2022/11/21

【拡大公開決定!】映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』

出演しております映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』の全国拡大公開が決定しました。
2023年1月20日より、テアトル新宿ほかにて、順次公開予定です。
最新情報は映画公式ウェブサイトTwitterをご確認下さい。


2022/10/29

【トーク登壇情報】映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』2022年10月31日(月)20:40〜@テアトル新宿

 映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』おかげさまで満員御礼の初日を迎えることができました。御礼申し上げます。上映は引き続きテアトル新宿にて、各回20:40〜終映後舞台挨拶あり、11月3日(木)までの一週間限定となっております。
 上映日の二日前からWEB劇場窓口にて座席指定券が販売されています(例:10/31分のチケットは10/29より販売開始)。ぜひお運びください。

映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』公式Twitter:https://twitter.com/gbbm2022

【トーク登壇者(予定)】
・10/28(金)
横山翔一監督、杏花、ヤマダユウスケ、架乃ゆら、春日井静奈、グレート義太夫、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・10/29(土)
横山翔一監督、山岸拓生、菊池豪、山口大地、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・10/30(日)
横山翔一監督、ヤマダユウスケ、タカハシシンノスケ、木村知貴、大迫茂生、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・10/31(月)
横山翔一監督、西洋亮、西尾友樹、善積元、ナギサワカリン、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・11/1(火)
横山翔一監督、草野康太、松井薫平、秋乃ゆに、桑山こたろう、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・11/2(水)
横山翔一監督、山岸拓生、長野こうへい、ジューン・ラブジョイ、きみと歩実、真矢みつき、あらい汎、宮嶋信光プロデューサー(MC)
・11/3(木・祝)
横山翔一監督、ヤマダユウスケ、架乃ゆら、カトウシンスケ、宮嶋信光プロデューサー(MC)

2022/09/07

三ヶ月と三日坊主日記(3)

6/22(水)
 iPhoneのメモで日記を書いているのだが、一つの画面の下のほうに順々に書き足していっていた結果、だんだんスクロールが面倒になってきたので、ここから新しいページにする。日記のなかで日記のことを書いたり考えたりするまどろっこしさが好きなのは、なんでだろう。飴玉を口の中でなんども転がして確かめるような感じだ。ウィリアム・カルロス・ウィリアムズって声に出して言っているみたいな感じだ。

2022/07/21

【出演情報】映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』

 映画『グッドバイ、バッドマガジンズ』(監督:横山翔一/脚本:山本健介・宮嶋信光・横山翔一)出演しております。



2022年10月28日(金)よりテアトル新宿にて、【一週間限定】公開
最新情報はTwitter公式アカウント@gbbm2022公式ウェブサイトをご覧ください。







2022/06/22

三週間と三日坊主日記(2)

