2010/12/14

サーフィン

 考えてみれば、存在を知ったときにはもうこの世にはいない人のほうが多い。夏目漱石とかジョン・レノンとかアメンホテプ4世とか。言葉がおかしい。多く の知っている存在は不在だ。どういうことだ。その知っている、って知っているうちに入るの? @postrock_botでTelefon Tel Avivという二人組を知って、ひとりはもう死んでいた。死んだひとびとの名前を顔を音楽を歴史を知っている。あとから調べられる。でも会ったことはない。もう会うことはない。私は今日も負担の少ない方へ少ない方へとゆっくり流れている。



 人と会うよりもメール、メールよりもゲーム、ゲームよりも眠り、眠りよりも負担のないものはなんだ。停止する。生きているからにはそういう負担をむしろ求めるのが生きるということそのものであるように思えて、つまりそれは死んだ人には会えないが、の先にあるものではないかと考えるんだけど、理屈ではそうなんだけど、理屈で捉えただけの言葉には自分を動かす十分な重みはなくて、だから私は今日もあなたに電話することができない。というような集約ができるほどの集中した思考は自分の中にはなくて、ただ散漫に広大にやすんでいる。ゲームとかしながら。

 しかしとにかく、しかしとにかく、私はもう言葉で分節するその方法には飽きました。面白くないと思う。浴室にいた小さなハエをシャワーから出る無数の水の束で壁から払い落とそうするときのような徒労感をぬぐい去ることができない。私たちは共感する、何に? 身体に。いい声でいい言葉でいい感じの何かが放たれているそばで静かにこごえる。足先から頭のつむじまでがそれをちいさく拒む。その身体に。美しい鳥のことを歌う人を見ながら黒い汚い土を踏みしめている足に。朗読される詩よりもむしろヘリコプターの音を聞く耳に。世界をなんとでも説明できる能力はいらない。世界をなんとでも説明できる語彙はいらない。たのしく心地よくわかりやすくする必要はない。世界をそれでしか説明できないような物事の連なりを求めている。

bad explain = easy to vary
悪い説明は変えるのが簡単

 星々を結ぶ線を描くのは自由だ。私たちは便宜上大昔の船乗りたちに解釈を合わせているだけで、もしその気になれば、自分だけの星座を作ることができる。しかし私はそうたやすく変更できないような説明を求める。拠って立つ根拠を覆されたらもうどうしようもなくなるほどしっかりと要素を緊密にまとめ上げた説明を、言葉と言葉によらないものによって作るということ。
 私は科学者ではない。けれど人の掲げたスローガンの上をサーフィンするだけの生き方は退屈だと思うから、科学とは違うアプローチでしかし科学と渡り合えるような方法を自分で見いだす必要がある。それは「このような演技」とか「役者とは」とかいうよりも、たとえばただそこにいるとか生きてるだけで音が出ちゃうとかついどうでもいいことを思い浮かべるとかそういう生きることと生きることについて考えることが二重写しになっているようなゆるやかな観察と実践との間にある観想みたいなもののような気がしている。
 こうもできるしこうもできるという自由がある。これも面白ければ、これも面白い。これは面白くない。こうとしかできないということは不自由である。にも関わらず、こうでもあるしこうでもあるという状態から抜け出したいのは、審判よりも選手になりたいというだけではなくて、単によりどころがなくて不安であるというだけでもなくて、こうとしかできないという正解のようなものを、描こうとしているからで、そんなものはないという考え方をすればそれはそれで落ち着くのだけれど、私がこうとしか思えないことはこうとしか思えないというのを客観的な事実というか具体的な事物に取り囲まれながらそれらを無視せずに受け止めてなお持っていることができたなら、それはやっぱり正解のひとつなんではないかと思う。
 死んだ人にはもう会えない。私たちや光やこのコンピュータを作っているひとつひとつの粒子は見えない。人の気持ちを誠実に受け止めることはなんとかできても、正確に判断することはできない。一瞬では遠くに行けない。昔には戻れない。いつか自分も死ぬ。
 でも私たちは死んだ人に会ったり、はたまたその人自身になったり、世界を構成する一番小さな単位を見たり、ひとの苦しさや喜びを直接触れるように分かち合ったり、遠くへ旅立ったり、過去に戻ったり、できる。誤解と理解のどちらともつかぬ方法で。論理は明らかに飛躍している。けれどそれをつなぎとめている身体がある。生きている間は。

 覚えている時間よりも覚えていない時間のほうが、生きていて圧倒的に長い。かといって覚えている時間だけが自分を作っているわけではないし、しかも現実の時間だけが自分を作っているわけでもない。夜見た夢が現実の世界の物体を一ミリも動かしていないからと言って、なにもなかったとはいえない。私たちが理性で管理している、覚えている経験、ひとつひとつのエピソードは短くて小さい。中には面白いものも複雑なものも苦しいものも人生にとってとても重要な瞬間も、ある。かといってそれだけが時間ではない。なんとなく川や火を眺めたり、子細に点検しながら手を洗ったり、テントのペグを打ち込んだり、透明な窓自体を見ようとしたり、そういう今ではまったく覚えていない時間が積み重なって、いま、こんなところにいる。ハイライトがハイライトなのは、確かだけど、それがハイライトなのはまわりがハイライトじゃないからで、案外そういうハイライトじゃなさが点滅する時間のその輝きを見つめるときに重要なんじゃないかと思う。
 そしてそもそも、画面に映っているのはそれなりにハイライトを切り取ったものが大半だ。目がちかちかする。

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