ラベル note の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル note の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2026/07/08

誰かが座っていた椅子

 私が時間芸術をいまだに好きでいるのは、最初からなにかとんでもないものが確としてあるからではなく、たとえ自分や世の中にとってなんでもないものであっても、それが決定的に違って見えてくる瞬間があるからだ。

 椅子に座っていた。立ち上がった。すこし離れたところまで歩いた。ふと見ると、さっきまで自分が座っていた椅子は「椅子」であると同時に「さっきまで自分が座っていた椅子」でもある。もしこの様子を見ている人があれば、椅子は「椅子」であると同時に「さっきまであの人が座っていた椅子」だ。

🪑

 油断すると人はストーリーで頭を埋めつくす。厄介なことだ。唐突な話だが、たとえば「一夜限りの奇跡」とか「輝く才能」というのは一種の売り言葉であって、真に受けるようなものではない。だが、積極的にそう思い込めば、目の前で起きた出来事、どころか実際には自分が目撃していない物事すら、「奇跡」や「才能のきらめき」になる。"コスパ"はいいが、どうだろうか。もし椅子が「素晴らしい人が座っていた素晴らしい椅子」になるなら、それはどちらかと言えばむなしいことじゃないだろうか。さらに言えば、「素晴らしい椅子を見た(知った)素晴らしい自分」になれるとひとたび信じてしまったら、以降その(バカバカしい)「素晴らしさ」を否定することは他ならぬ"素晴らしい"自分を否定することになる。

 権威主義的な物の見方というのはこうして人を飲み込む。一見無害な文化芸術への愛好心も、大いにネームバリューに依存した興行・商業的な成り立ちから逃れることはできない。違和感はある。だが人と分かち合うのはむずかしい。考え続けることはときにストレスである。だったら積極的にそのサイクルの波に乗って楽しんだほうが楽しい、なぜなら楽しいから、「人生楽しんだもん勝ちっしょ」って誰の声でもない声で脳内再生余裕、楽しい=楽しい=楽しい! なんで日常生活がこんなにストレスフルなのにわざわざストレス抱え込まなきゃいけないわけ? なあ、常にポジティブであれよ、チームの和を乱すなよ、おい、人前に出るならさあ、暗い顔すんな、不安になるようなことをひとつも言うな、全員黙ってニコニコしてろ!

 と、私が決して思えないのは、たまたま、そういう物の見方が生み出す犠牲者の側になったからだ。事件そのものはどちらかといえば一見偶発的にも思えた(とはいえ後頭部をグーで三発殴られてたんこぶができた)が、責任ある立場の人間が責任を踏み倒していることを「偉いから偉い」「素晴らしいから素晴らしい」という権威主義者たちが支えているのを知った。同じようなことは、ただ私が知らなかったか見ないようにしていただけで、ずっと繰り返されていた。中立を装う人びとは全く公正ではなかった。焼き鳥屋に呼び出されて「できれば大ごとにしないでもらえると」と言われた。彼ら彼女らの忘却の歴史の先に私がいた。ソーシャルメディアでは彼ら彼女らの心の平安のためだけに二次加害もなんのその、架空の「喧嘩両成敗」が行われ続けていた。少なくともこの状況は偶発的とは言えない。もし私が黙って(感情はさておいて、自分の利益を最大化して)いれば百年後にも同じことが起こるだろう。起きたことは決してなかったことにならないが、次に同じことがあってはならない。私は私の事件を「事件化」することに最終的には同意した。ずいぶん経って謝罪文の公表を前提とした謝罪の打診があり、まず前提なしの謝罪であれば受け入れるとしたが、すると謝罪自体がなくなった。「被害者の意向により公に謝罪できない」と虚偽の説明を関係者に流布していた会社があり、正確な情報を説明した上で、何故そのような行動に至ったのか説明するよう求めてはみたが、「この賞は歴史と権威のある賞である」と自己紹介する怪文書を公表していた。いまも多くの人びとはその賞をありがたがり続けている。私からすれば意外なことだ。(その様子をさんざん見てきたのでいまの政府与党がぬるぬると支持され続けているのはぜんぜん意外ではないとも言える)

 私だってこんな一段落を書きたかったわけじゃない。かつての私自身の行動や物の見方も同時に責められている。別にあなたがたが嫌いなわけじゃない。せめてそれくらいのことはわかってもらいたいが、私は贅沢だろうか? さっきから、というか、もうずっと、他人に求めすぎだろうか?