5/28(土)
 六本木にはぜんぜん行かなかった。家でテレビ見たり、軽い筋肉痛を言い訳にして、だらだら省エネ状態。明日行くかもしれない。

 日記、といえば、「何丘ブログ」をロシアによるウクライナ侵攻以来、定期的に巡回して読んでいる。方々のニュース記事はなにか、戦争から(いまのところ)遠くにいる我々のためにカスタマイズされすぎている、とでも言ったらいいのか、どうも何かが足りない感じがしていたのだけど、特に何丘さん?一家がウクライナを出国するまでの期間の文章を読んでいて思ったのは、地べたからの視点があるかどうかが重要なのかもしれない、ということ。生きている個人に根ざしたものの見方・考え方、が、いま遠ざけられがちなんじゃないか。
 正反対の例として思い浮かぶのはインターネット上に無責任に書き込まれる匿名のコメントで、発信源は(基本的には)生きている個人のはずなのに、文体も内容も複製品になっている。ああいうマナーの文字列(周りの"空気"に毒されてなのか、すっかり平気で顕名で類似のトーンの言葉を並べ立てる人がいるが、マジで信じられない)を見ると、脳になんらかの傷を受けるような気がしてしまう。内容の拙劣さ以上に、結局のところ都合よく現れたり消えたりできる幽霊のようにして、なんの責任も負ってないことが、なんというか、とても、ダメだ。小市民ぶって暴力やハラスメントを温存させようとする言動と同じくらい(実際、似ていると思う)、腹立たしい。理想や未来を持たないのが「本音」なんて考え方はきわめて馬鹿げているし、間違っている。
 ひとびとの個人的な不安を逐一穴埋めする雑駁な"説明"がメディア(マス・ソーシャル共に)上にあふれているのは、多くの人に求められているからなのだろうけど、ほんとうは順序が逆なんじゃないか。安心のために誰かの作った筋書きに自分のこころを当てはめていいのか(ジョーカーは辛い目に遭ったからあんな風になっちゃったとさ……本当にそうか?)。地べたにいる一人の目線を通じて、大きな問題、大きな力のありようを捉え直すと、結局、どちらかといえば、不安になるしかない。むしろ不安に身を投げ出すようにしたい。ただ、どうしても、不安ではある。
 それから日記に話を戻すともう一つ時々読んじゃうのはQJウェブに載ってるテレビのスキマ「きのうのテレビ」だ。ときどきヤフーニュースに転載されては地獄のコメント欄に「日記かよ」と書かれており、あからさまに見当違いなツッコミ風天然ボケだけれど、まさにそこに価値がある、と案外本能的に理解されているのかもしれない。自分より熱心にテレビを見てる人がいる事実に、なぜだか少しホッとしてしまう。終わってしまった番組たち、『勇者ああああ』や『ぼる塾のいいじゃないキッチン』や『マヂカルクリエイターズ』や『有田ジェネレーション(地上波版)』や『あさモヤさまぁ〜ず』のよさについて知っている人が自分のほかにも実在している、という奇妙な実感。それにしたっていちいち「各日付のタイトル」「続きを読む」で2クリック/タップ必要なのが非常にめんどくさい。ページビュー至上主義がヤフーでは地獄のコメント欄を生み出し、QJウェブでは余分なもう1クリックを生み出しているわけで、もう少し人間が幸せになる広告効果の測り方はないんだろうか。これは日記に書くようなことだろうか。
 ここまで三日分書いたのをあんまり深く考えずにブログに転載してしまったので、なんかこう、間違ってよからぬサービス精神的なものが混入してブレてる気がする。ブ(レてる)ログ。

 横井庄一さんの妻・横井美保子さんが亡くなったというニュースを見た。名古屋の横井庄一記念館に行ったときのことを改めて書いておきたい("完全避難マニュアル"的な場所だった…)が、今日はやめとく。
 (ここは後日書き足した→)と言いながら、少しだけ書いてみる。「もしこの海の上を歩いていけるなら一歩ずつ歩いて帰るのに」といつも思って過ごしていたと言っていた、と何度も言っていた横井美保子さんは、そう思ってるときの横井庄一さんの頭の中にはまだいなかったわけで、自分自身は含まれていない思い出(間接的な、そう言っていたのを聞いた体験があればこそだが)を伝え続けること自体「海の上を一歩ずつ歩いていく」みたいな行為だな、と思った。家の中に途方もないスケールの時間があった。本当の住居だった民家を記念館として使っているので、知らない人のおうちの玄関を入って、ふすまを開けると一部屋まるごとが突然ジャングルの土の中に作られた穴蔵(のレプリカ。清潔なプラスチック製)になっている。衝撃的だった。"アート作品づくり"目当てでなく、記憶を物質化する欲望が人にはある。人の記憶の内臓が露出しているようだった。それから、"勇ましい"人びとが横井庄一さんを攻撃していたということはきちんと記憶しておきたい。ひとりのひとが生きのびようとすることよりも「その人の信じる"勇ましさ"」を優先させることのグロテスクさについて、人間はいくら反省しても反省しすぎることがないと思う。戦争にたとえられるようなすべての物事の下で。