2010/12/23

逆立ちして鏡

<12月23日(木)のTwitterをくっつけたもの>
 Twitterときどき、これを声に出して読んだら面白いなあ、って思う。ことがある。だいたい一息か二息で言えて、その人ごとにリズムがある。あと後半、字数制限めがけて駆け込む感じとか綺麗にオチをつけたり自己完結したりというのも息で考えるとまた楽しくなってくる。 
 このときの考えるというのは、元々考えるという言葉を使うときのような考え方とは違っていて、身体を使って追体験するということに近いと思うのだけれど、かといっても本来の体験はただそこにあり、あるいは空想でどこにもなく、その結果文字になったものが画面に映し出されているだけなわけで、それを読んだからといってもとの体験を追体験しているということには全然ならなくて、むしろ新たな体験を自分で作っていることになるけれども、それがゼロから、とか自分ひとりで、ではなくて、人が書いたものを出発しているから、やっぱりどこか他人の本来の体験に迫りたいという気分があるはずで、だからまあ追体験と言ってもいいと思う。 
 なんでこんな風に言葉の使い方をねちねちと考えているかというと、言葉をどう使っているかを少なくとも自分の中ではっきりさせていかないと、結局どうも人となにをしゃべっているかわからなくなってしまう、というようなことがあって、大体やりとりが堂々巡りを起こしたり、無意味な論戦になったり、ただの茶化し合いになったりしてしまうときには、この言葉をどう使っているかが宙に浮いていることが多い。というかそういう例を最近たまたま目撃した。それはそれで面白いのだけれど、やっぱりやりとりが成立したらきっとこれはもっと面白いだろうという期待とか思い入れはあって、レールから脱線すると、後から解説することは出来てもそのやりとりをリピートするわけにはいかないので、つまりやりとりにはなりにくいので、もったいない感じがしてしまう。とか書いてみても、これは今完璧にひとりなので、はじめから死産みたいなものだし、あとなんだかんだ言って言葉以前に私たちがしゃべるときに猿山のサルからどれだけ進歩しているかなんてちょっと疑問だ。朝まで生テレビとかで思うのは、喋っている言葉こそ立派だったりもするけれど、結局この若者もおじさんもおじいさんも怒ったり苛立ったり退席したりしていて、それはひとつひとつはやっぱり後から言葉を与えて理性的に説明できる行動なんだとしても、その瞬間にそんなイヤな大きな声を出したり、あえて冷静っぽくしたりするその自分の中で起こっていたことを猿山のサルとかうっかり地下鉄で大股開きでテリトリーを確保してしまう男の人の中で起こっていることなんかとどのくらい違うのかという風に考え始めると、うーん、はて。と思う。 
 ブログ作ったんだから、せっかく、まとめてブログに書けよ、ブロゲよ。という感じもひしひしとするんだけど、結局どうして、ということを考えると、「いつか」とか「そのうち」という全く幽霊のような約束たちに囲まれて私は誰とも会ってないぞ、という気分によるところが大きいような感じがする。寂しがりやでマイペースでちょいとゲス。あとしつこい。そんで食べるの遅い。そんな自己言及はいらない。って書くのは免罪符にならない。ダメなヒップホップみたい。早く寝なさい、おやすみなさい。…今日はさすがにリムーブされるんじゃないか。調子に乗った。寝る!

 Twitterを使いながら話すみたいに考えると、全然理路整然としない、
というよりなにより、そもそもインターネットの上に自分で書く文章は基本的に全部そうで、言葉の前後の連なり方が一定ではないし、あと「思う」 とか「感じ」とか「気がする」以外のことは、ほとんどなんにもない。だから私と縁もゆかりもない人がこの文字の並びだけ見てもなんのこっちゃと思われる方も多かろう、と思うし、あと知ってる人(は、私の「思う」とか「気がする」の根拠みたいなものをある程度体感しているものだと、思う)もだいたい「こむずかしいことを書いてるね」って言う。すいません。
 しかしそれはそれでよくて、というのも乱暴だけど、自分がなにをどうやって考えているのかがまず、書いてみてようやくわかる、ということが大きいので、それが気持ち良いというか、面白いと感じる。のだけれど、かといって完全に自分ひとりで閉じてノートや原稿用紙に書く、というのは(やったことは何度もあるんだけど)、まずあとで見返さない、というのがまず問題で、書いていて、たしかにずっと自分自分していてどうしようもない、んだけど、こうして開かれた場所にうっかり書くときには、やっぱりうっかりこれを見てしまう人の目のことも頭の端の端には引っかかっていて、それでかろうじてあとから自分で読み返そうと思えば読み返すぐらいのまとめかたになってくる。と勝手に考えている。というのはいま書いていてわかった。とはいえ半分くらいでっちあげだと思う。
 みたいなツッコミを入れながら書くことになる。
 しかしとにかくこういう一連のあっちこっちに脱線しながら考える道筋がTwitter上では逆順に表示されるわけで、それをたとえばまっとうな時間に起きて読むということになると(むしろこの時間にTwitterに連続でなにか書くからにはそう読まれるという前提で考えることになる)、 まず終点があって、次に通過点があって、そして出発点にたどり着く。人の考える道筋が(といえるほどのことは書いてないけど)段落より小さな断片になってあべこべの順番で経験される、って結構ヘンな話だなあ、というか、今まであんまりそういう風に人の考え方を追う機会はなかったんじゃないかと考えると、だからどう新しいんだとかいうことはあんまりちゃんと組み立てられないんだけど、たとえば今回のこれは、どう見えるのかなあと思った。ので順番をふつうにしてくっつけてみた。

・ただ順番を逆にするならTwilogとかあるので、くっつけてみた。
・Twitter本体で、逆向きで読んでも、もとの順番をもう知ってるから勝手に直しながら読んじゃっているフシがある

 で、あらためて読んでみたんだけど、僕はもともとこの順番で考えていたからあんまり発見はなかった。おわり。

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