12月に《ベーコンエッグ感想戦ふたたび》を開催することになりました。
詳細は近いうちにお伝えします!
しばらく企画のブログのほうにあれこれ書こうと考えておりますので、
あんまり更新されないこのブログと合わせてこちらもどうぞよろしくお願いします。
→baconpost.blogspot.in
2014/10/05
2014/08/21
恐怖の正体
わたくしよりものわかりのよい人におびえて何も言わないのはつまらないから、くだらなくとも時々なにか書くことにします。
近ごろ高橋悠治さんの本『ことばをもって音をたちきれ』を読みました。絶版なので図書館で探したら、あった。これは1970年代に世に出た本ですけれど、書かれていることばや問われている何かは今も使えるように残されている。使えるというのは、理解できるとか便利であるとかお金が儲かるとかいうことではなくって、自分なりに誤解できる、ということで、鬼の首をとったように誰かの言葉をそのまま掲げるんではなくて言葉とそれにまつわる、態度、を自分のなかに写し取ることができている、気がしています(もちろん、これも誤解だ)。
それからしばらくして『高橋悠治コレクション1970年代』(平凡社ライブラリー、これ誰かにちくま文庫って言っちゃった。間違いでした、ごめんなさい。)を買ってすこし読みなおしたら、ほとんどそのままのことを非常にはっきりと書かれた一節があった。
近ごろ高橋悠治さんの本『ことばをもって音をたちきれ』を読みました。絶版なので図書館で探したら、あった。これは1970年代に世に出た本ですけれど、書かれていることばや問われている何かは今も使えるように残されている。使えるというのは、理解できるとか便利であるとかお金が儲かるとかいうことではなくって、自分なりに誤解できる、ということで、鬼の首をとったように誰かの言葉をそのまま掲げるんではなくて言葉とそれにまつわる、態度、を自分のなかに写し取ることができている、気がしています(もちろん、これも誤解だ)。
それからしばらくして『高橋悠治コレクション1970年代』(平凡社ライブラリー、これ誰かにちくま文庫って言っちゃった。間違いでした、ごめんなさい。)を買ってすこし読みなおしたら、ほとんどそのままのことを非常にはっきりと書かれた一節があった。
ひとはことばでかんがえる。思想はことばではなく、ことばも思想ではないが、とりとめもなくとびちろうとする思想をつなぎとめるのはことばである。ことばはソバのつなぎだと、折口信夫は言った。しかし、眼にみえるのは、このつなぎの部分なのだ。思想は、のこされたことばを手がかりに毎回つくりなおされる。ことばは世界の種である。書かれていることをただ言い換えただけになってしまっていて、恥ずかしい。それにしたっていいことばじゃありませんか。「音楽」とはまったく別の場所にこの本を置いて、わざわざ誤解したくなるような魅力を感じました。
思想のためのことばの、いちばんたいせつな要素はリズムである。ことばのリズムは、日本語の五・七の拍や、ヨーロッパの詩の律や音韻のように単純な周期性の図式につくされるものではない。それは複合体としてのことばと思想の交点でバランスを測定する道具なのだ。リズムのよしあしは、ことばが記憶され、特定の文脈をはなれて引用され、誤解される度合いにかかっている。これらの条件をみたすことばは、アクセントのくりかえしをふくみ、デリケートで吹けばとぶようなものではなく、おもいがけない不調和で注意をとらえる。 思想が誤解されるのは、それが紙の上でおわるものでなく、現実に向かって踏みこんでゆくためにあるからだ。誤解されない思想は、ものの役にたたない。
(『高橋悠治コレクション1970年代』平凡社、2004年、pp.35-36)
2014/06/30
夏、ぼうっと、次へ
もう一ヶ月経ってしまいましたが、『ベーコンエッグ感想戦』という、口にする度に少し、はずかしくなっちゃう名前のイベントを、
無事に開催することができまして、どうもありがとうございました。あれ、何やってたんですかってときどき言われます。いまは、記録映像を編集したり、またリサーチしたり、密談したりしています。その日のことも先のことも決めないしわからないままにやってしまいましたが、おかげさまで、先に進みます。7月にはまた公民館に集まる予定です。
ところで、感想戦と銘打っておきながらアンケートを用意し忘れるタイムリーエラーがあったのですが、 ネットを経由して頂いた感想をあらためて読んでみようと思います。
