前に住んでいた家の最寄り駅にはサイゼリヤに直通しているエレベーターがあった。地下2階(改札階)から地下1階(カフェ、銀行)、1階(地上階、書店)を通過してしまえば、2階にはサイゼリヤが1フロアまるごと待ち構えているという寸法。深夜の1時か2時までやっていた。思い返すと、おかしなタイミングでお腹をすかせたときや、どこかへ行く前にすこしみじかい時間でなにか食べていくとき、などなど、「ランチ」や「ディナー」からはあぶれてしまって、名前のつかないような食事をすることが多かった。
店の天井は低く、高架つきの道路に面している側が全面的にガラス窓になっている。壁にはサイゼリヤおなじみのボッティチェリの春(だよね?)。大学が歩いて10分くらいのところにあるから、客席には大学生らしい人たちが多い。なにかを勧誘する人される人というシーンにも出くわすことがある。大学よりも若干近く、徒歩3、4分のところには大きめの貸しスタジオがあり、大きな楽器ケースを抱えたバンドマンもよく見かける。
ところでサイゼリヤの電球の色はどうやって決まっているのかいつも不思議に思う。自然な色味の席もあるのだけれど、どう考えても人の顔が緑色に見えるような照明の席があって、その理由はわからないが、とにかく結果は緑色だ。なので食べ物も人も、なんだか大変にくたびれているように見える。
深夜の時間帯に行くと、眉毛のしっかりした筋肉質の中年男性が愛想良く応対してくれる。背は高くない。どうやら責任ある立場のようで、きびきび動いている。そしてだいたいレジを担当している。サイボーグ店長、というのは勝手につけたあだ名なのだけれど、サイボーグ店長も、きびきびしているが、顔色はわるい。というか、顔色がわるいからますますサイボーグみたいに思えてくる。顔色がわるいのに、鉄板をきびきび運んでいる。厳密に言うなら顔色は悪く見えるだけだ。会計のときには笑顔も忘れない。注文も丁寧に聞いてくれる。しかしレジカウンターの向こう側もどちらかというと緑色だ。そういったあれこれの結果、サイボーグ店長を見かける度に、あ、サイボーグ店長だ、と心の中で再確認してしまう。
あくまでサイゼリヤの照明の下で見かけるからサイボーグ店長はサイボーグ店長なのかもしれず、というかそれはどう考えてもやっぱりそうで、ひとたびその照明や制服をのがれてしまえばサイボーグ店長も人間になっているはずなのだけれど、深夜のサイゼリヤ以外でサイボーグ店長を見かけることはない。たとえすれ違ったとしても太陽の下では人間味がありすぎて、同じ人とは気づけないのかもしれない。
引っ越してしまえば立ち寄る用事もなく、そうそう行くこともないだろうあの深夜のサイゼリヤから遠く隔たっている今、なぜサイボーグ店長のことを思い出したかというと、終業後に魂の抜けたような顔をしてクリスピークリームドーナツを頬張っている人を見たせいだと思う。カウンターの向こうでは女性店員の皆さんがきらきらした笑顔で(顔色もよく)やはりテキパキと働いているのだけれど、こちらで何も考えないでいるような無の顔でドーナツを食べている人との違いは、カウンターのこちらにいるかあちらにいるかだけだった。こっちの客席でぬけがらになっている人たちとあっちで働く人たちのどちらをも、ばかみたいに甘い匂いが包み込んでいる。
2016/12/07
2016/08/06
吉増剛造展のことは結局ツイッターに書かなかった
吉増剛造展に行って、閉館時間をやや過ぎて出て、駅のほうに向かって橋を渡ったあたりでぼおっとしてたら吉増さん本人が通りかかって、何にも言えずに口が開いちゃうような感じで後ろ姿を見送った。この気分には名前がつかない。ともあれ歩いて帰る気力が全くなくなったので地下鉄で帰ってきた。
この夏何度か行くのは間違いないが、私は毎回ぶっ倒れそうになるだろうなあ。介添人がいてほしい。そんなことを言ってまた一人で行くんだけど。あとね、3時間じゃ足りなかったです。映像が全部見られないのと、最後の空間にもう少し時間が必要だった。
何日か前、この夏は詩と音楽の季節だ!と友達に宣言した途端にまったく別の友達から詩を書くよう頼まれて、びっくりしたのだけれど、本当にびっくりの反動で寝込んでばっかりになりそうだ。吉増さん、(飴屋さんも)裂け目なんだよ。笑ったり理屈を言ったりしてられない。魅力も、ダメージも…
展示の中に、吉増さんがまだ二十代の半ば、大岡信にあった日のノートがあって、吉増さんと面と向かったときに自分が自分に対して受けたあの感じがそのまま言葉にしてあるようだった。
クラスメイトに「詩人だねえ」と言われたら顔を赤くして黙り込むしかないけれど、詩人に「詩人だねえ」と言われたらどうすればいいんだろうねえ。