🪑

 ひどいことなんて、ひとつもないに越したことはないのだ。せめても、取り返しがつかないから、考えているのであって、ひどい目に遭ってはじめて考えられましたなんていうのは、人間の人間性への冒涜だろう。私は愚かだったが、現実にひどい目に遭わずとも、人間が考えるチャンスはある、と信じたい。だから私にとっていまだフィクションは決定的な存在である。戦争や差別や暴力の前に。戦争や差別や暴力のあとで。

 人間性は芸術性と対置するようなものではない、というか、芸術性という売り言葉が、人間性と対置するほどのものではない。人間性は、目的でもないし、結論でもない。前提だ。

 名前はつまらない。前向きかどうかはどうでもいい。たくさんの人の心は絶対にひとつにはならない。それでいい。いまとなっては具体的な瞬間だけがいい。面白い。意味がある。

 いつも、その瞬間にどうにか辿り着きたい。

 私がずっと惹かれているのは、ストーリー・テリングという言葉でいうなら「テリング」の部分なんだと思う。

2021/12/17

◆なぜ「自作自演版『何もしない園』」なのか? ーとにかく急いで書かれた演出準備ノート①ー

◆なぜ「自作自演版『何もしない園』」なのか?
ーとにかく急いで書かれた演出準備ノート①ー

 ある日、何も言われぬままいつも通り集まった稽古場で、今回は公演を中止したい、と言われた。ある日、と、もったいぶってみたが、今日だ。12月6日。

 「いま誰か他人を巻き込むことが、演出が、できない、そもそもずっと、目の前の人が見れてなかった、そのことにすら気づいてなかった。」そう言ったジエン社主宰・山本健介氏(以下、ヤマモト氏と書く)の手には、その日の昼間に書かれたばかりの『何もしない園』の登場人物にまつわるサブテキスト(人物像や背景を描いた説明文。前の日に俳優たちが書くことを提案してみた)が握られていた。A4いっぱいにびっしりと、2ページ分。

○

 ヤマモト氏の言うことをひとまずそのまま受け取ってみる。もしほんとうに"目の前の人や出来事が見えず、いま演出家としての役割が十分に果たせなくなっている"人が、それでも自分の演出する演劇の上演のためと信じてひとかたまりの文を書き続けたのだとして、つまり、そもそも、そのテキストはいったい何のために書かれたのだろうか? 描かれた登場人物のため? 実際に上演を成立させるはずの出演者と観客と舞台空間とを見ないまま書かれ、それらが演出によっても見出されないのなら、おそらくその言葉は、書き手の思う"演劇"と書き手本人とのあいだに、宙ぶらりんに、浮かんでいる。

 『何もしない園』は、架空のNPO法人が運営する「何もしない園」("何もしない"ことを可能にし、推奨する施設)を舞台に、そこに集まる入所者や働き手、あるいはその同居人など、たくさんのキャラクターたちの言動を、主要な人物のセリフと時折挿入される間接話法を通じて、少ない人数で演じ分けて表す構想で書かれた戯曲である。というのがごく表面的な説明になるのだが、人物同士の会話はところどころ破綻しており、だからといって人物一人だけを追いかけてもなぜだか一貫性に欠け、人物たちの違いはともすると不明瞭にもなり、場面と場面は頻繁に断絶した。時間と場所はしばしば無鉄砲に変更され、そもそも「何もしない園」がいかなる園であるのか、と言えば、ひたすらどこかぼんやりとしていた。
(これは余談ですが:これまでも、ジエン社の作品で時間や空間の歪みを舞台上に表出させることはしばしばあったけれど、おそらく確からしいと思われる時間や場所が錨のように配置されることで、そのとき・その場所との関係から"舞台上で起こること"や"結局は舞台上で大したことが起こらないこと"になにかを見いだすことができたように思います)

 稽古場で日々、俳優たち(私と高橋ルネさん)は考えていた、が、考えあぐねていた。演じるにあたっては、場所や人やセリフそのものについて、それがどんなものなのか、なんらかの仮説を立てなければならない(精度はさておき)。しかし台本の上におおよそ成り立つような仮説は見つからず、だからといって書かれた言葉やキャラクターとあえて距離を置いたまま演じて見せても、演出家・ヤマモト氏はセリフの細部のニュアンスや演じられるべきキャラクターの設定の一部分について繰り返し話すばかりである。かくして、二人の俳優はそれぞれ、あるキャラクターとしてそこにいることも、あるいは一パフォーマーとしてそこにいることも、困難な状況となった。暗中模索の中、一瞬一瞬だけを成立するように振る舞うにしたって、そもそもここはどこで、ここにいる二人は誰なのか? さらにさかのぼれば、このテキストに、演出に、ほんとうにここにいることを要請されているだろうか?