質問しそびれられた質問が目の前に現れて、それに答えてもOK、っていう状況を生んでいるツイッターは大した発明だと思います。そして何よりもそれを利用して書いて下さる方々のありがたさ。
質問しそびれ質問があればぜひこっそり教えて下さい。
それと、メールアドレスを変更しました。
昨年末からじわじわ使っていたものに一本化しました。今後もよろしくお願いします。
(こちらのContactのページからもご連絡いだだけます)
ところで、感想戦と銘打っておきながらアンケートを用意し忘れるタイムリーエラーがあったのですが、 ネットを経由して頂いた感想をあらためて読んでみようと思います。
ベーコンエッグ感想戦、面白かった。身内だからかもだけど。
— TakuyaTakemoto (@Cho_dancho) 2014, 5月 31
本日は「ベーコンエッグ感想戦」をSNACで観てきました。宮崎さんと善積さん役者二人と松村翔子さんをゲストにしたパフォーマンスです。僕はこれはとても楽しめました。役者が、演出家不在のなか、でも出てしまうよね、っていう退っ引きならなさ。そして、その身体を見ることの面白さが発見です。
— 三野新/ArataMino (@aRanmeno) 2014, 5月 31
清澄白河で、ベーコンエッグ感想戦「 『アンティゴネ』と『オイディプス王』」。戯曲を読んでの解釈というより、読んでる最中に頭を過っちゃった事をネタにしたようなユルイ発表が楽しい。アンティゴネにいたっては、原形がまったくないし。これでワンドリンク付き500円なら、定例化を希望。
— mori uz (@m_furachi) 2014, 5月 31
宮崎晋太朗/善積元『ベーコンエッグ感想戦』SNAC。前半は善積さんによる、オイディプス王と高速バスの事故を重ね、事故現場を訪れた際の写真にコメントを重ねるパフォーマンス。後半は宮崎さん作の短編2本のリーディング。説明されないとわからないが、アンティゴネーから着想を得ているらしい。
— chaghatai (@chaghatai_khan) 2014, 5月 31
役者修業の一環なのか、劇作家・演出家をめざす過程なのか。質問も出たが、そこは本人たちも曖昧らしい。質問し損ねたが、役者として、自ら書いたテキストと与えられたテキストで演じる感覚が変わるのかどうかは気になった。 #ベーコンエッグ感想戦
— chaghatai (@chaghatai_khan) 2014, 5月 31
俳優の善積元と宮崎晋太朗、ゲストに松村翔子を迎えた自主企画『ベーコンエッグ感想戦』稽古場では大抵オフレコになりがちな俳優の個人的動機を、敢えて明言した上での上演。切実な、勇気あるスピリット。けど決してシリアスにならず、素朴な面白さに溢れていた。飄々と図太く続けていってほしい企画。
— 菊川恵里佳 (@hardcorebind) 2014, 6月 1
質問しそびれられた質問が目の前に現れて、それに答えてもOK、っていう状況を生んでいるツイッターは大した発明だと思います。そして何よりもそれを利用して書いて下さる方々のありがたさ。
おそらく、どちらかというときちんと上演用のテキストを書いた宮崎さんのパフォーマンスを見て思いつかれたご質問じゃないかしらと思いますが、せっかくいただいたご質問に遅ればせながら(ちょうど一ヶ月も前になってしまいましたが!)答えますー。
— 善積元 (@yoshizumi_) 2014, 6月 30
『オイディプス王』の発表に関しては、自分が用意してきたテキスト・動作は、乱暴に言うと、言っても言わなくても(やってもやらなくても)よく、最終的には元の流れに沿うけれど、行動を選ぶ瞬間にだけは自由があります。出せる音のきわめて少ない楽器で即興演奏をしているような状態です。
— 善積元 (@yoshizumi_) 2014, 6月 30
言っても言わなくてもいいことを言っても言わなくてもいいタイミングで言うのはけっこう楽しいです。
— 善積元 (@yoshizumi_) 2014, 6月 30
でもこれは言うなれば異常で、与えられた演出・テキストをひたすらきちんとやろうとするときとは、基本的には、違いました。似ている状況を挙げるなら、むしろ何らかのアクシデントがあったときです。次に閉まっているべき舞台美術のドアを閉めずに共演者が退場したとき、舞台上に残った私はどうする?
