2010/12/19

 言えないことは、言わない。できないことは、やらない。というのはとてもネガティブな言い方に聞こえるけれど、実感を伴って言えることや出来ることには限りがあるし、という現状にばかり目を向けてもどうかと思っちゃうけれど、たとえどんなに領土を広げていっても結局は治めきれない土地が現れる。世界がお皿でそこからこぼれる滝、を考えた王様はさぞかし怖かったろう。私の船たち! しかし危険な方に賭けてみろ、と岡本太郎が言うもんだから、岡本太郎だって別に信用できる人かどうか全然わかんないけど、それさえも引っくるめて危険なほうへ、言えることと出来ることを使って危険なほうへと進む。それなら出来る。そして岡本太郎が正確に何と書いていたかはわからない。夢かもしれない。夢なら夢でいい。「夢の岡本太郎」曰く危険なほうに賭けてみろだ(眠っているときさえもベッドは危険なほうへとゆっくり流れていく)。
 自分の聴く音楽がどうやって増えていったかというと、圧倒的に人から教えてもらった音楽が多いように思う。次におそらく映像のサウンドトラック。私の音楽ライブラリは増えていくけれど、それが聴く音楽になかなかならないのは、頭で考えてレンタルしたりしてるせいだと思う。つながっている情報がない。このところ周りの情報が、そういう増え方をしているような気がする。他人だった誰かと友達になることでしか自分の耳に入ってこない音楽の聞こえ方もあって、自分にはいまそういうのが必要だと思う。「音楽に向き合ってない」と言われれば反論のしようもない。でも自分ひとりで「音楽と向き合う」だけだと、なんかダルマとにらめっこをするような気分になる。歳をとったような気がしてしまう。せめても、最近はシャッフルされた音楽の楽しくなったつながりかたをプレイリストに保存していて、かといってそれはあんまりほじくりかえさないので、やっぱりただの記録である。写真は特定の誰かに見せたいし、あらゆるおしゃべりや動きはちょっとそこにいる人を動かすような何かであってほしい。さらに遠くの人たちともそういう物事の延長線上にある方法で関わりたい。
 警句のようなものはあんまり頼っていると腐る。とはいえその時々の柱はほどほどに、必要なものにも思えて、いまは「いまが常に自分の人生の中で一番若いとき」とか「50メートル先しか照らせなくても夜のアメリカを横断することは出来る」とか(言ってることはだいたい同じ感じに聞こえる)そういう言葉が頭の中をぐるぐるとしている。わりと楽しそうにしている。温めたミルクがすぐ冷める冬です。

 今日は街の中でデモ隊を見た。大人たちが子供たちに子供たちの純潔を守れ!と叫ばせる光景は、なんだかおぞましかった。(どうしようもなく蛇足だけど、ある意味すでに守れてない、と思った。)

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