 自分で読む分には「(筋が)通っているんだよなあ」とヤマモト氏は言う。一方、私には、これはほとんど夢なのではないか? という感覚があった。他者をはじき出す、たった一人の見ている夢。書き手の書きたいことが連なる世界には、眠り手の脳のなかで生成される夢には、絶対的な他者が現れない。「社会」はあくまで書き手にとっての、眠り手にとっての、社会。「他人」は自分で、「あいつ」は俺。A地点からB地点へ、眠り手だけが夢の地図を持っている。自分の作り出した分身との会話は続く。いつまでも飽きずに他人(自分)の話を聞いてられるあいつ(俺)。

 夢を説明することは可能だが、結局いつだって夢の実感とはかけ離れている。夢占いが落ち着かせてくれるのは解釈不能なものを生み出した自分自身への不安だけだ… 最後に書き換えられたページの中で、登場人物たちは「すみません」と「大丈夫」をたくさん、言い合っていた。

○

 私はこのようなリハーサル期間を経て、『何もしない園』をぼやけたキャラクターたちのしずかな狂想曲として捉えるのではなく、一人の人間のありさまとして、読むことにした。で、その読みに従えば、作者自身による自作自演がいっとう素直な選択だと思われる(もともとヤマモト氏はジエン社旗揚げ以前に一人、「自作自演団ハッキネン」を名乗ってパフォーマンスをしていた)。ひょっとすると『何もしない園』が必要としていたのは俳優として演じる他者の身体ではなくて、観客として見聞きする他者の目と耳だけだったのかもしれない……

 あくまでヤマモト氏にとって「通っている」言葉の連なりの中に、2021年の、いまの、一人の人間の孤独と孤立を、私は見る。そこには、なにかがある。単なる気分以上のなにかが。少なくとも、たしかに、人が、いる。(……では、人は、何によって孤立させられているのか……?)このテキストの面白さ、恐ろしさは他人によってどうにも演じられないことにある。と私は仮説を立ててみる。いつものやり方で。いつもとは少し違うやり方で。

2021年12月7日
善積元


☆ジエン社「自作自演版『何もしない園』」パフォーマンス&トークの詳細はこちらから
(12/22-12/26、神楽坂セッションハウス2Fギャラリーにて開催)

☆同作品の前半部分が上演される予定のイベント、Hiraoyogi Co. x BITE presents Audi-torium vol.1
"きれいに晴れわたった、しんとした朝"の詳細はこちらから
(12/19夜の部に参加、in the house(西早稲田)にて開催)

2020/05/01

#好きな映画を4枚貼って4人指名していくリレー

-----
#好きな映画を4枚貼って4人指名していくリレー
バトンを渡される人生と思ってないからアタフタしてました。こういうのやらないので!ってばっちり言う人になんだか憧れつつも、私はあくまでお調子者である。受け取ったらやっちゃう。長部洋平さん@osabaconありがとうございます。光栄!
-----

と、ツイッターに書きましたが、これを機に今まで見た映画をせっせとFilmarksに集めて眺め(けっこう時間かかった)、せっかくなのでテーマを決めて選びました。

題して〈いま劇場、映画館、大学の教室、人ん家の尊さについて考えざるを得ない個人的思い出映画四選+1〉。
あらすじは調べれば出てくるので、思い出のほうばっかり書きます。不親切!

①『プレイタイム』イメージフォーラムにて。


冒頭、空港みたいな空間を二人組のシスターが歩いているのだが、彼女たちの歩みのテンポに合わせて折り紙みたいな不思議な形をした帽子がひょこひょこ動くのがもう面白い。で、はじまってすぐ、急にストップして場内が明るくなった。数秒ののちアナウンスがあり、手違いで画面の上下左右端が切れてたらしい。字幕が切れかかっていたのだが、そういうものだと勝手に思っていた(そんなわけなかろう)。しばらくのち、あらためて劇場が暗くなり、またはじめから上映されると、当たり前なんだけど、同じようにシスターたちの帽子がリズミカルにひょこひょこ動いている。そのことになんだかとても感動した。百年後にもまったく同じように再生されるかもしれなさに。あと建物がぜんぶ楽しい。レストランのシーンがとにかく長くて最高。レストランも、見ている私も、くたびれる。最高。



ジャック・タチはもともとサークルの同級生に教えてもらったはずで、『ぼくの伯父さん』を上野の水上音楽堂(したまちコメディ映画祭)に見に行ったのも記憶に残っている。野外で鳥が鳴いてたり風が吹いてきたりする中で映画を見るのって、昔はもっとよくあるシチュエーションだったんだろうけど。家にいて気が散っちゃうのとはぜんぜん違うんですよね。