— 善積元 (@yoshizumi_) 2014, 6月 30
ただ、私がすくない経験をたどりながら思い浮かべる「よい状態」での演技は、他人に課されているものが多くても一瞬、自由を得ているので、感覚的に違ってしまっていることが実は問題で、他人に言葉や動きを与えられたからって第一に間違わないようにするのが間違いなのかも、と書きながら思いました。
— 善積元 (@yoshizumi_) 2014, 6月 30
質問しそびれ質問があればぜひこっそり教えて下さい。
それと、メールアドレスを変更しました。
昨年末からじわじわ使っていたものに一本化しました。今後もよろしくお願いします。
(こちらのContactのページからもご連絡いだだけます)
2014/04/16
「あとで見る」を消化する
なんでこれをあとで見ることにしたんだっけかな? なんて動画がよく紛れ込んでいるけれども、まぎれもない自分がいつか「あとで見る」ボタンを押した結果が堆積していって目の前のリストになっている。そしてそれらを実際あとで見て(あるいはこれを書きながら聞いて)いるのだった。YouTubeの話です。
それで視線を本棚に移すと、やはりここにもなんでとっておくことにしたのかよくわからない本がいくつも落ち着いており、本棚がわりといっぱいになってきていることもあって、どうにかブックオフに売る以外の方法で移動させたいと思う。「本をいくばくかのお金に換えてスペースを増やす」よりも、人にものを渡す成り行きのわからなさが好ましい。この本はこの人にあげたらいい、という遊びを思いつき次第実行したいのだけれど、なかなかばっちり思い浮かばないので、欲しい人がいればあげたい本を別にまとめながら、そのリストを書き出しておくことにした。
それで視線を本棚に移すと、やはりここにもなんでとっておくことにしたのかよくわからない本がいくつも落ち着いており、本棚がわりといっぱいになってきていることもあって、どうにかブックオフに売る以外の方法で移動させたいと思う。「本をいくばくかのお金に換えてスペースを増やす」よりも、人にものを渡す成り行きのわからなさが好ましい。この本はこの人にあげたらいい、という遊びを思いつき次第実行したいのだけれど、なかなかばっちり思い浮かばないので、欲しい人がいればあげたい本を別にまとめながら、そのリストを書き出しておくことにした。
2014/04/11
ことしの桜
髪をすっかり切ってもらって、夜に行くライブまで時間がだいぶあったので、あてのない散歩をした。目についた建物や樹木に沿って角をいくつも曲がっていると、突然あらわれた親子連れにTSUTAYA代官山書店の場所を聞かれたけれど、いま自分がどこにいるのか全然わからず、ひとまず代官山駅はあっちのほうですから、代官山駅に向かったらわかりやすいんじゃないか、あっちのほうです。と言うと、娘さんはスマートフォンを見ながら「合ってます」。
そこに住んでいる人しか通らないような細い路地が気になる。覗き込むと、安心してプラスチックのバットを空振りする子供たちがいたり、ありふれた民家の玄関先にちいさめのヴィーナス像が置いてあったりする。こんな日には路地にもうっかり入り込んでいく。この桜の木の下を通り過ぎるとちいさな公園があった。二つのベンチにはそれぞれ先客が座っていて、なかなかよい公園らしかった。名前だけ覚えて、立ち止まらず通り過ぎることにした。