多分忘れちゃっているしぜんぜん相手のことなんて思いやったりしてない、ような、ふるまいのほうが信用できるときがある。大江戸線のベンチシートで話した十五分や清澄白河のSNACでのいくつかのやりとりは、いまでは預言めいて、分岐点に立つといつも影のようにちらついている。
2016/06/09
2016/05/30
右足のつま先だけぬれる
雨が降ると靴がぬれる。ところがぬれ方が左右で違う。いつも必ず右足のつま先からだんだんしっとりしてくる。やがて左はややぬれ、右はずぶぬれのツートンカラーになる。
この現象は小さい頃からずっとちいさな疑問だったのだけれど、最近ようやく理由がわかったので、ここに書いておきます。
まず傘との位置関係ではない。傘で避けきれない雨が当たるとすれば左足になるはずだ。というのもぼくは右利きでだいたい傘は右手で持つことになる。もちろん完全に地面と平行というわけではないけれど、顔の右側を通って傘先が真上を向くように傘を握っている限り、傘の描く円の中心に近いのは右足、遠いのは左足だ。
次に思いつくのは、歩くときに右足のほうがストロークが長い、という説。足も右利きだから相対的に蹴り出す力が強く、遠くまで身体を運んでいるんじゃないか。これなら右足が傘からはみ出ることが多くなるのではないか。しかし先ほどの傘との位置関係を考えると、この差を逆転できるほどに左右の歩幅が違うということは考えにくい。試しに目をつぶって歩いてみても(人がいない道でときどきやるのだけれど)、極端に左右どちらかに曲がって行ってしまうこともないし、足の長さもほとんど変わりない。そこまで身体のバランスが左右で違うということは考えにくい…
というようなことを考えながら、雨の日、つま先を見ながら歩いていると、つま先から飛び出すちいさな水滴がある。靴の裏についた雨水は、足が蹴り出された勢いでつま先がわに向かう。つぎに足が前に進みきって重力にしたがって地面に落ちるとき(つまり歩く足が交代するタイミングで)、おそらく急ブレーキがかかったようになって、水滴が靴から飛び出す。このとき左つま先から放たれる水滴は前方に飛んでいくのだが、なぜかぼくの右つま先から飛び出る水滴は上に向かっており、歩くにしたがって進んでいく右足の靴がそれを受け止めてしまっている。なぜ右だけ上に、と右足に注目すると、足を前に出し切ったとき、左足に比べ、足首がすこしだけ、揺れている。
(おそらく右足のほうが蹴り出す力が強く、余った力で足首が揺れているのではないか)
ともあれ、つまり、右足だけぬれるのは、足を蹴り出す力で水滴が前方へと向かう際のベクトルが、足首の動きの差によって左右でぜんぜん違っているから、ということがわかった!
のだけれど、雨が降ると相変わらず右足ばっかりぬれる。
この現象は小さい頃からずっとちいさな疑問だったのだけれど、最近ようやく理由がわかったので、ここに書いておきます。
まず傘との位置関係ではない。傘で避けきれない雨が当たるとすれば左足になるはずだ。というのもぼくは右利きでだいたい傘は右手で持つことになる。もちろん完全に地面と平行というわけではないけれど、顔の右側を通って傘先が真上を向くように傘を握っている限り、傘の描く円の中心に近いのは右足、遠いのは左足だ。
次に思いつくのは、歩くときに右足のほうがストロークが長い、という説。足も右利きだから相対的に蹴り出す力が強く、遠くまで身体を運んでいるんじゃないか。これなら右足が傘からはみ出ることが多くなるのではないか。しかし先ほどの傘との位置関係を考えると、この差を逆転できるほどに左右の歩幅が違うということは考えにくい。試しに目をつぶって歩いてみても(人がいない道でときどきやるのだけれど)、極端に左右どちらかに曲がって行ってしまうこともないし、足の長さもほとんど変わりない。そこまで身体のバランスが左右で違うということは考えにくい…
というようなことを考えながら、雨の日、つま先を見ながら歩いていると、つま先から飛び出すちいさな水滴がある。靴の裏についた雨水は、足が蹴り出された勢いでつま先がわに向かう。つぎに足が前に進みきって重力にしたがって地面に落ちるとき(つまり歩く足が交代するタイミングで)、おそらく急ブレーキがかかったようになって、水滴が靴から飛び出す。このとき左つま先から放たれる水滴は前方に飛んでいくのだが、なぜかぼくの右つま先から飛び出る水滴は上に向かっており、歩くにしたがって進んでいく右足の靴がそれを受け止めてしまっている。なぜ右だけ上に、と右足に注目すると、足を前に出し切ったとき、左足に比べ、足首がすこしだけ、揺れている。
(おそらく右足のほうが蹴り出す力が強く、余った力で足首が揺れているのではないか)
ともあれ、つまり、右足だけぬれるのは、足を蹴り出す力で水滴が前方へと向かう際のベクトルが、足首の動きの差によって左右でぜんぜん違っているから、ということがわかった!
のだけれど、雨が降ると相変わらず右足ばっかりぬれる。