②『アメリカン・スリープオーバー』新文芸坐にて。


小野カズマ氏からシャノアールでオススメされまくったわずか数ヶ月後にちょうどオールナイト上映が! というきわめてちいさな奇跡。『スウィート17モンスター』の次、いよいよ夜が深くなってきたタイミングで、二人の女子が寝袋積んで自転車でお泊まり会に向かうシーンで一緒にその夜に吸い込まれるような気持ちになって、その気持ちのまま前のめりで最後まで見た。この上なく徹夜感ある鑑賞体験だった。終電もなく、ひたすら一緒に映画見るしかない場内の百人と過ごす奇妙な愉快さ。トリの『フランシス・ハ』も素晴らしかった。幕間でスタッフの方が愛情のこもった解説をされてたのも印象に残る。マンブルコアって単語をそこで知ったりした。



さらに昔にさかのぼって、落語研究会の先輩にフェリーニのオールナイトに連れてってもらったのも本当によかった(『魂のジュリエッタ』ほぼ全部寝て、起きたら登場人物が全員こっちを向いていた!)。

③『パターソン』早稲田松竹にて。


『ベイビー・ドライバー』を見に行こうと勇んで向かったらまるっと一週間分勘違いしてて、やってた。ので見れた。(その結果いまだに『ベイビー・ドライバー』を見てないことをこれ書いてて思い出しました。)
「パターソン」という詩集を出しているウイリアム・カルロス・ウイリアムズ(名前だけでワクワクするぜ)の詩を一個(so much depends upon…ではじまるやつ)だけ知っていてそれがとてもよかったのと、アダム・ドライバーが詩を書くバス・ドライバー役(しかもパターソンに住むパターソンという名前の人間)をやってるというので、もともと見たい作品だったんだけど、勘違いしてなかったら見逃してたかもしれない。映画館そこにありて常に映画を上映しててくれてありがとう案件だった。その後数ヶ月の間ずーっとパターソンよかったって言って回ってた。



併映のギミーデンジャーもすごくお茶目で楽しかったなー。イギーポップがとてもまっとうだった。のを覚えている。いつか実在のパターソンのあの滝の前のベンチに座ってみたい!



④『生きる』友達の家のテレビデオで。


旅先で何泊もさせてもらった(お礼に掃除機かけたりナス焼いたりゴミ出したりした)友達の家で見せてもらった。いちいち志村喬の顔や声に衝撃を受けて、その度におしゃべりしながら見た。友達がいない日に勝手にもう一回見た。別の日には同じテレビデオで森崎東『ロケーション』という妙作も見た。若い柄本明さんが出てた。ところでなんで「志村喬」なのに「柄本明さん」なのか? いま生きてて、会う可能性が万が一にもある人にはさん付けしてしまったりする。だったら「アダム・ドライバーさん」なのだけど。

⑤ 『話の話』大学の大教室で。

カフェテリアの上にある大きな教室に一年生がギュウギュウの中(単位が取りやすい授業としてもたいへん人気だった)、ロシア文学の教授が全編見せてくれた。教科書が高かったこと以外、最高だったな…。劇中印象的だった平均律クラヴィーアの1巻8番プレリュードばっかりいろんな演奏者のを聞いた。ちょうど上に出てきたバッハ狂の友達にキース・ジャレットの演奏がわりと近いよ、と教えてもらったりした。高畑勲展で同曲を使った『となりの山田くん』のワンシーンを見つけて、なんていうか、だよね!と思った。DVD買って見て、リマスター版をイメージフォーラムで見て、GYAOで配信されたのを見た。


並べてみると無口な作品が好きなんだなー!
自分自身はおしゃべりなのに。と思いました。なんだか恥ずかしい。以上です。

2019/12/31

〈ポエム泥棒〉はじめてました

 〈ポエム泥棒〉という遊びのような企画のような遊びをはじめます。というか、はじめてました。

 まず、アンケート形式で、声に出して読んでもらいたい言葉を募って、それを実際に読んでみる、ということをやってみます。で、せっかく答えてもらった人には、それを聞けるようにします。当面はインターネット経由で。

・なんでそういうことをするのか?
・その名前はなんなのか?

 みたいなことは…とっても説明したい! 説明するのが元来好きなので!

 しかし意図や背景を説明をすると、回答を誘導したり限定したりしてしまうんじゃないか、と先日さる友人に言われました。これは至極もっともな話。大事なのは私の意図や背景じゃなくて、いろいろな答えのほうなのだから、今はあれこれ説明しないでおくことにします。

 説明に代えて、現時点ではこんな感じです、ということで、今まで頂いたリクエストのうち、公開オーケーのものをここに並べさせて頂きます(お答え頂いた皆様、本当にありがとう!)。

 思いつきでもなんでも、お気軽にお答え頂ければ何よりなのですが、自分が聞かれたら相当考え込んでしまうよな。そういう大変さや面倒さを乗り越えて頂いたら大感謝です。何卒よろしくお願い致します。

アンケート

'ポエム泥棒'特設ページ(暫定)

2019.12.31 善積元