニーデラシネラ:https://derashinera.jp/activity/hadakanoousama_chichibu/
秩父宮記念市民会館:https://ccbhall.saitama.jp/events/event/8867/
私が時間芸術をいまだに好きでいるのは、最初からなにかとんでもないものが確としてあるからではなく、たとえ自分や世の中にとってなんでもないものであっても、それが決定的に違って見えてくる瞬間があるからだ。
椅子に座っていた。立ち上がった。すこし離れたところまで歩いた。ふと見ると、さっきまで自分が座っていた椅子は「椅子」であると同時に「さっきまで自分が座っていた椅子」でもある。もしこの様子を見ている人があれば、椅子は「椅子」であると同時に「さっきまであの人が座っていた椅子」だ。
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油断すると人はストーリーで頭を埋めつくす。厄介なことだ。唐突な話だが、たとえば「一夜限りの奇跡」とか「輝く才能」というのは一種の売り言葉であって、真に受けるようなものではない。だが、積極的にそう思い込めば、目の前で起きた出来事、どころか実際には自分が目撃していない物事すら、「奇跡」や「才能のきらめき」になる。"コスパ"はいいが、どうだろうか。もし椅子が「素晴らしい人が座っていた素晴らしい椅子」になるなら、それはどちらかと言えばむなしいことじゃないだろうか。さらに言えば、「素晴らしい椅子を見た(知った)素晴らしい自分」になれるとひとたび信じてしまったら、以降その(バカバカしい)「素晴らしさ」を否定することは他ならぬ"素晴らしい"自分を否定することになる。
権威主義的な物の見方というのはこうして人を飲み込む。一見無害な文化芸術への愛好心も、大いにネームバリューに依存した興行・商業的な成り立ちから逃れることはできない。違和感はある。だが人と分かち合うのはむずかしい。考え続けることはときにストレスである。だったら積極的にそのサイクルの波に乗って楽しんだほうが楽しい、なぜなら楽しいから、「人生楽しんだもん勝ちっしょ」って誰の声でもない声で脳内再生余裕、楽しい=楽しい=楽しい! なんで日常生活がこんなにストレスフルなのにわざわざストレス抱え込まなきゃいけないわけ? なあ、常にポジティブであれよ、チームの和を乱すなよ、おい、人前に出るならさあ、暗い顔すんな、不安になるようなことをひとつも言うな、全員黙ってニコニコしてろ!
と、私が決して思えないのは、たまたま、そういう物の見方が生み出す犠牲者の側になったからだ。事件そのものはどちらかといえば偶発的にも思えたが、責任ある立場の人間が責任を踏み倒していることを「偉いから偉い」「素晴らしいから素晴らしい」という権威主義者たちが支えているのを知った。同じようなことは、ただ私が知らなかったか見ないようにしていただけで、ずっと繰り返されていた。中立を装う人びとは全く公正ではなかった。焼き鳥屋に呼び出されて「できれば大ごとにしないでもらえると」と言われた。彼ら彼女らの忘却の歴史の先に私がいた。ソーシャルメディアでは彼ら彼女らの心の平安のためだけに二次加害もなんのその、架空の「喧嘩両成敗」が行われ続けていた。もし私が黙って(感情はさておいて、自分の利益を最大化して)いれば百年後にも同じことが起こるだろう。起きたことは決してなかったことにならないが、次に同じことがあってはならない。私は私の事件を「事件化」することに最終的には同意した。ずいぶん経って謝罪文の公表を前提とした謝罪の打診があり、まず前提なしの謝罪であれば受け入れるとしたが、すると謝罪自体がなくなった。「被害者の意向により公に謝罪できない」と虚偽の説明を関係者に流布していた会社があり、正確な情報を説明した上で、何故そのような行動に至ったのか説明するよう求めてはみたが、「この賞は歴史と権威のある賞である」と自己紹介する怪文書を公表していた。いまも多くの人びとはその賞をありがたがり続けている。私からすれば意外なことだ。(その様子をさんざん見てきたのでいまの政府与党がぬるぬると支持され続けているのはぜんぜん意外ではないとも言える)
私だってこんな一段落を書きたかったわけじゃない。かつての私自身の行動や物の見方も同時に責められている。別にあなたがたが嫌いなわけじゃない。せめてそれくらいのことはわかってもらいたいが、私は贅沢だろうか? さっきから、というか、もうずっと、他人に求めすぎだろうか?
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ひどいことなんて、ひとつもないに越したことはないのだ。せめても、取り返しがつかないから、考えているのであって、ひどい目に遭ってはじめて考えられましたなんていうのは、人間の人間性への冒涜だろう。私は愚かだったが、現実にひどい目に遭わずとも、人間が考えるチャンスはある、と信じたい。だから私にとっていまだフィクションは決定的な存在である。戦争や差別や暴力の前に。戦争や差別や暴力のあとで。
人間性は芸術性と対置するようなものではない、というか、芸術性という売り言葉が、人間性と対置するほどのものではない。人間性は、目的でもないし、結論でもない。前提だ。
名前はつまらない。前向きかどうかはどうでもいい。たくさんの人の心は絶対にひとつにはならない。それでいい。いまとなっては具体的な瞬間だけがいい。面白い。意味がある。
いつも、その瞬間にどうにか辿り着きたい。
私がずっと惹かれているのは、ストーリー・テリングという言葉でいうなら「テリング」の部分なんだと思う。